05


 理解してショックを受けていると、ライブパフォーマンス終了一時間前のアナウンスが校内スピーカーから流れ始めた。


 アコースティックギターを構えて、バッハを弾きながら歩く生徒の横を通り過ぎたとき「バッハなんか弾かないで!」と怒鳴りたくなった。



 バッハは私が発表会で最初に弾いた曲だ。

 思い出して目に涙がたまる。



 心臓が炎に包まれたみたいに熱くて、ドキドキ荒れ狂ってる。おさまれ! と胸をドンドン拳で叩くけど、熱さは消えない。今すぐ、この胸の中のうざい熱さを消し去らないといけない気がする。



『“そんな感じ”でピアノ辞めちゃえるの人だったんだ。流太さんって。ハンデがあっても結果を残せたのに』


 秋澤理香子の声がまた蘇る。



 ハンデがあっても結果を残せたのは、毎日不快でも頑張って弾いてたからだ。でも十六歳になった今は違う。


 約五年の空白の時間があって、ピアノに触るのが前よりもずっと怖い。ピアノ教室にだってあれから一度も通ってないし、目標もないから弾く意味だってない。


 昔は我慢できた不快感も、今は我慢できなくなってるかもしれない。



 なのに、どうして秋澤理香子はあんなに非難してきたんだろう?


 どうして私は今、こんなに悔しい気持ちで走ってるんだろう?



 ピアノの音が近づいてくる。きっぱり「うるさい」と思ってきつく両耳を塞ぐと、強い風が吹いて私の胸にぶち当たった。



いいぞ風、もっと吹け、遠慮するな!

吹いて胸の中の熱い炎を消せ! だって私は、



「ピアノなんて大っ嫌いなんだってば!」

「ちょっとそこのポニーテール、危ない!」




 怒声が届いたけど、一足遅かった。地面の黒いコードに足を引っ掛けた私は、そのまま派手に転んだ。ぶつっとノイズが響いて、聞こえていたピアノの音が止む。息を詰めて顔をあげると、そこは、嗅ぎなれない絵の具の匂いが充満してるライブペイントの準備ブース内だった。



 実際に絵を描いているステージとは衝立で区切られていて、テーブルには予備の画材道具や、進行チェック表、絵の完成見本が置いてある。



 私が踏んだ黒いコードは、ステージ横の電子ピアノに繋がれていたようだ。見ると、プラグが延長コードのコンセントから外れている。



「ごめんなさい! 私です、引っ掛けたの」



 スカートの裾が大げさにめくれることに頓着できないほど、慌てて立ち上がる。


 ピアノの演奏が中断されたことで、衝立の向こうにいる観客達がざわついてる。手の空いている生徒が外れた電子ピアノのプラグをコンセントに差し込んだと同時、放送部の腕章をつけた女生徒が「なにしてるの!」と私を睨んだ。


 つづけざまに、衝立の隙間からステージに呼びかける。


「志麻ごめん、電子ピアノのコンセント抜けた。戻ったからすぐなんか弾いて!」



 止まっていたピアノの音色がスピーカーにのって復活する。初音をフォルテッシモでスタートさせたその曲は、流行りのアイドル曲をジャズアレンジしたものだった。


 トゥルルルル、と見事なトリルが耳に響き、観客のざわめきが歓声にかわった頃――「困るんだけど」瞳を逆三角形に変形させる勢いで、再び放送部の女生徒に睨まれた。



「一瞬でも止まっちゃったじゃん。最終日で、一番盛り上がるときなのに」


「すみません。前見ないで走ってて……」


「せっかく完璧な演出を目指してたのに台無しだよ。二年生最後の巨大合作なんだよ?」


「すみません……」



反論の余地もない。放送部の女子をはじめ、周囲の人に謝り続けていると、


「絵は台無しになんかなんないよ、音楽止まったぐらいで」


と、衝立と衝立の隙間から声がした。顔は見えないけど、声はちょっと高めの男の人だ。




「月島(つきしま)、アンタが絵から離れると失敗するかもでしょ。こっちはいいから持ち場に戻ってよ。あと一時間で完成させなきゃならないし」


「僕がいなくてももう大丈夫だよ。それよりちょっと休ませて。僕、この三日間重労働で二キロ減ったよ」


「最後の最後で手抜かないでよ、失敗しないようちゃんと現場を見張ってて。ただでさえ忙しいんだから手間かけさせないでよもう」


「あの、忙しいならなんでも手伝います私」


「あなたは手伝えることなんてないよ。逆に邪魔なるから出てって」



 手伝いを申し出るも容赦なく手で払われる。確かにここにいても部外者の私は邪魔になるだけだ。余計な失敗を重ねる前に、じゃあ……と立ち去ろうとしたとき、

「一応名前と学年、教えてなにか備品壊れてたら請求するから」と呼び止められた。



 警察からの尋問を受けてる気分で答えた。


「一年一組の流太陽です。普通科の」


「流太陽って、あの"るったはる”?」




 名前を呼ばれて振り向くと、ファンタジー小説の装丁みたいにカラフルに絵の具が飛び散るつなぎを着た小柄な男子生徒が立っていた。声を聞くに、さっき月島と呼ばれてた先輩っぽい。



 どうして名前を知られてるのかわからないけど、「そうです」と頷いて、大失態をおかしたその場を走り去る。




 一度、「陽ちゃん待て!」という声が聞こえたけど、よくある名前だから私のことじゃないだろうと無視した。



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