第一部 第7話 声なき呼び声

 夜が、更けていく。


 診療所の窓から見える町は、昼間と変わらないはずだった。

 通りには灯りが残り、遠くからは人の話し声も微かに聞こえる。

 それでも、ゆうの胸の奥に巣食う違和感は、時間が経つほどに強くなっていった。


 眠れない。


 それは単なる不安ではなかった。

 鍋を火にかけ忘れたときのような、何か大切な工程を飛ばしてしまった感覚。

 このまま目を閉じてはいけない――そんな直感だけが、はっきりと残っている。


 子どもたちの寝息は浅い。時折、小さく身じろぎするたび、胸に重たいものが沈む。


「……ごめんな」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 そのとき、肩に乗っていたもふが、かすかに震えた。


「きゅ……」


 胸の結晶が、眠っている間も淡く揺れている。

 それは恐怖ではなく、迷いと焦りが混じった光だった。


「……やっぱり、呼ばれてるよな」


 ゆうがそう言うと、もふは小さく鳴き、肯定するように尻尾を揺らした。



 夜更けの町を抜ける。


 昼間は賑わっていた道も、今は静まり返っている。

 足音がやけに大きく響き、逆にそれが不自然だった。


 町外れに近づいた瞬間、空気が変わった。


 冷たい。


 いや、それ以上に――薄い。


 音も、匂いも、感触も、どこか現実味を失っている。世界が、ほんの少しだけ遠ざかったような感覚。


 そのときだった。


「……タ……ス……ケ……」


 耳で聞いたわけではない。けれど確かに“意味”だけが胸に落ちてきた。


 心臓が、どくりと鳴る。


 リシェルが息を呑み、弓を握り直した。


「……今の、声?」


「音じゃない」


 セレスは、目を閉じたまま答える。


「魔力に刻まれた意思。言葉になる前の……助けを求める衝動よ」


 闇の向こうで、黒く濁った流れが蠢いているのを、ゆうも感じ取った。


「影の……もふ族?」


「ええ、でも、まだ完全じゃない。壊れきってはいないわ」



 もふが、ゆうの肩から飛び降りた。


 小さな足で地面を踏みしめ、一歩、また一歩と闇へ近づく。


「きゅ……きゅぅ……」


 その鳴き声は、問いかけだった。どうしてこうなったのか。どうすれば戻れるのか。


 応えるように、空気が歪む。


「……タス……ケ……」


 同じ言葉。けれど、今度はほんの少しだけ近い。


 ゆうは、自分の両手を見つめた。包丁も、鍋も、ここにはない。あるのは、料理人としての感覚と――空腹を見逃せない気持ちだけ。


「……料理、か」


 それしか出来ない。けれど、それでいい。


 理由は分からないが、確信だけはあった。


「行こう」


 ゆうが一歩踏み出す。


 リシェルも、セレスも、止めなかった。


 闇は逃げなかった。


 それは、追い払われるのを恐れているのではなく――

 

 ただ、待っていたのだ。

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