第4話 グレーのパンツスーツ
彼女は、いつもグレーのパンツスーツを着ていた。
正確に言えば、毎日まったく同じものではないのだろう。
けれど僕の記憶の中で、彼女の服装は常にその色をしていた。
白でもなく、黒でもない。
主張しすぎず、かといって背景に溶けきるわけでもない、曖昧な灰色。
最初は、それが仕事の制服のようなものだと思っていた。
夜のカラオケ店で働く人間にとって、派手な服装は必要ない。
目立たず、清潔感があって、動きやすい。
そう考えれば、グレーのパンツスーツは、とても合理的だった。
けれど、通ううちに、僕は気づき始めていた。
彼女がその色を選んでいるのは、単なる仕事上の理由だけではないのではないか、ということに。
ある夜、少し遅めの時間に店に入った。
平日だったせいか、店内はいつもより静かだった。
廊下を歩く足音も、遠くの部屋から漏れてくる歌声も、どこか控えめに感じられる。
受付カウンターの向こうに、彼女が立っていた。
その日も、やはりグレーのパンツスーツだった。
ただ、いつもと少し違って見えた。
生地が、わずかに柔らかい。
肩のラインも、以前より少しだけ丸い。
「いらっしゃいませ」
声は、いつも通りだった。
感情を抑えた、仕事の声。
けれど、その奥に、わずかな疲労が滲んでいるように聞こえた。
「今日は、お一人ですか」
「はい」
そう答えると、彼女は端末を操作しながら、小さくうなずいた。
その横顔を見ていると、不意に、こんなことを考えてしまった。
――この人は、いつから大人なのだろう。
年齢の問題ではない。
責任を引き受けることに慣れてしまった人特有の、落ち着き。
自分の感情よりも、場の空気を優先する癖。
そういうものが、彼女の佇まいには染みついていた。
部屋に案内される途中、廊下の照明が一瞬だけ暗くなる。
古い建物特有の、不安定さ。
彼女は、何事もなかったように歩き続ける。
「この店、長いんですか」
気づくと、僕はそう聞いていた。
自分でも、少し唐突だと思った。
彼女は、歩きながら答えた。
「まあ……それなりに」
具体的な年数は、言わなかった。
それ以上、踏み込ませない距離感。
部屋に着き、彼女は軽く会釈をした。
「何かあれば、呼んでください」
ドアが閉まる。
いつもと同じ流れ。
それなのに、その夜は、なぜか彼女の後ろ姿が、強く印象に残った。
歌いながら、僕はグレーという色について考えていた。
白と黒の中間。
はっきりしない色。
決断を先延ばしにした結果のようにも見えるし、
すべてを混ぜ合わせたあとに残る色のようにも見える。
グレーは、逃げの色なのだろうか。
それとも、選び続けた結果なのだろうか。
答えは出なかった。
途中で、ドリンクを追加した。
しばらくして、ノックの音がする。
「失礼します」
彼女だった。
トレイを持ち、静かに部屋に入ってくる。
グラスを置くとき、袖口が少しだけ捲れた。
その瞬間、細い手首が見えた。
思っていたよりも、ずっと華奢だった。
そのことが、なぜか胸に引っかかった。
「お仕事、大変じゃないですか」
自分でも、なぜそんなことを聞いたのかわからなかった。
ただ、そのまま通り過ぎてしまうのが、惜しい気がした。
彼女は、一瞬だけ考えるような表情を見せた。
「慣れてますから」
それは、よく聞く答えだった。
本心かどうかは、わからない。
「でも……」
彼女は、言葉を探すように、一度視線を落とした。
「夜は、体力使いますね」
それだけだった。
けれど、その一言には、余分な力が入っていなかった。
「ですよね」
僕は、それ以上、何も言わなかった。
慰める言葉も、励ます言葉も、持っていなかった。
彼女は、軽く会釈をして、部屋を出ていく。
ドアが閉まる音が、いつもより少しだけ重く聞こえた。
次に会ったのは、数日後だった。
その日も、彼女はグレーのパンツスーツを着ていた。
ただ、その日は、インナーの色が違った。
薄い青。
ほとんど目立たない変化。
それでも、僕はすぐに気づいた。
「今日は、少し涼しいですね」
僕がそう言うと、彼女は小さくうなずいた。
「もう、秋ですね」
その言い方が、どこか他人事のようだった。
まるで、自分は季節の流れから、少しだけ外れているような。
「秋、好きですか」
そう聞くと、彼女は少しだけ考えてから答えた。
「嫌いじゃないです」
肯定でも、否定でもない。
グレーな答え。
「夏ほど、無理しなくていいので」
その言葉に、僕は一瞬、返す言葉を失った。
無理をする季節。
彼女にとって、夏はそういう存在なのかもしれない。
「そのスーツ、似合ってますね」
言ってから、少しだけ後悔した。
軽すぎたかもしれない、と。
けれど彼女は、驚いたように目を瞬かせてから、静かに言った。
「ありがとうございます」
その声には、いつもより少しだけ、柔らかさがあった。
「仕事着なので」
そう付け足したあと、彼女はほんのわずかに、笑った。
その笑顔は、店の照明の下ではなく、
もっと静かな場所で見るべきもののように思えた。
その夜、僕はあまり歌わなかった。
画面を眺めながら、グレーの色について、ずっと考えていた。
グレーは、何も決めていない色なのではない。
白にも、黒にもなれたはずのものが、
あえてそこに留まっている色なのかもしれない。
もしそうだとしたら、
彼女がグレーを選び続けている理由も、
少しだけ、理解できる気がした。
会計を済ませ、店を出ると、夜風が冷たかった。
空気は、確実に夏を手放しつつある。
振り返ると、ガラス越しに、受付カウンターが見えた。
彼女は、そこに立っていた。
グレーのパンツスーツを着て。
変わらない姿で。
それでも、確かに、生きている人として。
その背中を見ながら、僕は思った。
この人のことを、
まだ何も知らない。
名前も、過去も、
なぜ夜に働いているのかも。
それでも、
グレーのパンツスーツ越しに、
彼女という輪郭が、
少しずつ、浮かび上がり始めていた。
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