第一部 第7話 声なき呼び声
夜が、更けていく。
診療所の窓から見える町は、昼間と変わらないはずだった。
通りには灯りが残り、遠くからは人の話し声も微かに聞こえる。
それでも、ゆうの胸の奥に巣食う違和感は、時間が経つほどに強くなっていった。
眠れない。
それは単なる不安ではなかった。
鍋を火にかけ忘れたときのような、何か大切な工程を飛ばしてしまった感覚。
このまま目を閉じてはいけない――そんな直感だけが、はっきりと残っている。
子どもたちの寝息は浅い。時折、小さく身じろぎするたび、胸に重たいものが沈む。
「……ごめんな」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
そのとき、肩に乗っていたもふが、かすかに震えた。
「きゅ……」
胸の結晶が、眠っている間も淡く揺れている。
それは恐怖ではなく、迷いと焦りが混じった光だった。
「……やっぱり、呼ばれてるよな」
ゆうがそう言うと、もふは小さく鳴き、肯定するように尻尾を揺らした。
◆
夜更けの町を抜ける。
昼間は賑わっていた道も、今は静まり返っている。
足音がやけに大きく響き、逆にそれが不自然だった。
町外れに近づいた瞬間、空気が変わった。
冷たい。
いや、それ以上に――薄い。
音も、匂いも、感触も、どこか現実味を失っている。世界が、ほんの少しだけ遠ざかったような感覚。
そのときだった。
「……タ……ス……ケ……」
耳で聞いたわけではない。けれど確かに“意味”だけが胸に落ちてきた。
心臓が、どくりと鳴る。
リシェルが息を呑み、弓を握り直した。
「……今の、声?」
「音じゃない」
セレスは、目を閉じたまま答える。
「魔力に刻まれた意思。言葉になる前の……助けを求める衝動よ」
闇の向こうで、黒く濁った流れが蠢いているのを、ゆうも感じ取った。
「影の……もふ族?」
「ええ、でも、まだ完全じゃない。壊れきってはいないわ」
◆
もふが、ゆうの肩から飛び降りた。
小さな足で地面を踏みしめ、一歩、また一歩と闇へ近づく。
「きゅ……きゅぅ……」
その鳴き声は、問いかけだった。どうしてこうなったのか。どうすれば戻れるのか。
応えるように、空気が歪む。
「……タス……ケ……」
同じ言葉。けれど、今度はほんの少しだけ近い。
ゆうは、自分の両手を見つめた。包丁も、鍋も、ここにはない。あるのは、料理人としての感覚と――空腹を見逃せない気持ちだけ。
「……料理、か」
それしか出来ない。けれど、それでいい。
理由は分からないが、確信だけはあった。
「行こう」
ゆうが一歩踏み出す。
リシェルも、セレスも、止めなかった。
闇は逃げなかった。
それは、追い払われるのを恐れているのではなく――
ただ、待っていたのだ。
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