第一部 第12話 境界の向こうで、何かが変わる

 朝の森は、昨夜とは別の顔をしていた。


 霧は薄く、光はやわらかい。

 鳥の声が戻り、土の匂いも穏やかだ。


「……静かだね」


 リシェルが、弓を背負いながら呟いた。


「嵐の前、じゃないといいけど」


「嵐というより――」


 セレスは、地面に手をかざし、目を細める。


「魔力の流れが、少しだけ整っている」


 ゆうは足を止めた。


「整ってる?」


「ええ。

 完全じゃないけれど、昨日より“呼吸”が楽そう」


 もふが、胸の結晶を淡く光らせた。


「きゅ」


 その光は、一定のリズムを刻んでいる。


 ――何かが、変わった。



 森の境界は、目に見えて分かるものではない。

 だが、そこに立てば分かる。


 空気が違う。

 音が遠く、匂いが薄い。


「ここが……」


 リシェルが息を呑む。


「ええ。

 人の生活圏と、森の魔力圏の境目」


 セレスの声は低い。


「そして――影が生まれやすい場所」


 ゆうは、昨日のことを思い出していた。


 逃げた影もふ族

 視線

 残った温度


 境界の地面には、小さな痕跡があった。


「……足跡?」


 ゆうが指さす。


 もふ族のものだ。

 だが、影の色はない。


「戻りかけてる……?」


 リシェルの声に、希望が滲む。


 セレスは慎重に首を振った。


「断定はできない。

 けれど、“留まる理由”が生まれた可能性はある」


「理由……」


 ゆうは、背負った革袋に手を伸ばした。


 包丁

 鍋

 そして、昨日の残りの食材。


「じゃあ、今日は――」


「作るの?」


 リシェルが笑う。


「うん。でも」


 ゆうは、境界の奥を見つめた。


「呼ばれなかったら、置いていくだけ」


 料理を“差し出す”のではなく、

 “そこに在る”ものとして。


 火を起こし、鍋をかける。


 湯気が立ち上り、香りが広がる。


 境界の向こう側で、何かが揺れた。


 姿は見えない。

 だが、確かに――“聞いている”。


 もふが、静かに鳴いた。


「きゅ……」


 その声に応えるように

 境界の奥から、微かな光が瞬いた。


 黒ではない。

 白でもない。


 その中間の、迷いの色。


 ゆうは、何も言わず、ただ火を見つめ続けた。


 踏み込まない。

 追わない。


 それでも――ここにいる。


 境界は、まだ越えられていない。


 だが確かに、

 向こう側から、一歩近づいてきているものがあった。

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