第5話 名前を聞かないままの距離

彼女の名前を、僕はまだ知らなかったのだけれど、それを奇妙だとも、不自然だとも思わないまま、いつの間にかいくつもの夜を、その事実ごと受け入れてしまっていた。

夜のカラオケ店という場所では、名前というものは驚くほど軽く扱われていて、受付に立つ人は「スタッフ」で、部屋に通される僕は「一名様」であり、それ以上でもそれ以下でもない役割だけが、淡々と交換されていく。

だから、彼女が何と呼ばれているのかを知らないまま、僕は何度も自動ドアをくぐり、同じ匂いの廊下を歩き、同じ声に迎えられていた。

九月の終わり、昼間の暑さの名残をまだ引きずりながらも、夜になると海からの風が少しずつ湿り気を失い、肌に触れるたびに、季節が確実に前へ進んでいることを思い知らせてくる頃だった。

大学では、もうほとんど授業はなく、就職先も決まっていて、単位もほぼ取り終えている僕は、茅ヶ崎のアパートと大学、そして夜の街を、理由も目的も曖昧なまま行き来していて、その自由さが、いつの間にか不安とほとんど同じ形をしていることに気づき始めていた。

夜になると、その不安は少しだけ形を変える。

カラオケ店の自動ドアが開く音、空調の効いた空気、受付カウンターの向こうに立つ、グレーのパンツスーツの人。

彼女がいる夜と、いない夜では、同じ店のはずなのに、空気の密度がまるで違って感じられ、彼女がそこにいるというだけで、僕の中の何かが、ほんの少し整うのがわかった。

それが恋なのかと問われたら、まだそうだとは言えなかったし、ただの習慣だと言い切るには、胸の奥が静かに騒ぎすぎていた。

「いらっしゃいませ」

低すぎず、高すぎず、夜の時間帯にちょうどよく溶け込む声を聞くと、理由もなく肩の力が抜けてしまう自分に、僕は何度も小さく驚いていた。

「一名様ですね」

「はい」

その二言だけで成立する関係なのに、その短いやり取りが終わるたび、僕の中には説明できない余白が生まれていた。

部屋に案内される途中、彼女の背中を少し後ろから見ながら、廊下のカーペットを踏む足音がやけに大きく響いていることに気づき、夜というものが、昼よりも人の感覚を鋭くするのかもしれないと思った。

「今日は、大学は?」

前を向いたまま投げられたその問いは、あまりにも自然で、用件でも義務でもない雑談の形をしていたから、僕は少しだけ気を許してしまった。

「……今日は、行ってないです」

そう答えたあと、理由を聞かれるかもしれないと一瞬身構えたけれど、彼女はただ「そうなんですね」と言っただけで、それ以上踏み込んでこなかった。

その距離感が、驚くほど心地よかった。

大学に行っていない理由を説明しなくていいこと、怠けているのか、休んでいるのか、迷っているのかを分類されないことが、僕にとっては思っていた以上に救いだった。

部屋に入って一人で歌いながら、僕は何度も彼女の声を思い返していて、名前も知らない相手の声を、こんなふうに反芻している自分が、少し前の自分とは違う場所に立っているような気がしていた。

ドリンクを頼むと、少しして彼女がトレイを持って現れ、その動きが無駄なく、完全に仕事として体に馴染んでいることに、妙な安心感を覚えた。

「最近、よく来てくださいますね」

その言葉は、以前にも聞いたはずなのに、その夜はなぜか、ただの確認以上の意味を含んでいるように聞こえた。

「はい」

それ以上の言葉を探そうとして、結局見つからないまま、僕は口を閉じた。

「学校、忙しいんですか」

「もう、ほとんど終わってます」

「四年生ですか」

「はい」

彼女は軽くうなずき、そこから自然な流れで、

「就職も、もう」

と言葉を続けた。

「決まってます」

そう答えた瞬間、自分の声がほんの少し硬くなったことを、僕自身が一番はっきりと感じ取っていた。

「それなら、安心ですね」

その言葉は、正しく、社会的に模範的で、だからこそ僕の中では、うまく居場所を見つけられないまま宙に浮いた。

決まっている未来、内定通知、配属、社会人という肩書き、それらはすべて理解しているはずなのに、まだ実感という形を持たず、僕の生活のどこにも深く根を張っていなかった。

「忙しくなりますね」

彼女の声には、どこか距離があって、それはまるで、自分はすでにその先を知っている人のような響きを帯びていた。

「……そうですね」

そう答えながら、僕は、彼女がどんな時間を生きてきたのかを、初めて具体的に想像しようとしていた。

会計のとき、カウンターの前に立ちながら、僕はずっと同じことを考えていた。

――名前を、聞いてもいいんだろうか。

ほんの一言で済むはずなのに、その一言が、この関係の形を変えてしまうような気がして、なかなか口に出せなかった。

名前を知るということは、彼女を「夜のカラオケ店で働く人」という役割から引き離し、一人の人として、よりはっきりと認識してしまうことでもある。

その一線を越える準備が、僕にはまだなかった。

「ありがとうございました」

彼女の声に背中を押されるように、僕は何も言えないまま店を出て、夜風に当たりながら、自分が臆病であることを、はっきりと自覚していた。

別の夜、店が静かな時間帯、カウンターには彼女一人が立っていた。

「今日は、静かですね」

そう声をかけると、彼女は小さくうなずき、

「こういう日もあります」

と、短く答えた。

「……静かなほうが、好きですか」

自分でも少し踏み込みすぎたと思いながら投げたその問いに、彼女はすぐには答えず、ほんの一瞬、視線を落とした。

「嫌いじゃないです」

そして、少し間を置いて、

「昔は……」

と言いかけてから、言葉を切り、首を振った。

「今は、静かなほうが、楽です」

その一言の中に、時間の重みが滲んでいるのを、僕は見逃さなかった。

昔と、今。

その間にあるものを、僕はまだ知らないし、今は知るべきではないのだと、直感的に理解していた。

名前を聞かないまま、過去にも触れないまま、それでも僕たちは、確実に同じ夜を重ねていて、その距離は近すぎず、遠すぎず、けれど確実に、僕の生活の中心へと近づいてきていた。

この距離が、いつか変わってしまうことを、僕はまだ具体的には想像していなかったが、ただ、このままではいられないという予感だけが、胸の奥で静かに息をしていた。


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