01
普通科と芸術科の校舎は分かれていて、三年前にできた空中通路を通らない行き来できない。
滅多に利用しない通路を渡って、事前リサーチした月島先輩がいる二年四組や美術部を覗く。も、「月島なら休みだよ。あいつ絵描くためによく学校さぼるんだよね」と言われてしまった。
さすが芸術科、ひとかどの生徒って感じだなぁと思いユーターンしているときだった。
ピアノの旋律が、聞こえてきたのは。
空腹の大蛇がようやくとらえた獲物を、じっくり飲み込んでいくようなレントではじまる主題。テンポはどんどん加速する。曲は重々しく、ニ長調からト長調へ変奏していくなかで、音は圧倒的な迫力を持ってうねる。
リストの『超絶技巧練習曲集』にある難曲、『幻影 ト短調』だ。
ピアノの演奏なんて無視したいのにできなくて、私は音を追いかけた。たどり着いたレッスン室102の部屋のドアは少しだけ開いていた。
陽気な色の夕焼けが、グランドピアノの正面に座る秋澤理香子をオレンジに縁取っている。最後の一節を弾き終えた秋澤理香子と、目があった。
私は慌てて言い訳した。
「勝手に聞いてごめん。で、でもドアが開いてたから」
「わざと開けてたからいいのよ」
「わざと?」
「他の生徒にプレッシャーかけようと思って。私はこんなに練習してるから上手いけど、みんなはどうですか? 頑張ってんだろうな? って」
研鑽の日々を送っていないと言えない台詞だ。秋澤理香子、芸術科に敵が多いだろうなぁ。その分、自信もあるんだろう。邪魔してごめんと立ち去ろうちしたとき、
「弾いてみない? せっかくだし」
秋澤理香子に手招きされた。バカにされてるんだと思ったけど、秋澤理香子の表情に厭味ったらしさは広がってない。それでも私はいやいやと頭を横に振った。
「前も言ったけど、鍵盤には小五から一度も触ってないから、やめとく」
「今日触れば、その更新はストップされるわよ」
そのとき、『それを今から一緒に練習して乗り越えませんか? って申し込んでんの俺は』という志麻先輩の声がぱっと頭に響いた。
過敏と向き合いながらもピアノを辞めずに続けていたら、私は志麻先輩の誘いにどう返していただろう?
「指一本で、ド、だけ弾けばいいのよ。赤ちゃんだってできるわよ」
「それはピアノを弾いたって言わないよ」
「言うわよ。私がそう言うんだから、そうなのよ。たった一音弾けばそれは弾けたことになるのよ流太さん」
志麻先輩に負けず劣らずなんて傲慢な言い分だ。でも『たった一音弾くだけでもいい』なんて考え、持ったことがなかった。確かにそれなら私もできそうだ。過敏の加減だって五年ぶりに確認できる。
私はおそるおそる、レッスン室に足を踏み入れた。
グランドピアノまでの距離はほんの二メートルなのに、長い坂道をのぼるみたいにきつい。
「流太さんの家もグランドピアノだっけ?」
「うちはヤマハのアップライト。グランドピアノは高いから、中学に入ったら中古でねって約束だったんだ」
家にあるアップライトが死蔵してることは黙っておこう。
それにしても――鍵盤の前に立つと、思ったよりも弾ける気がしてきた。ホワイトニングしたてのような白鍵と、墨汁を滴らせたような黒鍵を見下ろす。指が曲を覚えてるみたいで、エリーゼのためにぐらいならすいすい弾けそうな感じがした。
「鍵盤の横幅ってこんなに狭かったっけ? 昔はもっと長く見えたけど」
「体が大きくなったから、小さく見えるのよきっと」
「……そっか」
「一音でいいから弾いてみて、流太さん」
その言い方は、私達にピアノを教えてくれていた沢村先生にそっくりだ。レッスンに明け暮れていた日々を思い出しながら、右人差し指を白鍵の『ド』の上にそっと浮かせる。
ロケット発射のボタンを押すみたいに心臓がドキドキして爆発しそう。
その体勢のまま、一分が過ぎた。
秋澤理香子は私を急かすことなく窓際に移動して、全音楽譜出版社から出てる楽譜集をめくっている。
そこからは意を決したり勢いをつけて『ド』の鍵盤を押そうとした。なのに、弾けなかった。
気持ちが奮い立ったのは事実だけど、「弾きたい」よりも「弾いたところで今さら」の気持ちが勝ってしまう。
「やっぱり私には無理みたい」
ギブアップした私。秋澤理香子は楽譜を見ながら「そう」とだけ言った。
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