第一部 第8話 旅路の中で、ゆうの魔力が試される
舗装されていない街道は、ところどころに草が生え、遠くには低い丘と森が連なっている。空は高く、雲の流れは穏やかだ。かつて黒い霧の森で感じたような重苦しさはなく、世界そのものが静かに呼吸しているのがわかる。
「今日は、平和だね」
リシェルが背伸びをしながら言った。
「ええ。魔力の流れも安定しているわ」
セレスは周囲を見渡し、そう付け加える。
もふは、ゆうの肩の上で心地よさそうに揺れていた。
「きゅい……」
穏やかな時間。
だが、それが長く続かないことを、ゆうはどこかで予感していた。
◆
不意に、もふの体が強張った。
「きゅ……きゅぅ……!」
胸の結晶が淡く揺れ、わずかに黒みを帯びる。
「もふ?」
ゆうが声をかけた瞬間、セレスが立ち止まった。
「……来るわ。無の魔力」
空気が変わる。
目に見えないはずの“何か”が、街道の先に滲んでいるようだった。
「嫌な感じがする……」
リシェルが弓に手をかける。
◆
街道の先に、馬車が止まっていた。
車輪は傾き、荷は散乱している。旅人たちは立ち尽くし、地面には一人の男が倒れていた。
「助けてくれ……!」
近づくと、男の胸元に、黒い靄のようなものが絡みついているのが見えた。
「これは……」
セレスが息を呑む。
「無の魔力に侵されているわ。このまま放っておけば、命が削られていく」
リシェルがゆうを見る。
「ゆう……!」
その目には、迷いがなかった。
◆
「料理で……できるか?」
ゆうは自分に問いかけるように呟いた。
戦えない。魔法も使えない。できるのは、料理だけだ。
だが――これまで、それで救ってきた。
「……やってみる」
革袋から鍋を取り出し、手早く準備を始める。
水を張り、香草を刻み、火を灯す。
包丁を握った瞬間、世界が静まった。
周囲の不安、焦り、恐怖。
それらを一度、すべて脇に置く。
――大丈夫。
――ちゃんと、整えればいい。
◆
湯気が立ち上り、香りが広がる。
その瞬間、倒れた男の胸に絡みついていた黒い靄が、ゆらりと揺れた。
「反応してる……!」
リシェルが声を上げる。
スープを口元に運ぶと、男の表情がわずかに緩んだ。
黒い靄は、まるで溶けるように薄れていく。
「……息が、安定してきたわ」
セレスの声が震える。
やがて靄は完全に消え、男はゆっくりと目を開いた。
「……あれ……?」
「よかった……」
周囲から安堵の声が漏れる。
◆
ゆうは、静かに息を吐いた。
料理は、奇跡じゃない。
でも――誰かが生き直す“きっかけ”にはなれる。
もふが男を見つめ、小さく鳴いた。
「きゅ……」
その胸の結晶は、淡く、確かに光っていた。
◆
「ゆう」
セレスが真剣な表情で言う。
「あなたの力は、もう偶然じゃない。無の魔力に対抗できる“調律”よ」
「……料理の延長だよ」
「延長の範囲じゃないのよ」
珍しく、リシェルのツッコミは穏やかだった。
「でもさ」
彼女は笑う。
「それで誰かが助かるなら、それでいいよね」
ゆうは、小さく頷いた。
「……ああ」
料理でしか、できないことがある。
それでいい。
そう思えたから。
◆
再び歩き出す一行の背中を、夕日が照らしていた。
もふは肩の上で、遠くの森を見つめている。
そこには、まだ“救われていない何か”がある。
だが――
ゆうはもう、目を逸らさなかった。
料理を携え、世界を整えるために。
旅は、確かに続いていく。
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