第6話 夜が終わるまでのコーヒー
その夜、彼女が店の外に出ることになるとは、僕は思っていなかった。
それは約束でも、計画でもなく、ただ、店の中に流れていた時間がいつもより少しだけ緩んでいて、夜そのものが、僕たちの会話を急かさなかった、その延長線上に、自然に置かれていた出来事だった。
その日も、僕はいつもと同じようにカラオケ店に来て、いつもと同じように彼女に迎えられ、いつもと同じように一人で歌っていたのだけれど、曲と曲の合間に感じる静けさが、妙に長く、夜が終わりに向かう気配を、まだ持っていないように思えた。
会計を終えて、店を出ようとしたとき、彼女が、ほんの少しだけ声の調子を変えて言った。
「このあと……時間、大丈夫ですか」
それは業務連絡の形をしていなかったし、客に向けた言葉とも違っていて、僕は一瞬、その問いが自分に向けられたものだと理解するのに、わずかな時間を要した。
「はい。家、近いので」
そう答えると、彼女は、ほんの少しだけ安心したようにうなずいた。
「よかった」
その一言が、なぜだか胸に残った。
「休憩、入るんですけど」
彼女はそう前置きしてから、
「よかったら、近くでコーヒー、飲みませんか」
と言った。
それは、誘いというよりも、確認に近い響きを持っていて、断られる可能性を、最初から織り込んでいるような言い方だった。
「……はい」
僕の返事は、考えるよりも先に口をついて出ていて、それに自分で少し驚いた。
彼女は、奥に声をかけてから、上着を羽織り、カウンターの内側から外へ出た。
その一歩を見たとき、僕は初めて、彼女が「夜のカラオケ店で働く人」ではなく、一人の生活を持った人なのだと、はっきり意識した。
店の外は、もうすっかり夜で、茅ヶ崎の街は、駅前の明かりを離れると急に静かになる。
並んで歩き出すと、彼女の歩幅が、僕よりほんの少しだけ小さいことに気づいた。
「この辺、住んでるんですか」
彼女が聞いた。
「はい。海のほうです」
「そうなんですね」
その返事には、驚きも詮索もなく、ただ事実を受け取る落ち着きがあった。
喫茶店は、商店街から少し外れた場所にあって、看板の灯りも控えめで、夜遅くまでやっていることを知らなければ、きっと素通りしてしまうような店だった。
扉を開けると、コーヒー豆の匂いが、静かに広がった。
店内には、年配の男性が一人、カウンターに座っているだけで、僕たちは奥の席に案内された。
向かい合って座ると、今まで感じたことのない距離の近さに、少しだけ居心地の悪さを覚えたが、それは不快というより、慣れていないだけの感覚だった。
「こういう店、よく来るんですか」
僕が聞くと、
「たまに」
と、彼女は短く答えた。
「一人で、考えたいときに」
その言葉の裏に、どれくらいの時間が積み重なっているのかを、僕はまだ知らない。
コーヒーが運ばれてきて、湯気が、二人の間に薄く立ち上った。
「大学、もうすぐ卒業ですよね」
彼女がカップを見つめたまま言った。
「はい」
「不安、ありますか」
その問いは、これまでのどの会話よりも、僕の内側に近かった。
「……正直、あんまり実感がなくて」
そう答えると、彼女は小さくうなずいた。
「それ、悪くないと思います」
「え?」
「全部わかった気がするより、ずっと」
その言葉は、助言というより、経験からこぼれ落ちた感想のように聞こえた。
しばらくして、彼女が静かに言った。
「私も、昔は、ちゃんと考えてたつもりだったんです」
その「昔」が、どれくらい前のことなのか、僕にはわからない。
「思ってた未来と、今が、ぜんぜん違ってて」
彼女は、そう言って、少しだけ笑った。
その笑顔は、店で見るものよりもずっと柔らかくて、隠すものが少なかった。
僕は、その表情を見ながら、初めて、名前を聞きたいと思った。
でも、聞かなかった。
この時間は、まだ、その問いを受け止める準備ができていない気がした。
「そろそろ、戻らないと」
彼女が時計を見て言った。
「休憩、終わっちゃうので」
店を出て、また並んで歩く。
夜の空気は冷たく、遠くから、かすかに波の音が聞こえた。
「今日は、ありがとうございました」
彼女が言った。
「こちらこそ」
別れ際、彼女は一瞬、何か言いかけて、結局、何も言わなかった。
僕も同じだった。
名前を聞くことも、連絡先を聞くこともなく、ただ、それぞれの夜に戻っていく。
でも、その夜は、確実に、それまでとは違っていた。
彼女はもう、店の中だけの人ではなく、
僕もまた、ただの客ではいられなくなっていた。
家まで歩きながら、僕は、コーヒーの苦味と、彼女の声の温度を、何度も思い返していた。
夜は、まだ終わっていなかった。
けれど、何かが、静かに始まってしまった夜だった。
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