第2話 指先一つの衝撃(インパクト)

「……これ、どうすりゃいいんだよ」


目の前では、さっきまで俺の喉笛を食い破ろうとしていた魔狼が、地面に突っ伏してピクピクと痙攣を繰り返している。 口の端からは泡を吹き、その瞳は完全に虚空を見つめている。 時折、「ひぅん……」という、およそ凶暴な魔物とは思えない情けない吐息を漏らしていた。


俺がやったのは、ただ指先で一瞬触れただけだ。 神様から授かった固有スキル『絶頂の残響エクスタシー・エコー』。 俺の死因そのものである「極限の快感」を相手に叩き込むという、文字通りの必殺技。


「威力が……。威力が想定の斜め上すぎるだろ」


試しに、足元に落ちていた枝で魔狼の鼻先をツンツンと突いてみる。 反応がない。 いや、正確には突かれるたびにビクッと体が跳ね、そのたびに「アンッ……」と、犬というよりは熟練の……いや、これ以上考えるのはやめよう。


敵を倒す、というよりは「生物としての尊厳を破壊する」に近い。 このスキルを人間、それも女性相手に使ったりしたら、俺は一瞬でこの世界の犯罪者ランキングのトップに躍り出る自信がある。


「ふぅ……。ひとまず、こいつは放っておいていいか。少なくとも数時間は動けそうにないしな」


俺は魔狼に(申し訳程度の憐れみを込めて)合掌し、その場を後にした。


森の中を走り抜ける。 ここで俺は、もう一つのスキル『不死鳥の精力フェニックス・バイタリティ』の異常さを思い知ることになった。


「ははっ……。マジかよ、これ!」


木々の間を全力で駆け抜ける。 本来なら数分も持たないはずの全速力。だが、どれだけ地面を蹴っても、どれだけ腕を振っても、呼吸は一切乱れない。 心臓は力強く、一定のテンポを刻み続けている。 まるでエンジンが無限の燃料を供給しているかのような、圧倒的な万能感。


「疲れないって、こんなに無敵なのか……!」


木を飛び越え、斜面を駆け下りる。 景色が飛ぶように後ろへ流れていく。 このままなら、世界一周だってジョギング感覚でできそうだ。 神様が言っていた「二度と腹上死しない」という言葉の重みを、別のベクトルで実感していた。


「――っ!? 今のは……」


不意に、風に乗って微かな音が聞こえた。 金属がぶつかり合う音。そして、野太い咆哮。 さらに、それらを切り裂くような、凛とした女性の叫び声。


「『下がれ! ここは私が食い止める!』……か。テンプレだな、おい」


俺は苦笑しながらも、音のする方角へ進路を変えた。 異世界に来て最初の「人間」との遭遇かもしれない。 見殺しにするという選択肢はなかった。何より、この有り余るエネルギーをどこかにぶつけたかった。


森が開けた街道沿いで、それは行われていた。


「くっ……! まだ来るのか、この化け物め!」


銀髪を一つに束ねた女騎士が、大剣を振るって巨大な蜘蛛のような魔物――アラクネと対峙していた。 その後ろには、数人の兵士たちが手負いの仲間を抱えて円陣を組んでいる。


「エリス様! 無理です、その体では……!」

「黙れ! 王国の盾たる私が、民を見捨てて逃げられるか!」


エリスと呼ばれた女騎士の動きは、確かに鋭かった。 だが、その肌は病的なまでに青白く、額からは尋常ではない量の汗が流れている。 彼女の鎧の隙間からは、どす黒い紋様が血管のように浮き出ていた。


「(……呪いか?)」


俺は茂みに身を潜めながら状況を観察する。 アラクネは糸を吐き出し、エリスの動きを制限していく。 エリスは呪いの発作に耐えながら剣を振るっているが、その一振りごとに苦悶の表情を浮かべていた。


「アァァァガァッ!」


アラクネの鋭い前足が、エリスの肩を掠めた。 白銀の鎧が火花を散らして弾け、彼女は地面を転がる。


「エリス様!!」

「……くっ、まだだ……。私は、まだ……っ!」


立ち上がろうとするエリス。だが、彼女の体は限界だった。 呪いの紋様が激しく明滅し、彼女はその場に膝をつく。 アラクネが勝ち誇ったように巨大な顎を開き、彼女の頭上へ振り下ろされようとした、その時。


「おいおい。女の子をいじめるのは、趣味が悪いんじゃないか?」


俺は全力で地面を蹴り、その間に割り込んだ。


「なっ……!? 誰だ貴殿は! 下がれ、死にたいのか!」


エリスの驚愕の声。 だが俺は止まらない。 目の前のアラクネは、体長三メートルを超える巨大な毒蜘蛛だ。 普通なら足がすくむような威圧感。だが、今の俺にはこいつが「絶好の検証相手」にしか見えなかった。


「悪いな、騎士様。ちょっと、こいつに『挨拶』してくるわ」


俺はアラクネの振り下ろされた足を、紙一重で回避する。 そして、その巨大な腹部へと潜り込んだ。


「食らえ、『絶頂の残響エクスタシー・エコー』!!」


俺は両手の手のひらを、アラクネの柔らかい腹部に力いっぱい押し当てた。 意識するのは、あの夜。 最高に気持ちよくて、心臓が止まるほどに昂った、あの瞬間の衝動!


ドォォォォォンッ!!


衝撃波のようなものが、俺の体からアラクネへと伝播した。


「ギ……、ギィィィィ……ッ!?」


アラクネの八本の足が、ピンと直立不動に伸びきった。 全身が激しく震え、その複眼がドロリと濁っていく。 そして――。


「ア……ッ、アギィィィィィィィィィィッ!!!」


それは断末魔ではない。 森全体を震わせるような、あまりにも場違いな、そしてあまりにも……「悦んでいる」鳴き声だった。


アラクネの巨大な巨体が、ガクガクと折れ曲がるように崩れ落ちる。 口からは白い糸を大量に吐き出し、まるで電気を流されたかのように地面でのたうち回った。 その動きは次第に弱まり、やがて恍惚とした表情(蜘蛛にそんなものがあるのかは知らんが)を浮かべて動かなくなった。


「…………は?」


背後で、エリスの呆然とした声が聞こえた。 兵士たちも、持っていた剣を落として固まっている。


そりゃそうだ。 大剣で斬ってもびくともしなかった大魔物が、一人の若者が触れた瞬間に「アンッ!」となって絶命(気絶)したのだ。 常識が崩壊する音が聞こえてきそうだった。


俺はゆっくりと立ち上がり、乱れたシャツを整えてから彼女たちの方へ振り返った。


「……大丈夫か? 騎士様」


「あ、あぁ……。助かった、のだが……。今のは、一体……?」


エリスは俺を、まるで得体の知れない怪物を見るような目で見ていた。 だが、その視線はすぐに揺らぎ、彼女は再び胸を押さえて崩れ落ちる。


「くっ、あ……ぁあ……っ!」


「おい、大丈夫か!?」


駆け寄る俺。 間近で見るエリスは、凛とした美人だが、今は死相が漂うほどに衰弱していた。 彼女の首筋まで這い上がってきた呪いの紋様が、彼女の命を確実に削っている。


「寄るな……。この呪いは、触れれば……貴殿まで……」


「そんなこと言ってる場合かよ」


俺は迷わず、彼女の肩を抱き寄せた。 『不死鳥の精力』のおかげか、彼女から漏れ出す邪悪な魔力に触れても、俺の体は何ともない。


だが、この呪いを解くにはどうすればいい? 俺が持っているのは、『絶頂の残響』と、あとは……。


『聖なる賢者の体液』。 あらゆる病を治し、傷を癒す、究極のエリクサー。


「……マジでこれ、今使うのか?」


俺は自分の手のひらを見つめる。 そして、苦しそうに荒い息を吐くエリスの、桜色の唇を見た。


「……おい、騎士様。ちょっと失礼するぞ。これは……そう、高度な魔術的な治療だ。変な意味じゃないからな」


「何を……っ、ごふっ……!」


エリスが吐血する。一刻の猶予もない。


俺は覚悟を決めた。 自分の指を口に含み、口内に溜まった唾液――否、神から授かった『聖水』を指先に絡める。 そして、それを彼女の唇の間に、押し込むようにして流し込んだ。


これが、後に「聖なる癒し」として王国中に伝説となる、最低で最高な救済劇の始まりだった。


(続く)

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2025年12月30日 21:00
2025年12月31日 21:00
2026年1月1日 21:00

腹上死転生~不死鳥の精力と聖なる体液で、異世界ヒロインを理解らせる ~ 蜷川 @ninagawa1116

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