第一部 第8話 旅路の中で、ゆうの魔力が試される

 ルナリアを出て、数日が過ぎていた。


 舗装されていない街道は、ところどころに草が生え、遠くには低い丘と森が連なっている。空は高く、雲の流れは穏やかだ。かつて黒い霧の森で感じたような重苦しさはなく、世界そのものが静かに呼吸しているのがわかる。


「今日は、平和だね」


 リシェルが背伸びをしながら言った。


「ええ。魔力の流れも安定しているわ」


 セレスは周囲を見渡し、そう付け加える。


 もふは、ゆうの肩の上で心地よさそうに揺れていた。


「きゅい……」


 穏やかな時間。

 だが、それが長く続かないことを、ゆうはどこかで予感していた。



 不意に、もふの体が強張った。


「きゅ……きゅぅ……!」


 胸の結晶が淡く揺れ、わずかに黒みを帯びる。


「もふ?」


 ゆうが声をかけた瞬間、セレスが立ち止まった。


「……来るわ。無の魔力」


 空気が変わる。

 目に見えないはずの“何か”が、街道の先に滲んでいるようだった。


「嫌な感じがする……」


 リシェルが弓に手をかける。



 街道の先に、馬車が止まっていた。


 車輪は傾き、荷は散乱している。旅人たちは立ち尽くし、地面には一人の男が倒れていた。


「助けてくれ……!」


 近づくと、男の胸元に、黒い靄のようなものが絡みついているのが見えた。


「これは……」


 セレスが息を呑む。


「無の魔力に侵されているわ。このまま放っておけば、命が削られていく」


 リシェルがゆうを見る。


「ゆう……!」


 その目には、迷いがなかった。



「料理で……できるか?」


 ゆうは自分に問いかけるように呟いた。


 戦えない。魔法も使えない。できるのは、料理だけだ。


 だが――これまで、それで救ってきた。


「……やってみる」


 革袋から鍋を取り出し、手早く準備を始める。


 水を張り、香草を刻み、火を灯す。


 包丁を握った瞬間、世界が静まった。


 周囲の不安、焦り、恐怖。

 それらを一度、すべて脇に置く。


 ――大丈夫。

 ――ちゃんと、整えればいい。



 湯気が立ち上り、香りが広がる。


 その瞬間、倒れた男の胸に絡みついていた黒い靄が、ゆらりと揺れた。


「反応してる……!」


 リシェルが声を上げる。


 スープを口元に運ぶと、男の表情がわずかに緩んだ。


 黒い靄は、まるで溶けるように薄れていく。


「……息が、安定してきたわ」


 セレスの声が震える。


 やがて靄は完全に消え、男はゆっくりと目を開いた。


「……あれ……?」


「よかった……」


 周囲から安堵の声が漏れる。



 ゆうは、静かに息を吐いた。


 料理は、奇跡じゃない。

 でも――誰かが生き直す“きっかけ”にはなれる。


 もふが男を見つめ、小さく鳴いた。


「きゅ……」


 その胸の結晶は、淡く、確かに光っていた。



「ゆう」


 セレスが真剣な表情で言う。


「あなたの力は、もう偶然じゃない。無の魔力に対抗できる“調律”よ」


「……料理の延長だよ」


「延長の範囲じゃないのよ」


 珍しく、リシェルのツッコミは穏やかだった。


「でもさ」


 彼女は笑う。


「それで誰かが助かるなら、それでいいよね」


 ゆうは、小さく頷いた。


「……ああ」


 料理でしか、できないことがある。

 それでいい。


 そう思えたから。



 再び歩き出す一行の背中を、夕日が照らしていた。


 もふは肩の上で、遠くの森を見つめている。


 そこには、まだ“救われていない何か”がある。


 だが――


 ゆうはもう、目を逸らさなかった。


 料理を携え、世界を整えるために。


 旅は、確かに続いていく。

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