第3話
死神さんと僕は黙って夕焼けの訪れを待つ。
静寂が部屋を柔らかい布団のように包む。
僕らの間にはこんな時間がたびたび訪れた。言葉を交わす訳でも、目線を合わせる訳でもない。ただ、同じものを見ている。そういう時間が。
ほんの一瞬。緑色の光が迸り部屋を照らす。
澄んだ空気の中を光が駆け抜ける。
スマラグドスが地平線に隠れる刹那に一等強く焼け付くような光を放ち、世界の全てが満たされる。
徐々に光が和らいで、入れ替わるように大地から霧が湧き立っていく。
霧はあらゆるものを飲み込み、やがて天蓋の星芒さえ消えていく。
夜が訪れる度、音という音が吸い込まれるように世界が静かになる。当然外に出る人なんて居ない。
窓の外がすっかり霧に覆われて、もう何も見えない。
室内灯がぼんやりと灯る。くぐもったガラス越しから見ているように朧げな灯りだ。
スマラグドスが落ちてしまったら、もうすぐにでも就寝だ。長い長い昼が終わり、短い夜に包まれる。
「地球の夜を死神さんは見たことがあるんだよね」
「えぇ。夜は死に近かったから、よく出歩いた」
死神さんは目を細め、何も無い、空っぽの外を見つめ続けている。
僕と同い年程の少女に見えるが、やはり彼女は死神なのだ。彼女から発せられる、寂寥を滲ませる老練した声は、家族やお医者様、看護師さんの誰とも似ていない。
「病院もそうだし、夜もそう。何も無いのね。あなたと私以外には」
窓に近寄って、そっと外へと手を伸ばす。ベッドの上から白い指先が硝子に触れるのを見つめる。爪の先とガラスが触れ合う、かつん、と小さいはずの音が部屋に反響する。
「人間が地球に住んでいた頃って……夜はどうだったの?」
「こんなに寂しくはなかったわね」
「へぇ……」
「毎夜のように霧が湧くことがなかったから、夜に出歩いたり遊んだりする人たちが多かったわ。街灯も輝いていて、一部の街では昼間のように明るかったの」
霧に抱かれ皆が皆揃って眠るこの時間に、地球のことを話しているのなんて僕と死神さんぐらいだろう。二人きりで、もう訪れることのできない場所の話を続ける。飽くことなく。ずっとずっと。
「地球の昼ってメヘンのよりもずっと明るいんだよね?」
「そうね。空の色だってもっと明るい青色だったわ」
「想像つかないなぁ」
「地球に住んでいた頃の人間がメヘンで一日を過ごしたら、ずっと夜みたいで気持ちが悪いと思うでしょうね」
ベッドに身を横たえながら、地球での一日を想像してみる。
明るい青い空の下なら、建物や植物はどのような色になるんだろう。メヘンで一日中灯りを灯している街灯はきっと要らないはずだ。
実際に見ることは叶わない。だから想像するしかない。けれど一つだけ僕にもわかることがある。
きっと地球に暮らしていた人たちは、僕と同じだ。同じように死に怯えていはずだ。
ずっと昔に死んだ人と同じことを考えて、僕は生きている。
「僕が死んだ後って、どうなるんだろう」
「きっと変わらない。いつかあなたの死を乗り越えて毎日を過ごすわ」
死神さんの、冷たいようでいて、それでいて寄り添ってくれているかのような柔らかい声を頭の中で繰り返す。
いつか乗り越えられる。
どんなに悲しくて苦しいことだってきっとそうだ。
人間が地球を離れて遠く、遠くの星に暮らせるようになるまでに、様々な困難があったと言われている。けれど確かに全ての困難は乗り越えられて、克服されて、そして……忘れられて、今がある。
きっと同じことなんだろう。……仕方がないことだけれど。
「兄さんも、きっと、乗り越えてくれるよね」
「……そうね」
週に一度、どんなに仕事が忙しい時だって病室に来てくれて、話をしてくれる兄さん。
きっと疲れているはずなのに僕の前では笑顔を絶やさずに「きっと病気は治る」と繰り返してくれる兄さん。
いつだったか、寒い日に両親がごめんなさい、ごめんなさいと泣いていた時に「本当に辛いのはアンタ達じゃない」と怒鳴っていた兄さん。
彼もいつか僕の死を乗り越えて前に進むんだろう。きっと。
「良いこと、だよね」
死神さんは瞳を伏せて微動だにしない。黙っていると彼女は彫像のように見えて、やはり人ではないのだと改めて実感させられる。
長くて短い沈黙を、死神さんの声が破る。
「……確かに、地球に居た人たちのほとんどはあなたと同じように良いことだと捉えたわ」
「うん、そうだよね」
頷いて、布団を被る。
ぐっと目を閉じてしまえば、布団の中には僕しかいない。
足先が少しだけ寒い気がして、胎児のように身体を丸める。
僕の身体は、寝たきりのせいなのか病気のせいなのか……あるいは両方なのか、動かすたびに針で刺したかのような痛みが走る。そのせいで緩慢でぎこちない動きしかできない。
布団の中で体をすり合わせても、まだ寒い。空調の調子が悪いんだろうか。しかし誰かを呼んだとしても自律式支援ロボットしか来ないだろう。
このまま目を閉じて、今日はもう寝てしまおう。
何も考えないように努めて、時間が流れていくのを待とう。
ゆっくりと深く呼吸を繰り返す。
昔、兄さんが眠れない時には深呼吸すると良い、と言っていた。
意識的に呼吸を繰り返していると、こつん、と小さな足音が響いて、僕の傍で止まる。
「良いことかどうかは、あなたが決めること」
呼吸の合間、その一瞬に小さく死神さんの声が聞こえた。
「嫌だって思っても、構わない。そう言う人間を私はたくさん見てきたから」
布団の中には確かに僕一人だ。
それでも、死神さんの声を、僕は聞いている。
「ありがとう。……おやすみなさい」
「良い夢を」
死神さんはいつも去り際に「良い夢を」と言って立ち去る。
僕が眠っている間に彼女が何処に居るのか、僕は知らない。きっと僕が死ぬ時にわかるのだろう。
いつか訪れるその時に、きっと彼女は傍に居てくれる。微笑みと共に。
なら、きっと大丈夫だろう。
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