第一部 第9話 森の境界
森の空気が、わずかに変わった。
それは音でも匂いでもなく、もっと曖昧で、しかし確かな違和感だった。
ゆうは歩みを止め、無意識に胸元を押さえる。
「……ここ、さっきまでと違う」
隣を歩いていたリシェルも、足を止めた。
「うん。風が、重い」
森は依然として緑に満ちている。
だが、木々の間を流れる魔力の気配が、どこか滞っていた。
ゆうが意識を集中させると、視界の端に、淡く滲むような感覚が広がる。
【周辺環境:魔力循環・低下】 【境界領域:干渉の痕跡あり】
「……境目、か」
誰に言うでもなく、ゆうは呟いた。
◆
その場所は、森の“終わり”ではなかった。
だが確かに、ここから先は、同じ森でありながら“別の調子”を持っている。
足元の土は乾き、草木の色もわずかに鈍い。
もふは胸の結晶を淡く明滅させ、不安そうに鳴いた。
「無理に進まなくてもいいんじゃない?」
リシェルの声には、珍しく慎重さが滲んでいた。
「うん……でも」
ゆうは森の奥を見つめる。
「ここ、たぶん“お腹を空かせた場所”だ」
それは比喩ではなかった。
魔力の流れが滞り、循環できず、澱んでいる。
生き物も土地も、何かが足りずに、歪み始めている。
「放っておいたら、魔物が増える?」
「たぶん」
即答はできなかったが、感覚はそう告げていた。
◆
ゆうは、その場に腰を下ろした。
「……一度、整えてみる」
「ここで?」
リシェルが目を見張る。
「うん。全部は無理でも、きっかけくらいにはなる」
鍋に水を張り、残っていた食材を入れる。
特別なものではない。
だが、ゆうは“この場所の調子”を意識しながら、静かに火を入れた。
切る音、煮える音
それらが、境界の空気に、ゆっくりと染み込んでいく。
完成した料理を地面に置いた瞬間、停滞していた魔力が、かすかに動いた。
ほんの一歩、だが、確かに流れが生まれた。
◆
「……すご」
リシェルが、ぽつりと呟く。
「森が、息した」
ゆうは苦笑した。
「たぶん、まだ途中だ。でも――ここから先には、理由がある」
境界の向こう。
そこには、より深い歪みと、そして、助けを待つ何かがある。
ゆうは立ち上がり、包丁を革袋に戻した。
「行こう。この森の“奥”へ」
境界を越える一歩は、もう、後戻りできない選択だった。
それでも――
腹を空かせた世界を前にして、立ち止まる理由は、どこにもなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます