04
秋澤理香子は小一から小四年生まで私と志麻先輩と同じ『沢村ピアノ教室』に通っていた。
サルスベリが脇に生えている遊歩道を越えて、調剤薬局を曲がったところにある薄い抹茶色の一軒家。土日休みで毎日二時間、ピアノコンクール前は三時間みっちりのスパルタ気味の教室に。
だから、秋澤理香子は私の触覚過敏のことを知ってる。
ていうか、沢村ピアノ教室に当時通っていた生徒は私が触覚過敏、もしくは『ちょっと肌が敏感な子』というイメージがついてるはずだ。
昔から鍵盤を触ると指の腹がちくちくすることに悩まされていた私は、レッスン中によく休憩をとらせてもらっていた。そんな私を、別室で練習していた生徒達がたまに覗きにきていた。
「流太はサボりたいから、指がチクチクするなんて嘘ついてるんだ」
と、何人かの子に言われたことがある。
大人にだって理解されにくいんだから、同世代の子にわかってもらうほうが無理がある。それでもやっぱり「ずる女!」と言われるのは堪えた。
そういう小さな“ショック”が重なって、ピアノに触るのが怖くなった。
それで、せっかく順調だったピアノを一日仮病で休んで、二日休んで三日休んで、それが一週間、一ヶ月に、一年になって……十六歳になった今、私はすっかりピアノと縁を切った生活を送っている。
「そうそう、触感のせい。そんな感じで辞めちゃった」
「そんな呆気なくピアノを辞めちゃえる人だったの? 流太さんって」
「……うん。だってよく考えたら、私がピアノを弾くってちょっとおかしかったし」
「ハンデがあってもあれだけ努力してたなら、それはおかしくないでしょう?」
秋澤理香子は自分の手帳らしきものから一枚の写真をとりだした。それは、沢村ピアノ教室時代に一緒にコンクールに出て、賞状をもらったときの写真だった。
男子生徒が写真を無遠慮に覗き込んで「それ昔の二人の写真? でも秋澤いなくない?」と、視線を巡らせる。
私はなんとなく写真を見せないよう手をかざしながら、秋澤理香子に言った。
「あのときはすごく我慢して頑張ったから。それに私、もともと継続力がなかったみたい。でも秋澤さんはすごいよ。ずっとピアノ続けてるんだよね。ピアノコースの才女だってうちの担任が言ってたよ」
「流太さんは、ピアノに未練はないの?」
「……ないよ。ないから辞めたんだし」
「そう」
秋澤理香子が写真を手帳にしまう。さっきまで鋭かった視線が、今は別人みたいに柔らかくなっている。こんなに穏やかな表情の彼女を見るのは何年ぶりだろう?
でも、すごくがっかりされてる感じもする。空気が淀んでいく気がして「じゃあ」と背を向けたとき、男子生徒に呼び止められた。
「全ジュニ、なぁ。あとでいいからこのアンケート用紙書いてよ。十月のペアコンサートで、俺と秋澤、連弾するんだ。希望曲とかあったら」
「ペアコンサート?」
「知らない? 十月に毎年講堂でやる音楽コンサート。二人一人組のエントリー制の連弾。演奏時間一組十五分までで、コンサートすんの」
「あなたと秋澤さんがペアででるの?」
秋澤理香子が誰かとピアノを弾くなんて想像できない。人と合わせるより、自由に完璧に引きこなしたい。そういう、潔癖で真っ直ぐな音が毎朝聞こえてくるから。
困惑していると、秋澤理香子が補足した。
「私、前から連弾には興味あったの。それに審査委員に著名なピアノ指導者が毎年来るの。審査で一位になったペアには、それぞれ特別にプロの指導を受けられるから」
「すごい。誰がくるの?」
「流太さん、もしかして連弾に興味があるの?」
秋澤理香子に問いかけられる。もちろん、私は今日何度目かわからない否定を返した。
「だよな。つうかヘ音記号も忘れたやつが連弾に興味あるわけないだろ秋澤」
と男子生徒が相槌をうつ。
「でもマジでもったいないよなぁ。元全ジュニなのに。あ、まさかト音記号まで読めないってことはないよな」
茂みの中から出てきた通り魔に刃物で切りつけられたかと思った。それぐらい、男子生徒に言われた言葉が胸を切った。
ヘ音記号が読めないのは冗談で言ったつもりだったし、音楽の授業で習ってるんだからピアノを辞めた辞めない関わらず、ト音記号ぐらい読める。
恥ずかしさで顔が熱い。
「……このアンケート、書いたら持ってくるね」
ムキになって「読めるよ」と言わないだけの冷静さが私の中にあって助かった。二人に背を向けてできるだけゆっくり去った。でも、除々に歩調は速くなり、気づけば人混みの隙間を縫うようにグラウンドの敷地を駆けていた。
『そんな呆気なくピアノを辞めちゃえる人だったの?』
『つうかヘ音記号も忘れたやつが連弾に興味あるわけないだろ』
『元全ジュニ』
――私今、あの二人に幻滅されて、バカにされたんだ。
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