第5話 おばあちゃんのクスノキ箱に、言えなかった優しさが眠る
日曜の朝、汐見市には薄い霧がかかっていた。イチョウ林の葉には朝露がつき、朝陽に照らされて細かな光を散らしていた。浅羽杏は朝食を済ませると、はしごをかけて屋根裏部屋に上がり、隅に置かれたクスノキ箱を見つけた。
箱は青と白の格子模様の布で覆われ、薄い埃が積もっていた。
杏が布をそっと剥がすと、クスノキ箱の表面には精巧なイチョウの模様が刻まれ、錠前は真鍮製で淡い緑青が生えていた。おばあちゃんが残してくれた鍵を錠前に差し込み、そっと回すと「カチッ」という音が鳴り、箱が開いた。
中からはクスノキの香りと淡いイチョウの香りが漂い出て、懐かしさが胸を締め付けた。
箱の中にはおばあちゃんの古着が整然と畳まれ、その下には数冊の色褪せたノートが隠れていて、一番底には赤い布で包まれた小箱があった。杏が小箱を取り出して開けると、十数枚の淡い光を放つ星屑手紙と、表紙に『手紙守り日記』と書かれたノートが入っていた。
「これが、おばあちゃんが届けられなかった手紙?」
杏が手紙を一枚拾おうとした瞬間、ポケットの銀鈴しおりが突然鳴り響き、暖黄色の光粒がしおりから舞い上がり、星野朔の姿が凝り出した。
「クスノキ箱から強い星屑の気配を感じて、飛んできたよ。」星野朔が箱の中を見つめ、手紙を一枚拾い上げた。「これらの手紙の光が弱い。長い間置かれて、執着が消えかけているんだ。」
杏が『手紙守り日記』を開くと、扉にはおばあちゃんの清楚な筆跡が残っていた。
『昭和二十五年、秋。イチョウ林の手紙守りになる。これから、星屑界の想いに、帰る場所を見つけてあげる。』
日記を後ろにめくると、おばあちゃんが手紙を届けた記録がつづられていた——亡くなった恋人への手紙、家を出て行った子供への手紙、小動物の想いを込めた手紙まで、一つ一つが優しい言葉で埋め尽くされていた。
最後のページには、筆跡が少し乱れていて、涙の痕も残っていた。
『体がだんだん弱くなってきた。あと三通の手紙が、届けられていない。杏はまだ小さいから……この使命を、代わりに引き継いでくれるかな。』
その横には三枚の星屑手紙が重ねて置かれていた。星野朔が手紙を分けて見て、静かに語った。
「一枚目は汐見市の菓子屋の店主へ。奥さんが十年前に亡くなり、一緒に分店を開く約束が叶わなかったんだ。二枚目は退職した小学校の先生へ。海外に留学中の生徒が、先生の作る桜餅を懐かしんでいる。三枚目は……おばあちゃん自身への手紙だ。」
杏が三枚目の手紙を慌てて受け取ると、おばあちゃんの筆跡なのに、少女のような青さが込められていた。
『浅羽澄江へ。イチョウ林の光を忘れないで。手紙守りの使命を忘れないで。そして、自分自身を愛することも、忘れないで。』
手紙の最後には、小さな古イチョウと、少女と霊体の少年の影が描かれていた。
「おばあちゃんが、自分に手紙を書いたの?」杏の目頭が熱くなり、涙がこぼれそうになった。「時間が少なくなっていることを知って、こんな手紙を残したの?」
星野朔が手紙の影を見つめ、静かに説明した。「この霊体の少年は、前のイチョウ林の林守りだ。おばあちゃんが手紙守りをしていた頃、ずっと彼女と一緒に手紙を届けていた。後に執着が解けて星屑界へ行った後、おばあちゃんは一人でこの林を守り続けたんだ。」
彼は菓子屋店主の手紙を拾い上げ、少し焦ったように話した。「早く届けに行こう。もう少し遅れると、手紙の執着が完全に消えてしまう。」
汐見市の「イチョウ菓子屋」は老城区の路地の入り口にあり、店主の藤原さんは白髪のおじいさんだ。杏と星野朔が店に着くと、藤原さんはカウンターに座り、窓の外のイチョウ葉を眺めてぼんやりとしていて、手元にはイチョウ模様の空の菓子型が置かれていた。
「藤原おじいさん、こんにちは。」杏がカウンターに近づき、星屑手紙を差し出した。「奥さんが星屑界から、この手紙を届けに来ました。」
藤原さんが手紙を受け取ると、指が震え始めた。手紙をゆっくりと開くと、光粒が舞い上がり、優しい笑顔の奥さんの姿が凝り出した。
「老藤、星屑界から君の菓子屋を見てるよ。店がうまくいってて、嬉しいよ。一緒に開く約束の分店は、イチョウ林のそばに開いてね。私、その場所が好きなの。」
奥さんの姿が透明になり、一枚のイチョウ型の菓子型が藤原さんの手の中に落ちた。おじいさんは型を握り締め、涙が手紙に滴り落ちた。「お前……分かった。すぐに分店を開く。お前の好きなイチョウケーキを、ショーケースにいっぱい並べる。」
菓子屋を出ると、藤原さんが電話をして分店の場所を探している声が聞こえてきて、風には新しく焼かれたイチョウケーキの香りが漂っていた。「一枚目、届けられたね。」杏が笑顔になり、足取りが軽くなった。
次に二人は退職した山田先生の家へ向かった。山田先生は穏やかなおばあちゃんで、生徒の手紙を読んだ後、桜餅の型を取り出して笑った。「あの子は昔から私の桜餅が好きだったんだね。早く作って、海外に送ろう。」
最後に、杏はおばあちゃんの自分への手紙を、イチョウ林の古イチョウの根元に置いた。光粒が舞い上がり、おばあちゃんの姿が凝り出して、杏の頭をそっと撫でた。それから星野朔に頷き、光粒に溶け込んで古イチョウの中に眠っていった。
「おばあちゃん……」杏の涙がこぼれたが、心の中は安堵で満たされていた。
星野朔が彼女の肩をそっと叩いた。「願いが叶ったんだ。今は星屑界で、前の林守りと一緒に、このイチョウ林を見守っているよ。」
杏は涙を拭いて笑った。「あともっと、手紙を届けるよ。手紙守りとして、しっかりと。」
夕日が沈む頃、二人は古イチョウの根元に座り、林の中を舞う光粒を眺めていた。クスノキ箱の手紙は全部届け終わり、一つ一つの執着が優しい光になり、汐見市の隅々に残っていた。
星野朔が杏を見つめ、真剣に語った。「杏、君はもう、立派な手紙守りになった。」
杏がスケッチブックを開き、光粒を描きながら笑った。「これからは、星野朔と一緒に。イチョウ林の話も、星屑の想いも、全部描いていくんだ。」
星野朔が指をそっと画用紙に触れると、光粒が集まって一行の文字を描いた。
『イチョウは落ちつづけ、想いは絶えない』
風が吹き、イチョウ葉が二人の周りを舞い、銀鈴しおりの音が林に響いて——それはおばあちゃんの祝福であり、星屑界の永遠の約束だった。
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