第4話 首落とし

 深夜一時、映理子は突然目を覚まし泣き出す。蛇澤も慌てて起き上がり哺乳瓶にミルクを用意する。首を支えながら、重い上半身を何とか起こしてミルクを飲ませ、ようやく泣き止んだ。

 与えながら気付いたが、映理子のお尻周りが臭い。ウンチである。空になった哺乳瓶を脇に置き、映理子をベッドに横たえ、悪戦苦闘して新しいオムツを履かせた。ようやく静かになった映理子に布団をかけて、部屋に戻る。椅子に座り、パジャマの裾にウンチがくっついていることに気がつく。イライラしながらパジャマを脱いで洗う。

 ようやく一息ついたと思うと、また泣き声が聞こえる。今度は由紀夫だ。由紀夫の部屋に行き、同じようにミルクを与えるが泣きやまない。蛇澤は腰にコルセットを巻いて由紀夫を抱き上げる。四十キロはあるだろう。物凄く重いがこれをしないと由紀夫は朝まで泣き続ける。椅子に座って抱っこをし、三十分程してようやく静かになる。由紀夫をベッドに寝かせ、そのまま蛇澤は椅子で寝てしまった。

 深夜四時、映理子が泣き始めた。蛇澤は椅子から飛び起き、ミルクを与えにいく。

 いくら脳が赤ん坊に戻ったとはいえ、体はすでに成人である。映理子の胃ならもっと沢山ミルクを飲んで朝まで寝れるはずなのに、飲まない。嫌がらせのようにきっかり三時間毎のアラーム。

「・・・・・・甘かった」

 映理子を支える右手が悲鳴を上げ、頭は眠気と戦いながら蛇澤は呟いた。

 リセットされた映理子は赤ん坊に戻った。体格は大人であるから、子育ては更に大変である。

 それと由紀夫に悩卵が入った。一体どこでこしらえたか。黄司である。黄司が映理子と一緒に住んでいた頃、トイレで映理子の受精した脳卵を見つけ、こっそりと医療機関で保存していた。家に引き戻すための交渉材料だったようだ。

 映理子がリセットされれば価値はない。

 事故だったと黄司は聞かされた。黄司と蛇澤は以前から親しく、黄司が自分から蛇澤の家に脳卵を持ってきた。

 無事脳卵の入った由紀夫も、ゼロ歳児から人生が始まったのである。

 あれから三ヶ月、蛇澤はもう限界だった。二人の大人の赤ん坊の子育てを男一人でこなすのはあまりにキツい。夜はほとんど寝れず、日中の世話もあり、昼間の仕事は休んでいる。映理子の母親にも手伝いを頼んだが、にべもなく断られた。

 次第に気持ちが病んでくる。たまに、思い切り壁にコップを投げつけ、二人をひっ叩きたくなる。蛇澤は思い出す。映理子に「俺が全部面倒を見る」と言った。投げ出すわけにはいかない。そう思って頑張ってきたが、無理なものは無理だ。



 冬の寒いある日、金髪の男が、家の前に立った。ドアは開いている。男は家の中に入っていく。暗く静まり返る室内、リビングには蛇澤が一人俯いて座っている。金髪は、向かいの椅子に座って言った。

「随分静かだな」

「ようやく寝たんだよ」

 げっそりと頬のコケた蛇澤が言った。

「性に合わないって言ったんだよ。お前に子育てなんて。卵の父親しか経験ないんだから」

 金髪はタバコに火をつけて、煙を吐きながら言った。

「まあでも俺に頼った判断は間違ってない。一家心中を考えるやつもいるからな」

「約束したんだ、面倒を見ると。だから最後まで悩んでいる」

「子供が頑張って作った図工の作品を捨てるのも親の立派な仕事だ」

 蛇澤は顔を上げて眉をひそめる。

「何の話をしてる」

「貯めておいても結局邪魔になる。家のため、家族のため、ひいては子供のために捨てるんだ。子供が作った絵を破いたり、粘土細工を折り曲げたりしてね。無情になって。それと同じだよ」

「頭の悪い俺には何が同じかよくわからない」

「限界を迎えた時、子供を誰かに引き渡すのも必要だ。愛情を踏みにじっているように見えるが、結局は子供の為になる。制約の中での愛の模索だよ。無茶をしたあげくに殺すよりはよっぽど良いだろう」

 蛇澤は黙り込んだ。金髪も何も言わない。タバコを吸う息の音だけが聞こえる。やがて蛇澤が立ち上がり、こっちだ、と言った。

 寝室に映理子が寝ていた。首はすわり、寝返りも打てるようになっている。金髪は映理子の頭を愛おしそうに撫でた。

「変なことは考えるなよ」

 蛇澤が金髪を睨む。

「何を言ってる。これからは俺が親代わりだ。楽しい生活を想像していただけだよ」

 金髪は、映理子を軽々と抱きかかえた。映理子も目を覚まし金髪を不思議そうに見つめる。

「じゃあ、そこをどいてくれ」

 蛇澤が脇によけると、金髪は映理子を抱えて玄関の外に出て行った。しばらくして手ぶらで戻って来る。

「もう一人いたな」

 今度は別の部屋で寝ていた由紀夫を抱きかかえる。由紀夫はぐっすりと寝ていて目を開けない。

「なかなか賢そうな顔をしてる」

 金髪はまた玄関から出ていこうとする。

「待て」

 蛇澤が悲痛な声をあげる。

「二人を頼む。幸せにしてやってくれ」

 金髪は振り返るとにやりと笑う。

「楽園に行くんだ。幸せに決まってるだろう」

 


            *



 映理子と由紀夫は、車に乗せられ、日をまたいで長い距離を越えた。途中二人が泣き出すこともあったが、ミルクはちゃんと用意されており、手慣れた手つきで金髪が与えた。

 着いた先は、高原の街。空気は澄んで、道路の脇には雪が積もっている。またしばらく進み、セミナーハウスのような少し大きめの建物に着く。

 中から保育士のような格好をした女性が車椅子をひいて出てくる。

「あら、随分美人さんね」

 彼女は映理子の顔を覗き込んで言った。

「風邪引くから早く。オムツも替えないと」

 映理子は車椅子に乗せられ、女性に押されて建物の中に入っていく。金髪は由紀夫を抱きかかえると、後を追った。

 建物の中は明るく暖かく、ホッと落ち着く。施設はバリアフリーで多人数が暮らせるように整えられている。

 映理子と由紀夫はおむつを替えてもらい、柔らかいマットレスが敷かれた広場でおもちゃで遊び始めた。二人の周りには沢山の大人が集まっている。老人、若い女性、色黒で入れ墨のある男など様々だが、みんな一様におもちゃを手にしながら新しく来た二人を遠巻きに見つめていた。

 その部屋にはいないが、廊下には四足男や四足女、四足子が自由に歩き回っている。彼等は大人しく、人間の女性を見ても四足男は暴れない。よく見ると睾丸が切除されている。まるで去勢された猫のよう。

 彼らを世話する女性男性スタッフも沢山いる。金髪は、施設ではキンパと呼ばれていた。

 キンパは映理子のそばに腰を下ろし、映理子の頭を撫でて呟く。

「やっと一緒になれたな映理子」



 二人はそこで不自由なく暮らした。キンパは二人の世話をよくした。食事の介助や遊ぶ相手、お風呂も一緒に入って身体も洗ってあげた。誕生日には、ケーキを用意してスタッフみんなでお祝いをした。

 あっという間に十年の月日が経った。それまでは、大部屋で皆で寝起きしていたが、十歳を超えたら、グループに分けられ、小部屋が割り当てられる。

 映理子と由紀夫は、緊張しながら割り当てられた部屋に行った。部屋には手前に大きめの丸テーブルとそれを囲むように椅子が五つ置かれている。壁にはホワイトボードがかかっている。奥には二段ベッドが3つあり、その先には窓があって青々とした山の景色が見えた。

 部屋の椅子に同居する二人が座っていた。一人は二十代半ばの女性で、若々しさが溢れているが、両腕に入れ墨がある。あんちゃんというらしい。もう一人は見た目は百歳を過ぎた男性だ。平均寿命が百二十歳であることを考えても晩年に近い。腰はやや曲がり、歩くのも遅い。髪は白くなり、目も濁っている。カツくんという。二人とも最近この施設に来たようで映理子達とは初対面だ。

「仲良くしてね」

 あんちゃんが真っ先に立ち上がり映理子と握手した。映理子は、あんちゃんの腕に掘られた大きな虎の絵をじっと見つめた。あんちゃんは、しゃがみ込んで由紀夫とも握手する。

「由紀夫くんって頭が良いんだってね。聞いてるよ」

 由紀夫はニッコリとしてあんちゃんと握手した。

 あんちゃんは、それから素早くカツくんのサポートをした。立ち上がろうとしたカツくんの動作が少し危うかった。カツくんはあんちゃんにお礼を言うと映理子達に言った。

「あとで庭で虫取りをしよう。カブトムシがいるらしいんだ」

 映理子は、カツくんの白く濁った目を見た。

 キンパが部屋に入ってくる。このグループのまとめ役で、一緒に寝起きする。

「よし、じゃあミーティングだ」

 キンパの号令で、みんな丸テーブルの席につく。

「このメンバーにしたのは理由がある。直に分るだろう。みんな知っている通りこの施設はリセットされた人間が集まるところだ。まずは、自己紹介だ。あんちゃんから」

 あんちゃんが立ち上がる。

「土山あんなです。十歳です。リセットされる前は、あんまり言いたくないのですが、悪い人間だったそうです。それで死刑になったんだけど、死刑かリセットかどちらか選べることになり、お父さんとお母さんが相談してリセットされたみたいです。この腕の入れ墨ももちろんリセット前に入れたものらしいです。ダンスが好きです」

 キンパが拍手してみんなもそれにならった。次はカツくんだ。

「えっと、藤野勝治(とうのかつじ)です。僕の体の年は百七歳です。でも頭は十歳です。前の僕は年をとって、色んなことが分からなくなりました。自分でリセットしたみたいです。よく分かりません。虫取りが好きだしボール遊びが好きです。勉強もたくさんしたいです」

 また皆が拍手する。映理子が立ち上がる。

「私も十歳です。蛇澤映理子です。リセット前はお医者さんだったみたいです。事故でリセットされました。ずっと前からここで生活してます。分からないことは何でも聞いてください」

 最後に由紀夫が話す。彼は皆と同じように椅子に座れない。短い足を体育座りのようにして、手は机の上に置いて支えている。

「蛇澤由紀夫です。映理子は僕の姉です。年は同じ十歳です。前は四足子でしたが、途中で人間になりました。足は誰よりも速いです」

 キンパが拍手して、立ち上がった。

「いい挨拶だった。言いにくいこともよく話してくれた。じゃあ早速授業をしよう。先生は俺だ。初めて聞くことで驚くことが多いだろうけれども、じっくり考えてくれ」

 キンパは、ホワイトボードの前に立って、みんなに教科書を配った。しっかりと製本されていて表紙には『みんなでつくる自然のバランス』と書いてある。

「さて、みんなに質問だ。みんなは何歳まで生きると思う?」

「大体百二十歳までです。長い人は百三十歳位まで生きる人もいます」

 由紀夫が言った。

「そのとおり、実ははるか昔の人間は平均寿命が八十歳少しだった。知ってたか?」

 みんなが息をのむ。それじゃあ短すぎる、とあんちゃんが言った。

「そう、だけれども人間は進化して寿命が伸びた。寿命が伸びるとどうなるかな?」

 四人が顔を合わせて首を振る。

「人の数が増えるんだ。寿命が八十歳少しのときは地球の人口が八十億人だったけれど、寿命が延びた今、もうすぐ百五十億人に到達しようとしている。およそ倍だ。人が増えすぎたらどうなるかな?」

「賑やかになると思います」

 カツくんが言った。

「それもあるだろうね、でも楽しいことばかりじゃないよ」

「ご飯の取り合いになる」

 映理子が言った。

「そのとおり。ご飯だけじゃない。住む場所、水、エネルギーと地球にある大切なもの全部が足りなくなるんだ。喧嘩になるね。どうすればいいかな?」

 四人はまた顔を見合わせる。

「喧嘩しないように分け合えばいいと思う」

 あんちゃんが小さな声で言った。

「残念ながらもうその段階は過ぎてる。今ではおよそ五年に一度のペースで世界で大きな戦争が起きている。昔に比べてよっぽど怖い世の中なんだ。人が多すぎるんだね。どうすればいいかな?」

「人を減らすしかない」

 カツくんがはっきりと言った。キンパが大きく拍手した。

「そうだね、増えたなら減らすしかない。このまま何もしなければ、食べ物や水がなくなって、ゴミばかりが増えて、いずれは人間は絶滅する。そうなる前に俺達が人を減らす必要がある。減らすと言うと曖昧だ。殺すんだよ」

 しんと静まる。

「殺すって人を?」

 由紀夫が言う。

「そうだよ。人を殺すんだ。人を殺すことは悪いことか? 悪いことだね。みんな死にたくないでしょ。人殺しは逮捕されて牢屋に入るよね。それも正しい。でも、もっと大きな目で見ないといけない。君たち子供は分からないと思うけど、大人はみんな感じてるんだ。これだけ増えた人間を減らすには、誰かが率先して人を殺していくしかない。それは地球のため、人間のために必要なこと。悪と言えるのか? って」

「でも、怖いよ。殺すなんて」

 キンパは、慈愛に満ちた目で映理子を見た。

「大丈夫。慣れればできるよ。話を進めよう。誰を殺せばいいかな? 道行く人を手当たり次第殺してたら、警察がやってきて逮捕されるだけだね。それではダメなんだよ。ちゃんとターゲットを決めて国から許可を得て殺るんだ。あんちゃん、まずはどんな人間を狙えばいい?」

 あんちゃんは小刻みに震えていた。

「悪い人じゃないですか? 刑務所にいる人とか」

「普通はそう考えるよね。悪人から殺していけって。でも考えてみて、刑務所に入っている人たちは、そんなに資源の無駄遣いをしないんだよ。食べ物は質素、旅行も行かない、大きな家も建てない。刑務所で慎ましく暮らしているんだ。彼らを殺してもね、地球の資源を守ることにはならないんだよ」

「老人だと思う」

 カツくんが真っ直ぐキンパを見つめた。

「だって、仕事もできないし、何もしていない人も沢山いる。無駄遣いしてるんだと思う」

「カツくん、君は勇気がある。凄いよ。でもね、実は老人も刑務所の人と同じであまり資源を使わないんだよ。食べる量も少ない、遠出もしない」

「でも薬とか沢山かかっているでしょ」

「薬や医療はね、だんだんと保険適応っていうのを切って使える薬を減らして、老人の負担を増やしていけばいい。つまり老人が病気を治してもらいたくても、治さなければいい、薬をあげなければいい。そうすれば自然と老人は死んでいくでしょ。それはもうとっくに国がやっているんだ。だからあえて捕まえて殺す必要はない」

 あんちゃんが手を挙げる。

「じゃあ貧乏な人でしょうか? 貧乏な人はボディーガードも雇えないし狙いやすいから」

「さっきと同じだよ。貧乏な人は飛行機に乗らない、手間と広大な土地が必要な高級ワインも飲まないし、物もあまり買わない。もう分かったよね。狙うべき人はどんな人か」

 四人は顔を合わせて一斉に言った。

「金持ち」

「そのとおり。金持ちは広い家を持ち、別荘を買い、煌々と電気をつけ、水をアホみたいに使って大して泳がないプールを満たし、飛行機や車を乗り回し、食べ物だって大量に残す。年収五億円の人間は、一般人の三十倍程度の資源を消費する。つまり金持ち一人減らすのと一般人三十人減らすのと同じ資源の節約になる。年収五十億なら三百人だよ。効率が良いだろう?」

「でもその人達は悪いことをしてないですよね。一生懸命働いて偉くなってお金を稼いでいい生活をしている。殺したら可哀想だと思います」

 由紀夫が言った。

「いや、それは違う。いいかい。物事の善悪というのは世界が変われば変わるんだよ。昔はそうだろう。世の中の一番の罪は人を殺すことだ。でもね、今は違う。世界で一番罪深いことは資源を消費することなんだ。地球は限られている。コップのオレンジジュースは飲めばなくなってしまう。増えすぎた人間たちが遠慮なく使い続けたら地球はパサッパサのカスになって結局人間は住めなくなるんだ。つまり絶滅、百五十億人の人間を全て死なせることになる。運命だと受け入れても良いだろう。地球の歴史では、沢山の種が絶滅してきた。だけれども絶滅を食い止める手段があるのに何もしないなんて歯がゆいだろう? 世界中の人間がそう考えている。でもそれを大声で言えない。大事な仕事なんだ。俺達のため、これから生まれてくる子供達のために、資源を浪費する金持ちを減らすことは」

「でも、金持ちの人に、無駄遣いやめてってお願いすればいいんじゃないかな?」

 大演説を遮って由紀夫が言う。キンパがギロリと由紀夫を睨む。映理子もあんちゃんもカツくんも、由紀夫の勇気に驚き、怯えた。

「お願いしてもね、彼等は言うことを聞かないんだよ。金持ちって言うのは、大体自分が偉い、正しい、と思っている。人に指示して生きている。無視されるだけなんだ」

「言うことを聞かないなら殺します。と手紙を出してはどうでしょう?」

 キンパはニッコリとしてカツくんを見た。

「カツくんは物わかりが良い。それは良い手だ。たまにやるんだよ。小金持ちにはね。でも、お金があると使いたくなるんだ。一時効果があっても結局浪費が再開される。それに、警戒してボディーガードを雇われて、殺すのに手間がかかる。殺しの基本は騙し討ちだ。だから本当に殺す相手には警告はしない。よく覚えておいて」

 カツくんは首を縦に振った。

「難しい言葉が多くてよく分かりませんでした」

 あんちゃんが言った。

「今日はこれくらいにしよう。算数や国語の勉強も必要だけどね、自然バランスの授業もとっても大事だから、みんな頑張っていこう」



           *



 あんちゃんと映理子は休み時間に体育館に遊びに来た。体育館には大きな鏡があってダンスの練習ができる。あんちゃんはとってもダンスが得意で、映理子は見惚れていた。映理子にはとても無理だ。

「思ったように動けばいいんだよ。細かいことは後でいいん。まずは恥ずかしさを克服することだね」

 うん、と返事するが映理子はあんちゃんのダンスを見ているだけで幸せだった。

 しばらくして汗をかいたあんちゃんが映理子の隣に座った。

「昨日キンパが話してたことさ、どう思った?」

 映理子は、スッと背筋が冷える。

「まだ私達には無理だと思う。大人達の話だよ」

「映理子って昔からキンパを知ってるんだよね? じゃあ、ずっと聞いてきた話なんじゃないの?」

「いや、初めて。キンパは私が赤ちゃんの頃から面倒を見てくれて、格好良くて、いつも優しくて、とっても大好きだけど、昨日のキンパは怖かった」

 特に由紀夫を睨みつけたあの目。怒らせた由紀夫が悪いけれども・・・・・・。

「子供だから無理とかじゃなくてさ、映理子はどう思うのさ」

 あんちゃんが鋭い声で言った。

 映理子は悩んだ。返事次第であんちゃんは映理子のことを嫌いになるかもしれない。

「私は人は殺せない。ごめん」

 あんちゃんは小さく、そっか、と呟いた。それから急に笑い出す。

「脅かしてごめん。そうだよね、私も同じ。人殺しなんて出来るわけないよ。何言ってるんだろう、あいつ」

 映理子もつられて笑った。

「良かった。あんちゃん、怖かったよ」

 あんちゃんは映理子の体をこちょこちょとくすぐった。


 笑ってて気付かなかったが、体育館の隅に女の人が立っている。年は恐らく四十前後、黙ってじっとこちらを見ている。

 施設の人でもない。映理子は、どこの誰かしばらく考えた。

「あの人、いつも来るんだよ。私のこと見てるんだ」

 あんちゃんが言った。

「誰なの?」

「私が昔殺した子供達のママ」

 しんと静まる。

「殺したの? 子供を?」

「あれ言わなかったっけ? 私さ、リセット前に、小学生の姉弟を殺してるんだ。九歳と七歳。かわいい女の子と男の子。お母さんに聞いたら、その子供たちをさ、傷めつけて殺したんだって。何でだろうね、私にも分からないんだ」

 映理子は返事が出来なかった。信じられない。

「もう思わないよね? 殺したいなんて」

「思うわけないじゃん。私はもう前の私とは別の人間なの。リセットされたの。だから、あんまり考えないようにしてるんだ。他人事だと思ってる」

「じゃあ、あのお母さんは何してるの?」

「分からない。何を考えてるのかな。憎くて殺したいのかな。そうかもね。でも何も話しかけてこないの。だから私も何も言わないんだ」

 あんちゃんの声は大きい。きっと女の人にも聞こえているはず。それでも少しも動揺した様子はなく、ただじっとこちらを見ていた。

「それにあの人、キンパの知り合いみたいなの。この前言い争いしてるの見ちゃったんだ」

 映理子は相槌をうちながら思い返す。そういえば昔、キンパと若い女の人が親しげに話していたのを見たことがある気がした。かなり曖昧な記憶だけど。

 あんちゃんは、映理子に耳打ちする。

「話しかけてみようと思うんだ。後で」

「やめなよ。殴られるかもしれないよ」

「いいんだよ。あの人がすっきりするなら。じっと見られるのって結構辛いんだ」

 二人は荷物を持って歩き出し、出口の手前であんちゃんは九十度向きを変え、女の人に近寄る。

「ねえ、どこに住んでるの?」

 女の人は目を泳がせて、黙っている。

「知ってるよ。あのスーパーの隣の一軒家でしょ。前に後を追いかけたんだ。結構近いんだね」

「何でそんなことしたの?」

 あんちゃんは、首を傾げて考える。

「どうしてだろう。見られる立場っていうのを知ってもらいたかったのかも。結構嫌でしょ?」

 女の人は俯いた。黒髪で顔が隠れる。

「ごめんなさい、傷つけていたよね。あなたのこと」

「いいんだよ。でもどうしていつも見てるの? 分かってると思うけど、昔の私じゃ無いんだよ。他人なんだよ」

 それから女の人は、何を聞いても返事しなかった。あんちゃんは諦めて戻ってくる。

「きっと明日も来るだろうな。あれじゃあ」

 あんちゃんが言った。

 二人はそのまま体育館を後にした。



            *



 部屋の机でカツくんが勉強をしていた。映理子が後からこっそり覗き込む。算数の勉強をしている。

 他の皆は庭で遊んでいる。ようやく雪が溶け、春の暖かい風が吹いている。

「真面目だね、カツくんは。休み時間も勉強するなんて」

 映理子が言った。

「九九が難しいからね。しっかり覚えないと、授業に遅れちゃう」

 カツくんは三の段を繰り返し暗唱している。サブロクあたりで分からなくなり教科書を確認する。

 映理子の記憶では、昨日は四の段を練習してた。

 映理子も隣りに座って、三の段を一緒に歌うように練習した。

「凄いね映理子ちゃん、三の段完璧だね」

「うん、まあね」

 映理子は九九は全て覚えている。あんちゃんも当然九九は間違えない。九九の勉強が始まってもう半年経つのだから。

 ・・・・・・まだ、三の段やってるんだ。

 映理子は、思った。

 確かカツくんはリセット前、記憶力の低下があって、それを苦に自分でリセットしたと聞いた。カツくんの脳も八歳だから、記憶力の低下は無いはずだけれども・・・・・・。

「僕さ、本当は勉強なんてやりたくないんだ。外でみんなと一緒にサッカーとかドッチボールをしたいんだけど、最近膝が痛くてさ、無理なんだ」

「サッカーは出来なくても、例えば椅子に座ってキャッチボールとかしたらどうかな?」

「いやだ。走り回りたいんだ。それに気を使われるのもいやだ」

「そうだよね、ごめんね」

 カツくんは教科書から頭を上げずに話し続ける。

「九九だって、一度は六の段まで覚えたんだよ。間違えずに十回も言えたんだ。それがさ、ちょっとのんびりしてたら言えなくなっちゃって、また三の段からやり直してるの。馬鹿だよね、僕」

 映理子が、カツくんの骨ばった肩に手を置く。

「馬鹿じゃないよ。だって一生懸命やってるじゃん。九九だってすぐ思い出すよ。それにね、キンパがいつも一番褒めるのはカツくんなんだよ。自信持ちなよ」

「キンパもさ、最近僕のこと諦めてる気がする。算数の授業とか、僕がついていけなくても、お前は別に勉強なんかしなくていいから、って思ってる。そう感じるんだ」

「そんなこと・・・・・・、ないよ」

 カツくんは、顔を上げて映理子を見た。

「でもさ、僕は別に悲しくないんだ。どうしてだと思う?」

 映理子は黙ってカツくんの目を見つめた。

「それはね、映理子ちゃんが一緒にいてくれるからだよ」

「そんなの大したことじゃないよ」

 カツくんが映理子の手を握った。少し震えている。

「初めて触った。映理子ちゃんの手。温かいね」

 しばらくそのままの状態でいたが、次第にカツくんの手に力が入ってくる。映理子は、少し怖くなって手を離した。

 カツくんは寂しそうに手を眺めてから言った。

「ママに会いたい」

 映理子にはママがいない。パパもいないが、キンパをパパのように慕っている。

「カツくんはどうしてここに来たの?」

「連れてこられたんだよ。来たくなかったのに」

 カツくんは、施設に来る前のことを話してくれた。


 リセット前の勝治さんが百歳近くになったころ、記憶力が低下し、八十歳の娘がずっと介護していた。ある日、勝治さんは家を抜け出した。家族が探し回ったが見つからず、しばらくして病院から連絡があった。病院のロビーで勝治さんが倒れている、様子がおかしいからすぐに来てほしいと。 

 娘はすぐに病院に駆けつけた。勝治さんがロビーの椅子に倒れ込んで泣いていた。いくら呼びかけても泣きやまない。娘のこともわからない様子だった。近くに卵の殻が落ちていた。病院に事情を聞くと、勝治さんは今日一人で病院にやって来て、百年近くずっと預けていた脳卵を受け取ったそうだ。長年病院に預けている人は沢山いるが、百年は最長だったとのこと。

 その後、会計待ちをしている時に急に今のような状態になった。恐らく脳卵を自分に取り込んだと思われる。リセットされてしまった。勝治さんは百歳にしてゼロ歳からやり直しの人生が始まってしまった。

 娘が母親代わりでカツくんを育てた。親である勝治さんが、カツくんになり、娘のことをママと呼ぶ。とても不思議な状況だが、ずっと介護をしていた娘としては、引き受けざるをえない。

 カツくんが十歳になったある日、ひ孫が家に来た。一つ年上の女の子だった。二人は一緒に塗り絵をしたり、カードゲームをして遊んだ。


「優しい子だったんだね、ひ孫の女の子」

 映理子が言った。

「その子がさ、死んじゃったんだ。五階のベランダから落ちて」


 二人がベランダで遊んでいると、蝶が飛んできた。カツくんは女の子を持ち上げて、塀の外を見せてあげた。

 カツくんのママが丁度その場面を見ていた。

 女の子が落ちた。体勢を崩して塀を乗り越えて。ママからはカツくんが女の子を抱え投げたように見えた。

 女の子の母親は半狂乱になって、死んだ娘を抱えた。カツくんも恐ろしくなってママに抱きつこうとしたら、ママはカツくんの腕を振り払った。

「近寄らないで、気持ち悪い。あなたのママなんかじゃない!」

 


「ママは目も合わせてくれなくなった。邪魔者みたいにここに送られた。それからなんだよね、腰や膝が痛くなったり、目が悪くなり始めたの。めちゃくちゃでしょ、僕の人生」

 映理子は言葉が出なかった。カツくんはたくさん失い、この狭い部屋の中、ひとりぼっちで必死に三の段を練習している。

「見つけないとね、生きる希望を」

 映理子はもう一度カツくんの手を握る。

「実はもう見つけてるんだ。映理子ちゃんと結婚することだよ」

 そう言ってカツくんは笑った。



            *


 

「たまに虫を食べたくなることがある」

 夏の暑い日、映理子と由紀夫は庭を散歩していた。庭は林とつながっていて、仕切りはなく、どこまででも歩いてくことが出来た。林は危ないから立ち入らないよう教えられている。

「昔は由紀夫も虫を食べてたんだよね。その名残かもね」

 辺りを見回すとそこかしこで四足人が虫を捕まえて食べている。由紀夫は彼らを横目に見ながら通り過ぎる。

「でももう虫を見るのが嫌になったんだ。もちろん食べたくもない」

「カマキリにでもいじめられたの?」

 映理子は得意気に由紀夫を見た。

「別に笑わないからね。面白くないし。この前、一人で庭を歩いてたらね、木にアブラゼミがとまってたんだ。なんか無性にお腹が空いた。桜海老をサクサク食べたくなる感じに似てるかな。それで近づいたんだけど全然逃げない。どうしたんだろう、死んでるのかなと思ったけど、ちょっと足が動いてる。近づいてよく見たらさ、セミがピンで木に打ちつけられてたんだよ。生きたまま。驚いて後ずさって分かったんだけど、他にも五匹くらい磔にされてたんだ。標本だと何も思わないけど、それは異様で怖かった。食欲も失せたよ」

「酷いね。無駄に生命を奪って」

「それがね、あながち無駄とも言えない」

 由紀夫は、眉をひそめた。

「磔セミの周りは蝉の鳴き声が止んでいた。見せしめだったんだよ。それで思い出したんだけど、その前の夜にキンパが、セミが五月蝿くて寝れないって文句を言ってたんだ」

 二人は黙って歩いた。

「キンパって優しいけど、たまに怖いとこあるよね」

 映理子が言った。由紀夫は、返事しなかった。


 しばらく歩いていると、四足女が近づいてきた。彼女は、肩の高さに揃えて髪をキレイにカットされており、とても女らしい顔をしていた。上下セットのベージュの肌着のような服を着させられている。

「その子、由紀夫に興味あるみたいだね」

「辞めてよ。一緒にしないで」

 海でイルカがサメに出会った時、見ためは似ているが、目を見て全く別種の生き物と悟るだろう。サメの考えは分からない。姿が似ていることすら汚らわしいと感じるかもしれない。由紀夫も同じ気持ちだった。

「でもほら、ずっとついてくるよ」

 この施設の四足男はみな去勢されているけれど、四足女は去勢されていない。四足男のように歩き、かつ睾丸の匂いのする由紀夫に惹きつけられるようだった。

「ちょっと遊んできなよ、可哀想じゃない」

 映理子は、ニヤニヤしながら言った。

「からかい過ぎだよ。いつもさ」

 しつこく映理子に言われて、仕方なく由紀夫はその子と並んで歩いた。映理子はこっそり後をつける。由紀夫は何度も振り返って映理子を見た。

 その子は林の方に向かって歩いていく。由紀夫も従って歩く。湿った草が由紀夫の足を濡らした。

 人気のない場所に着くと、彼女が突然由紀夫に飛びつき、由紀夫を仰向けに倒して馬乗りになった。それから由紀夫の顔をペロペロと舐め始める。その唾液の臭さに由紀夫は悲鳴を上げる。それから彼女は由紀夫のズボンの中に顔を突っ込み、モソモソと舐め始めた。

 陰から見守っていた映理子は何が起こったのか分からず、震えが止まらなかった。

 由紀夫が、四足女を突き飛ばし走ってきた。

「逃げるよ」

 由紀夫は映理子を背中に乗せ、走り出した。風を切り、笛のような音が鳴る。四足女は追いかけてこなかった。どこか寂しそうな顔をしていた。

 翌日、映理子と由紀夫が庭を見回ったけれど、彼女は見つからなかった。それから一度も見かけていない。



            *



「この前、大発見があってさ」

 部屋であんちゃんが興奮して話す。

「トイレでウンチした後、消臭剤吹きかけるじゃない。あれをね、お尻にも吹きかけてみたの。そしたらめっちゃ効いた!」

 映理子とカツくんが笑う。

「効いたって何が?」

「匂いだよクサい匂い」

「あっやっぱり」

 由紀夫が入ってくる。

「やっぱりって何よ、由紀夫くん」

「僕さ、頭が低いからさ、結構みんなのお尻の匂い嗅いでるんだけど、そういえば最近あんちゃんのお尻クサくない」

 映理子とカツくんがまた笑う。

「勝手にお尻の匂い嗅がないでくれる?」  

 あんちゃんも笑った。

 みんなで楽しく話していると、ドアが開いてキンパが部屋に入ってきた。

「いよいよ実習に入る」

 キンパがホワイトボードの前に立って言った。四人は席についた。『みんなでつくる自然のバランス』の授業も、毎日聞かされているうちに、大分理解できるようになってきた。人間が多すぎるのは問題だなと、みな感じはじめていた。

 キンパは四人を連れ施設の廊下を歩く。それから地下に降り、鍵のかかった部屋を開ける。施設のことなら何でも知っているはずの映理子も、知らない部屋だ。

 中は薄暗く、魚のような匂いがした。キンパが部屋の電気をつけると、そこはおかしな空間で、部屋の右半分は黒く、左半分は白い。天井も壁も床もである。真ん中に両足を鎖につながれた裸の四足女がいた。鎖は床に固定されている。

 映理子は息をのんだ。由紀夫を襲った、あの四足女だった。

「人間を間引くと口で言うのは簡単だけど、実際に自分で手を下すとなるとまた別問題だ。慣れる必要がある」

 キンパは、棚から刃渡り四十センチはある刃物を取り出した。

「マチェーテと言って、ほどよく重く、首を切るにはもってこいの武器だ。持ってみろ」

 あんちゃんがマチェーテを受け取った。手が震えている。すぐに映理子に手渡す。

 映理子は、不思議と心地よい重さと感じた。手になじみ、腕の一部のように感じる。刃は研ぎ澄まされ蛍光灯の光を反射して鈍く光る。刃物としては一流品だろう。

 由紀夫に渡そうとしたが、断られた。仕方なくカツくんに渡す。カツくんには少し重いのか、腕がガクリと下がったが、両手で何とか持ち上げ、二三度振ってみせた。

「じゃあまず、あんちゃん。行け」

 あんちゃんは再びマチェーテを手にして四足女の横に立つ。四足女の髪は下に垂れ、項がしっかりと露出している。

「殺す、殺す、殺す、殺す」

 あんちゃんは何度も口ずさむが、手が動かない。

「やれ」

 キンパが怒鳴りつけた。あんちゃんはそれでも動けず、結局座り込んで泣き出してしまった。

「もういい、下がってなさい。次、映理子」

 映理子がマチェーテを受け取る。四足女は、やはり寂しそうな顔をしていた。身体には細かい傷や打撲痕がたくさんある。行方不明になった日から二週間、ずっとこの部屋にいたのだろうか。何をしていたのか。

 昔、映理子は四足人に怖くて近寄れなかったが、だんだん慣れてきて、背中に乗って遊んだりもした。ただ虫を探してばかりいて、たまにぐおーっと鳴く穏やかな生き物である。

「出来ません」

 映理子は、キンパに頭を下げて返す。

「後に下がってろ」

 次、キンパは由紀夫に渡そうとしたが、受け取りもしなかった。

「何もできないのか?」

 キンパの冷たい声が響く。由紀夫は震え上がって蹲り、僕には出来ません、と繰り返し呟いた。

 最後、カツくんに渡す。

「俺はな、一番カツくんに期待してるんだ。きっとやってくれる。頼むぞ」

 カツくんは、マチェーテを両手で握り、じりじりと四足女に近付き、キンパを見た。

「もし僕が出来なかったら、この班は役立たずってことになりますか?」

「ああ役立たずだ。俺はがっかりする。何のために教えてきたのか」

 カツくんは震える手で大きく振りかぶり、ドスンと四足女の首を落とした。噴水のように血が噴き出る。あんちゃんが悲鳴を上げる。映理子と由紀夫も目をつぶって耳をふさいだ。

 キンパは一人、恍惚としてカツくんの頭を撫でた。

「良くやった。できる奴は初日からできて、できない奴は二度とできない。首落としはそういうものだ。カツくんは凄い。優秀な男だ」

 カツくんは、無言で戻ってきた。

「さあ次だ。この四足女は死んだ。もう血も出きっただろう。これから両足両腕の付け根を切断する。まずはあんちゃんだ、やれ」

 あんちゃんは、うつ伏せに倒れる四足女の左腕の脇に座った。

「鶏肉を捌くと思えばいい。もう生きてないのだから同じだ」

 あんちゃんは左肩の後から刃を入れ、上手に肩関節を露出してみせた。力んでいる様子はなかった。

「できた」

 涙も乾かぬあんちゃんが微笑む。

「上手だな、左足もやってみよう」

 あんちゃんは、左股関節も簡単に露出してみせた。そのままぐるりと靭帯を切って簡単に左脚を胴体から切り離した。まるで体に染みついているように手際が良い。

「もう十分だあんちゃん。その辺にしておけ。よし。次、映理子」

 映理子は血が苦手だった。血を吸った刃物を見て、思わず部屋の隅で吐いた。キンパは映理子の脇に座って背中をさする。

「無理するな。少し休んでろ」

 キンパは立ち上がると由紀夫を睨む。

「由紀夫、できるか?」

 由紀夫は、初めてマチェーテを受け取った。左手を床につけて体を支え、右手で刀を持つ。血が、由紀夫の手首から肘まで滴ってくる。思わず刀を落とした。

「やっぱり僕には出来ません。ごめんなさい」

 キンパは、しばらく由紀夫を睨みつけ、脇腹を蹴った。

「役立たずが」

 それから布巾で刀の血をキレイに拭い言った。

「役割が決まった。カツくんは実際に殺す係の処置役、あんちゃんは事後の解体・証拠隠滅する清掃役、そして映理子は相手を誘惑する誘い役だ。由紀夫は強力な兵士になると思ったが、とても残念だ。よく反省するように」

 四人は呆然としてキンパの話を聞いた。

「実は俺は清掃役なんだ。だからあんちゃんと同じだ。清掃を甘く見るな。部屋の色や、材質によって血を消すための薬品も異なる。何も証拠が残らないように迅速に作業するのはとてもテクニックがいる」

 あんちゃんは大きく頷く。

「これからはあんちゃんとカツくんがペアで動く。一ヶ月に一回、今日と同じようにカツくんが首を落とし、あんちゃんが解体と清掃だ。映理子は誘い役として俺が後で指導する。由紀夫は自分で出来ると思ったら俺に言え。一人だけどんどん取り残されていくぞ」


 その夜、ご馳走が部屋のテーブルに並んだ。チキンにコーンスープ、グラタンにコーラ。みんな飛びついて食べ始める。あまりの美味しさに笑みがこぼれる。

 由紀夫だけは席につかず二段ベッドの上で蹲っていた。

「どうした由紀夫、一緒に食べるぞ」

 キンパが声をかけた。

「いらないです。役立たずですから」

 皆の手が止まる。キンパは立ち上がってハシゴを登り由紀夫のそばに座った。

「由紀夫、落ち込むな。お前は物凄い力を秘めてるんだから。期待してるんだぞ。明日はできる」

 そう言って由紀夫の頭を撫でる。

「明日もできる気がしません」

「まあ、そう言うな。由紀夫の分は机に残しておくからな。夜にでもこっそり食べろ」

 映理子は由紀夫に声をかけれずにいた。映理子も由紀夫もこの施設では居候である。育ててくれた恩返しをしなければと常に思っている。役立たずという言葉は一番つらかった。そうかと言って、同じように何もできなかった自分が頑張れとも言えない。

 夜、由紀夫の食事だけが机に残った。映理子は寝ずに起きていた。

「映理子、授業だ」

 不意にキンパに声をかけられる。夜中の十一時である。

「今からですか?」

「映理子の誘い役は夜に働くんだ。この時間じゃないとダメだ。ついてこい」

 キンパと映理子は部屋を出て、小さな子供が遊ぶプレイパークに来た。絵本や、積み木なんかが脇に置かれ、床には柔らかいマットが敷いてある。映理子にとっては懐かしい空間だ。

「何故映理子が誘い役だか分かるか?」

「分かりません」

「それはおまえが美しいからだ。他の誰よりも圧倒的にな。男はもちろん、女だってお前に微笑まれたら気を許すだろう。でもな、神経質な目をしたり、偏屈だったりすると、警戒される。誰にでも気を許して、どこにでもついて行っちゃいますよという、不安定さが必要だ」

「よくわかりません」

「それもダメだ。授業中は敬語でいいが、誘い役のときは相手がいくら年上の男でも馴れ馴れしくタメ口で話してみなさい」

「分かった」

「どうして、男がお前に引っかかると思う?」

「それは、私が美しいから?」

「美しいから、なんだ? 美しくてそれで、男は映理子に何がしたい?」

 映理子は、四足女が由紀夫を襲ったときのことを思い出した。あれはきっと男と女のものだ。恐らく、我慢できないもの。

「抱きつきたい?」

「そうだよ、分かってるじゃないか」

 キンパが映理子の口にキスをした。

「何?」

 驚いて飛び退く映理子。

「何じゃない。お前には全てを知ってもらう必要がある。大人の女になるんだ」

 キンパは、映理子を押し倒した。映理子は恐ろしかったけれど、いま頑張れば恩返しができる。そう思った。

「待って、約束して。もう由紀夫を殴らないって。それなら、何でもいいよ」

 キンパは大声を出して笑った。

「そうだよ、それだよ映理子。自分の魅力で相手に言うことをきかせるんだ。さすが俺の映理子だ。分かった、約束しよう」

 二人の汗の匂いが部屋に充満する。

 それから毎晩のように部屋を抜け出し、プレーパークで練習をした。事後、キンパはいつも、映理子に色んな話をする。自分は物心ついた頃からこの施設にいて、リセットされた人をたくさん見てきたこと。親はおらず、外ではケンカを繰り返し、身体には古い傷跡がたくさんあることなど。

「以前、俺にも愛した女がいた。子供が二人できたけど殺されちまったんだ。あの時は辛かった。でも全部、黒に裏返ってる俺のせいなのかもしれない。その女にも振られちまったし」

「黒って?」

「どうでもいいことだよ」

 映理子は、キンパの普段と別の一面を覗けるのが嬉しかった。二人の関係が深まるのを感じた。



            *


 

 カツくんとあんちゃんの実習は、回数を重ねてどんどん上達した。カツくんは、見違えるように若返っていく。映理子も、声のかけ方、お酒の飲み方、必要な目の動かし方など細かい指導をキンパから受けて大分自信がついていた。

 由紀夫だけはダメだった。どの役割もこなせない。キンパは、段々と由紀夫を無視するようになった。映理子は、授業中も必死に由紀夫に話しかけるが、その度に不穏な空気になる。一日中ベッドから出てこない日もあった。

 ある日の授業、席についているのは由紀夫除く三人、キンパが言った。

「いよいよ実戦だ。みんなが必死で練習した成果を見せてほしい」

 映理子はゴクリと唾を飲み込む。ついにこの日が来た。

「ターゲットはこの女だ」

 若い女性の写真がホワイトボードに貼られる。

「名前は香川綾子(かがわあやこ)、四十五歳。女医だ。こいつは大きな自宅と別荘を一つ持っていた。再三の警告にも関わらず、先日二つ目の別荘を買った。ゴミの調査でも無駄なゴミを出し続け、水道ガス電気使用量も基準をはるかに超えている。こいつを始末する」

 カツくんが手を挙げた。

「確かにこの人はお金持ちかもしれないですが、もっと金持ちはたくさんいると思います。どうして、この人なんですか?」

「そのとおり、いい質問だ。それは君達が初めての実践だからだ。イージーケースを選んだ。実はこの女はリセット前の映理子と知り合いだ」

 皆が一斉に映理子を見る。

「会ったことはあるか?」

 キンパが尋ねると、映理子は首を振った。

「何も知りません」

「そうか。映理子が警戒されず誘える。だからイージーケースなんだ。それにな・・・・・・」

 キンパが口籠る。

「なんですか?」

 カツくんが聞いた。

「実は、映理子は昔手術をしている。大失敗の酷い手術だ。そのせいで映理子はまともな子供が産めなくなった」

 しんと静まり返る。映理子は、瞬きも忘れてキンパの顔を見た。

「辛いが、事実だ。受け入れてほしい」

 映理子は、あんちゃんを見た。あんちゃんは映理子の手を握って言った。

「どうしてそんな酷い手術を?」

「誤診だ。この女にやられた」

 映理子の目に涙が溢れてくる。

「俺も許せないんだ。だから一人目をこいつにした。やるのは明日だ。綾子は犬を飼っていて毎晩散歩に出かける。そこを狙う」

 キンパは、作戦を詳しく説明した。三人は息をするのも忘れて作戦に耳を傾けた。張り詰めた緊張感にキンパは満足した。


 綾子は北命病院を退職し、今は産婦人科クリニックで働いている。お産もなく当直もなく緊急手術もなく、悲惨な癌患者さんを診ることもなく、定時で帰れて、給料は大学病院の二倍以上貰えている。過酷な大学病院に残る人のパターンは三つある。一つ目は手術や入院管理が好きな人。二つ目は医学の研究が好きで将来教授になりたい人、三つ目は新しく入ってくる初々しい研修医たちに慕われるのが堪らなく好きな人だ。女医は医者を結婚相手に選ぶことが多い。家で医学の相談ができるし、給料も二倍でお得だし、育ってきた家庭環境が似てるので常識も似通っていることが多いからだ。綾子も結婚相手は医者希望だった。研修医の男の子たちに指導しながらこっそり結婚相手を探す。何なら医学生でもいい。毎年毎年訪れる青田刈りである。

 綾子は一度研修医と結婚したが、五年前に離婚して現在は独身。クリニックに移ってからは出会いもない。いよいよお見合いサイトに訪れる時期かなと考えている。

 秋の夕暮れ、綾子は日課の柴犬の散歩をしながらそんな事を考えていた。夏は明るい道なのに、秋になると薄暗い。明日からはもう少し早い時間に散歩に来ないといけないなと感じる。

 道の向こうから女の人が歩いてくる。薄手のベージュのジャケットにブラウンのロングスカートに白いスニーカーをはいている。綾子は一目見てその均整のとれたシルエットに見覚えがあった。すれ違う時、よく顔を見て気がつく。

「映理子じゃない? やだ久しぶり」

 そう言ってから、しまったと思う。映理子はリセットされたことを思い出した。旦那の玉井先生が死んだあと、理由は知らないがリセットされたと聞いている。あれから一度も会っていない。

「あれ? もしかして綾子? 十年ぶりくらいかな。嬉しい」

 弾けるような笑顔で映理子が言う。この尊い笑顔をまた見れて幸せだと綾子は思う。

「えっと、ごめんなさい、映理子ってリセットされたって聞いたんだけど、私のこと知ってるの?」

「リセットされたって、私が? 嘘だよそんなの。ひどい嘘。どうせまた元旦那の黄司とかが言ったんでしょ」

 噂の出どころはわからない。でも病院ではその話でもちきりだった。

「辛いことがあったからさ、引っ越したんだ。九州の方に。今日は啓司さんのお墓参りに戻ってきたの」

 綾子は嬉しくなった。失ったはずの親友の映理子が戻ってきたのだから。

「ごめん、私もう行くね」

 映理子が手を振って歩き去っていく。綾子は不安に襲われる。もう二度と会えない気がした。

「待って、私も一緒にお参りいきたい。いいかな?」

 映理子はまたニッコリと笑った。

「うん、もちろん」

 二人はしばらく歩いて、霊園につく。辺りはもうすっかり真っ暗である。映理子は、準備よく懐中電灯を取り出して明かりをつけた。

「ねえ、何もこんな時間にお参りしなくても。明日でいいんじゃない?」

 綾子が言った。

「明日はもう九州に帰るんだ。それにほら、あそこでもおじいさんがお参りしてる。結構いるんだよ、夜のお参り」

 映理子の少し前を杖をついた老人が、月明かりだけで歩いている。足元がおぼつかない。

 綾子は、映理子の腕にしがみついた。

「分かった、じゃあ行く。でも、終わったら絶対に一緒にパフェ食べるからね。約束ね」

「うん、約束」

 二人は歩き始める。

「こうやって夜道を歩いてるとさ、研修医で救命まわってた時思い出すね」

 綾子が言う。

「え、そうだっけ?」

「夜中まで患者さんみてさ、その後、プレハブの仮眠室まで一緒に歩いたの思い出した。ほら、あそこ田舎だからさ、周りは真っ暗だし、超怖かったじゃん。あの時もこうやって映理子にくっついてたよね。私」

「そうだったね」

「映理子ってば、どこに行ってもすぐ愛人になってくれって言われてたよね。二人で愛人の意味調べたね。でも映理子と一緒にいると、ついでに私も優しくされるからラッキーだったんだ」

 映理子は黙った。難しい言葉が多いが、色んな思い出があったんだと知った。きっと私もその頃は綾子と同じ気持ちだったのだろう。親友と感じてた。手術を失敗されたとき、私は綾子に何て言ったのだろう。やっぱり怒ったのかな? それはそうだよね、きっと。

「そういえば、由紀夫くんはどう? 元気かな」

 綾子が言った。

「相変わらず。去勢したから暴れることはなくなったけど、前よりもっと人間味なくなったよ。いるかいないか分からない」

「そう、去勢したんだ。そうだよね男の子だもんね。辛かったね」

「私が脳卵作れたら良かったのにな」

 綾子は顔を伏せた。

「私ね、あれからずっと怒ってるんだ、あなたに。手術失敗されて」

「そんな、あなただってあの時は納得してた」

 映理子は立ち止まり、綾子を睨みつけた。

「納得なんてしてない。一度も」

 綾子は泣きそうな顔をした。

「ごめんなさい、私だって、親友のあなたを傷つけたいなんて思ってなかった。真剣に自分のことのように考えて、それで」

「ふーん、そうなんだ」

 映理子は冷たくあしらう。

 前でおじいさんが転んだ。

 綾子は、映理子の視線から逃げるようにおじいさんに駆け寄る。おじいさんの右手が仕込み杖に伸びる。

 ああ、死ぬ。このまま綾子はカツくんに首を切られる。

 映理子は、綾子の背中を見た。綾子の笑顔が思い浮かぶ。嘘はなかった。

 本当にいいのだろうか。

 あの笑顔を殺していいのか。もし殺すにしても、もう少し悩んでからでも遅くないのではないか。早まったらもう取り返しがつかない。

「ねえ、ちょっと待って」

 映理子が声をかけた。綾子が立ち止まって振り返る。カツくんが刀を抜いて、後にスパンと振り抜く。

 それが同時だった。

 ハッと息をのむ。

 綾子の首は、落ちなかった。綾子が一瞬立ち止まったおかげで、傷が浅かった。それでも首から少し出血がある。

 綾子は悲鳴を上げて逃げ出した。映理子の脇を通る時、悲しさと恐怖が入り混じった表情を映理子に向けた。映理子は、その顔を見て、分からなくなった。自分が何を訓練されてきたのか、本当に受け入れているのか。

 脇からキンパとあんちゃんが出てくる。キンパはじっと映理子を見つめていた。



 部屋に戻ったのは深夜だったが、そのまま反省会が開かれた。

「映理子、あの時なんで声をかけた?」

 キンパが映理子を立たせて質問する。

 映理子は黙ったまま返事しない。

「土壇場の裏切りはな、仲間を一番危険に晒すんだ。そういう奴は二度と信用できない。分かるか?」

 カツくんが手を挙げた。

「裏切ったのではないと思います。声をかけて香川を振り向かせて隙を作り、僕が処置しやすいようにしてくれたんです。切れなかったのは僕が下手だったからです」

 キンパがカツくんを見る。

「カツくん、お得意の物忘れのようだね。映理子が声をかけなければ君の刃は間違いなく首をとらえてた。余計なことをしたんだよ、こいつは。間違いなく裏切り行為だ」

 あんちゃんも手を挙げる。 

「逃げた綾子はどうするのですか? 警戒されてもう近づけません」

「あいつは、控えていたベテランの班が処置した。新人だけに任せられないからな」

 映理子の眉が曇る。

 結局殺されたのか。無駄だった。

「映理子には罰を与える」

 キンパは映理子の手を引っ張って部屋を出た。容赦ない力である。

「ねえ、何するの?」

 映理子が不安そうに声をかける。

「黙れ。馴れ馴れしくするな」

 その声色に映理子の体は縮み上がった。ここまでキンパを怒らせたことはない。初めて自分の犯した過ちの大きさを知った。

 階段を降りて地下に行き、あの白黒の訓練部屋に入る。真っ暗である。キンパは、懐中電灯で明かりをつけ、映理子の両足を鎖で地面に固定した。

「ここで一日過ごすことだ。あとでバケツだけ用意してやる」

「許して下さい。もう失敗しないです。ごめんなさい」

 映理子の声は震えている。キンパは、無視して、出口まで行くと振り返って言った。

「そういえば電気はつけたほうがいいか? それとも暗闇が好きか?」

「つけて。明るい方がいい」

 映理子は暗闇が苦手だった。

 キンパはニヤリと笑う。

「そうか、じゃあ電気をつけよう。また明日な」

 キンパは部屋を出ていく。パッと部屋に明かりがついた。白と黒と赤の壁が映理子の目に飛び込んでくる。

 赤? 

 白い壁が一部赤く染まっている。

 初めて生臭いにおいに気がつく。脇を見ると、首を切られた綾子の死体が転がっていた。足と手は切断されバラバラに散らばっており、首だけは立てられて真っ直ぐ映理子に向けられている。右目は大きく開かれ黒目が外側上方を向き、左目は瞼が半分ほど閉じられ黒目が下を向いている。

 映理子は悲鳴を上げて、嘔吐した。自分のすぐ近くまで血の溜まりが迫っている。

 この部屋に一日監禁される。悪夢だった。

 映理子はまた激しく嘔吐した。喉がヒリヒリと痛み、吐瀉物に血が混じりはじめていた。

「助けて!」

 誰も返事をしてくれない。

 映理子は、死体の反対側を向いて横になる。血の匂いと吐瀉物が混じった酷い臭いがする。しかし、ありがたいことに、もう深夜の三時になる。眠気が襲ってきた。

 ふと、誰かに揺り起こされる。

 由紀夫がいた。

「逃げよう」

「逃げるってこの部屋から?」

「この家からだよ。こんな酷いところ、いられない」

「ずっと育ってきた家だよ。逃げるなんて」

 映理子は、懐かしく楽しかった思い出をふりかえる。

「あれを見ろ」

 由紀夫は綾子の死体を指さす。

「まともなわけがない」

 映理子は戸惑ったが、由紀夫のまっすぐな目に吸い込まれた。信頼できるのは、由紀夫だけだった。

「でもこの鎖が」

 由紀夫は、鎖を握る。両腕が膨れ上がり、顔に太い血管が浮かぶ。鎖が変形し始め、千切れた。

「凄い。由紀夫、本当に凄いね」

 由紀夫が映理子を背中に乗せようとした時、ドアがあいた。キンパである。眠そうな目をこすって、あくびをしている。

「あんちゃんにさ、突然起こされたんだ。由紀夫が部屋を出たって。映理子を助けにいくに違いないって。そのとおりだったな」

 キンパは由紀夫にジリジリと近寄る。

「由紀夫、お前はさ、邪魔ばかりするんだな」

 唐突に由紀夫の脇腹を蹴り上げる。由紀夫の口から噛み殺した声が漏れる。

「育ててきた恩も忘れて。いらないんだよ。そういう奴は」

 キンパが執拗に由紀夫を蹴り続ける。映理子はキンパの脚に抱きついて止めようとするが、暴力は止まらない。

 突然、由紀夫の目つきがかわる。燃えるような赤色になったかと思うと、瞬膜が閉じ完全な白目になる。右腕に力が入って急速に膨らみ、指が鉤爪のようになる。般若の顔をしている。

 キンパは、急に怖気づき、後ずさる。

「殺しちゃダメ。由紀夫」

 キンパに飛びかかろうとしていた由紀夫の手が止まる。

「てめえ、マジで殺してやる」

 キンパが叫びながら由紀夫に馬乗りになり首を絞めた。

「やめて!」

 映理子が泣き叫ぶが、キンパの手を緩めるはずもない。

「手を離しなよ」

 後ろで声がした。カツくんが立っていた。手には抜き身の仕込み杖を持っている。

「なんだ、お前まで俺に逆らうのか。そんなガリガリの体で俺とやろうってのか?」

「さっさとキンパも持ちなよ。武器をさ」

 カツくんは、ゆっくりとキンパに近づく。その歩みに躊躇いはない。キンパは慌てて駆け出すと、棚からマチェーテを取り出した。途端に自信ありげな顔に変わる。

「先生の俺に叶うわけがないだろう。昨日今日覚えたような奴が」

 カツくんの歩みは止まらない。

「キンパは掃除係だろ。つまりできなかったんだよ、首落としがさ。お前言ってたよな、できない奴は二度とできないって。一度もないんだろ、首落としたこと」

「隠居してろジジイ!」

 キンパが走って飛びかかる。カツくんは冷静な目で見つめる。

 確かにカツくんの言ったとおりだった。

 刃の速さが違う。迷いがない。カツくんの振るった仕込み杖の刃は、左からきれいな円を描き、飛びついてきたキンパの首を通り抜けそのまま右に抜ける。キンパはまだ振りかぶった段階だった。

 映理子の目から涙がこぼれる。

 キンパの頭が落ちて、血が噴き出し、カツくんの顔に容赦なく降りかかった。カツくんはそれを拭おうともせず佇み、それから映理子を見た。

「奥さんのためだもん、これくらい何ともない」

 へたり込んでいる映理子の前までカツくんが歩いてくる。

「僕のこと、好き、じゃないよね?」

 映理子は、カツくんの目を見つめる。

「好きじゃない」

 カツくんは悲しそうに笑った。

「そうか、分かった。早く逃げな」

 由紀夫は映理子を背中に乗せ一気に走り出す。映理子が振り返るとカツくんは力なく手を振っていた。

 

 正面玄関には警備員がいるが、裏手の林には何故か警備員がいない。逃げるならそこしか無かった。由紀夫は薄暗い林の中を走った。しばらく行くと白い影が左右の茂みに現れ、由紀夫を追いかけてくる。四足女達だった。凄まじい勢いで走り、牙を剥き出しにして追いかけてくる。

 四足人は縄張り意識が恐ろしく強い。余所者が入ってきたら多人数で襲いかかるのが常だ。普段ののんびりした動きからは想像もつかないほど速く走る。林の方に警備員がいない理由はこれだ。

「後から三体きてる!」

 映理子が叫んだ。由紀夫は走るので精一杯である。

 四足女がすぐ近くまで迫ってくる。瞬膜が閉じている。

 映理子は手に汗を握る。この人数に襲われたら、とても叶わない。・・・・・・殺される。

 必死の中、ふと思いつく。白目、これは目を守るための行動だが、視力は落ちる。この月夜で由紀夫の高速を捉えるのは厳しいのではないか。彼女達は匂いや音を頼りに追ってきている可能性がある。

 ポケットに香水があった。キンパからプレゼントされたもの。大人の女は香りを大切に、とよく言われた。大切なものだった。

 映理子は瓶の蓋を開けて、中身をあたりに撒き散らして、最後に瓶を放り投げた。

 四足女達は、急ブレーキをかけた。音と匂いが乖離して戸惑っているようだった。

 由紀夫はその間に走り去り、何とか林を抜けた。

 荒い息をはく由紀夫。映理子は由紀夫から降りると優しく頭を撫でた。

「頼れる弟だね」

 由紀夫は嬉しそうに笑って言った。

「どこに行く?」

 自分達には外に頼れる人間など一人もいない。知り合いはほぼ皆施設にいたから。

 思いつく人間は一人しかいない。


 近所のスーパーの隣の家に行く。

 ここはあんちゃんを見ていた、あの女性の家だ。インターホンを鳴らす。聞き覚えのある女性の声がする。

「あんちゃんと一緒にいた蛇澤です。相談したいことがありますので入れてもらえますか?」

 しばらくしてドアが僅かに開く。女性は、由紀夫を見ると慌ててドアを閉じた。

「私を殺しにきたの?」

 震える声がドアの向こうから聞こえる。何故かわからないが私たちの秘密の仕事に勘づいてるようだ。

「違います。そこから逃げてきたんです。耐えられなくて。由紀夫も四足男に見えるけど、脳卵が入ってるので人間なんです。怖くないですから」

 映理子も必死だった。

「土山あんなは、あの女は来てないの?」

「来てません。私達だけです」

 ドアが薄く開く。

「聞きたいことに何でも答えます。どうか入れてください」

 女性の顔が不意に無気力になる。

「どうぞ、ご勝手に」

 映理子と由紀夫は、急いで玄関に入り、そこで留まった。

「ここで十分です」

 映理子が言った。

「何言ってるの。上がって。それにお風呂にも入りなよ」

「はい、ありがとうございます」

 二人で声を合わせて言った。

 映理子達は女性の態度の変貌が理解できなかった。昔読んだ山姥の話を思い出す。でも怖くなんてなかった。

 二人はお風呂に入ると、勧められるままに食卓に着き、朝食を頂いた。ようやく二人に笑顔が戻る。

 女性は何も言わない。

 映理子はご飯を食べ終わってから、頭を下げて言った。

「あの、少しここで寝かせてもらえないですか? そうしたら出ていきますので」

 出ていっても行く宛など無い。無計画。映理子はまだ小学生である。

 女性は、じっと二人を見つめた。

「私がどうして、土山あんなを見にいっていたか分かる?」

 映理子は首を振る。

「分かりません」

「憎んでると思う?」

「いいえ」

「どうしてそう思うの?」

「憎しみを感じなかったからです。だから来ました」

 女性は初めて笑った。

「分かっちゃうんだ、そんなこと」

 昔の話を聞かせてくれた。女性はシングルマザーだった。大切な子供二人が殺された。当然憎いが、犯人はリセットされた。今の土山に罪はない。気力がすべて失われた。動くこともできなくて、寝たきりになった。そんな時、偶然土山をスーパーで見かけた。お菓子コーナーで駄菓子を選んでいた。その姿が悔しくも娘の様子と一致した。施設に住んでいると知り、土山を見にいった。ダンスを踊っている姿も、不思議と懐かしかった。

「あなた達が、ご飯食べてる姿もね、どこか私の子供達に似てるんだ。素直な返事も。それにね、私、若い頃、四足子を産んだの。子育てが嫌で脳卵も入れずにある夫婦に預けたの。それを今でも後悔してて・・・・・・。あなたのおかげで救われたの」

 女性は映理子を真っ直ぐ見つめる。映理子には何の話か分からない。

「だからね、もし嫌じゃなければずっとここにいて欲しいんだ。私のためにも」

 映理子と由紀夫は顔を見合わせて嬉しそうに抱きあった。


 秋晴れの気持ち良い朝、街路樹は紅葉し、日差しは柔らかい。

 施設はあんなに近いのに誰も二人を捕まえに来ない。人は溢れている。キンパが消えれば次がいる、ということなのだ。

 由紀夫と映理子は縁側に座っていた。ぽかぽかと暖かい。映理子は由紀夫の背中を優しくさする。なんだか、とても懐かしい感じがする。

「ねえ、ママ」

 由紀夫が言った。

「ママじゃないでしょ、お姉ちゃんでしょ」

「うん、でもなんか、ママな気がするんだ。何でだろう」

 由紀夫はそのまま眠ってしまった。その寝顔が可愛くて、映理子は思わず微笑んだ。



終わり


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『卵を産む女』 香森康人 @komugishi

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