第3話 夜のカラオケ店で働く人

夜のカラオケ店には、昼間とは違う時間が流れている。

それは、単に時計の針が示す時間のことではない。昼と夜で、同じ場所がまったく別の役割を与えられている、という感覚に近かった。

昼間、駅前のこの通りは、学生と観光客で埋まる。

大きな声、軽い足取り、先のことを深く考えていない顔。

けれど夜になると、そこを歩く人たちは、少しだけ重たいものを背負っているように見えた。仕事帰りのスーツ、終電を気にする視線、飲み会のあとに残る疲労。誰もが、どこかで一度、気持ちを切り替えなければならない時間帯だった。

カラオケ店は、そうした人たちの受け皿のような場所だった。

歌いたい人も、そうでない人も、同じようにドアを開ける。

目的は違っても、しばらくの間、日常から離れたいという点では、皆が同じだった。

僕がその店に通い始めて、まだ数日しか経っていなかった。

それなのに、夜になると、自然と足が向かうようになっていた。理由を言葉にしようとすると、どこか嘘くさくなる。だから、深く考えないことにしていた。

ドアを開けると、いつもの匂いがした。

消毒液と、甘い香料。

照明は少し落とされていて、壁紙の色も、昼間より濃く見える。

受付カウンターの向こうに、彼女が立っていた。

その夜も、グレーのパンツスーツだった。

毎日同じものを着ているわけではないはずなのに、僕の記憶の中で、彼女はいつもその色をまとっている。白でも黒でもない、中途半端な灰色。けれど、それが妙に似合っていた。

「いらっしゃいませ」

その声を聞くだけで、胸の奥が少しだけ落ち着くのを、僕はもう自覚していた。

特別優しいわけでも、親しげなわけでもない。

ただ、余計なものが削ぎ落とされた、仕事の声だった。

人数と時間を伝える。

彼女は端末を操作しながら、手慣れた動きで処理を進める。

その指先を、僕は何度も見ていた。爪は短く整えられていて、派手なネイルはしていない。仕事のために選ばれた手、という印象だった。

「こちらへどうぞ」

廊下を歩く。

夜のカラオケ店の廊下は、昼間よりも少しだけ静かだ。

各部屋から漏れてくる音楽も、どこか控えめで、壁に吸い込まれていく。

部屋に入ると、彼女は軽く会釈をして、ドアを閉めた。

その仕草は、毎回ほとんど同じだった。

同じであることが、彼女にとっての安心なのかもしれない、と僕は思った。

一人で歌いながら、時計を見る。

時間が経つのは早い。

歌うこと自体よりも、ここにいる、という事実のほうが、僕には重要だった。

途中でドリンクを追加する。

しばらくすると、ノックの音がする。

「失礼します」

ドアを開けたのは、やはり彼女だった。

トレイを持つ姿にも、無駄な動きはない。

グラスを置き、軽く会釈をして、すぐに出ていこうとする。

「あの」

気づくと、僕は声をかけていた。

自分でも驚くほど、自然に。

彼女は、ほんの一瞬だけ立ち止まり、振り返った。

「何か?」

その目は、仕事用の距離を保っていた。

踏み込ませない、けれど拒絶もしない、絶妙な線。

「……忙しいですか」

自分でも、間の抜けた質問だと思った。

夜のカラオケ店で、忙しくないわけがない。

彼女は少しだけ考えるような間を置いてから、答えた。

「今は、少し落ち着いてます」

それだけだった。

それ以上でも、それ以下でもない。

「そうなんですね」

会話は、そこで終わった。

彼女はドアを閉め、廊下の向こうへ消えていく。

それでも、胸の奥に、わずかな熱が残っていた。

次に会ったのは、数日後だった。

曜日はもう、あまり意識していなかった。

大学に行く日もあれば、行かない日もある。

その夜は、何も考えずに店に入った。

「いらっしゃいませ」

彼女は、僕を見ると、ほんの少しだけ視線を留めた。

それが、気のせいなのかどうかは、わからない。

会計を済ませるとき、彼女が言った。

「最近、よく来られますね」

その言い方は、責めるものではなかった。

事実を、そのまま置くような声だった。

「はい」

僕は、それ以上、何も付け足さなかった。

理由を説明する言葉が、見つからなかった。

「歌、お好きなんですか」

彼女がそう聞いた。

初めて、仕事以外の言葉を向けられた気がした。

「……普通、です」

正直な答えだった。

彼女は、少しだけ口元を緩めた。

笑顔と呼ぶには、控えめすぎる表情。

「そういう人、多いですよ」

その一言が、なぜか胸に残った。

歌が好きだから来る場所ではない、と言われているようで、

同時に、それでいい、と許された気もした。

それから、少しずつ、会話が増えていった。

長い話はしない。

挨拶の延長のような言葉が、ひとつ、またひとつと重なっていく。

天気の話。

最近、夜が涼しくなったこと。

駅前の店が潰れたこと。

彼女は、自分のことをほとんど話さなかった。

質問をしても、必要最低限の答えしか返ってこない。

けれど、その線引きは、不快ではなかった。

仕事だから、ではなく、

彼女自身が、そうやって生きてきた人なのだと、

僕はなんとなく感じていた。

ある夜、彼女が少しだけ疲れた顔をしていた。

目の下に、薄く影がある。

「忙しそうですね」

そう言うと、彼女は一瞬だけ、息を吐いた。

「夜は、長いので」

それ以上は言わなかった。

けれど、その一言には、いくつもの意味が含まれているように思えた。

夜が長い。

それは、時間の話だけではない。

彼女は、夜の世界に属している人だった。

少なくとも、この時間帯においては。

そのことを、僕はまだ、うまく受け止められずにいた。

会話が終わり、僕は部屋に戻る。

歌いながら、彼女の言葉を何度も思い返す。

夜は、長い。

その言葉の重さを、僕はまだ知らない。

それでも、この店に来るたび、

彼女の存在が、僕の中で少しずつ大きくなっていくのを感じていた。

夜のカラオケ店で働く人。

それが、今の彼女のすべてだった。

少なくとも、僕の目には。


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