06
大失態をおかした場所から逃げて、気持ちを落ち着かせることができたのは、ひとけのない校舎脇にたどり着いたときだった。
今日は学校休めばよかったと散々後悔していると、頭上から「いたいた、陽―」と明るい声が降ってきた。
顔に赤いハートのペイントをした優里と颯君が、窓からこっちを見下ろしている。トラブル続きで強張っている表情筋を、なんとか動かして「なに優里?」と答えた。
「一組の女子教室集合だって。お揃いで顔に色違いのペイントとメイクしようって話てして」
「顔にペイントとメイク?」
「陽は水色が似合うから、水色のハートにしたいって真希ちゃん張り切ってたよ」
私を誘ってくれる友達の笑顔が眩しすぎて、私は目を細めずにはいられない。
――優里、誘ってくれてありがとう。ねえ、それは筆かペンで顔に直接落書きするって解釈でOK? ごめん、私それ、できないことはないけど避けたいかも。皮膚になにかを塗ると、肌の表面がずっともぞもぞしてるような息苦しさがあるの。今まで黙っててごめん。
――心の中ではこんなにスラスラ言葉が溢れてくるのに、どうして口に出す勇気が私にはないんだろう。
「わかった。あとでいくね」
「早くきてよね。待ってるよーん」
優里と颯君が揃って顔を引っ込める。
……周りに嘘をつくことがどんどん上手になっていく。項垂れて、履いているHARUTAのローファーをじっと見つめた。教室に寄らずにこのまま帰ってしまおうか? 逃げ道を探していると、前からニョキッとあらわれた三本線のスニーカーに「はーるちゃん」とつま先を蹴られた。
顔をあげると、ピアノ教室を辞めて以来ずっと疎遠になっていた志麻先輩の顔が、そこにあった。驚きでびくともしない私に向かって、志麻先輩がわざとらしい演技口調で告げた。
「さっき名前を呼んだのに無視されたんで探していた次第です。あなたは沢村ピアノ教室に通っていた流太陽さん御本人で間違いないでしょうか?」
「おっ……お久しぶりです志麻先輩」
「なんでそんなにびっくりしてんの」
「だって、し、小学生ぶりに喋ったもので」
「あー……そうそう。陽ちゃんピアノ辞めてから、疎遠になったもんな俺達。それにしても敬語に距離を感じるなぁ。さすがによそよそしすぎねえ?」
背が高くなったせいなのか、志麻先輩はちょっと体を斜めに傾けて、私の顔を覗き込むようにして問いかけてくる。女子慣れしてるんだろうなぁと思った。
だって私が背の高い男子高校生だったら、誰かのために体を傾けて自分を小さく見せたりしない。
「そうはいっても、敬語になっちゃいますよ」
「距離感じるなぁ。陽ちゃんが結べなぁいってギャン泣きしてた水着の後ろリボン、可愛くリボン結びにしてあげた仲じゃん。可愛くさ」
「小学生の頃の話ですよね、それ」
そうだ、この人記憶力がいいんだった。
幼い頃は一緒にピアノを弾いたり、休みの日は沢村ピアノ教室のみんなで市民プールに行ったり、お互いの家を行き来してた。志麻先輩はとくに私のお父さんとも仲良くて、夏休みの自由研究を天体観測にしてお父さんに手伝ってもらっていたりもしな。
でも高校生になった今、顔をあわせると気まずくてたまらない
ピアノが上手で喋りかけやすかった小学生のお兄さんはいつの間にか、学校で一番目立って喋りかけにくいお兄さんになってしまったからだ。どうしたって警戒心とよそよそしさは拭えない。
「……ライブパフォーマンス中の……ピアノの演奏を邪魔したことは誠心誠意謝ります、ごめんなさい。それが理由で追いかけてきたんですよね? 壊れたものがあったら弁償します。でも、用事がないならもう行ってもいいですか」
「“ピアノなんて大っ嫌いなんだってば”って叫びながら準備ブースに入ってきたってマジ?」
スムーズに立ち去りたかったのに、嫌な話題をふられて足を止めた。
「ピアノ弾いてると指のことでからかわれること多かったから……それを思い出して」
「触覚過敏だろ? 周りには言わせておいて、弾きたいならまた弾けばいいじゃん」
「弾きたいなんて言ってません。志麻先輩は……やっぱりピアノ続けてるんですよね。ライブペイント、楽しそうに弾いてましたよね。ふふ」
「なにいじけてんだよ、つうかなんだよその“ふふ”って不気味な微笑み方。……あ、俺わかったかも!」
志麻先輩はいかにも私を挑発するように、パチンと指を慣らした。
「陽ちゃん、自分をさしおいてピアノを楽しく弾いてる俺みたいな奴を学祭中やたら目に入って、悔しくてイライラしたんだろ?」
「し、しませんよ今さら。だって私、自分からピアノと縁を切ったんですよ」
「あぁそれな。思い出してむかついてきたわ。急にレッスンこなくなって、コンクールで勝ち逃げしやがったんだ。言っとくけど沢村教室の生徒名簿に、まだ陽ちゃんの名前残ってるらしいからな」
初耳で、ぎょっとする。なんてこと!
「どうしてですか。消してくださいよ」
「知らねえよ、沢村先生が勝手に残してんだもん。消したいなら自分で沢村先生とこ行けば?」
「行けるわけないじゃないですか。勝手に辞めたのに、沢村先生に会わせる顔ないです」
いろいろ思い出してきた。志麻先輩のこういう無神経に背中を押してくるところに、当時の私は多少なりとも劣等感を持っていた。志麻先輩が触覚過敏持ちだったら、周囲になにか言われたり、悔しいことがあってもそれをバネにしてピアノを続けるだろう。
でも、私にそれは難しい。
「ハンデを持つ人間の葛藤はわかんないですよ、志麻先輩には」
顔を右に背けると、腰をぐいっと曲げた志麻先輩に顔を覗き込まれた。左に右に、いくら顔を動かしてもしつこい首は追いかけてくる。他人にイライラするなんて何年ぶりだろう。からかうためだけに追ってきたなら迷惑だ、とハッキリ言おうとしたとき、
「やっぱりピアノ弾きたいんじゃねえの? 陽ちゃんは」
志麻先輩はズボンのポケットから四つ折りの用紙をとりだした。
「紙の触感は大丈夫だったよな? 譜めくりの役、いつもやってたし」
「よく覚えてますね」
「発表会のときめくってもらったし。記憶力はしつこいぐらいあるもので俺」
「でも先輩、暗譜の天才だったじゃないですか。私一回、オマエいらないって言われましたよ」
「自分より年下で、しかも女の子にめくってもらうのが照れくさかったんだよ」
無視して、もらった用紙を開く。私は顔をしかめた。
第十二回 山陵高校ピアノ・ペアコンサート参加申込用紙
開催日:十月☓日(☓曜日)
場所:本校体育館
演奏形式:二人一組のペア演奏(連弾)
演奏時間:一組あたり最大十五分
審査員:音楽家・ピアノ指導者等(後日発表)
補足:最優秀ペアにはプロの音楽指導者による特別レッスンの機会と、指導教室までの交通費補助が与えられます。
※申込書は芸術科校舎四階生徒会室へ提出
それはおそらく、秋澤理香子が言っていたペアコンサートの申込書だった。
基本情報の他には、演奏曲名、作曲者名、使用楽器のほか、ペア代表者氏名とパートナーの氏名を書く欄がある。
私は演奏形式の説明を見た。
――連弾。
ピアノ一台の前に椅子を置いて二人肩を並べて弾く、演奏スタイルだ。
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