第一部 第9話 森の境界

 森の空気が、わずかに変わった。


 それは音でも匂いでもなく、もっと曖昧で、しかし確かな違和感だった。

 ゆうは歩みを止め、無意識に胸元を押さえる。


「……ここ、さっきまでと違う」


 隣を歩いていたリシェルも、足を止めた。


「うん。風が、重い」


 森は依然として緑に満ちている。

 だが、木々の間を流れる魔力の気配が、どこか滞っていた。


 ゆうが意識を集中させると、視界の端に、淡く滲むような感覚が広がる。


【周辺環境:魔力循環・低下】 【境界領域:干渉の痕跡あり】


「……境目、か」


 誰に言うでもなく、ゆうは呟いた。



 その場所は、森の“終わり”ではなかった。

 だが確かに、ここから先は、同じ森でありながら“別の調子”を持っている。


 足元の土は乾き、草木の色もわずかに鈍い。

 もふは胸の結晶を淡く明滅させ、不安そうに鳴いた。


「無理に進まなくてもいいんじゃない?」


 リシェルの声には、珍しく慎重さが滲んでいた。


「うん……でも」


 ゆうは森の奥を見つめる。


「ここ、たぶん“お腹を空かせた場所”だ」


 それは比喩ではなかった。

 魔力の流れが滞り、循環できず、澱んでいる。

 生き物も土地も、何かが足りずに、歪み始めている。


「放っておいたら、魔物が増える?」


「たぶん」


 即答はできなかったが、感覚はそう告げていた。



 ゆうは、その場に腰を下ろした。


「……一度、整えてみる」


「ここで?」


 リシェルが目を見張る。


「うん。全部は無理でも、きっかけくらいにはなる」


 鍋に水を張り、残っていた食材を入れる。

 特別なものではない。

 だが、ゆうは“この場所の調子”を意識しながら、静かに火を入れた。


 切る音、煮える音


 それらが、境界の空気に、ゆっくりと染み込んでいく。


 完成した料理を地面に置いた瞬間、停滞していた魔力が、かすかに動いた。


 ほんの一歩、だが、確かに流れが生まれた。



「……すご」


 リシェルが、ぽつりと呟く。


「森が、息した」


 ゆうは苦笑した。


「たぶん、まだ途中だ。でも――ここから先には、理由がある」


 境界の向こう。

 そこには、より深い歪みと、そして、助けを待つ何かがある。


 ゆうは立ち上がり、包丁を革袋に戻した。


「行こう。この森の“奥”へ」


 境界を越える一歩は、もう、後戻りできない選択だった。


 それでも――


 腹を空かせた世界を前にして、立ち止まる理由は、どこにもなかった。

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