殺し合わないデスゲーム

秋津 深

第1話 殺し合わないデスゲーム

 目を覚ますと、見知らぬ部屋にいた。身体を起こして、ベッドの上のカーテンを開けると、外の光が差し込んだ。白一色の部屋だ。風呂とトイレはあるが、家具は最低限のものしかない。まるで監獄だ。窓を開けると、はめ殺しになっている。まさか、と思って入り口に駆け寄ると、扉に鍵はかかっておらず、廊下に出ることができた。見知らぬ通路に、あわてて室内に戻り、ベッドに腰を下ろす。

 落ち着け、自分。記憶をたどっても、なぜ自分がここにいるのかが分からない。スマホを取り出そうとして、ないことに気づく。財布もない。服装は、スーツ。仕事着だ。時計を見て、ぎょっとする。遅刻だ。仕事に行かなければ。いや、その前に仕事用の鞄もないし、財布も定期もない。まずは遅れる連絡を入れなければ、と思ってスマホがないことに愕然とする。

 深呼吸をする。落ち着け、自分。仕事も大事だが、身の安全の方がもっと大事だ。ぼくは、拉致されたのではないか? 貴重品を何も持たず、身一つで、見知らぬ部屋にいる。身ぐるみ剥がされて、閉じ込められているのではないだろうか。そう考えて、ぞっとした。しかし、自分は今年で四十三歳になる。こんな中年男を監禁して、どうしようというのか。目的がまるで分からない。誘拐? まさか。怨恨という線も、まるで思い当たるところがない。独身の中年男で、恋人はいない。恨みを買うほどの大した仕事もしていない。全く心当たりがない。

 昼くらいまで部屋に籠もり、あれこれと思い悩んでいたが、いい加減腹も減ってきたので、周囲を探索してみることにした。

 廊下に出て、部屋を見ると、「001」と番号が書かれている。廊下の左右には同じように、番号の書かれた部屋が合計で六つあり、突き当たりに扉がある。

 扉を開けると、そこは洋風の大広間となっていた。それまでの白一色の無味乾燥した風景から一変して、天井には豪奢なシャンデリアがあり、赤い絨毯が敷き詰められ、中央には年代物の立派なテーブルがあった。暖炉の上には、巨大な山羊の頭の剥製が飾られている。

 テーブルには六つの席があり、そこに四人が座っていた。ぼくがいることに気がついたようで、「どうぞ、こちらへ」と声をかけられた。

 若い男女が二人ずついる。いったい何者だ? 敵か味方か分からず、思わず立ちすくんでしまう。金髪の男が立ち上がり、こちらに近づいて来る。

「心配ないですよ。ぼくらも同じです」

「同じ?」

「そう。今朝からここにいて、なぜ自分がこんな目に遭っているのか分からない」

 金髪はにこやかな笑顔でそう言った。カジュアルな服装に、細身でイケメン。美容師かアパレル関係者だろうか。「まあ、立ち話もなんですから、こちらへ」

 警戒をしながらも、促されるまま椅子に座る。

「ぼくは風間。みなさん、もう一度、自己紹介といきましょうか」

「東城よ。よろしく」

 東城と名乗ったショートヘアの女は、にこりともせずにそう言った。美人だが、眼光が鋭い。

「堂島です」

 スーツを着た、がっしりとした体格の男がそう言った。浅黒い肌をして、精悍な顔つきだ。

「宮間です」

 青いワンピースを着た、地味な印象の女がそう言った。みな、三十代くらいだろうか。

「山田です」

 とぼくは言った。「いったい、ここはどこなんですか? ぼくたちは拉致されたんですか?」

 一瞬、沈黙があった。四人は、お互いの顔を見合わせている。東城は、ふっと笑ったようだった。

「すみません、山田さん」

 と堂島が言った。身体も大きいが、声も低くて野太い。

「さっき、俺もここに来て、まったく同じ質問を三人にしたんです」

「その前は、わたし。一番に来ていた、風間さんに同じことを聞いたわ」

 と東城。

「ああ、そうなんですか」

 とぼくは言った。

「一番最初にここに来たぼくも、みなさんと同じ気持ちだった。残念ながら、誰も質問をする相手はいなかったけど」

「ということは、つまり、」

 とぼくは言った。

「そう、誰もその答えを持ち合わせていない。ぼくらは気がついたら、白い部屋の個室にいて、目を覚ましてここに来たってわけ」

 と風間は言った。どこか楽しそうに見えるのは、気のせいだろうか。

「どなたか、携帯は持っていませんか。職場に連絡をしたいんです」

 とぼくは言った。

「……職場へ連絡?」

 東城がぼくに鋭い一瞥をよこす。

「そんなことを言っている場合? ずいぶん呑気ね」

「さっき、俺も同じことを言って、東城さんに怒られましたよ。サラリーマンは、考えることが一緒ですね」

 堂島が苦笑いをしながら言った。

「東城さんは、ここに来て、まずぼくを質問責めにした後、何も出てこないと分かると、部屋中を歩きまわり、監視カメラ六つと、盗聴器四つを見つけて壊したんだ」

 と風間が言った。

「ぼくたちがいた小部屋は六つあった。あと一人、まだ部屋にいるのかもしれない。小部屋に通じる扉以外には、出口はあの大きな扉がひとつあるだけ。犯人からのアプローチがあるとすれば、あの扉か、あとはそこにある大画面のモニター。壁に埋め込み式のスピーカーもある」

「あの大きな扉を封鎖した方がいいんじゃないか?」

 と堂島は言った。

「向こうが危害を加えるつもりなら、ね」

「加えるつもりかもしれないじゃないか」

「そのつもりなら、もうとっくにやってる」

 東城は冷ややかにそう言った。

「殺そうと思えば、できたはず。わざわざ生かしてここに連れて来たってことは、何か目的があるはず。きっとこちらに接触してくるはずだし、まずはそれを待つべきよ」

 堂島は腕を組んで黙った。まだ何か言いたそうだが、東城の口調には有無を言わさない迫力があった。

「なるほどね。東城さんは、この誘拐犯の狙いはなんだと思ってるの?」

 と風間が言った。椅子を反対側に向けて座り、背もたれに腕を乗せている。

「……愉快犯」

と東城は言った。「ねえ、あなたも、ここに連れて来られた時の記憶はないの?」

「記憶はあいまいなんだ。普段通りの一日だったように思うけれど、霧がかかったようで、うまく思い出せない」

 とぼくは言った。

「そう。みんな同じね。ただ、服装が、みんな昼間に着る服だから、夜間に寝ているところを襲われたわけじゃなく、昼日中に薬物で意識を失わせ、ここまで運ばれたと考えるべきでしょうね」

「いったい、何のためにそんなことをするんだ」

 堂島は貧乏揺すりをしながらそう言った。

「まともな誘拐なら、金目当てでしょうね」

 東城は足を組んだ。「でも、今回のこれは違うと思う。誘拐は、資産家の子どもを狙うのがセオリーよ。抵抗されにくいし、運びやすい。なんなら、殺してしまった後の片付けも簡単。堂島さんみたいな男性を、昼間に眠らせて運ぶのは、犯人にとっても相当なリスクよ。それに、人質は一人いればいいはず。一人で引っ張れる以上の金が必要だとしても、同時に誘拐するよりは、一人目が成功してから、二人目に取りかかればいい。人質が多ければ多いほど、管理の手間は増えるし、犯行が露見する確率が高くなる」

「……わたしも、誘拐ではないと思う。何か目的があるとは思うけど、それが何かは分からない」

 と宮間が言った。伏し目がちに、おどおどと話す。おとなしそうな女性だった。

「目的……。目的、ね。ずいぶん大層な舞台を用意したもんだ。それぞれの個室に、この大広間。まるで俺たちのために作られた部屋じゃないか。怖いくらい手が込んでいる。一つだけ言えるのは、これを仕組んだ奴は、相当な金持ちで、頭のいかれた野郎だってことだけだ」

 堂島が吐き捨てるようにそう言った。

「金持ちの道楽、なのかな。確かに、監視カメラはあった。ぼくらを監視して、楽しむのが目的なんだろうか。ちょうどぼくらは年代も近そうだし、閉鎖空間で、男女の恋愛がどう進展するか楽しむ、とか」

と風間は言った。

「もしくは、参加者が殺し合うのを楽しんで眺める、とかね」

 不適な笑みを浮かべて、東城が言った。場が一瞬、凍りつく。

「冗談よ、冗談。そんなの映画の中の話……」

 と東城が言ったとき、部屋の電気が一斉に暗くなった。と同時に、暖炉の上に設置されていた大画面のモニターに映像が映し出される。スーツ姿で、頭にウサギの着ぐるみを被っている何者かが、椅子に座っている。

「みなさん、こんにちは」

 ボイスチェンジャーを使っているのだろう、耳障りな声が広間に響く。

「わたしは、ウサギです。みなさんのナビゲーターを務めます。まず始めに、今回集まっていただいた目的をご説明します。その目的とは、ズバリ! 東城さんが正解、殺し合うことです!」

 映像はそこでいきなりぶつんと切れた。照明が赤いライトに変わり、部屋が赤く染まる。テーブルが稼働し、下からせり上がってきた中央のテーブル板には、銃やナイフなどが乗っていた。

「いやいやいや、冗談でしょ」

 風間が乾いた声でそう言った。瞬間、動いたのは東城だった。銃を手に取り、安全装置を外し銃口を堂島に向けた。「動かないで!」見ると、堂島はナイフに手を伸ばそうとしたところだった。

「席に戻って」

 東城は落ち着いた声でそう言った。硬直した堂島が、両手を挙げたまま、少しずつ自席に戻る。

「みんなも、動かないで」

 銃を全員に向けたまま、東城はナイフを自分の腰に差し、それ以外の武器を小脇に抱えると、部屋の隅のごみ箱に捨てた。

「このごみ箱は、底がなく、奈落に繋がってるから、回収しようとしても無駄よ」

 と東城は言った。

「……俺たちを、殺すのか」

 堂島が押し殺した声で言った。

「わたしは警察官よ」

 東城は銃を下ろした。「今日は非番だったから、手帳も何もないけどね」

 また、部屋が暗くなり、大画面が映し出され、ウサギが現れた。拍手をしている。

「いや、お見事、お見事。さすが警察の方ですね。日頃から危険と隣り合わせの仕事をしているだけあって、初動の早さはさすがですね。おめでとうございます。あなたが勝者です。では、ささっと他の四人を片付けてしまってください」

「片付けたら、どうなるの?」

「あなたは、戻って願いを一つだけ叶えることができる」

「片付けなかったら?」

 ウサギは肩をすくめた。「その時は、ゲーム続行。ゲームをクリアした者は、戻って、願いを一つだけ叶えることができます」

「わたしは誰も殺さない」

「ここで起きたことは、誰にも知られません。もちろん、罪にも問われません」

「拉致監禁に殺人教唆。あんたを逮捕できる日が来るのが楽しみだわ」

「ゲームって、なんのことだ。俺たちに、何をさせようっていうんだ」

 堂島が画面に向かって叫ぶ。

「何、他愛のない遊びですよ。今回のコレもそう。実際に殺し合うこともあれば、そうならないこともある。その時のメンバー次第ですね。以前には、元自衛官が、その場で他の参加者を皆殺しにしたことや、不戦の誓いを立てたと見せかけて、深夜にナイフで全員の寝首をかいた者もいたようです。今回も、東城さんがいなければ、どうなっていたか分かりませんがね」

 全員の視線が、真っ先にナイフに手を伸ばした堂島に向けられる。

「……俺は、自分の身を守るために武器を取ろうと思っただけだ。殺すつもりなんかなかった。そんなことより、本当にゲームをクリアすれば、願いを叶えてくれるんだろうな」

「オフコースアイドゥ。ランプの魔神のごとく、もとの場所に戻り、どんな願いでも叶えて差し上げます」

「魔法でも使えるようにしてくれるってか」

 堂島が鼻で笑う。

「ええ、もちろん。生きてゲームをクリアし、もとの場所に戻り、願いを伝えてくれさえすればね」

「あんたたちの目的はいったいなんなんだ」

 とぼくは言った。

「さあ、わたしは雇われのただのウサギですから。主の命じるままに動くだけです」

「主って?」

 と風間が言った。ウサギはそれには答えず、

「さぁ、質問タイムは終了です。最後に、ここでのルールを説明します。食事は三食、この大広間のテーブルで提供されます。全自動でね。ほら、このように」

 とウサギが言うと、テーブルが稼働し、せり上がってきた天板に料理が載せられている。

「各部屋には、バス、トイレ、ベッドが用意してあります。寝間着もね。ビジネスホテルとまではいきませんが、生活に必要なものは揃っているはずです。あなた方の身のまわりの世話は、そこにいる「鈴木」が務めます。何なりと申しつけてください」

 ウサギが指をさした先を見ると、いつからいたのか、一人の白髪の男が部屋の隅にいた。

「ゲームクリアの条件は、出題されたお題に答え続けること。もしくは、一人だけ生き残ること。報酬は、先ほどお伝えしたとおりです」

「クリアできなかったら?」

 宮間が言った。

「罰ゲームが待っています」

 とウサギは言った。「内容は秘密です。……ただ、一つだけ言わせてもらうと、殺し合わず、お互い協力して、お題に答え続けることが大事、間違っても殺し合わないこと、」

 ぶつん、とそこでいきなり画面は暗転した。部屋が少しずつ明るくなる。茶番は終わったようだった。

「どうしたんだ、いきなり?」

 と堂島が言った。

「最後、何か大事なことを伝えようとしていた気がする」

 宮間が言った。「それまでは台本の台詞を読んでいるような感じだったけど、最後は、人の声がした」

「人の声って、ありゃウサギの着ぐるみをかぶった、ただのいかれ野郎だろ」

 と堂島が言った。

「生身の人間の声っていうか、感情が入ってた気がする」

「俺たちを拉致していかれたゲームをやらせようっていう輩だぜ。まともな人間じゃねえよ」

 堂島が吐き捨てるように言う。

「それは同感。主犯は別にいるみたいだけど、あいつがこの現場を仕切っているみたいね。どうにかして捕まえないと」

 爪をかみながら東城が言う。

「でも、ゲームをクリアしたら、本当に願いを叶えてくれるのかしら」

 恐る恐る、といった様子で宮間が言った。

「そんな馬鹿なこと、あるわけがない」

 と風間が吐き捨てるように言った。「気にするだけ無駄ですよ。奴らは、ぼくらを拉致して監禁している犯罪者集団です。日本の警察は優秀です。五人も昼間に誘拐されてるんだ。何か痕跡を残してるはず。それをたどって、きっとここまでたどり着きます。自衛しつつ、助けが来るのを待つのが一番ですよ」

 強い口調で、風間は言った。その様子を、東城がなぜかじっと見ている。

「日本の警察は、言うほど優秀じゃないよ」

 と東城は言った。「確かに、あんたの言うとおり、五人も拉致するなんて、簡単なことじゃない。助けに来るかもしれないけどさ。来ないかもしれない。そのことを考えて、やれるべきことはやっておくべきだろうね」

 そう言って、東城は「鈴木」と呼ばれた老人のところに歩いていった。

「ねえ、鈴木さん。あなた、どうしてこんなところにいるの?」

「わ、わたしは、奴らの仲間では、ありません」

「ふうん、そう。じゃ、何でこんなところにいるの?」

「それは、言えないことになってまして」

 と言って鈴木はうつむく。

「なるほど。で、奴らからの連絡はどうやって来るの?」

 鈴木が二、三歩、後ずさる。

「け、携帯に連絡が来ます。わたしから連絡することはできません」

「個室は全部で六つあった。その一部屋は、あなたが使っているの?」

「左様でございます」

「あのウサギ、これまでにも他の参加者がいたような口ぶりだったけど、わたしたちで何組目?」

「わたしがこの任についてから、3組目です」

「前の2組はどうなったの?」

 東城の尋問が続く。

「大広間から出ていって、ここには戻ってきていません」

「ゲームをクリアしたってことか」

 堂島が言う。

「分かりません」

「ゲームをクリアできなかったら、罰ゲームって言っていたけど」

 不安そうに、宮間が言う。

「そんなの、気にする必要ないと思うな。嘘だよ、嘘。何も好き好んで、危険なゲームに参加することなんてないよ。さっきも言ったけど、ここでじっと助けが来るのを待っていればいい」

 風間が早口でそう言う。

「でも、俺らの前に、鈴木さんが見ているだけでも、二組いたわけだよな。で、その二組を探しに警察はやって来なかったわけだ」

 堂島の言葉に、東城が肩をすくめる。

「さっきも言ったけど、警察だって、万能じゃない」

 と東城は言った。「行方不明者届は、年に八万件は出されている。人がいなくなることは珍しいことではないし、警察が捜索に動くのは、事件性があると判断されたごく一部」

「助けが来るのは、期待しない方がいい。今、わたしたちがやるべきことをやらないと」

 宮間が思い詰めたような顔でそう言った。

「やるべきことって?」

 とぼくは言った。

「犯人を捕まえる」と東城は言った。

「ゲームをクリアする」と宮間は誰の顔も見ずにそう言った。

「いやいや、待って、待って。冷静になってよ、みんな。さっきの武器を見たでしょ。奴ら、銃だって持ってるんだよ。絶対、ヤバい奴らでしょ。犯罪者集団。それも大がかりの。前に二組、つまり十人いたのなら、ぼくらと合わせて十五人、大人を拉致して、捕まってないんだよ。ヤバすぎでしょ。これ、カメラで中継されて、金持ちの道楽に利用されてるに決まってる。ここなら安全なんだ。何も無理して危険なゲームに参加することないって。時間切れになったって、別に死ぬわけじゃないし、ここにいるべきだよ」

 風間は額に汗をかいている。

「危険なゲーム。二組は五人ずつ。時間切れでも死ぬわけじゃない」

 と東城は言った。「ウサギは、ゲームがどんなものか、説明しなかった。鈴木さんもね。なのに、あんたは、危険なゲームと言い切った。二組が五人ずつと言ったけれど、四人とか三人ずつだった可能性もある。それに、死ぬわけじゃない、なんてどうして分かるの? あんた、何か知ってるね」

 東城の眼光が鋭くなる。風間の目が泳ぐ。

「……いや、どうしてって言われても。そりゃ、こんなヤバい奴らが仕組むゲームなんだから、普通に考えて、危ないゲームっ」

 東城が風間の胸ぐらをつかむ。「知ってることを吐きな」

 風間は目を白黒させている。東城がさらに締め上げる。「く、苦しい…」

「おい、よせよ」

 堂島が間に割って入る。風間はその場に崩れ落ちて尻餅をついた。顔が蒼白になっている。

「仲間割れしてる場合? やりすぎよ」

 と宮間が言った。

「でも、風間さんは、さっき、ここなら安全だ、とも言っていた。何か知っているなら、話してほしい」

 とぼくは言った。

「……ぼくは、何も知らない」

「この野郎」

 東城が風間に詰め寄ろうとするのを、堂島が制す。

「俺は、何も、知らない!」

 風間が悲鳴のような大声を上げる。目が血走っている。必死の形相だった。

「みなさん!」

 部屋に大きな声が響いた。「そろそろ、食事の時間が終わってしまいます。時間制限があるんです。定刻になると、自動で皿が下げられます。どうぞ、こちらへ」

 見ると、鈴木がテーブルの前で片手を上げている。

「やれやれ。そういう大事なことは、早く言えよ。飯にしようぜ」

 と堂島が言って、テーブルに座ると、さっさと食べ始める。ぼくと宮間、風間が続くと、最後に東城も渋々といった感じで席に着いた。みんなで食卓を囲む。

「本日の料理は、インドカレーです」

 と鈴木が言う。

「おいしいね、これ。鈴木さん、料理上手だね」

 と宮間が言った。

「いえいえ、わたしは何もしてませんよ。厨房から全自動で送られてくるだけですから。……確かに、おいしいですね」

 鈴木も一緒に座り、食事をしている。

「あんたも食うのかよ!?」

 と堂島が言った。

「わたしも、囚われの身で、参加者のようなものですから。みなさんの部屋に並んで、わたしの部屋もあるくらいです。むしろ、戻るチャンスがない分、過酷な立場にあるとも言えます」

「鈴木さんも、気がついたらここに連れて来られてたの?」

 と宮間が言った。

「そうです。そして、訳あって、このような下働きをさせられています。と言ってもまあ、たいしてすることもないんですけどね。はははは」

 鈴木は乾いた笑い声を立てた。目が笑っていない。

「それより、これからどうするよ」

 と堂島が言った。

「……ここから、出ない方がいい。ここなら、安全だ」

 風間が低い声で言った。目が据わっている。先ほどのことで、腹をくくったのか、強い口調だった。

「なんでそう言い切れるの? とりあえずは、犯人の言うとおりにした方が安全なんじゃないかしら」

 と宮間が言った。

「俺もそう思う。願いが叶う、なんてのは嘘っぱちだと思うが、奴らの目的がゲームに参加させること、なら、その反対の行動は、それこそ危険なんじゃないか」

「なんだ、身体はでかいのに、案外慎重なんだな。そんなにあいつらが怖いのか」

 風間がせせら笑う。人が変わったかのようだった。あるいは、こっちが本性なのかもしれない。

「なんだと!?」

 堂島が色をなした。

「ねえ、鈴木さん。わたしたちが、ずっとこの部屋に閉じこもっていたら、どうなるの」

 二人には構わず東城が言った。

「三日間経過後、罰ゲームを受けることになります」

「それまでの三日間は、平和なわけだ」

「ええ、まあ。ただ、ゲーム不参加の翌日から、食事は出なくなりますが」

 と鈴木は言った。

「それじゃ、餓死するじゃない!?」

 と宮間が言った。「ええ、まあ、そうなりますね」なんでもないことのように、鈴木は言った。「だからみなさん、大広間を出て行かれますよ」

「なるほどね」

 と東城は言った。「わたしたちに、選択肢はないわけだ」

「あなたは、この部屋に留まるべきって言っていたけど、今の話を聞いてもそう思うわけ?」

 宮間が風間に向かってそう言った。

「……食事が出なくなるなんて、初めて聞いた」

「まるで、それ以外のことは知っているみたいな言い草ね」

 東城が険しい顔で言い放つ。風間は、それすら耳に入らない様子で、「食事が出なくなるなんて、聞いていない……」と呆然と呟いている。

「行くしかないんじゃないかな」

 とぼくは言った。みなの視線が集まる。「他に、選択肢はなさそうだし」

「そうだな」「そうね」

 堂島と宮間が同時に答える。

「そうと決まったら、早く行きましょう」

 東城はさっさと歩き出し、大広間の扉の前に行ってしまった。

「おいおい、まだみんな食い終わってないぜ」

 文句を言いながら、堂島が後に続き、他の者もついて行く。

「さあ、開けるわよ」

 躊躇せず、東城が扉を開けた。



 警察官になろうと思ったのは、手堅く金が稼げて、かつ、権力を振るえるからだった。

 正義感、などというものは、自分にはあまりない。人並みにはあるかもしれないが、取り立ててあるとも思えなかった。

 それよりは、力。権力が好きだった。いや、権力が好きなのではない。力を行使するのが好きだった。大の男を、権力で屈服させることが痛快だった。刑務官にも心惹かれたが、迷った末に警察官を選んだ。刑務官では、同性しか相手にすることができないからだ。正義の心を持った者は、警察と消防で迷うこともあるようだが、消防は全く選択肢になかった。権力の行使を実感できないからだ。

 父親は、沖縄出身で豪放磊落、女癖も酒癖も悪く、三度の飯よりギャンブルが好きと、ろくでもない男を絵に描いたような男だった。ただ、無邪気で純真なところがあり、不思議と人に愛される男でもあった。土建屋を一代で築いたが、バブルで倒産の憂き目にあい、その後も一国一城の主を諦めきれず、起業しては廃業しを繰り返し、雪だるま式に借金を増やしていった後、消えた。文字通り、母と子を残して突如として消えたのだった。借金は、母が背負い、就職してからはわたしも背負っている。

 酒に酔うと、よく母を殴っていた。わたしもよく殴られた。平手とかではない。拳骨で殴るのだ。空からトンカチが頭の上に落ちてきて、目から火花が出るような、そんな感じだ。手加減などない。手加減などするやさしい気持ちがある者は、そもそも人を拳骨で殴らない。理由もない。殴りたいから殴るのだ。獣。獣と同じだ。獣に咬まれたら、どうするか。獣に怒っても、しょうがない。自然災害と同じだ。嵐が過ぎるのを待つしかない。

 父が消えた時、わたしは中学の二年生だった。多感な時期だが、涙一つ出なかった。むしろ、恐怖の対象でしかなかった父が去り、安堵したというのが正直なところだ。ただ、母は違ったようで、しばらくの間、落ち込んでいた様子だった。夜中に一人、泣いている姿を見たことがある。その姿を見て、哀しくならない自分はどこかおかしいのではないかと悩んだこともあった。

 幸い勉強はできる方だったので、高校は進学校に進んだ。部活は中学の頃からやっていた剣道部を選んだ。なぜ武道をやっていたかと言えば、最初は、父から身を守るために強くなりたいと願ったからだったが、やがて、相手を打ちのめすことに快感を覚えるようになり、欲望の赴くまま、より強さを求めるようになっていった。中学ではインターハイにも出場したし、高校では全国大会で三位になった。部の主将を務めていた頃は、女子校だったせいか、後輩の女子から東城様と呼ばれたり、ラブレターをもらうこともあった。

 女は好きではなかったが、かといって、男も好きになれなかった。父に殴られすぎて、おかしくなってしまったのかもしれない。あるいは、生まれつき恋愛に無関心なのかもしれないが、よく分からない。ただ、屈強な男性が苦悶の表情を浮かべているのを見るときだけ、興奮する自分を発見したときは、さすがに自分が嫌になった。ただ、欲求は頑としてそこにあり、気がつけば、Mっ気のある男をいじめて愉しんでいる自分がいるのだった。そうした男たちもまた、光に集う蛾のように、わたしの中にある嗜虐性に惹きつけられて、まわりを飛び交うのかもしれなかった。

大広間で、とっさに銃を手に取ったのは、反射的な行動だった。銃は、好きだった。実際に、装備として腰につけるとずしりと重い。ただ、それでも、何か心躍るものがそこにはあった。純粋に、破壊だけを目的に作られ、それ以外の機能の一切を排除した無駄のないフォルム。この無骨な鉄塊は、嘘や虚飾に満ちた世界で、相手を破壊するという意思を隠さずに表明しており、手にとって構えると、その圧倒的な暴力に身も心も委ねることができ、余計な雑音が一切聞こえてこなくなるところが好きだった。

堂島と、宮間の顔には見覚えがあった。恐らく、拉致された当日の記憶。何度思い出そうとしても、霞がかったようで思い出すことができない。あの日、自分が何をしていたのか、それすらも思い出すことができない。何か、大事なことを忘れている気がする。ただ、確かなのは、今着ているダークスーツは、仕事の時にしか着ていない服だということだ。警察手帳は盗られてしまったのだろうが、そんなことを言えるわけもなく、とっさに非番だと嘘をついてしまった。業務中に昏睡させられ、手帳を盗られ、監禁される。なんという失態。日頃、生意気な自分のことを目の敵にしている脳筋上司のにやつく顔が目に浮かぶ。普段から、どんな時でも警戒は怠らない方だという自負はあったが、いったい何があったのか。考えてもまるで分からなかった。ただ、覚えているのは、堂島と宮間の顔だ。自分はあの日、誰か犯人を追っていたのか。だとすれば、その犯人の顔、という可能性もあるが、自分を拉致した輩の顔、という可能性も捨て切れない。もちろん、事件とは無関係で、ただ街ですれ違っただけ、という可能性だって当然ある。考えても分からない。探っていくしかない。

あと、怪しいのは風間だ。今回の事件について、何か知っているのは間違いない。それに、あいつは匂うのだ。あのすれた眼つき。裏街道を生きる人間特有の眼だ。家猫とのら猫では顔つきが異なる。それと同じで、人の顔には、歩んできた歴史が刻まれており、取り繕おうとも、隠すことはできない。

銃を確保したのは正解だった。できれば使いたくはないが、無事に脱出するまでは気を抜くことはできない。



大広間を出ると、十畳ほどの部屋があった。中央にテーブルが一つあるきりで、他には何もない。対面に、もう一つ扉がある。試しに開けようとしてみるが、扉は閉まっていた。中央のテービルには、紙が置いてあり、何か文字が書かれていた。

「大広間に、青いモアイ像がある。

 それはとても高価な物。

盗賊から一晩守り通せ」

「……青いモアイ像?」

 とわたしは言った。「そんなもの、あったかな」

「見た覚えはないな。戻って、確かめてみよう」

 と堂島が言って、大広間に引き返す。その大きな後ろ姿を見ながら、「この体格なら、わたしを拉致して車に押し込めるのも簡単だろうな」などと考えつつ、後を追う。

 大広間のテーブルには、何もなかった。部屋の掃除をしている鈴木を捕まえる。

「鈴木さん、青いモアイ像って、何か分かる?」

「ああ、それでしたら、ほら」

 鈴木が指をさした先には、何もない。「よく、見てください」と鈴木が言う。

 よく見ると、テーブルの上に、1センチほどの小さな青い物体があった。

「モアイ像だ!」

 と堂島が叫ぶ。確かによく見ると、それは、青いモアイ像だった。

「きれいね。サファイヤかしら」

 と宮間が言った。

「ご名答です、宮間様」

 と鈴木が言う。

「こんなもの、最初から置いてあったか?」

 堂島が触ろうとするのを、宮間が制する。「ちょっと! 触らないでよ」

 この二人は、実は知り合いだったりするのだろうか。何か考えがあって、知らないふりをしている……?

「いいえ、最初から置いてはありませんでしたよ、堂島様。わたしが置いたんです」

 と鈴木が言った。「先ほど、指令が入りまして」

「盗賊が襲ってくるんですか?」

 山田が聞く。平凡な中年男、といった印象。山田を見た記憶はない。

「ええ、どうも、そのようでして」

「どこから入ってくるって言うの? 向こうにはわたしたちの個室しかないし、あとはさっきのメッセージがあった小部屋だけ」

「さあ、どこから来るのでしょう」

 鈴木は困惑したような顔をしている。

「まさか、暖炉とかね」

 引きつった笑みを浮かべながら風間が言う。

「なんだそりゃ。サンタクロースかよ」

 と言いつつも、堂島は暖炉の中を覗いていた。

「一晩、盗まれなかったら、ゲームクリアってこと? そうしたら、次の部屋に進めるのかしら」

「さて、どうなんでしょう」

 鈴木は煮え切らない。どうも頼りにならない爺さんだ。

「だったら、交代で見張り番をしたらいいんじゃないかな」

 と風間が言った。「もう夜も遅い。全員で起きてることもないだろう。時間を決めて、交代で休もう」

 早口。こいつの言うことは信用できない。何か裏がありそうだ。

「いいわね。わたしも賛成。もう疲れちゃった。早く休みたい」

 と宮間。

「でも、盗賊が襲ってくるんだよね。大丈夫かな」

 山田は不安そうだ。

「ま、確かにな。どこかのオマワリサンみたいに、みんなが武器を持ってるわけじゃないしな」

 堂島は、ナイフを取るのを邪魔されたことをどうやら根に持っているようだ。

「わたしが番をするよ。みんなは寝ていればいい」

 完徹はきついが、売り言葉に買い言葉で思わず言い返してしまう。

「いやいや、東城さんだけにやらせるわけにはいかないでしょう」

 風間はそう言って、暖炉に歩いていくと、中から火かき棒を取り出した。「武器になる物だって、ここにもないわけじゃない」テーブルの上の燭台からロウソクを外すと、尖った先端が露出した。

「二人一組で、三時間交代。それでどう?」

 あくびをしながら、面倒くさそうに宮間が言った。「最初は、言い出しっぺの風間さんとわたし。次に堂島さんと山田さん。銃を持っている東城さんは、最後に一人で」

「俺たちにも銃を貸してくれよ」

 と堂島。

「あんたに扱えるんならね。素人が下手に扱う方が、盗賊よりよっぽど危険」

 堂島はむっとした顔で何か言い返そうとしたが、結局何も言わなかった。黙ってわたしを睨みつけている。堂島のような男を見ると、ついからかいたくなっていけない。悪い癖が出ているな、と思うが止められない。

 ミッションは失敗するかもな、とわたしは思う。何かペナルティはあるかもしれないが、死にはすまい。それよりは、怪しい奴を泳がせて捕まえる方がいい。

「じゃ、あとよろしく」

 さっさと部屋に引っ込む。風間と宮間の拍子抜けしたような顔がおかしかった。



 部屋の扉がノックされる音で目を覚ます。時計を見ると、午前一時。交代予定の四時より三時間早いが、予想していなかったわけではない。風間と宮間が何かをするとすれば、午前一時の堂島組がそれに気づき、わたしを呼びに来るだろうことは容易に想像できた。

 山田に連れられて大広間に行く。山田は、「ちょっと、問題が起きて」としか言わない。わたしもそれ以上の説明は求めなかった。大方の予想はつくし、先入観を持たずに現場に入りたかった。途中で騒ぎに気づいた鈴木さんも合流して、大広間に入る。

 テーブルには、風間と宮間、堂島が座っていた。堂島は不機嫌な顔でテーブルに頬杖をついていたが、わたしをちらりと見ると言った。

「モアイが盗まれたぜ」

「そう」

 とわたしは言った。堂島は少し不満そうだ。

「なんだ、驚かないんだな」

「そんなことないけど」

 とわたしは言った。「で、何があったの」まずは、風間と宮間に水を向けてみる。

「俺と山田さんが来たときには、もう盗まれた後だったんだ。本当だぜ。時計を見ろよ。まだ、一時を過ぎて十分しかたっていない。それに、」

 堂島が口を挟む。

「ちょっと、黙っててくれる」

 とわたしは言った。「あんたに聞いてるんじゃないの。二人に聞いてるのよ」

 睡眠不足のせいか、沸点が低くなっているのを感じる。堂島はまだしゃべりたそうだったが、とりあえずはそのおしゃべりな口を閉じた。風間と宮間が視線を交わす。

「急に眠くなってしまって、眠ってしまったの」

 と宮間が言った。

「ぼくも同じだ。強烈な眠気に襲われて、気がついたのは今さっきだ。催眠ガスか、飲み物に何か入れられていたのかもしれない。堂島さんたちに起こされたときには、もうモアイ像はそこになかった」

 と風間が言った。

「なるほどね」

 とわたしは言った。テーブルにある、二人が使ったコップを確認する。少しだけ、飲み残した水が残っている。

「おいおい、どうするんだよ。朝まで守りきれなかったじゃないか」

 堂島は青くなっている。でかい図体をしている割に、小心者らしい。いや、こんな状況だ。それがまともな反応なのかもしれない。たしかにペナルティの内容は気になる。ただ、これまでの風間の言動を考えると、「風間は何らかの理由でゴールをしたくない。ゲームの内容が危険なものだと知っている。ペナルティの内容が、死ぬわけではないと知っている」という推測が成り立つ。風間は、誘拐犯側の人間なのかもしれない。あるいは、その関係者。それを疑わせるに足る行動が、風間にはある。ゴールをさせまいとする意図は、よく分からないが、主催者が混乱分子を送りこんでゲームを攪乱して楽しんでいる、といったところだろうか。ともかく、現状の結論としては、「風間の言うことは信用できない」だ。

「問題ない」

 とわたしは言った。

「え」

 と堂島。

「問題ない、と言ったのよ。まだ朝じゃない。盗まれたのなら、取り返せばいい。そうでしょ、鈴木さん」

 とわたしは言った。みなの視線が、テーブルの側に控えている鈴木さんに集まる。

「東城様の仰るとおりです」

 と鈴木さんは言った。「指令は、青いモアイ像を盗賊から一晩守り通せ、です。朝、そこにあればよいのです」

「朝って、もう何時間もないぜ。だいたい、どうやって盗賊を探すんだよ。見張り番を眠らせて、盗んじまうような奴らだぜ。二人が番を始めたのが十時。俺たちが来たのが一時だ。三時間もある。十時過ぎに盗んだんなら、もうとっくにどこかに逃げちまったんじゃないか。だいたい、盗賊なんて、誘拐犯の仕込みで、奴らの仲間がお遊びでやってるんだろう。昼日中に、俺たちを拉致できるような連中だ。昏睡強盗なんてお手の物だろうし、取り返すなんて到底無理な話だ。最初から、交代で見張りなんてしないで、俺たち全員で寝ずに見張ってりゃよかったんだ」

 堂島は顔を赤くして熱弁を振るい、風間と宮間はうなだれている。

「ま、たしかにね」

 とわたしは言った。「全員で見張っていれば、こんなことにはなっていなかったでしょうね」

 宮間が様子を伺うように、わたしをちらりと見る。ああ、この眼つき。取調室で、よく被疑者がするやつだ。直感する。ここに来る前、わたしは宮間を追っていたのだと。映像がフラッシュバックする。わたしは、宮間を尾行していたのだ。尾行しているとき、何かが起きた。何か、大きな衝撃が。宮間が眼をそらす。宮間は、わたしのことに気がついているのだろうか。

 わたしはうなだれている二人の正面に座った。

「狂言強盗だよね、これ」

 とわたしは言った。宮間はうなだれたまま、身体を強ばらせている。風間はうすら笑いを浮かべて言った。

「狂言強盗? あんた、さっき、ぼくらの言ったことを聞いていなかったのか」

「聞いてたわよ。眠らされたんでしょ、犯人とやらに。もちろん、第三者が犯人だって可能性はある。あなたたちが何らかの方法で眠らされて、その後に、犯人がさっきの小部屋から出てきて、モアイ像を盗んで行った、ということは、あり得ないことじゃないでしょうね」

「だったら、」

「でもそれはない。催眠ガスや睡眠薬が使われたのなら、部屋やコップに臭いの痕跡が残っているはずなのにそれがない」

「ぼくらが眠らされて、だいぶ時間が経っている。臭いも霧散したんだろう」

「こんな換気の悪い部屋で、大の大人二人を昏倒させられるほど強力な催眠ガスが、たったの三時間で霧散するとは思えない。論より証拠。宮間さん、ボディチェックさせて」

 わたしは宮間に近寄る。

「な、なんでわたしが」

 宮間が慌てて立ち上がり、二、三歩後ずさる。風間の動機は「ゲームを失敗させること」、宮間の動機は、サファイアに反応をしていたことから、「サファイアの像を盗むこと」だと思われた。だとすれば、どちらがブツを持っているかは明らかだ。

「歩き方、不自然だね。入れてるよね、股の下」

 肩に手をまわし、部屋の隅に連れて行き、耳もとにささやく。「あるの分かってるの。さっさと出してくれる?」

 宮間は風間の方を見ようとするが、肩を押さえつけて後ろを振り向かせないようにする。「ほら、早く!」肩に置いた手に力を込める。こういう時、鍛え上げた握力が役に立つ。

 宮間の身体からふっと力が抜ける。何やらごそごそとやっていたが、下着の中から、青いモアイ像を取り出し、素直に渡してくれた。テーブルにもどり、元あった場所にモアイ像を戻す。

「はい、これで元通り。朝までは、みんなで見張ろうか」

 とわたしは言った。「宮間! こっちおいで」部屋の隅にいる宮間に声をかける。のろのろと宮間がやって来る。

「何か、言うことがあるんじゃないの」

 宮間はもじもじとしていたが、顔を上げると、みんなに大きく頭を下げた。

「みなさん、すみませんでした! わたしがやりました」

 と宮間は言った。風間はそっぽを向き、舌打ちをしている。

「風間、あんたも何か言うことがあるんじゃないの」

 とわたしは言った。

「被疑者みたいに扱うのは、よしてくれないかな」

と風間は言った。「ぼくは関係ないね。寝ていたと言っただろう。だいたい、ガスや薬が使われた、なんて言った覚えはない。眠かったから寝てたんだ」

「いや、言ってただろ。ガスや薬で眠らされたって」

 と堂島。

「ガスや薬で眠らされたかもしれない、と言っただけだ。断定はしていない。東城さんが言うように、そうした物が使われたんじゃないとしたら、単に眠くて寝てしまっただけなんだろう」

「宮間、どうなの」

 とわたしは言った。

「ええと、それはですね」

 宮間は動揺している。風間が嫌な目つきで宮間をじっと見ている。

「……盗んだのはわたしです。風間さんは、関係ありません」

 挙動不審な宮間を見れば、宮間が風間をかばっているのは明らかだった。おそらくは、風間が宮間をそそのかしたのだろうが、これ以上風間を追求しても白を切るだけだろう。

「そう。あんたがいいなら、別にいいけど」

「いいのかよ」

 と堂島が言った。

「いや、よくないね」

 と風間が言った。蛇のような陰湿な眼をこちらに向けている。

「謝ってもらおうか」

「謝る? 誰が、誰に?」

 わたしはとぼけた。

「あんたが、俺にだよ!」

 風間がテーブルを蹴飛ばした。机上のガラスコップが倒れて、水がこぼれた。

「俺を犯人扱いしたことを謝れ」

 頬を紅潮させて、風間はそう言った。

「犯人扱いなんてしたかしら」

「とぼけてんじゃねえ!」

 風間は今度は自分の座っていた椅子を蹴飛ばした。眼が血走っている。どうやら本性が出てきたようだ。

「だって、あんた、犯人側の人間でしょう」

 とわたしは言った。「ウサギとも仲良しだよね。わたしが最初にこの部屋に来たとき、警戒してこっそり忍び込んだんだけど、あんた、大画面のウサギと親しげに話をしてたよね」

「なっ……」

 風間は絶句している。

「あんたは犯人側の人間。あんたたちは、何者で、何が目的なの?」

「お、俺は、何も知らない。おい、ウサギとの話、どこまで聞いてたんだ」

 立ち上がって、テーブルを強く叩く。

「聞いているのはわたし。あんたたちの組織は何。目的は」

「違う違う違う! 俺たちは、あいつらとは違う!」

「何が違うの」

「俺たちは、犯人じゃない!」

 風間が吠える。

「俺たちって、あんたとウサギのこと?」

 風間がはっとした顔をして、後ろを振り返る。監視カメラでも気にしているのか。すべて壊したつもりだったが、まだあったのか。

「いや、違う違う違う! ウサギは関係ない! うるさいんだよ、お前は!」

「おい、ちょっと、落ち着けよ、」

 堂島が間に入ろうとするので、その前に出る。

「ウサギは、あんたの仲間で、犯人の一味でしょ」

「いや、だから、それは違うんだって、言ってるだろ!」

 また、風間が後ろを気にする素振りを見せる。なんだ? 何を気にしている? 山田が座っていて、鈴木さんがこぼしたテーブルの水を拭き、天井には壊れた監視カメラがある。やはりカメラが他にあり、犯人グループのことを気にしているのか。こいつは、わたしが何かをつかみかけていることを、気にしている。

「何が違うの。ウサギがあんたの仲間ってこと? それとも、犯人の一味ってこと?」

 風間が青ざめる。ウサギだ。こいつは、ウサギのことに反応している。

「いや、ウサギは関係ないんだよ、本当に」

「話していたじゃない。親しそうに」

「ちょ、やめろ、マジで!」

 風間が絶叫する。また後ろを振り返る。冷や汗をかいている。尋常じゃない怖がり方だ。

「話は終わりだ。俺はもう寝る!」

 唐突に風間はそう言うと、逃げるように部屋から出て行った。呼び止める間もなく、あっという間の出来事だった。

「なんだありゃ」

 と堂島が言った。

「明らかに怪しいね」

 と山田。

「風間さん、犯人側の人間だったってこと?」

 と宮間。

「本人は、否定していたけどね」

 とわたし。

「いやでも、犯人一味のウサギと繋がっている時点でアウトだろ。あいつは犯人側の人間だよ」

 堂島はもう決めつけている。

「じゃあ、どうするの」

 宮間は不安そうだ。

「捕まえて、情報を引き出すとか。ここから逃げ出す方法を聞きたい」

 と山田は言った。

「あとはあれだ、奴を人質にして、犯人側と交渉するとか」

 堂島は愉快そうだ。やけになっているのかもしれない。

「仮にあいつが犯人側の人間だとして、面が割れるような役目、下っ端しかやらないよ。あいつに交渉材料としての価値があるとは思えない。情報源として使うべきだろうね」

 とわたしは言った。

「そんな下っ端じゃ、それこそ大した情報を持ってないんじゃないか」

 と堂島は言った。

「それはそうかもね。そうなると、あいつはただのスパイで、役立たずのお荷物ってことかもね」

 寝不足でいらいらするせいか、投げやりな口調になってしまった。

「そんな言い方……」

 と宮間が言った。

「みなさん、もう三時です。少し、お休みになられてはいかがですか」 

 いつの間にか、鈴木さんが側に来ていた。確かに、みんな疲れていた。モアイ像のことがあるから、風間のように自室に戻るわけにはいかない。大広間で、みんなで交代で休み、朝まで像を見張ることにした。



 親ガチャ、という言葉がある。子どもは親を選べず、運によって家庭環境が決まり、それに基づいて人生が決定される不条理を言う。一般的には、貧乏な家庭はハズレ、金持ちは当たり、なのだろう。その基準で言えば、俺の家は当たり、なのだと思う。ただ、金持ちの家に生まれたからと言って、幸せかといえば、必ずしもそうではない。

 堂島家は、代々、政治家の家系だった。地盤は固く、祖父が引退した後は、財務官僚をしていた父が跡を継ぎ、弟は秘書としてその跡を引き継ぐ見込みだ。なぜ兄の俺ではなく、弟が跡を継ぐのかといえば、簡単な話で、弟の方が俺よりも優秀だからだ。幼少期は、それほどの差はなかったが、はっきりと差がついたのは、中学受験の時だろう。祖父も父も、開成中学出身で、堂島家では、開成でなければ人に非ず、みたいな空気が醸成されていた。親戚でも開成出身者が多く、長男である父の息子たちを開成に入れなければという、母が親戚一同から受けるプレッシャーは相当なものだったと思われた。実際、母は高卒で学がなく、父が学生時代に行きつけだったカフェでウェイトレスをしていた時に父と出会い、兄を妊娠したことを機に両親の反対を押し切って結婚しており、いまだに祖父母と母の間はうまく行っているとは言い難かった。親戚一同が集まる場でも、母はいつも隅で小さくなっているか、家政婦のように立ち働いており、気疲れからか、帰省した後は、ぐったりとして数日横になってしまうほどだった。長男である父の息子たちの出来が悪ければ、学歴のない母の血を引いているからだと責められることは容易に予測でき、そんな恐れと自らの学歴コンプレックスが母を追い立て、俺と弟は、塾が終わった後も、深夜まで母の熱心な個別指導を受けるのだった。母の努力も空しく、俺の成績は芳しくなく、受験生となった六年生の時には、塾に加えて専属の家庭教師をつけても一向に成績が上がらず、模試の判定も開成はA判定どころかB判定も出なかった。毎度、D判定かE判定しか出すことのできない息子に母はいらだちを募らせ、試験日が近づくにつれ、次第に狂気じみてくるのだった。ヒステリックに喚く母の声がストレスとなり、下痢をすることが増え、円形脱毛症となった。受験の結果は、当然のごとく開成は不合格だったが、第四志望の中堅校にはなんとか合格をした。奇跡が起きることを最後まで祈っていた母は落胆し(実際に何度も神社参りをしていた)、合格した学校への進学を許さなかった。中途半端な中堅私学に行かせると、上位校にチャレンジをして落ちたことがばれてしまうことを危惧したのか、最初から受験などしていなかったかのごとく、公立校に進学することを決めたのだった。対して、弟は、見事開成に合格し、祖父母と両親を喜ばせた。中学時代に、早々に兄と弟の勝負は決したのだった。国会議員としての地盤をどちらが継ぐか、という話は、具体的にされた記憶はないが、この時から、暗黙の了解として、弟が継ぐものとされたのだと思う。政治家としての祖父の活動を見学に連れて行かれたり、選挙時の手伝いをしたりと、実地に帝王学を学ばされる弟の姿を見ていれば、自ずと気がつくものだ。ああ、俺は負けたのだと。「兄貴は、じじいに口うるさく言われなくてうらやましいよ」と、ため息まじりにこぼす弟は、祖父母や両親を悪く言うことで俺の機嫌を取ることも忘れない、抜け目のなさを若干十三歳で身に付け、金魚のフンのごとく俺の後ろをついてまわっていた幼少期が、いつしか終わっていたことに気付き、愕然とさせられたものだった。東大に落ちた俺が、滑り止めで受かった私大に行きたいと言った時も、母は表情一つ変えず、「そう」と言ったきりだった。恐らく、高校を出たら働きたい、と言ったとしても、同じ反応しか返っては来なかっただろう。中学受験に失敗した時点で、俺は落伍者の烙印を押され、両親の期待は弟が一身に担った。虐待をされたわけではなく、「親が子どもに当然に与えるべき物質」は、何不自由なく与えられた。ただ、それは愛情からというよりは親としての義務からで、興味・関心は一切持たれなかった。公立中学の試験で、学年一番となったことを話しても、「そう、すごいわね」と言いながらも、その眼はパソコンの画面から離れず、画面には弟の通う塾の家庭学習の仕方が映し出されているのだった。家に帰るのが嫌になり、夜遊びをするようになった高校生の頃、夜遅く帰宅した俺は、母に別室に連れていかれた。それまでは、特に何か小言を言われることもなく、何の反応もないことを少し寂しく思っていたので、叱られると思いながらも、何かを期待する気持ちもあった。母は言った。

「堂島家の、恥となるようなことをしたら、あなたはもう、この家の門を、くぐれないから」

 母は、蒼白となった顔で、足りない俺の頭でも理解できるよう、ゆっくり、はっきりと一言ずつ区切りながら、そう言った。それだけ言うと、部屋を出ていった。俺のことを案じての説教ではなく、それは堂島家に害なす者への宣言だった。その時、ようやく俺は悟ったのだ。両親の服の裾をいくら引っ張っても、振り返ってはもらえないということを。俺は、自立するしかないのだと。

 その日から、俺は夜遊びをきっぱりと止め、高校の部活でラグビー部に入った。とにかく、強くなりたかった。勉強では弟に勝てない。せめて力では勝ちたい。そんな浅はかな思いもあった。弟をねたみ、ひがみ、鬱屈した感情を抱えて夜中徘徊するよりも、太陽の下で走り回り、胸の内に巣食うもやもやとした黒い塊を霧散させたかった。母は反対しなかった。「そう。いいんじゃない」と言った。この人の俺に対する興味・関心のなさは徹底していて、揺るがなかった。俺が死んだとしても、涙ひとつこぼさずに言うのだろう、「そう、死んだの」と。

 高校は私学の進学校で、ラグビー部は弱小と言ってよかった。何かから逃げるように、俺は部活に打ち込み、よく食べ、よく鍛えた。ポジションはフォワードで、身体はでかいに越したことはなかった。高三となる頃には、身長は百八十を越え、体重も百キロ前後となり、そこいらの学生には当たり負けしない強さを身につけた。ひたむきに頑張る姿が認められ、部長となり、勉強そっちのけで、走り、ぶつかり、倒し倒されるのが日常となった。炎天下の中、汗を流しながら、限界まで走り込むことで、俺の内に巣食っていた黒い塊は蒸発し、その時だけは、堂島家のくびきから開放されるのだった。鋼のような肉体が出来る原動力が、爽やかで健全なスポーツマン精神とは限らない。暗闇から這い出るために、がむしゃらに走っていたら、足腰が鍛えられ、地獄の崖を必死に登っていたら、たくましい上半身となっていた、というのが、俺が頑健な肉体を手に入れることができた理由だった。

 大学に入ってからも俺はラグビーを続けた。堂島家では、完全な異物となっていた。弟は当たり前のように東大法学部に入ったが、俺は中堅私大でラグビーに明け暮れる毎日だった。従兄弟もまた判で押したように東大ばかりで、みな一様に細く、内気で、プライドばかり高い嫌味な連中だった。あるいは、実際はそうではなく、それぞれに個性があり、話せば面白いことの一つも言うのかもしれないが、俺の劣等感が自分の都合のいいように色眼鏡をかけさせ、そうした姿に見せているのかもしれなかった。

 大学時代、それなりの活躍はしたつもりだが、それでも、正直、現実的に考えてプロの世界で通用するとは思えず、就職、という堅実な道を選択した。ラグビーは好きだったが、未練はなかった。暗い檻から出してくれたラグビーに感謝はしていたが、のめり込めば込むほど、自分の実力がどれほどのものか、可能性がどれだけあるか、よく分かってくる。こいつには到底かなわない、と思う場面も数え切れないほどあった。よし乗り越えてやろうと思っていた気持ちも、やがては、俺はここまでだ、という諦めに変わってくる。最後まで諦めない奴がプロになるのかもしれないが、俺は違った。大学三年の時に、才能に見切りをつけた。勉強や家族の愛情に見切りをつけたのと同じように。

 中堅商社の山富士に入社したのは、大手の商社に全て落ち、内定をもらった中で、そこが一番手堅いと思ったからだった。大学も、有名どころには全て落ち、引っかかった滑り止め校に入ったのと似ていた。商社を選んだのは、体育会系という強みを活かすのは営業職であり、営業職といえば、商社だろう、という単純な発想からだった。

 関西人がみなお笑いのセンスがあるわけではないのと同じように、体育会系だからと言って、みなが営業に向いているわけではない。実力主義という文化に馴染みやすい、というのはあると思うが、誰もが社交的で押しが強くメンタルがタフというわけではない。身体は巨岩のようだが、繊細で口下手、内向的であり、運動以外の趣味は読書や音楽鑑賞、というラガーマンだっている。俺はと言えば、口達者というわけではないが、相手の勘所を押さえるのが上手かった。仕事をしていく中で、自分のそんな一面を発見した。新人でありながら、営業所で一番の成績を叩き出し、所長から打ち上げの席で、堂島くんの営業の秘訣は、と聞かれ、自己分析した結果、そこにたどり着いた。仕事の席上では、人はみな、建前で話をする。営業の場面では特にそうだ。相手は交渉相手であり、手の内を全て晒してしまっては、不利な条件を押しつけられかねない。かといって、喧嘩をして交渉を打ち切られてしまってはまずい。だからお互いニコニコしながら、水面下で腹の探り合いをするわけだ。それが、俺の場合、人一倍得意なのだった。表情、身振り、口調、言葉のひとつひとつから、直感的に、本音はこうだな、というのをなんとなく感じ取ることができるのだった。そこを掴んでしまえば、交渉はこちらのペースで進めることができる。見込みのない案件は切り捨て、有力案件に注力し実績を上げることができる。堂島家のおかげだ、と思う。実家では、祖父母、両親、弟、みなくせ者揃いで、団らんの場でもどこか緊張感があり、気が抜けなかった。家族でありながら、本音を隠して建前で話しているから、こちらも油断せず、子どもながらにその水面下の戦いに参戦しないわけには行かず、小さい頃から腹の探り合いをさせられていたわけだ。ずっと憎んでいた堂島家で学んだことが、今になって自らの身を助けているのはなんとも皮肉なものだった。

 社長賞受賞などの実績をアピールし、中堅商社から大手商社である丸菱に転職をした後も、俺は順調にキャリアを積み重ねた。丸菱に転職することを告げたとき、祖父が「ほう、丸菱か」と少し眼を動かしたのが愉快だった。何かに復讐をしたような気がした。祖父の反応を見た母が、誇らしげに頬を動かしたのも、正直に言って、うれしかった。生きてきて良かったとさえ思えた。

 妻とは、丸菱で出会った。広報課で社内報を担当しており、営業課を取材する際に、窓口となったのが俺だった。女性社員は結婚相手を探しているような、腰掛けの一般職も多いが、妻は総合職で仕事に熱心だった。お互いが百人以上いる同期だということが分かり一気に打ち解け、何度か食事をする内に距離が縮まり、結婚するまでにそう日はかからなかった。

 結婚は、三年ほど続いた。最初の一年は良かった。幸せだった。二年目からすれ違い、ほころびが見え始め、三年目には会話がほとんどなくなった。子どもがいなかったので、離婚手続はスムーズに進んだ。

 すれ違いが決定的になった日のことはよく覚えている。その頃には、お互い仕事が忙しく、家事分担で揉めることが多くなっていた。母が専業主婦で、父が家事をやる姿を見たことがない俺は、頭では共働きでは半分ずつ家事をするべきと分かってはいても、心では、家事は女がするべきとの考えが根づいていて、ふとした折りに、そうした本音を覗かせてしまい、妻を怒らせるのだった。

 その日、遅い夕食を取っているとき、妻が言ったのだった。「同期の田中くん、もう主任になったんだってね。やっぱり、東大出は違うね」と。

 何気ない一言だった。悪気があった、とも思えない。そうだね、と俺は言えばよかったのだ。東大出は違うねと。だが、俺はそうしなかった。疲れ切って、腹も減っていて、何か殺伐とした気分でいた時で、タイミングもよくなかった。親戚一同東大出で、東大を受けたものの中堅私大に入った俺には、根深い学歴コンプレックスがあった。そこから逃げるようにして、身体を鍛え、一流商社に入ったが、一流大卒がずらりと居並ぶ社内に身を置いていると、コンプレックスは消えるどころか、ますます強くなるのだった。同期との間で、大学名の話題になると、俺は恥ずかしくて自分の大学名を言えず、大した学校じゃないよ、と苦笑いするのが常だったが、そうした時、俺は屈辱で腸が煮えくりかえっているのだった。妻もまた、周囲と同様、一流私大卒だった。俺からすれば十分な学歴だが、そうした私大卒の連中もまた、東大に落ちた経験でもあるのか、東大にはコンプレックスがあるようだった。

「東大出なんて、頭でっかちで、実際の現場では使い物にならない奴らだよ」と俺は言った。「計算高くて小狡くて、人の物を平気で奪い取る卑怯な連中だ」東大出の弟のことを考えて、口が止まらなくなった。酒も入っていた。「ガキの頃から勉強漬けで、世間知らずのお坊ちゃんばかりだ。プライドだけは高くて、いつも人のことを見下してやがる」親戚の集まりの場に顔を出すのは苦痛だったが、逃げたと思われたくなくていつも顔を出していた。堂々と振る舞っていたつもりだが、俺の方を見て小声で話をしていたりすると、俺のことを馬鹿にして、笑っているんじゃないかと内心気が気ではなかった。両親もまた、着々と政治家としての道を歩み始めた弟のことを、謙遜しつつも誇らしげに話す一方で、その饒舌さの裏には、出来の悪い兄のことを隠す意図があるのではと勘ぐってしまうのだった。

 妻は、東大出をこき下ろす俺のことを、呆然と見ていた。それでも俺は止まらなかった。これまで心の底に蓋をして、がんじがらめにして閉じ込めていた怨念のようなものが、一気に噴出し、身体中を駆け巡っていた。妻は、何か言っていたようだが、俺の耳には入らなかった。興奮した俺は立ち上がり、くそが、などと口汚く罵りながら、ソファーのクッションを投げ、机を蹴飛ばしたりしていた。グラスが床に落ちて割れると、その耳障りな音がますます俺を興奮させるのだった。妻は、俺が田中に嫉妬している、と思ったようで、田中がどうのこうの、と言っていた。涙を浮かべて、謝ってもいるようだった。田中など、どうでもよかった。第一、俺は田中なんて知らなかった。同期は百人以上いるのだ。知らない連中の方が多い。妻は、怯えたような眼をしていろいろ言っていたが、最後に、哀れんだような顔で言ったのだ、「別に、東大出じゃなくたっていいよね」と。俺を慰めるため、この場をなんとか収めようとして言ったのだと思う。だがこの時、俺の中の何かが切れたのだ。うるさい、と俺は言って、この時初めて、妻に手を上げた。妻の身体が吹き飛び、戸棚に頭をぶつけ額から血を流していても、俺は介抱するでもなく、呆然と立ち尽くし、赤くなってしびれた自分の手のひらを、まるで他人の手のように眺めやるのだった。

 それから一週間後、俺たちは離婚した。



 モアイ像は、朝まで無事だった。風間以外の全員で、交代で見張っていたが、盗みに来る輩は現れず、そのまま朝を迎えた。寝不足のまま、朝食を食べていると、自室に戻っていた風間が現れた。

「……モアイ像は、盗まれなかったか」

 風間はちらりと像を見てそう言うと、自席に座り、並べられた食事を食べ始めた。

「なんだか残念そうね」

 東城が言った。

「前にも言ったが、俺はゲームに参加するのは反対だ。危険だし、ろくなことにならないからな」

「危険なことなんて何もなかったわ。宮間とあんたが、像を盗んだままだったら、どうなっていたか分からないけど」

 東城が挑発するようなことを言う。みんな眠そうだが、東城は平気そうだ。自室に戻っていた時も、こんな状況だというのに寝ていたようだし、きれいな見た目によらず、警察官というだけあってタフそうだ。

「俺は盗んじゃいない。あんたは分かっていないんだ、ここの」

「危険、危険って言うけれど、いったい、何が起きるっていうんですか」

 宮間が風間の話をさえぎり、切羽詰まった声で言う。全員の視線が風間に集まる。風間は何か言おうとして口を開きかけたが、結局何も言わず、そのまま黙って腕を組んだ。何を言うべきか、考えているようだった。その時、突然、大画面のモニターが明るくなった。

「みなさん、おはようございます」

 画面には、ウサギが映っている。

「どうもお疲れのようですが、昨夜はよく眠れましたか? モアイ像は無事だったようで、何よりです」

 どこか棒読みのようなセリフ口調。安っぽいパーティ用品のような被り物をしたこいつは何者なのだろうか。

「次のゲームです。先の部屋に進めるようになっていますので、そこで課題を確認してください。みなさんのご健闘をお祈りしております」

「ウサギさん、質問があるんだけど」

 東城が手を挙げる。「あなた、風間とどういう関係なの?」

「なっ……」

 風間が驚いた顔で東城を見ている。驚いたのは、ウサギも同様のようだ。硬直して動かない。どうやら想定外の質問だったらしい。

「お仲間なんでしょ。あなたは運営側の人間で、風間は送り込まれた監視役ってとこ?」

「おい、いい加減にしろ!」

 風間が顔を赤くして立ち上がり、東城につかみかかろうとする。東城は身をひるがえしてかわすと、風間の後ろ手を取ってテーブルに押し倒した。

「なんとか言ったらどうなのよ、ウサギ!」

 東城が強い声で言う。みんながウサギに注目する。静寂が落ちる。

「……わたしは、」

「やめろ、あずさ、何も言うな!」

 風間が大声で叫ぶ。

「あずさ?」 

 東城がくり返す。

「画面を落とせ、じじい!」

 風間が叫ぶと、画面が暗転し、映像が途切れた。

「あずさとじじいって、どういうこと?」

 東城が風間の腕をひねり上げる。風間が苦痛に耐えかねて悲鳴を上げるが、何も言わない。

「腕、折れるわよ」

 東城がさらに絞り上げる。風間の額から脂汗が流れ落ちる。本当に痛そうだ。「いつまで耐えられるかしら」東城が酷薄な笑みを浮かべる。

「おい、やめろ、やりすぎだ」

 二人の間に割って入る。すぐに構えを解いたところを見ると、東城も本気で折るつもりはなく、誰かが止めるのを待っていたのかもしれない。

「だんまりを決め込むなら、それでもいいわ。ただ、あんたが運営側と繋がっているのは明らかだし、信用することはできない」

「縛っておいた方がいいんじゃない」

 と宮間。「一緒に行動するのは危険じゃないかしら」

「ぼくもそう思う」

 と山田。東城は黙って、思案している。美人は考え事をしている姿も様になる、などとあらぬことを考えていると、東城が言った。

「連れていきましょう。縛っておいて、逃げられたら、姿を隠して行動する。そうなったら、余計厄介。誰か一人を見張りにつけたとして、戦力が分散するし、風間が縄抜けして、見張りがやられる可能性もある。一緒に行動すれば、全員で見張ることができるし、何かゲームをする上で利用できるかもしれない。危険なことをやらされる時、こいつにやってもらう、とかね」

 何か文句はあるか、とでも言いたげに、東城が全員の顔を見回す。宮間と山田も、東城の話を聞いて納得したようで、何も言わなかった。

「連れていくのは分かったが、俺を縛らなくていいのか」

 風間が両手を合わせて、掲げて見せる。東城は肩をすくめる。

「よく考えたら、縛ろうにも、そもそも、縄がないのよ」

 と東城は言った。



 大広間から出て、モアイ像の指令の紙が置かれていた小部屋に入る。さらに奥へと通じる部屋のドアは、閉まっていたはずだが、押してみると簡単に開いた。中は同じようなつくりの小部屋で、中央のテーブルにメモが置かれている。

「生け贄を捧げよ」

 メモには、そう書かれている。メモの横に投票箱のような箱が置かれており、選挙の投票用紙のような紙も置かれている。選挙とは異なり、無記名ではなく、各自の名前が既に記載されている。

「生け贄って、どういうこと?」

 宮間がふるえる声で言う。不吉な言葉に、予感するものはあるものの、言葉にするのがためらわれるのか、みんな、押し黙っている。

「生け贄にしたい人の名前をそれぞれが書いて、この箱に入れろってことでしょう」

 箱の中を覗いたりひっくり返したり、紙を調べたりしながら東城が言った。宮間が青くなる。相変わらず空気を読まない女だ。「生け贄に選ばれた人は、どうなるの?」

「さあね。こわーいオオカミにでも食べられるんじゃない」

 投票用紙を光に透かして見ながら、東城が面倒くさそうに言う。腕を持ち上げた拍子に、腰に差した銃がちらりと見える。

「生け贄なんて、どうやって選んだらいいんだ」

 と山田が頭を抱える。

「死んでほしい人を選んだらいいのよ」

 そんなことも分からないのか、といった表情で東城が言う。

「おいおい、大概にしとけよ。選挙と同じようなもんだろ。白紙投票だってできるんじゃないか」

 と俺は言った。

「棄権して、投票しないって手もある」

 風間が乗ってくる。

「あとは、わたしたち以外の名前を書くとかね。世話役のお爺さんの鈴木さんや、ウサギ。ああ、間違えた、あずさだっけか」

 東城が手を止めて、意地の悪い笑みを浮かべて風間を見る。風間は東城を睨みつけるが、何も言わなかった。

「登場人物といえば、あとは、あんたがとっさに口走った「じじい」くらいか」

 東城が言う。風間が叫んで、モニターの電源を落とさせた人物だ。おそらく運営側の人間だろう。

「じじいって書いても有効なのかしら」

 と東城が愉快そうに言う。こんな状況だというのに、楽しんでいるように見えるのは気のせいだろうか。

「知るか。選挙なら無効だぜ」

 つまらなそうに風間が言う。

「じじいは無効です」

 振り返ると、部屋の隅に鈴木さんがいた。大広間にいたはずだが、いつの間に来ていたのか、全く気がつかなかった。

「ルールを補足説明させていただきます。この部屋に入った時点で、ゲームは始まっています。期限は今日の深夜0時まで。投票対象は、あなたたち五人です。有効投票がなく、投票が成立しなかった場合は、ペナルティが課されます」

「ペナルティって?」

 と宮間。

「それは私にも分かりかねます。過去には、電気椅子の刑となった方々がいらっしゃいましたが、デコピンで済んだ方々もいます」

 電気椅子とのギャップがありすぎて、デコピン、が子どもたちがよくやる遊びだと気がつくのに数秒かかった。

「ペナルティの重さは、どう決めてるの」

 と東城。

「決定権者の、その時の気分によるものと推察されます」

 と鈴木さんは言った。

「生け贄となった人はどうなるの」

 と宮間。

「連れていかれます」

 と鈴木。「その先のことは、私にはよく分かりません」

「殺されるのかしら」

 と宮間。

「生け贄、だからね。普通に考えたら、そうだ」

 と山田。

「生け贄とは、そもそもが、神に捧げる供物です。神の機嫌をとって、日照りの時に雨を降らせたりするために。殺すのが基本みたいですが、殺さずに、神聖とされた場所で飼うこともあるようです」

 と鈴木さん。「飼われる、という可能性もあるかもしれません」

「もしくは、解放されるかもしれない」

 と東城。「連れて行かれた先が分からないなら、解放される可能性だってあるでしょう」

「どんだけ前向きだよ。さすがにそれはないだろ」

 と俺。冗談かと思ったら、東城は真面目な顔をしている。

「わたしは可能性の話をしているだけ。生け贄の可能性は無数にある。ここで議論したって、仕方がないってことよ」

「無数にあるって言うけど、選択肢は、殺される、飼われる、解放されるの三択くらいしかなさそうだけどな」

 と俺。東城がじろりと睨んでくる。

「ばかばかしい。こんなゲーム、参加する必要はない。俺はやらないし、お前らもやる必要はないぜ」

 と風間。全員で顔を見合わせる。みんな、この状況に困惑はしているが、参加しない、と言う者はいなかった。風間が舌打ちする。

「そうかよ。だったら…」

 風間はテーブルに身を乗り出し、投票用紙を奪い取った。

「こいつは俺が預かっておく。お前らに投票はさせない」

 言うなり、風間は大広間に向かって走り出した。

「止まりなさい!」

 東城が叫んで、銃を構える。「止まらないと、撃つわよ!」

「撃てるもんなら、撃ってみろ!」

 風間は止まらず、そのまま部屋を出ていった。一瞬の出来事だった。東城は悔しそうな顔をして、銃を下ろした。

「どうしよう、投票用紙がなくなっちゃった……」

 宮間が呆然として言った。

「だから、あいつを縛っておこうって言ったんだ」

 山田が東城の方をちらりと見て、恨めしそうに呟く。宮間も頷く。

「問題ない」

 と東城は言った。

「問題ないわけ、ないじゃない!」

 宮間が叫ぶ。「このままじゃ、投票できないのよ。みんな、電気椅子の刑になるかもしれないじゃない」

「風間を捕まえる」

 と東城は言った。「奪われたら、奪い返せばいい」



 大広間を探したが、風間の姿はなかった。隠れられる場所といえば、あとは自分の部屋くらいしかない。風間の部屋に向かう。ドアを叩いても、声をかけても出て来ない。ノブをまわすと、鍵がかかっていた。

「出てこないね」

 と山田。

「このまま、部屋に閉じこもって、時間切れになるのを待つつもりなんだわ」

 と宮間が青ざめた顔で言う。

「ちょっと、どいて」

 東城がドアに体当たりをする。蹴飛ばすが、びくともしない。

「風間、ドアを開けなさい!」

 東城が、何か持っていた黒いものをドアに叩きつける。大広間の暖炉にあった火かき棒のようだ。先ほどの捜索時に持ってきたらしい。ドアの隙間にねじ込もうとしているが、入らないようだ。俺も体当たりをしてみるが、やはりびくともしない。鋼鉄製の扉で、相当頑丈にできている。

「開かないわね」

 さすがの東城も息が上がっている。

「どうするのよ、開かないじゃない」

 と宮間。「このままじゃ、時間切れになっちゃう。投票できずに、電気椅子でみんな死ぬのよ。みんな、死ぬ!」

 半分パニックになっている。「あんたのせいよ! あんたが、あいつを縛っておかないからこうなったのよ。責任を取りなさいよ!」

 勢いよく東城につかみかかる。小太りの宮間の方が体重がありそうだが、東城はびくともしない。体幹がしっかりしている、などとどうでもよいことに感心をする。

「落ち着いて」

 東城は宮間の両手をつかんで、押し戻す。なおも宮間は暴れようともがいていたが、強引に押し戻された。細いが力はあるらしい。

「まだ方法はある」

 と東城は言って、大広間に向かって歩き出す。みんなで、慌てて後をついていく。

 大広間に戻ると、東城はいきなり大声を出した。

「あずさ! 私たちのことを見ているんでしょう! ちょっと、話があるんだけど!」

 大広間に東城の声が響き渡る。

「……返事がないわね」

 と東城が言った。

「あずさって、あのウサギのこと?」

 と宮間。

「そう。風間が一度、そう呼んでいた。あずさと風間は、何らかの関係がある。風間の態度を見ているかぎり、親しい間柄だったはず」

 東城は部屋の中央に立つと、さっきよりもさらに声を張り上げた。

「あなたも見ているなら、分かっているでしょうけれど、このままだと投票ができずに、ゲームは失敗する。最悪、電気椅子の刑で全員死ぬ。あなたの大事な風間もね。このまま、放っておいていいの。あなたが呼びかければ、風間も考えを変えて、出て来てくれるかもしれない。命を救えるかもしれない。お願いだから、出てきて、一緒に風間を説得して!」

 東城の声が静かな部屋に響く。反応を待つが、あずさからの応答はなかった。

「……聞こえてはいるはずです」

 部屋の隅にいた、鈴木さんがそう言った。

「返事をしようとすれば、できるはずです。望むなら、この場に出てくることも。東城さんの言うとおり、このままではゲームを棄権したこととなり、あまりにもお粗末な結果となる。決定権者の不興を買い、電気椅子の刑以上の、惨めな死が待っていることでしょう」

 鈴木さんの容赦のない言葉に、宮間が蒼白になる。

「ちょっとあんた、出てきなさいよ! 風間をなんとかしなさいよ! 仲間なんでしょう!」

 半狂乱になった宮間が絶叫する。

 その時だった。小部屋に通じるドアが開き、黒いワンピースにウサギの被り物をした人物が部屋に入ってきた。

「ようやくお出ましね」

 と東城が言った。

「風間さんを説得します」

 とウサギは言った。女性の声だった。ボイスチェンジャーはない。小柄で痩せている。年齢は分からないが、声の感じからして若そうだった。

「話が早くて助かるわ。あなた、風間の恋人なの?」

 と東城。

「……余計な質問はしないで。行きましょう」

 ウサギはさっさと歩き出す。

「あなたたち、なぜこんなことをしているの」

 東城が横に並んで、なおもウサギに語りかける。「何か事情があるんでしょう。私たちに話をしてみて。一緒に協力して、ここを出ましょう。悪いようにはしないから」

 ウサギは東城を無視して歩き続ける。その後を、みなで追う。風間の部屋の前まで来ると、

「風間さんとはわたしが話をします。あなたたちは、下がって待っていてください」

 とウサギは有無を言わせぬ口調でそう言った。モニターで見る、芝居がかった様子のウサギとは別人のようだった。

 離れて、ウサギが風間に話しかけるのをじっと待つ。何を話しているのかは分からない。二人はどういう関係なんだろうか。東城が言うように、恋人同士、なのだろうか。カップルが、なぜこんな犯罪行為に加担しているのだろうか。……

 ウサギの説得は続いているが、ドアは一向に開く気配がない。ウサギが身振り、手振りを交えて話をするようになっていた。焦っているのかもしれない。その様子を見て、東城が動いた。近づいて来る東城に、ウサギが気づく。

「待って、もう少し、話をさせて」

 とウサギは言った。

「もう三十分経った。これ以上はもう待てない。風間は最初から、ゲームを失敗させたがっていたし、こうなることは予想できたけど」

 東城はおもむろに銃を取り出すと、ウサギの頭に銃口を向けた。

「な、何をする気」

 ウサギが動揺する。

「風間! さっさと出て来ないと、あんたの大事なあずさを撃ち殺すよ!」

 東城が叫ぶ。

「ばかやろう! おまわりが、無実の一般市民を撃つのかよ。撃てるわけがねえ!」

 風間が叫び返す。

「何を言ってるの、火かき棒を持って襲ってきた誘拐犯から、身を守るために撃つのよ。これは、正当防衛」

「わたしは、そんなことしていない!」

 ウサギが叫ぶ。

「そうね、あなたはそんなことはしていない。ただ、銃で撃たれて、血を流して倒れ、出血多量で死んだあとに、手に火かき棒を握らされるだけ」

「お前、頭がおかしいんじゃないか。俺は出ていかないぞ!」

「投票用紙を持って、出てきなさい。わたしは気が短いの。三、二……」

「おい、ふざけるなよ、ちょっと待て!」

「一、」

 鍵を外す音がして、ドアが勢いよく開く。開いたドアにウサギがぶつかり、中から風間が飛び出してくる。顔を蒼白にして、荒い息をついている。手には言われたとおり、投票用紙が握られていた。

「はい、よくできました」

 東城が投票用紙を風間から奪い取る。

「きたねえぞ。警官が、こんなことしていいのかよ」

「さっきの部屋に戻りましょう」

 東城は無視して、戻り始める。その後をみんなで追う。

 投票箱のある部屋に戻ると、東城は全員に投票用紙を配り始めた。

「投票しましょう」

 と東城は言った。

「ばかばかしい。お前ら、書くことはないぜ。書かれた奴は死んじまうんだ。人殺しになりたいのか」

 風間は全員の顔を見まわすが、誰も、何も言わなかった。

「そうかよ。てめえが助かるためなら、人を陥れてもいいってか。よく分かったぜ」

 風間はテーブルに投票用紙を置き、何やら書き殴っている。全員に、書いた紙を見せる。「とうじょう」と汚い字で書かれている。

「ほらよ、これで満足か」

 挑発するように東城の前で紙をひらひらとさせている。

「お前ら、よく聞け。こいつは、銃を持っている。さっき、何もしていないあずさのことも撃とうとした。こいつを野放しにしておくと、危険だぜ。投票用紙には、東城、と書くんだ。銃を持った危険人物から、身を守るんだ」

 風間が東城に顔を近づける。「これは、あんたがさっき言っていた、正当防衛だ」

 東城は冷ややかな眼で風間を見ている。風間はふん、と鼻を鳴らして、投票用紙を投票箱に入れた。かたん、と乾いた音が部屋に響く。

「確かに私は銃を持っている。警察官として、あなたたちを守るために。あんたは、ウサギが何もしていない、と言ったけど、あんたたちは、私たちを誘拐して、ここに監禁しているグループの一員でしょう。命のかかった大事な投票用紙を盗み、私たちの命を危険にさらしたあんたたちに、銃を向けたからって、何だって言うの? ふざけるんじゃないよ」

 東城の瞳が静かな怒りで燃えている。

「誰の名前を書くべきかは、明らかでしょう」

 東城は投票用紙に鉛筆を走らせ、投票箱に入れた。誰の名前を書いたのかは見えなかったが、恐らく風間のことを書いたのだと思われた。宮間と山田も、鉛筆を手に取った。俺も投票した。書く名前は、風間以外に考えられない。

 全員が投票し終わった頃、鈴木さんが投票箱の横に立った。

「みなさま、投票は終わりましたね」

 全員の顔を見回す。ウサギの姿がないことに気付く。いつの間にか、姿を消していたようだ。鈴木さんがおもむろに投票箱の鍵を開け、中身を取り出す。

「もう開票するの?」

 宮間が驚いた顔をしている。

「特に待つ理由もないですからね」

 と鈴木さんは言った。

「風間さん」

 鈴木さんは投票用紙を見て、名前を読み上げる。

「風間さん」

 風間に二票入った。風間の表情が歪む。

「東城さん」

 みんなが東城の方を見る。風間が書いたものだろう。予想していたのか、東城は気にしていない様子だ。

「東城さん」

 東城に二票目が入る。これは、俺も予想していなかった。東城も驚いた顔をしている。

「これで、お二人に二票ずつ入りました。残るはあと一票」

 鈴木さんは心なしか楽しそうだ。

 風間は部屋の隅で、ふてくされたような顔をしている。

 東城の表情は固い。二票目が入るのは、さすがの東城も想定していなかったに違いない。

「……風間さん」

 と鈴木さんは言った。

「生け贄は、風間さんに決定しました」

 鈴木は、高らかに宣言した。

 大広間とは反対の扉が、音を立てて開く。

 狼の被り物をした、屈強な男たちが四人、どやどやと入ってくる。

 狼男たちが、風間を取り囲む。

 風間が抵抗をする。どこで手に入れたのか、ナイフを持っている。

 特殊警棒のような棒で、狼男の一人がナイフを叩き落とした。

「待て、俺にはまだやることがあるんだ。……あずさ!」

 風間が狼男たちに引きずられながら、絶叫する。四人の男に四肢をつかまれ、抵抗むなしく、風間は扉の奥に消えた。

 大きな音を立てて扉が閉まる。

 一瞬の出来事だった。誰もが呆然として言葉も出ない。

「はい、生け贄ゲームは終了です。皆様、お疲れ様でした」

 鈴木さんは何事もなかったかのように大広間に戻ろうとする。

「風間さんは、どうなるの?」

 宮間が泣きそうな顔で聞く。

 鈴木さんは、肩をすくめる。

「生け贄は、神への供物。それこそ、神のみぞ知る、ですよ」

 鈴木さんはおかしそうに、くつくつと笑うのだった。



 小学三年の時、親が離婚した。理由は分からない。どちらについて行くのかと聞かれ、迷わず、母と即答した。父のことは嫌いではなかったが、中学校の教員だった父は、年中忙しく、土日も部活で不在がちで、どこか他人のような距離を感じていた。息子である自分よりも、他の子どもにかまけていることに対する反発もあった。

 今にして思えば、自分の人生は、この時から、「普通の平凡な人生」のレールを外れていったのだと思う。

 母は、男に依存する女だ。強い男に庇護されることを望んだ。父も、体育の教師で、身心ともに頑健だった。次に選んだ男は、一回り年上の、身体のでかい、昔甲子園に行ったことがあることが唯一の自慢の、文房具だか何だかを売っている、サラリーマンだった。名を田代と言った。

 母は、父と別れて半年で田代と再婚した。田代は、最初のうちは、キャッチボールをするなどして、俺との距離を詰めようとした。ただ、一向になつかず、お父さんとは決して言わない、愛想のない子どもに嫌気が差したのか、母との結婚後は、機嫌を取ろうとすることを諦め、徐々に邪険にするようになった。やがて、二人の間に赤ん坊ができると、彼らは新しい玩具を買い与えられた子どものように夢中になり、俺に対する関心を失った。産まれた子は、男の子で、達也と名付けられた。二年後には、女の子も産まれ、樹里と名付けられた。

 両親の愛情を独占する二人を、俺はできる限り面倒を見た。かわいかったからでも、長男としての義務感からでもない。この家に、自分の居場所を確保するため、いわば生存戦略として、そうする他に選択肢がなかったのだ。

 田代は、決して悪い人間ではなかった。暴力を振るわれたこともない。ただ、俺に対する関心がなく、悪意なく俺を差別した。自分の実家に帰省するときに、俺だけ留守番をさせて連れて行かなかったり「お前は大きいから行ってもつまらんだろう。爺さんとは他人だしな」、習い事も俺だけ行かせてもらえなかったり「お前の親父が養育費を払わないのが悪い」、写真館でも四人だけで撮影し「実家に送る写真にお前が写っていたらおかしく思うだろう」、田代としては、俺は自分の子ではなく、他人の子を預かっている、くらいの感覚しかないのだった。母は、夫に従順であることが賢明な妻だとでも思っているのか、そんな田代を微笑んで見ているのだった。

 俺が家に寄りつかなくなったのは、自然な流れだった。単純に、居場所がなかった。居心地が悪かった。弟や妹も、成長するに連れ、田代の差別的な言動に影響を受け、俺のことを部外者のように扱うのにも腹に据えかねた。正直、手が出てしまったことも一度や二度ではない。ただし、そのような時、田代に密告され、土下座での謝罪を強要された上に、廊下に何時間も正座させられる罰が待っているのが常だった。俺が土下座を拒むと、無理矢理力づくで足を折られ、頭を床にこすりつけ、「反省しろ!」と正義面した田代に怒鳴られるのだった。

 地元の暴走族に入ったのは、その頃よく遊んでいた友人に誘われたからだった。バイクは持っていなかったが、走ることに熱心なチームではなかったので、集会に参加したり、よそのチームと喧嘩をすることが主な活動だった。

 正直なことを言えば、家での鬱憤を、喧嘩で晴らしているようなところもあった。憎い田代を殴れず、鬱屈したやり場のない怒りを、思い切りぶつけることができる、貴重な機会だった。

 南条良太をバットで殴り、植物人間にしたのは、高校二年の、寒い冬の日の、荒川河川敷でのことだった。

 喧嘩の発端は、うちのチームのメンバーが隣接する地区にあるチームともめて、拉致され、半殺しの目にあったことで、その報復のための抗争だった。腕自慢の代表同士のタイマンでも決着がつかず、というよりも劣勢となったうちのチームは、決着がつく前に全員で襲いかかり、敵味方入り乱れての争いとなった。

 俺が南条を狙ったのは、奴が特攻隊長で、手柄を立てたかったから、ではなく、単に背中を見せて戦っていて、隙があったからにすぎない。俺は頭に血が上っていたし、周囲は敵だらけ、生きるか死ぬかの場面で興奮し、手加減などしている余裕はなかった。やらなければ、やられるのだ。必死で手に持った得物(倒れている奴から奪い取ったバット)をぶんまわし、自分が生き残るために、一人でも多くの敵を倒す必要があった。南条を殴った後、脇腹に強い衝撃が走り、横倒しになったところを、めちゃくちゃに蹴られ、踏まれ、気が遠くなりかけたところで、パトカーのサイレンが聞こえ、「警察だ!」という声、「逃げろ!」という叫び声が響いたが、俺は動くことができず、警察に補導されたのだった。

 南条良太を重体にしたことで、俺は少年院に送致された。南条なんて知らない、と俺は言ったが(実際、俺は自分が殴った相手が誰なのか知らなかった)、目撃証言が複数あり、凶器に指紋が付着しており、言い逃れはできなかった。ついてない、と俺は思った。あれくらい殴っただけで、重体になるなんて、南条の身体が弱いせいだ、と南条を恨みさえした。

 少年院を出てから、田代に連れられて、南条の家に謝罪に行った。道中、田代は無言だったが、もとより二人の間に会話などほとんどなかったので、気にはならなかった。田代が何を思っているのかは分からなかったが、路上のごみを見るような眼で時折俺のことを見ているので、今まで以上に俺のことを憎んでいることは理解できた。

 南条の家は、川沿いの古びたアパートの二階にあった。夕方だったが、南条の母親はこれから仕事とのことで、派手な化粧をしていた。俺たちの謝罪を聞いても、南条の母親は、聞いているのか、いないのか、よく分からないような顔をしていた。金の話になると、目の色が変わり、生き生きとしゃべり出したのには驚いた。大人同士が、金の話をしている間、俺は隣室にある南条の部屋を覗き見ていた。南条は、死んだように眠っていた。かすかに胸が上下しているので、まだ生きてはいるようだった。特攻隊長も、こうなっては何もできないな、と俺は他人事のように思った。本棚には、ワンピースや寄生獣の漫画が並んでいた。寄生獣、と俺は思った。俺も好きな漫画だった。部屋の隅には、スイッチのゲーム機があり、スマッシュブラザーズなどのソフトが置かれていた。こいつは、俺と同い年の、ただの高校生だったんだな、と俺は思った。

 帰り道、田代は、「南条家への慰謝料は、一旦、たてかえておいてやるが、高校を出たら働いて全額返せ」と俺の顔を見ずに吐き捨てるようにして言った。もとよりそのつもりだった。

 対立するチームの特攻隊長を潰した上に、少年院上がりということで、何やら箔がつき、チーム内での俺の評価は高まっていた。ただ、以前ほど、喧嘩に熱くなれない自分がそこにいた。原因は、分かっていた。南条だ。古びたアパートの、西日が差す、かび臭い部屋の、時が止まったかのような静かな空間、散らかったままの漫画やゲーム、南条の穏やかな寝顔などが頭の中をちらつくのだ。もう、以前のように、考えなしにバットを振れなくなっていた。俺は、チームを抜けた。掟として、半殺しの目に遭った。名を上げてちやほやされていた俺のことをやっかむ連中がやり過ぎたおかげで全治3か月の重傷を負い、しばらく入院する羽目にもなったが、ただのやる気のない高校生に戻ることができた。

 チームを抜けると、特にやることもなくなってしまった。学校に行っても、チームの仲間とはもうつるめない。まわりも少年院上がりということで、腫れ物扱いだ。完全に浮いていた。学校からは足が遠のき、かといって行く当てもなく、昼間から街をぶらついていても退屈なばかりだった。そんなとき、ふと、南条の家に行ってみようと思い立った。なぜそう思ったのかは分からない。歓迎されるわけもない。ただ、南条に会いたい。俺にはそうする必要がある。なぜかそう感じたのだった。

 南条の家に行くと、見知らぬ少女が出てきた。南条の妹で、母親は仕事に出かけて留守だと言う。中学生くらいだろうか、短髪でボーイッシュな印象だった。俺が名乗ると、「ああ、あなたがあの」とだけ妹は言って、中に通してくれた。南条は、以前と同じように、時間が止まったかのような世界の中に一人いた。

「話しかけてあげてよ」

 と妹は言った。

「医者の話だと、意識はあるんだって。寝ているように見えるけど、音は聞こえてるんじゃないかな。よく、お兄が好きだった、ヒゲダンの曲をかけたりとかもしてるんだ」

「お前、俺のことが憎くないのか」

 と俺は言った。

「あずさ」

 妹はスマホをいじりながら、こちらを見ずにそう言った。「わたしの名前。お前じゃなくて、あずさ」

「……あずさ」

 と俺は呟いた。あずさのスマホから、ヒゲダンの曲が流れ出した。南条の様子に特に変化はない。

「憎いとか、よく分からないんだよね」

 とあずさは言った。「たとえば、戦争でさ、お兄が死んだとするじゃん」

 あずさは南条のベッドに腰かけてこちらを見た。

「んで、アメリカの、ジョンという兵士が撃ち殺したと聞かされたとしてさ。そいつが目の前に差し出されたとして。この野郎、ってなるかっていうと、そうならないと思うんだよね。どっちかっていうと、はあ、って感じ。だから何? あんた誰?って感じ。ぼくが撃ったんです、すみません、と言われたとしても、ぴんと来ない。お前に用はないんだよ、的な。そうじゃないんだよ、みたいな。うーん、伝わらないかな。広島に原爆を落としたのが、」

 あずさはスマホで何やら調べていた。

「ポール・ティベッツ大佐だって話だけど、日本人はポール憎し、ってわけじゃないでしょ。ポールが落としたことは調べればすぐ分かるけど、誰もポールのことは知らない。誰それっって感じ。問題は、そこじゃないのよ。それとおんなじ」

「でも、南条をこんな身体にしたのは、俺だ」

 と俺は言った。

「確かにね。そりゃ、そうだわ」

 つまらなそうにあずさは言った。「なんか、腹減ったな」と呟くと、「いいこと、思いついた。ねえ、ちょっとアイス買ってきてよ。あ、もちろん、おごりね」

「なんで、俺が」

「贖罪なんでしょ、ここに来たのって」

「しょくざい? 食べ物のことか」

「そうじゃなくて。ばかなの? あ、お兄と同じ、ヤンキーだもんね。仕方ないか。罪をあがなうこと。罪ほろぼしってこと」

「ああ、そうか。いや、そうなのか?」

「わたしに聞かないでよ。ここに来たってことは、そういうことでしょ。わたしは、いろんなことをあなたにしてもらいたい。あなたは、お兄をこんな身体にしたことを申し訳なく思っていて、南条家のために何かしたい。ほら、お互い、利害が一致するじゃない」

「俺は、別に、」

「雪見大福2個とガリガリくん3本」

 とあずさは言った。「これは、あなたのためにやってあげてるのよ。分かる? 南条家のためにやってると思えば、あなたの気も軽くなるでしょ。ほら、分かったら、さっさとダッシュ!」

 あずさは玄関を勢いよく指さした。俺は、何か釈然としない気持ちのまま、のろのろと玄関に向かった。「コーラ味!」と後ろから声がかかる。「ガリガリくんはコー、」最後まで聞かずにドアを閉めた。

 それから、あずさと俺の奇妙な関係が始まった。あずさは、退屈なとき、何か欲しいものがあるとき、足が欲しいとき(そのためにバイクの免許を取らされた)、遠慮なく俺を呼び出した。あずさの完全なしもべと化した俺のことを、時折出くわすあずさの母親は、何かおかしなものでも見るのような眼で見ていたが、特に何も言わなかった。

 あずさが中学生の間はまだよかった。アイスを買ってこいだのなんだの、かわいらしいものだった。それが、高校生となり、成人となるに連れて、要求は徐々にエスカレートしていった。

「瞬、二百万、用立ててくれない」

 喫茶店で、小遣いをねだるようにあずさがそう言ったとき、いつもと違う感じがした。軽い感じを装っているようで、どこか切迫した雰囲気がしたのだ。長い付き合いとなっていたので、それくらいは分かるようになっていた。

 問い質してみると、行きつけのホストクラブで「推し」のホストができ、誕生日だ月間ナンバーワンだ、イベントだとなんだかんだと応援のためにつぎ込んでいたら、借金がそこまでふくれ上がってしまっていたという。水商売をして返済するよう求められているらしい。あずさは美容院の見習いにすぎず、薄給で、到底払える額ではなかった。実家は、いまだホステスの母と寝たきりの南条の三人暮らしで余裕はない。俺がなんとかするしかない、と思った。寝たきりの南条に対しては、俺は何をすることもできない。代わりに、あずさに尽くすことで、救われてきた。いつしかそれが、俺の生きがいとなり、心の支えとなっていた。家族の中では居場所がなく、自分の存在意義を見失いかけていた俺が、唯一、あずさの力となることで、自分も他人から必要とされる存在なのだと思うことができた。それが俺の支えとなり、道しるべとなった。今更、あずさを見捨てることなど、俺にはできなかった。それは、俺自身を失うことでもあったからだ。

 自動車整備工場の派遣社員だった俺は、会社を辞め、あずさが通い詰めていたホストクラブのドアを叩いた。手っ取り早く金を稼ぎたいと思ったのと、あずさを虜にしたホストを間近で見てやろうと思ったからだ。美形の母親譲りの顔は、ホストとしても通用するだろうという目算もあった。無事採用されると、しばらくは先輩ホストのヘルプにつくなどして仕事を学んだ。新人は盛り上げ要員、飲み要員で、酒が強いことが絶対条件で、タフであることが何よりもまず求められた。安アパートの相部屋に詰め込まれた同僚に話を聞いてみると、目当てのホスト、玲二は店の売り上げナンバー2で、やや年はいっているが、女に借金を背負わせてソープに沈めるのが得意だとの噂だった。

 玲二との距離を詰めたいと思って機会を探っていたときに、ちょうどヘルプに入ることができた。会社の同僚だという、俺と同い年くらいの四人組を、三枚目で芸人のような盛り上げ上手の先輩(意外と人気がある)と二人で、今日何度目かの一気をして盛り上げ、トイレで吐き、また盛り上げ、勢いで乗り切った後、客がいない凪のような時間に、玲二と話せる機会が訪れた。

「お前、年少上がりなんだって?」 

 と玲二が言った。浅黒い肌に精悍な顔つき。接客のときは笑顔だが、眼の奥が笑っていないのがどこか不気味な男だった。そうだと答えると、

「俺もなんだよ。クスリでさ、みんなには言ってないけどな」

 煙草を出したので、すかさずジッポーを差し出す。玲二はまずそうに煙草を吸って、ゆっくりと煙を吐いた。

「さっきのはだめだな。社会科見学だ。この商売、いかに太客を捕まえるかだ」

 目を閉じて、眉間の間をもんでいる。もうじき閉店の時間だ。テンションを上げ続けて突っ走ってきても、疲労がどっと押し寄せてくる時間だ。玲二は大きな欠伸をした。

「飛鳥さんみたいな、ですか」

 飛鳥は、よく玲二が同伴している、露出度の高めな美女だった。

「飛鳥? あんなのは、太客とは言わねえよ。よく来るけどな、金はない。もちろん、それでも大事なお客様だ。常連は大事にしないとな」

「南条あずさって、知っていますか」

 と俺は言った。

 玲二の眼が鋭くなる。

「南条あずさ?」

 眼を細めて俺を見る。猛禽類の眼だ。「そいつがどうかしたか?」

「俺の、知り合いの、妹なんです」

 と俺は言った。嘘をつくべきかと迷ったが、見透かされそうな気がして、正直に言うことにした。

「へえ」

 と玲二は言った。表情から色が抜け落ち、無表情となる。「それで」

「玲二さんに、借金があるとか」

 思わず声が小さくなる。玲二は黙って、紫煙をくゆらせている。

「惚れてんのか」

「……いや、それは自分でもよく分かりません」

「で、お前は、どうしたいのよ」

「あずさを、ソープに沈めるのは、勘弁してもらえませんか」

 玲二に頭を下げる。玲二は黙って見下ろしている。

「はい、分かりました、借金もチャラにしますって、なると思うか?」

 と玲二は言った。

「ま、ならねえよな。ならねえよ。道理が通らないもんな。それくらいは、分かるよな」

 玲二は腕を組んで考えていたが、右手をパーにして突き出した。

「五本だ。それで、南条は解放してやる」

 と玲二は言った。

「五百万ですか」

 聞くと、玲二は頷いた。「これからあいつが俺に貢ぐ金のことを考えたら、破格だぜ。かわいい後輩のための、特別プライスだ。本来なら、一本、一千万ってところだが、それで勘弁してやる」

 玲二は酷薄な笑みを浮かべてそう言うのだった。

そうして俺は、五百万の借金を背負ったホストとして生きていくこととなった。



 あずさには、借金を何とかしてやる代わりに、玲二と関わることをやめさせた。あずさの借金以上の借金を背負うこととなったことは、伏せておいた。話し合って、チャラにしてもらった、と話したら、あずさは疑わしそうな顔をしていたが、何も言わなかった。

 拉致監禁事件に巻き込まれたのは、あずさと街に買い物に出かけていた時だった。

 その辺りの記憶はあいまいだった。気がつくと、見知らぬ白い部屋に閉じ込められていた。

 虎の被り物をしたナビゲーターの説明を受けて、自分たちが置かれた状況を理解した。

 俺とあずさの他にも、三人いた。見たこともない他人だった。

 俺たちは、チームワークも悪く、ゲームはことごとく失敗し、早々にゲームオーバーとなった。

 大広間の画面に表示された、ゲームオーバーの赤い文字に絶望している俺たちのもとにやってきたのは、ゲーム中も同行していた「鈴木」だった。

 鈴木は、各自のこれからの処遇について説明をした。

 俺は、次のゲームに参加すること。

 あずさは、ナビゲーター「虎」の代わりに、ナビゲーター「ウサギ」となること。

 他の三人は、裏方として料理人、参加者をゲームから離脱させる狼役の執行人などに割り振られた。

 俺は、次のゲームに参加して、クリアすれば解放、あずさは、次のゲーム参加者が失敗すれば解放、という条件が付けられた。参加している他のメンバーには、自分たちが前回の参加者であることを明かさないこと、明かした場合には、解放されないことが言い渡された。

 俺は、あずさを解放するために、次のゲームに参加をして、失敗させることに決めた。

 だが、俺は、そのことにすら失敗をした。

 投票の結果により、ゲームから離脱せざるを得なくなった。

 まだ、あずさが助かる可能性はある。

 俺にできることは、彼らがゲームに失敗することを祈ることだけだ。



 風間が連れて行かれて、メンバーは四人となった。

 投票で東城に入れたのは、わたしだった。あと一票で風間と並んだのに、惜しいところだった。それでも、東城の蒼白となった顔を見ることができて、良かった。いい気味だと思った。

 初対面から、虫が好かない女だと思った。美人だというだけで、そもそも気に入らない。自信家で、常に自分が正しいと思っているように見える上に、警察官だという。まさに正義の塊。善人の権化。わたしが一番苦手とするタイプだ。

 女は、男よりも生きづらい。

 先天的に与えられたものに、女の方が人生を大きく左右される。

 それは、美醜だ。

 女は、醜く産まれると、損をする。というより、人権がない。

 小さかったころ、アイドルに憧れた。

 テレビのアニメに出てくるアイドルたちは、みな、かわいい顔をしていた。ステージ上で、歌って、踊って、楽しそうだった。人生を謳歌していた。自分もそうなるのだと、信じて、疑わなかった。プリンセスのように、かっこいい王子様と恋をして、結婚をするのだと思っていた。

 小学生くらいになると、徐々に、現実が分かってくる。

 自分の顔が、アイドルとは違う、ということに気がつく。自分は永遠に、アイドルにはなれないのだという事実に、気付いてしまう。小さい眼。腫れぼったい唇。豚のような鼻。パーツのひとつひとつが、気になって仕方がなくなる。この不良品は、返品ができない。神様が一度決めた造作は決定事項だ。どんなに不満があっても覆らない。アイドルのような見た目の子を見ると、殺意に似た憎悪を抱く。不公平にもほどがある。なんの悪戯で、こんなバランスの悪い顔になったのか。神様が「型」の粘土をこねているとき、よそ見でもして、手が滑ったのではないか。意図的につくったのだとすれば、神様は悪意の塊だ。わたしが何か、悪いことでもしたのか。前世の罪? そんな馬鹿な話があってたまるか。両親の、だめなパーツを寄せ集めた自分の顔。遺伝を恨む。両親を恨む。鏡ばかり見て気に病むわたしに、母は言った。「人は見た目じゃない。心をきれいにしなさい」と。正気かと思った。思わず二度見してしまった。ばかなのか、この人は。自分だってブスのくせによくもそんな。いや、ブスだからこそ、そう信じているのか。そんな戯言、今時小学生だって信じない。「人間は平等だ」と同じくらいの嘘っぱちだ。そもそも、「人は見た目じゃない」と言ってよいのは、美男美女だけだ。「人は学歴じゃない」と言ってよいのは一流大学を出た者だけだ。そうでない者が言うのは、ただの負け惜しみにしか聞こえない。

 思春期になると、女子の話題の中心は、恋愛話となる。わたしもご多分に漏れず、その手の話が好きだった。そうしたとき、必ず、「あなたは誰が好き?」という話になる。当然だ。お互い、相手が熱っぽく語るのを、さも興味があるような顔をして聞く。自分の話を聞いてもらうためだ。さて、自分の番となったとき、まわりの興ざめしたような顔が眼に入る。そうして、気がつくのだ。「お前は、よくその面で、クラスの人気者の男子を好きだと言えるな」という心の声が聞こえてくる。頑張ってね、の声の裏に、絶対無理、との失笑が見え隠れする。誰も、クラスの隅にいる、太って眼鏡をかけた、冴えない、ゲームばかりしているオタクの男子がお似合いだ、とは、思っていても言わない。でも、運の悪いことに、陰口でそう言われているのを聞いてしまった。以来わたしは、恋愛話をすることをやめた。

 恋をしたことはある。が、告白したことはない。一度、小学生の頃、クラスの男子と噂になったことがある。友達が、わたしが好きだということをばらしたのだ。それは、まあいい。悪意があって、というより、単に面白い話題で、ついしゃべってしまったのだろうと思われたからだ。口が軽い彼女に、うかつにしゃべった自分が悪い。だから、そこは問題ではない。

 その男子は、みんなにからかわれながら、心底、迷惑そうな顔をしていた。スポーツマンで、勉強もできて、話も面白く、人気者の彼だった。誰にでもやさしかった。わたしにだって。だから、好きになったのだ。ひょっとしたら、これは気持ちを伝えるチャンスかもしれないと密かに思っていたわたしの淡い期待は、木っ端みじんに打ち砕かれた。その時、わたしの心の中の、何かが、壊れたのだ。取り返しがつかないほどに。

 わたしは、人を好きになってはいけない。誰かに愛されることはない。愛さなければ、傷つくことはない。誰も、愛さなければよい。そうすれば、誰も自分を傷つけない。

 テレビや雑誌を見ていると、世の中は美男美女であふれているような錯覚に陥る。不細工たちは、いったい、どこに行ってしまったのか。テレビドラマや映画のヒロインは、必ず美女だ。黒人だって起用する世の中になったというのに、いまだにブスを主役に据える勇気は、さすがのハリウッドにもないらしい。ブスの出番は、芸人や主役に華を添える脇役と決まっている。お天気お姉さんや女子アナ、女優にブスは見当たらない。

 美醜は就職にだって影響する。美男美女は優秀に見える心理的効果があるらしい。もてるだけでなく、実際以上に賢くも見えるとは! つまり逆も言えるわけで、不細工は、実際以上に無能に見える、ということだ。顔ガチャの失敗による、人生における損失は計り知れない。

 黒田と出会ったのは、高校を卒業して、地元の食品加工工場で働いていたときのことだった。仕事の帰り道、橋の欄干から、川を見ていたときだった。仕事で失敗をして、落ち込んでいた。ぼんやりと、街が暮れていくのをなんとなく眺めていたとき、携帯のストラップが滑り落ち、思わず身を乗り出したところ、横から腕をつかまれたのだ。

「おいおい、死ぬ気か。気をつけろよ」

 と黒田は言った。

「ひとつ言っておくが、ここから落ちても死ねないぜ。ここは、浅いからな」

 自殺しようとしていたと思われたらしかった。「とりあえず、飯でも食いに行こう」

 ナンパだとは思わなかった。自分がそうした対象になるとは思っていない。ただのお人好しなのか、何か狙いがあるのかは分からなかったが、わたしは黙ってついて行くことにした。毎日が家と工場の往復で、無味乾燥の灰色の毎日の繰り返しで、少しは生活に色をつけたかったのかもしれない。たとえそれが、どんな色であったとしても。

 近所のラーメン屋で、食事をした。黒田は、一人でよくしゃべった。年齢は、四十代くらいと思われた。長めの髪には、白いものがところどころ混じっていた。

 黒田は、わたしのことについて特に何も聞かなかった。自殺志願者と勘違いしているわりに、説教くさいことも言わなかった。ただ、最後に、ひまがあったら、仕事を頼まれてくれ、とだけ言われた。携帯の番号を交換して、その日は別れた。

 黒田からの連絡は、しばらくなかった。判で押したような単調な毎日がくり返され、黒田のことも忘れかけていた頃、見知らぬ番号から着信があった。黒田だった。

 荷物を受け取りに行ってくれないか、と黒田は言った。自分は忙しくて、取りに行くことができない。お前が代りに行くことは伝えてある。報酬は弾むから頼む、と言って慌ただしく電話は切れた。

 伝えられた家まで行き、黒田の代りに荷物の受け取りに来た、と伝えると、慌てた様子の老婆から、紙袋を押しつけられた。早く早く、と何やら急かされて、玄関から追い立てられる。黒田に指定された人気のない公園に行くと、そこには黒田がいた。

「忙しくて、自分じゃ取りに行けないんじゃなかったの」

ベンチに腰かけている黒田の隣に座りながら、わたしは言った。「あれは誰? あなたのお母さん? 表札は黒田じゃなかったけど」

 黒田は黙ったまま、袋の中身を取り出した。札束がごろりと五つ、転がり出て来た。ひゅう、と黒田は口笛を吹いた。

「さてね、誰なんだろうな。田島とか言ったかな。俺もよく知らないんだ」

 と黒田は言った。

「なんで、知らない人がこんな大金を払うの」

 黒田は札束を無造作に鞄に突っ込んだ。

「それは、息子が会社の金を横領して、ピンチだと思ったからさ」

「まさか」

 とわたしは言った。心臓が跳ね上がる。振り込め詐欺ではないか。

「そう、そのまさかだよ。ばあさんは、騙されたのさ。俺たちにね」

 黒田は汚い歯を見せて笑った。

「わたしは、知らなかった。知らずに、受け取っただけよ」

 思わず、その場から後ずさりする。

「ほら、分け前だ」

 黒田が札束を無造作に放り投げて来る。思わず、受け取ってしまった。ずしりと重い。

「今、工場のアルバイトだったよな。こんな大金、見たこともないだろ。百万ある。バイトじゃ半年働かなきゃ稼げないぜ。ほんと、嫌になるよな。こんなに、一瞬で楽に稼げることを知ったら、まともに働くのなんて、ばからしくてやってられないよな」

 札束の重さを、手のひらに感じる。確かに、封をされた札束など、見るのは初めてだった。半年。半年分の稼ぎがここに。

「女の働き手は貴重なんだ。男よりも打率がいいからな。ちょうど、人手不足で困っていたところだ。お前は見所がある」

 黒田は立ち上がると、歩き出した。思わず後をついていく。「どこへ行くの」

「ついてくれば分かる」

 と黒田は言った。歩いて三十分ほどの場所にある、とある雑居ビルに黒田は入っていった。エレベーターの三階で下り、表札のない扉を開けると、そこには机と椅子が整然と並び、男たちが電話をかけていた。壁には、営業成績のランキングが貼り出され、一見すると、どこかの企業のオフィスのようだが、男たちの服装がラフなのでそうではないと分かる。

「ここで、営業の電話をかける」

 と黑田は言った。部屋の一番奥にあるデスクまで行き、そこにある椅子に腰をおろした。男たちは、通りすぎる黒田に目礼をしながらも、電話をかけ続けている。机の配置や、まわりの男たちの態度から、黒田がここのボスだと分かる。

「出勤は午前九時、退勤は午後五時だ。昼休みは十二時から一時間。このご時世だからな、フレックスを使ってもいい。タイムカードは、そこ。給与は固定給プラス歩合制だ。ま、細かい話は、そこにいるミサにあとで聞いてくれ」

 見ると、紅一点、茶髪で垂れ目の若い女がそこにいた。「やっほー」と言いながら、片手を挙げて手をふってきたので、慌てて頭を下げる。

「あの、わたしまだ、」

「はい、みんな注目!」

 と黒田は言った。電話をかけている者もいるので、声は控えめだった。

「今日から入社することになった、……ええと、名前は」

「宮間のり子です」

「そう、宮間さんだ。席は、そこ。みんな、いろいろ教えてやってくれ。仕事のやり方は、隣の席の飯田、頼んだぞ。はい、のりちゃん、一言、ご挨拶」

 全員の視線が自分に集まる。ここで働く気なんてない、なんてとても言い出せる雰囲気ではない。

「……よろしく、お願いします」

 消え入りそうな声で、そう言うのがやっとだった。

「はい、みんな、今日からよろしく! 以上だ。じゃ、仕事に戻ってくれ」

 男たちは、また電話をかけ始めた。緊張からか、どっと疲れが出る。黒田は、にやにやと笑いながら、「夜は歓迎会だからな」と言うのだった。

 次の日から、わたしは黒田の「会社」に出勤するようになった。

 就業時間中は、みんな、真面目に「営業」をかけていた。私語もほとんどせず、熱心にひたすら電話をかけ続ける。ほとんどが空振りで、丸一日かけ続けて成果なし、ということもざらだった。まれに「当たり」が出ると、歓声が上がった。すかさず黒田がどこかに電話をし、受け子の手配をする。受け渡しで失敗することもあれば、受け子が金を持ち逃げすることもあるので、最後まで油断はできない。

 わたしの世話係は、隣席の飯田リョウジという青年だった。リョウジはまだ二十歳で、北海道出身、新宿でぶらぶらしているところを黒田に拾われたという話だった。

 リョウジの営業成績は芳しくなく、壁に貼ってあるランキングでも下位を低迷していた。複数ある営業マニュアルをいろいろと試しているようだが、一向に成果は出ていないようだった。日がな一日、電話をかけ続け、ろくに話も聞いてもらえずに切られつづけ、罵倒され、警察に通報すると脅され、憎しみのこもった声を聞いていると、泣きたいような気持ちになってくる。隣席のリョウジと愚痴り合いながら、気持ちを立て直し、昼にはリョウジの行きつけのB級グルメとして有名なカレー屋に二人で行き、カレーをかっ込み、金を貯めて何かでかいことをしたい、というリョウジの壮大で中身のない夢を聞いていると、何か救われたような気になるのだった。

 わたしが初めて「契約」をとったとき、リョウジは自分のことのように喜んでくれた。眼に涙を浮かべてさえいた。黒田もよくやった、とわたしの頭をくしゃくしゃにして褒めてくれた。その日は、初契約祝いだと、リョウジとべろべろになるまで酔っ払った。帰り道、なぜか二人で土手を歩き、転げ落ち、げらげらと笑いながら天を仰ぐと、満点の星があった。幸せだ、とわたしは思った。黒田は、年寄りが溜め込んだ金を俺たちが使うことで、経済をまわしてる、俺たちは正義だ、などとのたまっていたが、わたしには分かっていた、自分たちがしていることは「仕事」ではなく「犯罪」で、「営業」ではなく「詐欺」だということを。わたしたちは確実に誰かを不幸にしており、手にした金は汚れた金で、だからこそ長く持っていることができず、腐らないようにすぐに使ってしまうから、何も残らないということを。

それでもわたしは幸せだった。そこにはわたしのことを認めてくれる仲間がいて、確固たる自分の居場所があった。

 リョウジがいなくなった、と黒田から聞かされたとき、黒田の顔は蒼白だった。その日の営業は終了し、みんなが帰ったあと、黒田に話があると言って切り出されたのが、リョウジの話だった。金庫の金もなくなっている、と黒田は言った。リョウジに話を聞きたいが、連絡が取れない、もし連絡があったら、教えてほしい、と黒田は言った。

 まさかあのリョウジが、という思いの一方で、何かでかいことをやる、と言っていたリョウジの無邪気な顔が思い出され、もしからしたら、と思わないでもなかった。

 その夜、リョウジから連絡があった。

 やばいことになった、とリョウジは言った。家を見張られていて、帰れない、とも。

 どこにいるのかと聞くと、渋谷、と答えたので、わたしは渋谷に向かった。

 待ち合わせた場所に向かうと、リョウジがいた。

 リョウジは、わたしの後ろを見て、大きく目を見開くと、背中を見せて走り出した。

 後ろを振り向くと、そこには黒田がいた。あと一人、鋭い目をした女。そうだ、思い出した。なぜ忘れていたのだろう。あれは、東城ではなかったか。わたしのことをまっすぐに見ていた。

 黒田がリョウジを追いかけるのを見て、わたしも反射的にリョウジを追いかけた。

 なぜ、黒田がここに。わたしをつけていたのか。怒りで身体が熱くなる。

 わたしは走った。黒田と、東城が追ってくる。

全力で走った。

 壁にぶつかった。と思ったら、大柄なサラリーマン。そうだ、堂島だ。わたしはその時、堂島にぶつかったのだ。

 わたしはさらに、走ろうとした。

 足がもつれ、バランスを崩し、倒れそうになる。

そのとき。

 巨大な闇に視界が遮られる。

 トラックだ。

 歩道に、トラックが突っ込んでくる。

 運転席に、男。

 そうだ、思い出した。

 山田だ。

山田が、トラックを運転していた。

 ぶつかる、と思う間もなく、激しい衝撃が全身を貫き、わたしの意識はそこで途切れたのだ。



「思い出した」 

 とわたしは言った。大広間の、朝食の場で。

 風間が連れて行かれた翌日の、どこか沈鬱な雰囲気の中、黙々と食事をしているとき、唐突に、わたしはそう言った。全員の視線がわたしに集まる。

「何を、思い出したの」

 わたしが何も言わないので、東城がじれたように催促する。

 言うべきか。言わないべきか。

 言うとしたら、どこまで言うか。

 一瞬、迷ったが、言うことにした。一人で抱えていられるほど、わたしは強くない。

「わたしたち、もう死んでる」

 とわたしはひと息に言った。

 みんな、ぽかんとした顔をして、わたしを見ている。

 それは、そうだろう。

 わたしだって、自分が何を言っているのか、分からない。

「いやいや、生きてるだろ。何言ってんだよ。だいじょうぶか?」

 堂島が呆れたような顔で言った。

「ぼくらが死んでるなんて、あり得ないですよ。確かに、夢みたいな話で、現実感がない場所に放り込まれているけれど、五感だってある。食べ物だって、ほら、食べることができる」

 山田が朝食のパンをかじってみせた。

「なんで、死んでるって思うの」

 東城が真顔で聞いてくる。

「だって、」

 とわたしは言った。その後が続かない。

「わたしたちには、拉致される前の記憶の欠損がある。あなたが思い出したっていうのは、ここに来る直前の記憶なんじゃないの」

 東城の眼が鋭くなる。相変わらず、勘のいい女だ。東城に対する反発心が、押し込めていた言葉を外に押し出す。

「そうよ、その通り。わたしは、思い出したのよ、ここに来る前のことを」

 とわたしは言った。

 全員の注目が集まる。

「はい、そこまで」

 スピーカーから、女の声が響き渡る。

 大型モニターの画面が映し出される。

 ウサギだ。

「宮間さん、それ以上言ったら、失格だから」

 大声を出したせいで、スピーカーの音がひび割れる。

「失格って、どういうこと」

 東城が聞く。

「瞬と同じ。強制退場ってこと。またムキムキの狼男が来るよ」 

 ウサギの言葉遣いが変わっている。台本の棒読みは、もうやめたらしい。こっちが本性なのだろう。思っていたよりも、若そうだ。

「ええい、暑苦しい」

 そう言うと、ウサギは頭の被り物を脱ぎ捨てた。ショートヘアの若い女が現れた。

「わたしはあずさ。瞬の友達。あなたたちがゲームをクリアすれば、同じチームだった瞬も助かるかもしれない。だから、協力して」

「風間とあなたは、運営側の人間じゃないの」

 東城が画面に向かって訪ねる。

「質問はなし。わたしは言われたことをやるだけ。はい、次のお題。クリアする人間を、一人選べ。以上」

「どういうこと?」

 とわたしは言った。

「質問はなしって言ったでしょ。簡単そうな問題だから、いけるでしょ。じゃ、がんばって」

 あずさがそう言うと同時に、画面がぷつりと切れた。

「選ばれた一人しか、助からないってことか?」

 堂島がつぶやく。

「その一人は、どうやって選ぶのかしら。また、投票?」

 とわたし。

「いえ、その必要はありません」

 鈴木が、テーブルの端に立っていた。いつもこの人は突然現れる。

「みなさんの合意で、一人を選び、わたしに伝えてくださればそれでけっこうです」

「期限は?」

 と東城。

「本日の十九時までです」

「みんなが合意できなかったら?」

 東城が矢継ぎ早に質問をする。

「ゲームオーバーです」

「罰ゲームが待ってる、だったっけ」

「左様でございます」

「選ばれなかった、他の人はどうなるの」

「それもまた、罰ゲームかと」

「つまり、これは最終ゲームで、一人以外、助からないってことね」

「ご賢察のとおりでございます」

「そんな……」 

 思わず声がもれる。みな、押し黙ってしまった。

「ねえ、ちょっと」

 スピーカーから声がする。

 大画面に、あずさの姿が映し出される。

「話が違うじゃない。このグループがクリアすれば、瞬くんは、助けてくれるんじゃなかったの。どういうこと、」

 画面が突然ぶつりと切れる。鈴木さんが、リモコンで消したようだった。何事もなかったかのように、

「他にご質問は?」

 と鈴木は言った。

 ああ、こいつだったんだ、とわたしは直感した。黒幕は、こんなにも身近にいたのだ。

「ないようでしたら、わたしは一旦、ここで失礼させていただきます。また、回答期限の十九時になったら参ります」

 鈴木は部屋を出て行った。

「さて、どうするか」

 堂島が両手を頭の後ろに組んで、誰に言うともなく言った。

 風間がいなくなり、残るは四人。

罰ゲームが死を意味しているのだとしたら、生き残る確率、二十五パーセント。天気予報なら、ほぼ降らない確率だ。

 いや、そもそも、今、わたしは生きているのか。

 心臓に手を当てる。鼓動は、確かに聞こえる。体感としては、生きている。

 だがしかし、わたしは山田のトラックに轢かれたはずだ。

 確かにその記憶はある。あの激しい衝撃を思い出すと、動悸がするくらいだ。夢ではない。あれは、確かに実際に起きたことだ。

 今、わたしの身体には、傷ひとつない。

やはり、おかしい。

 わたしだけじゃない。あの場にいて、事故に巻き込まれたはずの東城、堂島も全くの無傷だ。

 第一、渋谷のど真ん中で、あれだけの大惨事が起きたというのに、被害者と加害者が、こうして一緒に監禁されているというのも、どう考えても不自然だ。そんなこと、できるはずがない。少なくとも、山田は逮捕されているはずだ。怪我をしていたとしても、警察病院にでもいて、隔離されているはずだ。

 だとすれば。

 わたしたちは、あの事故で死んでいて。

 ここは死後の世界で。

 魂だけ、集められて、ゲームと称した神様の遊戯に付き合わされている?

 そんな馬鹿な。夢じゃないのか。

 荒唐無稽にすぎる。常識的に考えて、あり得ない。

 じゃあ、あの大惨事から今の状況へのつながりを、どう説明する?……

 考えは、一向にまとまらず、堂々巡りをするばかりだ。

 誰かに相談したい。が、それはできない。失格となるだけだ。

 なぜ、失格となるのだろう。

 それは、ゲームに影響するから……?

「合意なんて、できるわけないよな」

 堂島が呟く。

「みんな、自分が助かりたいっていうのは、一緒だろう。俺は、助かりたい。こんなところで死にたくはない。俺がクリアする一人になることに、同意する奴、いたら手を挙げてくれ」

 堂島が手を挙げた。他には誰も、手を挙げなかった。

 予想していた展開だったのだろう、堂島はつまらなそうに鼻を鳴らしただけだった。

「最後まで、抵抗するっていう手もあるんじゃないかな」

 山田が言った。「このまま同意できなければ、ゲームオーバーとなって、誰も生きて帰れない」

「おいおい、物騒だな。罰ゲームが死刑と決まったわけじゃないだろう」

 堂島の顔がひきつっている。

「生きて帰れるとも決まっていない。犯人たちにとっては、生きて返した方がリスクが高い。殺して、その辺の山に埋めてしまった方が捕まるリスクは低い。罰ゲームの内容はともかく、ぼくが言いたいのは、このままじゃゲームオーバーになるのを待つばかりじゃないかってことだ。それなら、助けを求めるとか、犯人を制圧するとか、ゲーム以外で生き残る方法を探る方が賢明なんじゃないかな」

 あの時、山田は確かにトラックを運転していた。居眠り運転でも、脇見運転でもない。ブレーキが効かなかった? いや、まっすぐに、冷静にこちらを見ていた。あれは、意図的に起こした事故だ。だとすれば、なぜこいつはそんなことをしたのだろう。

「確かに、山田さんの言う通りかもね」

 と東城。

「わたしも同じことを考えていた。一人なんて、どう考えたって、選べない。敵は、狼男と鈴木さん、最低でも五人はいる。こっちに銃があるとはいえ、これは向こうが用意したもの。それ以上の武器が犯人側にはあるでしょうし、勝ち目はあまりないかもしれない。正直、ここの食事の供給を断てば、わたしたちは即刻餓死する。生殺与奪の権利を向こうが握っている状況で、どこまでやれるかは分からないけれど、座して死を待つよりは、わたしは戦って死にたい」

「勇ましいな。ここの話だって、盗聴されているに決まってる。あんまり犯人を刺激しない方がいいんじゃないか」

 堂島が周囲を気にしながらそう言った。

「犯人の目的は、わたしたちを殺すことじゃない。殺すつもりなら、とっくにやってる。彼らは、わたしたちを生かして、餌も与えている。それはなぜか。理由は、愉しみたいからよ。ゲームをさせて、反応を見て、愉しんでいる。次が最終ゲーム。終わりにしようとしている。なぜか。飽きたからよ。刺激がなくて、つまらなかったから。むしろ、抵抗されることは、望むところなんじゃない。彼らにとっては、いい刺激になる」

「刺激が強すぎて、怒らせるかもしれない」

 堂島が東城をにらみつけながら言う。

「かもしれない。でも、このままうだうだやって、合意できずにゲームオーバー、なんて退屈極まりない結果になったら、それこそわたしたちは用済みだわ。飽きられた玩具みたいに、ばらばらに分解されて、ごみの山に直行よ」

「そんなの、あんたの推測にすぎない」

 と堂島は言った。

「そうね、確かにこれは、わたしの推測にすぎない」

 と東城は言った。「でもね、わたしは、悪党どもを腐るほど見てきた。彼らが何を考えているのか、あなたたちよりもよく分かってるつもり」

 堂島は不満そうだったが、何も言わなかった。

「鈴木さんは、敵なのかな」

 と山田。

「敵でしょうね」

 と東城。「おそらくは、主犯の一人」

「でも、最初に、自分は拉致されて働かせられているだけだって、言っていたけど」

「嘘でしょう。あずさは、そうみたいだけど、鈴木は違う。あいつには、油断しない方がいい」

「ゲームをクリアしたら、願いを叶えてくれるって話だけど」

 山田が自信なさそうに言う。

「ないだろ」

 と堂島。

「それができるなら、全員を元いた場所に帰してって願うわね」

 東城が冗談まじりに言う。

「それは無理」

 とわたしは言った。「ウサギは最初に言ったのよ。クリアできたら、元いた場所に戻り、願いを叶えるって。でも、よく考えたんだけど、わたしたちは、元いた場所に戻ったら、願いを叶えることができない」

「なぜできないの?」

 と東城。

「それは、さっきも言ったけど、わたしたちが、おそらくもう死んでるからよ」

 とわたしは言った。



 子どもの頃から、なぜか勉強が得意だった。両親は高卒だったし、上の兄二人も特に勉強ができる方ではなかった。鳶が鷹を産んだと言われ、三重の片田舎で、神童と呼ばれた。父親は土建業を営み、一代で財を築いた。実家は裕福だったから、その地域では珍しく、中学から私立の進学校に通った。電車で片道一時間以上かかったが、通学は特に苦ではなかった。

 風向きが変わったのは、高校生の頃、両親が離婚したときだ。離婚の原因は、父の浮気だった。父は、浮気相手と一緒になり、三兄弟は母に引き取られた。上の兄二人は、既に成人しており、父の会社で働いていたので、離婚を機に彼らは一人暮らしを始め、ぼくと母は二人で暮らすようになった。

 専業主婦だった母は、スーパーのパートに出るようになったが、生活は楽ではなかった。父は、養育費を払わなかった。私立高校の学費は高い。すぐに支払が滞り、退学を余儀なくされた。転入した公立高校を卒業した後、大学には行かず、地元の食品工場で正社員として働きはじめた。弁護士になる夢は、縁がなかったのだと諦めた。中学からやっていたバスケットボールも、アルバイトが忙しくなり、私立高校を退学した時点でやめていた。

 東京に行くことにしたのは、母が職場で出会った男と再婚したことで家に居づらくなったことと、地元で知り合いに会いたくないからだった。噂が広まるのは早く、県内一の進学校をドロップアウトし、今では工場勤めをしていることは、地元の同級生には広く知れ渡っていた。道ばたで久しぶりに会うと、その眼には哀れみが、その唇には嘲笑が浮かんでいた。被害妄想かもしれなかったが、落ちぶれた姿を見られるのがつらく、地元の友人たちとの関係を一切断ち、誰も知らない場所で生きて行こうと決め、東京に出てきたのだった。

 折からの不況で、正社員にはなれず、アルバイトを転々とした。三十代も半ばになった頃、同年代が次々に結婚するのを見るにつけ、さすがに焦りが募り、このままではいけないと思い、転職したのが中学受験塾の講師のアルバイトだった。得意だった勉強が活かせるし、「先生」と呼ばれることも自尊心を満たした。たとえアルバイトであったとしても、敬意を払われる。飲食店のアルバイトのように、「おいバイト、早く酒持ってこい」などと酔っ払いに怒鳴られることもない。生活は相変わらず余裕がなかったが、とにかくその日その日をやり過ごすことで精一杯だった。毎月、きちんと家賃を払って住む場所を確保し、その日食べる食料を買うことができること。路頭に迷わずに済むこと。それだけだった。とにかく金がない。日々カツカツで、貯金がない。先のことを考えると不安だが、それ以上に今の暮らしを維持することに手一杯で、先々のことを心配する余裕がない。恋愛なんて、もっての他だ。一度、婚活パーティに顔を出したことがあったが、年収の欄を見て、すっと表情から色がなくなる姿を見て、男は金がないとだめだと悟った。愛があれば他には何もいらない、なんて嘘だ。十代までの話だ。大人になってからは、金がないと恋愛なんて不可能だ。

 生きることに必死で、気がついたら四十を過ぎていた。同年代は、ほとんどが結婚している。子どももいる。家だって買っている。ぼくには、何もない。恋人もいなければ、当然、子どももいない。家だってない。人生の目標もない。何もない。

 子どもの頃は、普通に生きていければいいと、思っていた。

 勉強ができて、神童と呼ばれ、弁護士になる夢を見た。

 進学校で、県内から集まった秀才たちに敗北し、真ん中より下の成績しか取れず、運動で見返してやろうとバスケットボールに精を出していた頃は、まだ良かった。このままいけば、普通に働いて、恋人ができて、結婚して、子どもが二人生まれ、家を買う。父みたいに浮気などせず、家族を大事にして良き父となる。家族四人で、幸福に暮らす。贅沢はいらない。普通の生活さえできればよい。高望みはしない。そう思っていた。

 まさか、四十を過ぎても独身で、金もなく恋人もなく、夢もなく、ひたすらに空っぽで、途方に暮れることになるとは、想像もしなかった。

 塾の子どもたちは言う。

「勉強をしないと、山田先生みたいに、薄給の塾コーにしかなれない」と。

 高校時代、ぼくよりも頭の悪かった同級生は、今、都内に弁護士事務所を開いている。

 街でばったり会ったときに言う。

「まだまだ駆け出しで、仕事を取るのにひーひー言ってるよ。いやあ、楽じゃないね。ところで君は今、何をしているの?」

 婚活パーティで、同じく四十代で、小太りの、眼の小さい女が言う。

「気を悪くしないで聞いてほしいんだけど、年収三百万以下って、正直、結婚相手として見られないと思うよ。あなたのことを思って言うんだけど、対象外っていうか」

 ぼくは、どこで間違った?

 全うに、正直に生きてきたはずなのに。

 「普通」の道を歩いていたはずなのに。

 気がつけば、荒野。

 まわりには何もない。

 街は、クリスマス前で、賑やかだ。

 みな、幸せそうだ。

 満ち足りた顔をしている。

 ぼくは、この前、いつ笑ったか、思い出せない。

 ぼくの恋人。ぼくの子ども。ぼくの家族。

 あるはずだったのに、失われてしまった。

 永遠に、失われてしまった。

 もう、取り返しがつかない。

 じきに五十になり、六十になる。

 時間は冷酷に過ぎていく。

 後悔しても、何を間違えたか分からない。

 どうしたらよかったのか、分からない。

 いったいなぜ、こうなったのか。

 ぼくが何をしたというのか。

 普通に生きてきた、だけなのに。

 もう、うんざりだ。

 何もかも。

 何もかも、終わりにしよう。

 すべて、壊して、終わりにしよう。

 これは、ぼくの復讐だ。



「わたしたちは、みんなもう、死んでいる」

 と宮間は言った。みんなの視線が宮間に集まる。

「それ以上言ったら、失格になるよ!」

 スピーカーから、声が響く。あずさの声だ。モニターは暗いままだ。

「渋谷で、わたしたちは、トラックにはねられた。山田さんが運転するトラックに」

 宮間が早口で言う。

 がちゃりとドアが開く。

 狼男たちが四人、どやどやと部屋に入ってくる。彼らに腕をつかまれながら、宮間は叫んだ。

「鈴木さんたちと戦うのはダメ。ゲームオーバーになる。元の世界に戻って、願いを叶えることができるのは、山田さんだけ。他のわたしたちは、元の世界に戻ったら、死んでしまった身体に戻るだけだから」

「その子を離しなさい! 撃つよ」

 東城が狼男たちに銃を向けて、怒鳴る。狼男たちが一斉に東城を振り返る。「わたしは、だいじょうぶ。どのみち、わたしはもう死んでるから。それより、山田さんを選んで!」

 宮間が連れて行かれ、ドアがばたん、と閉まった。嵐のような騒ぎが去ると、部屋は静寂に満たされた。

 全員の視線が、ぼくに集まる。

「渋谷で、山田さんに、トラックではねられたって言ってたわね」

 と東城。

「だとしたら、なんでわたしたちは無傷で生きているの?」

 自分の身体を確かめながら、東城はそう言った。

「俺たちは、もう死んでるんだとさ」

 堂島が言った。「そんな話、信じられるかよ」

「ええ、まったくです。宮間さんの作り話にも、困ったものです」

 振り返ると、鈴木が立っていた。本当に神出鬼没だ。

「おいおい、まだ期限の十九時にはなってないぜ」

 堂島がうろたえる。

「少し事情が変わりましてね。期限を前倒しにします。今、答えをお聞かせください」

 鈴木は表情を変えずにそう言った。

「いや、急に答えと言われても、」

 堂島が東城とぼくの顔を交互に見る。

「山田さん」

 と東城が言った。

「はい」

 とぼくは答えた。

「そうじゃなくて。選ぶのは、山田さんに決めました。全員の合意です」

 と東城は言った。

「合意なんて、していないぞ。勝手に何を言ってるんだ。残された俺たちは、罰ゲームになるんだぞ!」

 堂島が喚く。

「わたしは、宮間を信じる。あの子の言葉を聞いて、少し、思い出したのよ、わたしも。ここに来る前の記憶を。トラックが突っ込んできて、激しく衝突したときのことをね。わたしたちが死んでいて、こんな世界に連れて来ることができるのなら、願いの一つや二つ、叶えられたって、おかしくないと思わない?」

「思わない。お前ら、どうかしてるぞ。正気じゃない」

 東城は堂島を無視して、ぼくに向き直る。

「元の世界に戻ったら、わたしたちの命を助けて。それが、わたしたちを轢き殺したあなたが必ずやらなきゃいけないこと。分かった?」

 東城の剣幕に押されて、ぼくは頷いた。記憶が、戻ってきていた。

「俺は認めないぞ! 合意なんて、できるか!」

 堂島が歯をむき出して、威嚇する。

「おやおや、みなさん、同意できませんでしたか」

 鈴木さんが言った。「ま、だいたい、みなさん、そうなりますがね」

「ちょっと、待ってくれ、何をする気だ」

 堂島が鈴木のもとに駆け寄る。

 鈴木が指をぱちん、と鳴らす。

 ドアが開く。狼男たちが四人、どやどやと入ってくる。

 東城が舌打ちをする。

「堂島! 同意しろ!」

 東城が堂島に銃を向ける。

「いやだ、俺は絶対に、同意なんてしない!」

 狼男に堂島がつかまる。

「ジ・エンド。ゲームオーバー」

 鈴木が言った。堂島が引きずられていく姿を、愉しそうに眺めている。ぼくの腕にも狼男が。

 そのとき、乾いた炸裂音がした。

 うぅ、という呻き声と、どさりという何かが倒れる音。

 見ると、堂島が倒れてる。頭から流れ出す血が、絨毯に広がっていく。

 狼男たちも、狼狽し、硬直している。

「山田、同意しろ!」 

 東城が銃を構えたまま、叫ぶ。銃口から、煙が出ている。

「同意します」

 とぼくは言った。

「鈴木、今残っているのは、わたしと山田だけ。二人とも、山田が選ばれることに同意している。条件は満たしたぞ、ゲームクリアだ!」

 鈴木は、堂島に近づき、事切れているのかを確認し、ふぅ、とため息をついた。

「ま、よいでしょう。クリアされるのは、本意ではありませんが、よいものを見させてもらいました」

 鈴木はにやりと笑った。

「山田さんは帰って、願いを叶えることができますが、東城さん、あなたは罰ゲームとなるのですよ、分かっていますか?」

 東城は銃を捨てて、両手を挙げた。

「どうぞ、ご自由に」

 狼男たちに、東城が連れて行かれる。途中、振り返って言った。

「山田、約束を、果たせよ!」

 ドアがばたん、と閉まり、部屋には鈴木とぼくだけが残された。

「では、行きましょうか」

 鈴木がそう言って、杖を床に打ちつけると、周囲の景色が一変した。

 そこは、渋谷の事故現場だった。

 ぼくが、トラックを暴走させ、人々をなぎ倒し、商業ビルに突っ込み、気を失った場面だ。

 静かだった。

 何も、動くものがない。

 みんな、死んでしまったのだろうか。

「時間を止めているのですよ」

 助手席に、鈴木がいた。

「さあ、願いをどうぞ。ゲームをクリアできる者は、ほとんどいませんから、あなたは幸運です。少し時間を巻き戻して、事故がなかったことにもできます。あなたは、レンタルしたトラックを、レンタカー屋に返して、何事もなかったように、家に帰ればよい」

 そうだ。そうすれば、東城たちは助かる。ぼくも罪には問われない。それが、最善だ。……最善?

「もしくは、東城さんたち、事故で死んだ方々を生き返らせてくれ、という願いもあり、ですね。ただし、その場合、暴走事故を起こした事実は残るため、器物損壊などの罪は免れないから、やはり、時間を戻すべきかと」

「いや、時間は戻さない」

 とぼくは言った。

「では、彼らの命を助けてくれと」

「いや、それもしない」

 とぼくは言った。

「はて、それでは、どうやって、彼らを助けるというのですか」

 鈴木は興味深そうに尋ねた。

「彼らは助けない」 

 とぼくは言った。

「ほう」

 鈴木のガラス玉のような眼が鋭くなる。

「億万長者にでもなりますか。不老長寿はさすがに無理ですが、金ならお望みのままに」

 鈴木は両手から札束をどさどさと床に落とす。

「いや、金もいらない」 

 とぼくは言った。

「では、権力ですかな。それとも、女」

 王冠が頭にかぶせられ、若くきれいな女が膝の上に乗る。

「それも違う」

 言った途端に、札束も王冠も、女も消えた。

「お手上げですな。それでは、いったい、何をお望みで?」

 鈴木が両手を挙げて、降参のポーズを取る。

「世界を壊してほしい」

 とぼくは言った。「天変地異でも、戦争でも、宇宙人や魔物の襲来でも、なんでもいい。この世界を、ぶち壊してほしい」

 鈴木は、にやりと笑った。

「その言葉が、聞きたかった」

 鈴木が指をぱちん、と鳴らすと、地面が裂ける鈍い音が聞こえた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

殺し合わないデスゲーム 秋津 深 @akitsu1129

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画