瑠璃色の季節

鈴木夏希

第1話 九月の海は、まだ夏を引きずっていた

九月の海は、まだ夏を引きずっていた。

日差しは八月ほど強くないのに、砂浜に立つと、足の裏からじんわりと熱が伝わってくる。夕方の風は少しだけ冷たくなっていて、汗ばむ肌に触れるたび、季節が確実に前へ進んでいることを教えてくれた。

茅ヶ崎の海岸は、夏の喧騒を手放しきれずにいるようだった。海水浴場の旗はすでに片付けられているのに、サーフボードを抱えた人の姿は途切れない。裸足で歩く人、犬を連れて散歩する人、堤防に腰を下ろして缶ビールを開ける人。それぞれが、それぞれの九月を生きていた。

僕は大学からの帰り道、特に理由もなく海に寄った。

湘南のキャンパスに通うようになってから、こうして海を眺めることは珍しくなかった。けれど、その日はなぜか、まっすぐ家に帰る気になれなかった。

大学四年の九月。

就職先はすでに決まっていて、単位もほとんど取り終えている。ゼミも実質的には終わり、キャンパスに行く理由は、惰性に近かった。周囲から見れば、何の問題もない状態だったと思う。少なくとも、履歴書に書けない悩みを抱えているようには見えなかったはずだ。

それでも、僕の中には、名前のつけられない空白があった。

不安、と呼ぶには曖昧で、焦り、と言うには切迫していない。ただ、何かが始まるはずの場所に、まだ立てていないような感覚だけが、ずっと残っていた。

波打ち際まで歩き、靴を脱いで砂に置いた。

海水が足首を濡らす。冷たい。思わず息を吐くと、胸の奥に溜まっていたものも、一緒に外に出た気がした。

好きな匂いだ、とそのとき思った。

潮の匂いと、少し湿った風。理由はない。ただ、嫌ではなかった。

しばらくそうして立っていると、背後から子どもの笑い声が聞こえた。振り返ると、小学生くらいの兄弟らしい二人が、濡れたズボンのまま砂浜を走り回っている。少し離れたところで、母親らしき女性がスマートフォンを片手に、その様子を見守っていた。

時間は、誰にでも同じように流れているはずなのに、

どうしてこんなにも、見え方が違うのだろう。

そんなことを考えながら、僕は再び海に目を向けた。

日が沈み始めると、海の色が変わる。

青でもなく、黒でもない、名前のつかない色。

それは、これから何かが終わり、同時に始まることを示しているように見えた。

その夜、僕は駅前のカラオケ店に入った。

もともと歌いたい気分だったわけではない。

家に帰っても、やることは特になかったし、友人からの連絡もなかった。アパートの部屋は、まだ他人行儀な感じが残っていて、落ち着くには少し広すぎた。

駅前の通りは、夜になると別の顔を見せる。

昼間は学生と観光客で溢れているのに、夜になると、仕事帰りの大人たちが主役になる。居酒屋の明かり、パチンコ店の音、タクシーの列。その中に、少し古びたカラオケ店があった。

ドアを開けると、消毒液と甘い香料が混ざった匂いが鼻をつく。

受付カウンターの向こうに、グレーのパンツスーツを着た女性が立っていた。

それが、彼女だった。

派手な印象はなかった。

どちらかといえば、街の中に溶け込むタイプの顔立ちで、特別目立つわけではない。それなのに、なぜか目が離れなかった。理由はすぐにはわからなかった。

「いらっしゃいませ」

感情を乗せすぎない、仕事の声。

慣れているけれど、雑ではない。

僕は人数と時間を伝え、彼女は端末を操作しながら、淡々と応対した。

近くで見ると、年上だということがはっきりわかった。

二十代後半か、あるいは三十に近いのかもしれない。髪はきちんとまとめられていて、表情には余計なものがなかった。疲れているようにも見えたし、そう見せないようにしているようにも見えた。

「こちらへどうぞ」

廊下を歩きながら、彼女の背中を見ていた。

パンツスーツの生地が、照明を受けてわずかに光る。

その色は、白でも黒でもなく、はっきりしない灰色だった。

部屋に案内され、ドアが閉まる。

それだけのことなのに、なぜか胸の奥に、言葉にならないものが残った。

歌は、特別うまくなかった。

知っている曲をいくつか選び、機械的にマイクを回す。

画面に流れる映像と、音程バーをぼんやりと眺めながら、時間を消費していった。

途中で、ドリンクを追加した。

しばらくして、ノックの音がして、ドアが開く。

「失礼します」

彼女だった。

トレイにグラスを載せ、手際よくテーブルに置く。その動きに無駄がなかった。

「ごゆっくりどうぞ」

そう言って、彼女は軽く会釈をした。

それだけのやりとりだったのに、なぜか胸の奥が、少しだけ騒いだ。

部屋を出るとき、彼女はもう一度、僕の方を見た。

目が合った、と思った次の瞬間、すぐに視線は外れた。

その短さが、妙に印象に残った。

会計を済ませ、店を出る。

夜風が、昼間よりもはっきりと冷たくなっていた。

駅までの道を歩きながら、僕は何度も、さっきの光景を思い出していた。

彼女の声。

スーツの色。

照明の下で、髪の一部がわずかに白く反射していたこと。

――また来る理由なんて、なかったはずなのに。

アパートに着いても、すぐには眠れなかった。

ベッドに横になり、天井を見つめる。

カーテンの隙間から、遠くの街灯の光が差し込んでいる。

何が始まったわけでもない。

ただ、ほんの少し、日常の輪郭がずれただけだ。

それでも僕は、そのずれを、無視できずにいた。

九月の夜は、まだ夏の匂いを残している。

けれど確かに、次の季節へ向かって、静かに進み始めていた。

そのことを、僕はまだ知らないふりをしていた。


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