【16歳、提出】




  一週間前にスマホで撮った学祭の写メを、優里がコンビニで印刷してくれた。クラスの女子全員が黒板の前でピースをしてるやつだ。



 みんなの頬や腕にはハートや英字がペイントされているけど、私の顔のキャンパスはまっさらだった。




「陽がもうちょっと早く教室に戻ってきてくれればなぁ。水色のハート、きれーに描いてもらえたのに」



 優里がチェリーピンク色の唇を突き出した。今通り過ぎた廊下の壁に貼ってあった、チアリーダー部募集のポスターの背景色と同じリップの色だ。



「ごめんごめん。外の出しもので面白いのあって」



 学祭が終わって一週間が経ち、その間に六月の定期考査があった。テストは昨日で終わったけど、私や優里をふくめて、廊下を歩く生徒の顔はどことなくげっそりとしている。



 生徒玄関前までくると、優里は靴を履き替えながらジト目で私を見た。




「じゃあ私ぃ、ほんとーに先帰っちゃうけどいいの? 用事あるなら付き合えるよ? 今日バイトないし」


「用事っていってもすぐ終わるから。大丈夫大丈夫」


「でも最近の陽、元気ないように見えるんだよねえ。それに大丈夫って二回言う人、優里は信用できないけどなぁ」


「本当に大丈夫だから」




 心配してくれる優里を送って、一人になった私は教室への道を戻る。最近思ったけど、優里ってちょっと鋭い。とくに今日の昼休みはびっくりした。



 一緒にトイレに行ったとき、優里はラメぎっしりのポーチから、ケースに入ったブラウン色の石鹸を取り出した。爽やかなレモンライムの香りのやつだ。



「いい香りだね。買ったの?」


「颯君がくれたんだ。お姉さんが駅ビルのオーガニックスキンケアのお店で働いてて、わざわざそこで買って、サプライズでくれたの。これで洗うと手がしっとりするんだぁ。香りも残るから、授業中も無駄に嗅いじゃう」


「だからか。最近やたら手の匂い、くんくんしてたの」


「えー、優里そんな不審なことしてないんですけど」



してたよ、してないよ。二人できゃらきゃら笑っていると、優里が「はい」と私に石鹸を差し出してきた。ドキッとした。「はい」の前に白紙の数秒があったから。



 優里の中で、なにか躊躇いが生まれたみたいだった。




「私が使うなんてもったいないよ。颯君からもらったんだから一人じめしないと」


「……確かに! 危うく颯君の愛情をお裾分けしちゃうところだった」



 優里は笑顔で石鹸を引っ込めた。そのときも、喋る前に空白の数秒があったと思う。


 どうしよう。気づかれた? いや、触覚過敏なんて一発で当てられるわけない。



 もしくは『優里が触ったものに触れるの、陽は嫌だ汚いと思ってるんだ』と誤解されていたらどうしよう。



 友達と喋ったあとはいつも、自分の発言に非がなかったか採点してしまう。考え込んでいるうちに教室を通り過ぎて、気づけば滅多にこない四階まできていた。




 校門を抜けようとする優里を窓越しに発見して、不安な気持ちになる。



 大声で弁明しようとしたけど、ジャージ姿の颯君が優里に駆け寄っていくのが見えて断念した。仲良さそうに手を繋いでいる二人を見ていると、



「カップルを十秒以上見つめると不幸になるってジンクスがあるんだぞ」



 ……いつからそこにいたんだろう? バヤリースのオレンジジュース缶を持った志麻先輩が、いつのまにか隣に立っていた。



「びっくりさせないでくださいよ。それに、そのジンクス絶対嘘ですよね」


「声かけても反応ねえんだもん」



 志麻先輩は窓枠に缶を置いて、制服のネクタイをきゅっとしめた。脇にクリアファイルを挟んでる。



私は廊下の先にある生徒会室のプレートに気づいて、威嚇するように両腕を広げた。



「相撲とるの? いいけど俺手加減しねえよ。さぁ、どんとこい後輩」


「違いますよ、そのファイルですよ。ペアコンサートの申込書出しにいくつもりでしょう、志麻先輩」



 一週間前に横暴に誘われたピアノの連弾。


 志麻先輩はあろうことか、ハンデとブランクを持った面倒な私と十月のペアコンサートに出場したいという。




「それよりそっちから見てどう? 俺のネクタイ曲がってない?」


「ごまかさないでください。……曲がってないですけど」


「ペアコンサートの締め切りは明日の放課後までだから、まだ間に合うよ。今は、生徒会長に別のお願いをしにいくとこ」


「別のお願いってなんですか」


「全クラスにつき五台のかき氷機とエアコンとゲーミングPCの導入検討」



 唇をヘの字に曲げた私を見て、志麻先輩はけたけたと笑った。


「俺にもいろいろあんの。でもペアには出ろよ。月島に言われただろ、ライブペイントの責任にとれって」


「その件は今日、これから月島先輩に謝罪しにいくところだったんです」



 一週間前は正直、いろいろ迷惑をかけてしまったし、従わなきゃいけないと一瞬思った。でも落ち着きを取り戻して、自己分析する時間を設けた今は違う。



 秋澤理香子や先輩のように自由に鍵盤を叩ける人は確かに羨ましいけど、それだけだ。悔しさをバネにして這い上がるには時間がたちすぎてしまった。




「説得しても無駄だと思うけどな。月島は俺の味方だし」


「土下座も辞さない覚悟です」


「拒否られて悲しいよ、先輩は」


「前も聞きましたけど、どうして私を誘うんですか? 先輩と一緒に連弾したい生徒ならうちの学校にたくさんいますよ。優秀賞狙うならなおさら、私じゃない生徒のほうが勝ち目あります」


「連弾って、すぐ隣に他人が座るだろ」



 志麻先輩は足を踏み出して、バージンロードを娘と歩く父親みたいに、私の横にきちんと立った。



「どうせ弾くなら、かっこよくて憧れて安心できる奴と全力で弾きたい。俺、昔からそれが陽ちゃんなんだよ」



 疎遠になってる間に、志麻先輩はずいぶんとお世辞が上手になったみたい。



「連弾って難しいんですよ? ペアの人とタイミング合わせたり音の強弱あわせたり、リズム取りだって」


「それを今から一緒に練習して乗り越えませんか? って申し込んでんの俺は」


「……ちょっと強引すぎますよ」



 志麻先輩の隙をついて、逃げるようにその場をあとにする。五年ぶりにあった志麻先輩の言動に悶々としながら教室に戻った私は、ロッカーに入れておいた紙袋を持って芸術科の校舎に向かった。



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