第2話 古い手紙の手がかりは、古本屋の片隅に眠る
汐見市の秋の夜は早く訪れ、六時を過ぎると空は濃い紺色に染まり、街角の街灯だけが暖かい光を灯し、舞い落ちるイチョウ葉を細かな金箔のように照らしていた。
浅羽杏が家の玄関を開けると、甘いバターの香りが漂ってきた。母の浅羽晴子がオーブンからイチョウケーキを取り出していて、黄金色のケーキの上にはシュガークリームで作ったイチョウの葉が飾られていて、おばあちゃんの作るものとそっくりだった。
「おかえり?」晴子は手を拭いてケーキをダイニングテーブルに置いた。「今日はどうしてイチョウ林にそんなに長くいたの?スケッチで面白いことがあったの?」
靴を脱ぐ手が一瞬止まった。杏はポケットのイチョウしおりを指でさすった。星野朔の存在も、手紙守りの秘密も、今はまだ母に話せない——晴子は本来そういう「不思議な話」を信じないタイプで、ただ亡くなったおばあちゃんを恋しがって幻覚を見ていると思うだけだろう。
「別に、描き込んでしまっただけだよ。」杏は笑ってテーブルに座り、フォークでケーキを一口食べた。蜂蜜とイチョウの甘みが舌の上に広がり、おばあちゃんの味とまったく変わらない。思わず目頭が熱くなった。
晴子は向かいに座って、娘の横顔を見てため息をついた。「おばあちゃんが亡くなってから、君はいつもイチョウ林へ行くね。澄江おばさんは生前君のことを一番可愛がってたから、君がこんな様子を見たら、きっと心配するよ。」
フォークを握る手を締め、杏は母に目を上げた。「ママ、おばあちゃん、『星屑界』とか『手紙守り』って言ったことある?それに……星野朔って人を知ってる?」
晴子は眉をしかめてコップに手を伸ばした。「星野朔?聞いたことないわ。手紙守りなら、澄江おばさんが何回かつぶやいてたけど、年寄りの戯言だと思って聞き流したわ。どうして突然聞くの?」
「別に、スケッチしてる時におばあちゃんの話を思い出して、気になっただけ。」杏は話題をそらして、また一口ケーキを食べた。「あと、おばあちゃんの遺品、整理終わったの?手紙とかノートとか、そういうのある?」
「屋根裏部屋のクスノキの箱に全部入れておいたわ。」晴子は階段の方を指した。「澄江おばさんの物だから捨てられなかったけど、箱が重すぎて開けてないの。もし見たかったら、明日一緒に降ろそう?」
「大丈夫、私一人でできる!」杏は手を振って、心の中に期待が湧き上がった。おばあちゃんが手紙守りだったなら、星野朔の届けられなかった手紙の手がかりが、きっと遺品の中に隠れているはずだ。
ケーキを食べ終わって部屋に入ると、杏はカバンからスケッチブックを取り出した。星野朔が指で触れた箇所の鉛筆の跡は、まだ淡い暖かい光を放っていて、小さな星のようだ。携帯を取り出して「汐見市 百年前 イチョウ林 少女」と検索してみるけれど、画面に出てくるのは観光ガイドや歴史の紹介ばかりで、役立つ情報は一つもなかった。
「百年前の汐見市は、まだ小さな漁村だったんだよね……」杏はつぶやきながら画面をスクロールしていると、目立たない情報が目に入った。『汐見市老城区 青竹書店——昭和初期の地方史料と個人の手稿を所蔵』。
昭和初期——まさに星野朔の言う百年前の時代だ。杏は目を輝かせてすぐにメモ帳に書店の住所を記し、明日の放課後に行くことを決めた。
窓の外のイチョウ林は闇の中にうっすらと輪郭を見せている。杏はカーテンを開けて、林の方へ小声で話しかけた。「星野朔、明日古本屋に手がかりを探しに行くから、一緒に行こう?」
すると窓辺に細かな暖黄色の光粒が舞い込んできて、彼女の指先を一周して消えていった。杏は笑った——これはきっと星野朔の応答だろう。
放課後、杏はイチョウ林に行かず、カバンを背負って市内電車に乗り、老城区へ向かった。汐見市の老城区は昭和時代の建物がそのまま残っていて、青石の道の両側に低い木造の家が並び、軒先には色褪せた暖簾が下がっていて、風にはおでんと焼き餅の香りが混ざっていた。
青竹書店は細い路地の奥にあり、木製の看板に力強い「青竹」二文字が刻まれていて、入口には枯れかけたデイジーが植えられた鉢が数個置かれていて、少しさびしい雰囲気だった。杏が店の戸を開けると、銅の鈴が「りんりん」と鳴り、カウンターの奥から老眼鏡をかけたおじいさんが顔を上げてきた。
「お嬢さん、何かお探しの本?」声は枯れているけれど、優しいトーンだった。
「おじいさん、こんにちは。昭和初期の汐見市、イチョウ林の近くの人の手稿とか、個人の手紙集みたいなものを探しているんです。」杏はカウンターに近づいて、できるだけ具体的に話した。
おじいさんは老眼鏡を直して、隅の本棚を指した。「昭和初期の史料はあそこにあるよ。個人の手稿は少ないけど、近くの住民が寄贈したものが幾つかある。ゆっくり探していいよ。」
礼を言ってその本棚に向かうと、棚の本はすべて色褪せていて、表紙には薄い埃が積もっていた。木格子の窓から差し込む陽光がページの上に斑々と落ちていて、古本特有のインクとカビの匂いが鼻を抜けた。一時間ほど翻していると、突然『汐見林間手帳』と表紙に書かれたノートが棚から落ちてきた。扉には老いたイチョウの木が描かれていて、その横に美しい筆致で文字が書かれていた。『昭和五年、秋。朔とイチョウ満林の時を約す。』
朔!
杏の心臓がドキッと跳んだ。慌ててノートを開けると、中には少女のイラストと日記が綴られていて、筆跡は扉の文字とそっくりだった。
昭和五年九月十二日
イチョウの葉が黄ばみ始めた。朔が言ってた、葉が林一面に舞ったら、星屑界の星を見に連れて行ってくれるって。彼によると、そこの星は冷たくなくて、想いが凝縮した光だから、おばあちゃんの作るイチョウ茶みたいに、暖かいんだって。
彼の姿を描いてイチョウのしおりに隠した。ずっと忘れないでほしいな。
昭和五年十月五日
朔がいなくなった。イチョウ林の老木の下には、銀鈴のしおりと、書きかけの手紙だけが残っていた。おばあちゃんが言うには、朔は星屑界の人間で、人間界の執着に縛られると林に閉じ込められて、執着が消えるまで出られないんだって。
手紙を老木の根元に埋めた。彼が戻って来て取りにくるのを待とう。
ノートの間には、杏の持っているのとそっくりなイチョウのしおりが挟まっていた。ただこのしおりの赤い紐に結ばれた銀鈴は錆びていて、葉の上には銀灰色の髪の少年が描かれていて、眉目は星野朔とまったく同じだった。
「見つけた……やっと見つけた!」杏の声に咽びが混ざり、涙がノートの紙面に滴り落ちてインクを滲ませた。
「お嬢さん、探していたものが見つかったのかい?」おじいさんが近づいてきて、杏の手のノートを見てため息をついた。「この手帳は三十年前にあるおばあさんが寄贈したものだ。娘さんの遺品で、イチョウ林の木の根元に埋まっていて、年を取ってからやっと掘り出したって言ってたよ。」
「あの……おばあさんの名前は?今でも生きているの?」杏は急いで尋ねた。
「佐藤雪枝さんと言って、おととしに亡くなったよ。」おじいさんはカウンターから登録簿を取り出して数ページめくった。「この住所を残していたんだ。もし誰かこの手帳を見つけたら、ここに持ってきて星野家の人に渡してほしいって。」
おじいさんが登録簿を杏の前に押し出すと、そこには一行の住所が書かれていた。『汐見市イチョウ町三丁目十二番地 星野家』。
星野家?星野朔の家?
杏はノートを大事そうにカバンに入れて、おじいさんに礼を言い、住所をメモしてすぐに書店を飛び出した。今すぐイチョウ林に行って、この知らせを星野朔に伝えたい。
老城区の夕日が彼女の影を長く伸ばしていて、イチョウ葉が風に舞いながら落ちてきて、優しい雨のようだった。杏は手の中の住所を握り締めて、百年前の少女の想いが、時の壁を越えて自分の掌に届いてくるような感覚がした。
イチョウ林に着いた時、星野朔は老いたイチョウの枝にもたれかかって夕日を眺めていた。昨日よりも彼の姿ははっきりとしていて、銀灰色の髪が暖かい光の中で柔らかく輝いていた。
「星野朔!手がかりを見つけたよ!」杏は上を向いて少年に叫んだ。
星野朔は振り返り、杏の手のノートを見て驚きの色を浮かべ、枝からジャンプして落ちてきた。「それは何?」
杏はノートを彼に渡し、中からイチョウのしおりを取り出して見せた。「これは百年前のあの子の手帳だよ!佐藤雪枝さんのお母さんで、名前はまだ分からないけど、君の手紙をこの老木の根元に埋めてたんだ!それに君の家の住所も残してあった!」
星野朔はノートを受け取り、指が紙面に触れた瞬間、彼の輪郭は今までで一番はっきりとなり、瞳には涙が浮かんでいるのが見えた。ゆっくりノートを開けて、中のイラストと日記を見ながら、描かれた自分の姿に指をそっとなぞった。
「雪穂……佐藤雪穂だ。」星野朔の声は枯れていた。「思い出した、あの子の名前が。」
ノートを閉じて老木の根元を見つめた。「手紙はここに埋まっていたの?」
「うん!手帳には落ち葉の下に埋めたって書いてあるよ!」杏は頷いて、星野朔と一緒に木の根元にしゃがみ、厚いイチョウの落ち葉をかき分け始めた。
落ち葉の下の土は柔らかく、しばらくかき分けていると、杏の指が冷たい金属の箱に触れた。土から箱を掘り出して開けると、中には色褪せた手紙が一枚入っていて、封筒には『星野朔様へ』と書かれていた。
星野朔は手紙を取り出して指先を震わせながら封を開けた。紙はもろくなっているけれど、字は依然として鮮明だった。
朔へ:
この手紙を見た時、私はもう年老いているか、星屑界で君を探しているかもしれない。
イチョウの葉は何度も舞い落ち、私は毎年ここに手紙を埋めている。汐見市の変化を君に伝えたい:電車が通った、古本屋がオープンした、イチョウケーキが汐見市の名物になった……
イチョウ満林の時、一緒に星屑界の星を見る約束、私は一生忘れなかった。
もし君が束縛から解けたら、イチョウ町三丁目十二番地の星野家に来てほしい。私の遺骨は子孫にイチョウ林に撒いてもらうから、永遠に君のそばにいられる。
雪穂 謹んで
昭和六十年 秋
手紙の最後には枯れたイチョウの葉が挟まっていて、葉には針で細く文字が刻まれていた。『想いは決して消えず、星屑は君と共にあり』。
星野朔は手紙を握り締めてイチョウの下に立ち、長い間何も言葉を発さなかった。風がイチョウ葉を卷き上げて二人の周りを旋回させ、光粒が暖かい光の壁を作って彼らを包み込んだ。
「……やっぱり、一生俺を待ってくれてたんだね。」星野朔の声は小さかったけれど、無限の優しさが込められていた。「杏、ありがとう。」
杏は彼の瞳に浮かぶ涙を見て笑った。「どういたしまして、手紙守りの役目だもん。」
夕日が老いたイチョウの頂上に沈み、一整片の林を黄金色に染めた。星野朔は手紙とノートを大事そうにしまい、杏に目を向けた。「次は星野家に行こう。雪穂のことをもっと知れるかもしれない。」
杏は頷いて、星野朔と肩を並べてイチョウ林を歩き出した。街角の街灯が次々と灯り始め、イチョウ葉が二人の足元を転がりながら、無数の優しい祝福のようだった。
彼女は分かった。この想いと約束の旅は、まだ中途半端なところまでしか来ていない。そしてイチョウの葉に隠された秘密は、まだ一つ一つ彼らによって解き明かされていくのを待っている。
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