第2話 決まっているはずの未来が、実感にならない
朝、目を覚ますと、部屋の中に薄い光が差し込んでいた。
カーテンを閉め切るほどでもなく、開け放つほどでもない、中途半端な明るさだった。九月の朝は、そんなふうに、どこか決断を先延ばしにした光をしている。
スマートフォンを見ると、九時を少し回ったところだった。
一限はない。二限も、今日は出る必要がなかった。
大学に行く理由がない日が、最近は増えていた。
天井を見つめたまま、しばらく動かなかった。
寝不足というほどではないはずなのに、体は重い。疲れているわけでもない。ただ、起き上がる理由が、はっきりしなかった。
就職先は、春には決まっていた。
都内の企業で、営業職。特別な夢の会社ではなかったが、周囲から見れば、十分に「堅実」と言える選択だったと思う。親にも安心されたし、ゼミの教授にも、無難だな、と言われた。
無難。
その言葉が、頭の中に残ったまま、消えずにいる。
シャワーを浴び、適当に服を選ぶ。
鏡に映った自分は、少しだけ大人びて見えた。
髪型も、服装も、大学に入った頃よりは整っている。
それなのに、中身は、ほとんど変わっていない気がした。
アパートを出ると、すでに日差しは強かった。
茅ヶ崎の街は、平日の昼間でも、どこか緩やかだ。急いでいる人は少なく、時間が流れる速度が、東京よりも少し遅い。
駅へ向かう途中、海の方から風が吹いてくる。
潮の匂いが、昨日よりもわずかに薄く感じられた。
季節は、確実に移ろっている。
大学に着いても、特に用事はなかった。
図書館に行くわけでもなく、学食に入るわけでもない。
ただ、キャンパスを歩くだけで、一日が終わってしまいそうだった。
同級生たちは、もう次の段階へ進み始めている。
資格の勉強をする者、卒論に没頭する者、海外に行く準備をする者。
それぞれが、それぞれの「未来」に向かって動いている。
僕だけが、立ち止まっているような気がした。
ベンチに腰を下ろし、スマートフォンを眺める。
新着の通知はなかった。
連絡を取ろうと思えば、誰かはいるはずなのに、なぜか指が動かなかった。
――このままでいいんだろうか。
そんな問いが、何度も頭をよぎる。
答えは、出ない。
出ないまま、時間だけが過ぎていく。
夕方になり、大学を出る。
昨日と同じように、自然と海の方へ足が向いた。
今日は波が高かった。
サーファーたちは、少し緊張した表情で沖へ出ていく。
その背中を眺めながら、僕は思った。
彼らは、今この瞬間に、確かに何かを選んでいる。
選ぶこと。
それが、僕にはできていない気がした。
日が沈み始める頃、携帯が震えた。
母からのメッセージだった。
〈最近どう?〉
短い一文。
心配しているのは、伝わってくる。
〈元気だよ〉
そう返信して、画面を閉じた。
嘘ではない。
ただ、本当でもなかった。
夜になり、再び駅前のカラオケ店の前に立っていた。
昨日来たばかりなのに、違和感はなかった。
むしろ、ここに来るのが、自然な流れのように思えた。
ドアを開けると、同じ匂いがする。
消毒液と、甘い香料。
受付カウンターには、彼女がいた。
昨日と同じ、グレーのパンツスーツ。
髪も、きちんとまとめられている。
それなのに、まったく同じには見えなかった。
「いらっしゃいませ」
声も、昨日と同じはずなのに、少しだけ違って聞こえた。
僕はそれを、気のせいだと思おうとした。
人数と時間を告げる。
彼女は端末を操作しながら、ちらりと僕の顔を見た。
「あ……」
一瞬、言葉が途切れた。
「昨日も、来てくださいましたよね」
その言い方は、確認というより、思い出そうとする響きだった。
僕は、少しだけ驚いた。
「はい」
それだけ答えると、彼女は小さくうなずいた。
「ありがとうございます」
その「ありがとうございます」が、仕事のそれなのか、それ以上なのか、僕にはわからなかった。
部屋に案内され、ドアが閉まる。
昨日と同じ部屋ではなかったが、違いはほとんど感じられない。
それなのに、胸の奥の感覚は、昨日よりもはっきりしていた。
歌いながら、僕は考えていた。
なぜ、ここに来ているのか。
なぜ、彼女のことが、こんなにも頭から離れないのか。
答えは、まだなかった。
それでも、ひとつだけ、確かなことがあった。
決まっているはずの未来よりも、
今、この時間のほうが、僕には現実だった。
そのことが、少しだけ怖くて、
同時に、少しだけ救いにもなっていた。
九月は、まだ続く。
そして僕は、何も決められないまま、
静かに、その中に立っていた。
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