イチョウの木の下の星屑手紙

夏目よる (夜)

第1話 イチョウ舞い散る頃、星が出会う林の中

九月の汐見市、残暑はまだ根強く残っていたけれど、郊外のイチョウ林だけは早くも秋の色に染まっていた。


浅羽杏は放課チャイムに合わせて校門を出ると、いつものようにクラスメイトとコンビニへ寄るのをやめ、市外れのイチョウ林へ続く細道へと足を進めた。道端のプラタナスはまだ青々としているのに、風の中にはすでに淡いイチョウの香りが漂い、おばあちゃんの作るハニー柚子茶のように、甘くて優しく、心までほっとする温かさがあった。


おばあちゃんが亡くなって、もうすぐ一年になる。


杏は制服のポケットに入っているイチョウのしおりを指でさすった。これはおばあちゃんが手作りしたもので、黄金色に乾いた葉は平らに押されて、端には赤い紐で小さな銀鈴が結ばれていて、少し動かすだけでささやかな音が鳴る。おばあちゃんはいつも言っていた、イチョウ林は汐見市の「秘密の心臓」で、星よりも優しい想いが眠っているって。昔はただ年寄りのお話だと思って聞いていたけど、先月のある黄昏、その言葉の意味が少しずつ分かり始めた。


あの日、模試の結果が散々で、母との喧嘩もエスカレートし、三年間飼っていた猫まで迷子になってしまい、杏は授業をさぼってイチョウ林に隠れて泣いていた。涙が落ち葉に滴り落ちた瞬間、木の幹から細かな光の粒が舞い上がってくるのが見えた——風に吹かれる星屑のように、彼女の指先をくるくると囲んでいた。


光の粒はイチョウ葉と同じ暖かい黄金色で、肌に触れても温度はないけれど、まるで何かが心の中をそっと叩いたような感覚がした。それ以来、杏はイチョウ林の常連客になった。この光の粒の中に、きっとおばあちゃんの気配が残っているんだと思うから。


林に入ると、木々の葉をすり抜けた陽光が地面に斑々と落ちている。風が梢をかすめるたび、黄金色のイチョウ葉がさらさらと舞い落ち、ゆっくりと降る雨のようだった。杏は林の中で一番大きな老いたイチョウの木の下に寄りかかり、カバンからスケッチブックを取り出し、目の前の景色を描き始めた。彼女の画技は特別上手いわけではないけれど、光と影の調子だけは誰よりも確かに捉えられる——まるで他人には見えない星屑の光粒を見れるように。


「またこの木を描いてるの?」


突然聞こえた少年の声に、杏は鉛筆を思わず滑らせ、画用紙に黒い点がついてしまった。頭を上げて周りを見回すけど、誰もいないはずの林の中。幻聴じゃない、声はまるですぐそばに誰かがいるようにはっきりしていた。


「誰?」杏は鉛筆を握り締め、警戒して四方を見回した。イチョウ林は元々観光客も少なく、この時間帯なら彼女一人きりだ。クラスメイトの悪戯?


「ここだよ。」


今度は声が頭上の枝から聞こえてきた。杏は思わず顔を上げると、老いたイチョウの太い枝に少年がもたれかかっているのが見えた。色褪せた昔の制服を着て、紺色の上着にはイチョウの葉が数枚ついていて、髪は淡い銀灰色、瞳は水に浸かった黒曜石のように、とても鮮やかに光っていた。


少年の姿は半透明で、陽光が身体を抜けると輪郭が霞んで、まるで磨りガラス越しに見ているようだった。


杏の呼吸が一瞬止まった。幽霊の話は聞いたことがあるけれど、実際に目の前に見るのは初めてだ。少年は枝からジャンプして落ちてくるけれど、地面に足をつける音はまったくしない。彼女の前まで歩いてきて、スケッチブックを下から覗き込んだ。


「まあまあ描けてるね。ただイチョウの光、ちょっと薄く描きすぎだよ。」少年は指を伸ばして画用紙の光粒の部分をそっと指した。するとその鉛筆の跡が微かに光り始め、まるで本物の星屑が宿ったようになった。


杏は慌ててスケッチブックを閉じ、後ろへ一歩下がって木の幹に背中を押しつけた。「あなた……何者なの?」


「何者?」少年は眉を少し上げて、薄笑いを浮かべた。「星野朔だ。何者でもない、この林に閉じ込められた幽霊だよ。」


平然とそう言う少年の態度に、杏の頭は真っ白になった。ポケットのイチョウしおりを手の中で握り締めると、銀鈴がきらりと鳴った。その音を聞いた星野朔の視線が突然彼女のポケットに釘付けになり、一瞬困惑が見えたけれど、すぐに消えてしまった。


「君の身に、懐かしい香りがする。」少年は一歩近づいてきて、杏は思わず目を閉じてしまった。


だけど予想していた接触はなかった。少し経ってから、杏はこっそり目を開けると、少年は地面にしゃがんで、たった今舞い落ちたイチョウの葉を拾って、陽の下で眺めていた。葉の脈は彼の半透明な指の間からもっきり見えて、光粒が葉の周りをゆっくりと回っていて、小さな星雨のようだった。


「この林に、『手紙守り』が来なくなって久しいんだ。」星野朔の声が少し低くなり、ほんのりと物悲しさが混ざっていた。「君のおばあちゃんは、浅羽澄江さんだよね?」


杏は瞳を見開いた。「どうして知ってるの?」


おばあちゃんの名前は、知っている人も少なく、母でさえあまり口にしないのに。星野朔は手の中のイチョウ葉を上げて、光粒がそっと葉の中に溶け込んで、琥珀のように透明に輝かせた。「前に俺を見れた最後の人間で、最後の手紙守りだったからさ。」


手紙守り?おばあちゃんがいつも話していた言葉を思い出し、杏の心の中の疑問は深まった。「手紙守りって、何なの?」


星野朔は立ち上がって、老いたイチョウの木の幹を手で撫でた。彼の指は木をすり抜けるけれど、ある一カ所で突然止まった——そこには薄い刻み跡があり、忘れ去られた記号のようだった。「星屑界の想いが手紙になって、このイチョウ林に漂ってくるんだ。手紙守りの役目は、その手紙を宛て先の人に届けること。君のおばあちゃんは五十年間それをして、亡くなる一日前まで、ここにイチョウのしおりを置きに来ていたんだ。」


その瞬間、杏のポケットのしおりが突然温かくなった。取り出してみると、黄金色の葉には本来曖昧だった脈が鮮明になり、さらに極細い文字が浮かび上がっていた。『朔へ。イチョウが林一面に舞う時、手紙は届く。』


「これは……」杏の声が震えていた。


「おばあちゃんから君へのもの?」星野朔の視線がしおりに釘付けになり、迷いが消えて、代わりに強い感情が溢れ出てきた——まるで封印されていた記憶が突然開かれたようだ。「俺が百年間待ち続けた、届けられなかった手紙の約束だ。」


風が突然強くなり、イチョウ葉が一面に舞い上がり、光粒が柱のようになって老いたイチョウの頂上から空へと突き抜けていった。杏の眼前には切れ切れの光景が流れ込んできた:おばあちゃんがイチョウの下で手紙を書き、少年の幽霊がそばに立って筆先を見つめている姿;星屑界の光の河がうねり、無数の手紙が紙船のように人間界へ流れてくる様子;それに風に吹かれて冷たい川の中に落ちていった、一通の手紙……


「思い出した。」星野朔の声に咽びが混ざっているけれど、嬉しそうに笑っていた。「俺が探していた手紙は、百年前のあの子へのものだ。君と同じようにイチョウ林で絵を描くのが好きで、『イチョウが林一面に舞ったら、一緒に星を見に行こう』って約束したんだ。」


杏は彼の半透明な姿を見て、最初の恐怖はすっかり消えて、優しい切なさだけが心の中に残った。イチョウのしおりを彼の手に渡した。「一緒に探そう。あの手紙を見つけて、届けるんだ。」


星野朔はしおりを受け取ると、指が葉に触れた瞬間、彼の輪郭が少しはっきりとなり、まるで本物の肉体を持ったように見えた。杏を見つめて、星屑よりも輝く瞳で答えた。「うん。」


イチョウ葉はまだ舞い落ちていて、光粒が二人の周りを優しく旋回している。夕日が沈み始めた頃、杏はスケッチブックを片付けて星野朔と別れた。イチョウ林を出る時振り返ると、少年は老いたイチョウの下に立って手を振っていて、光粒が彼の周りに小さな星輪を作っていた。


ポケットの携帯が振動した。母からのメッセージだ。『今日は君の好きなイチョウケーキ作ったから、早く帰ってきてね。』


杏は『すぐ行く』と返信して、足元は少しゆっくりになった。風の中のイチョウの香りがもっと濃くなり、まるでおばあちゃんが林の中に立って微笑んでいるのが見えるようだ——いつもの秋の黄昏のように。


きっと、忘れ去られた想いなんて、決して消えることはない。ただイチョウの葉の中に眠って、耳を傾けてくれる人を待っているだけなのだ。


そして彼女の物語は、ここから始まった。

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