第3話 リセットの卵

 空は常に曇っていた。映理子の下がった瞼が世界を暗くする。

 手足は冷え、動悸で胸が苦しくなる。頭に汗が吹き出し、常にオドオドしていた。外出するときも、黒く大きな帽子を目深に被り、マスクで顔を隠す。我堂家の人々や、餅助の行方不明について警察が調べている気配はない。人付き合いが少なかったのか。映理子は毎日ニュースを確認するが、いつもホッと束の間の安心を得る。

 いつ、冷たい目をした警官に肩を叩かれるか。小心者の映理子は、考えただけで息が止まりそうになる。自首するべきだが、卑怯な自分が口をつぐむ。そう思うたびにゾクッと寒気がして、ああやっぱり犯罪者なんだなと感じる。恐怖は生涯付きまとうだろう。死すら、頭をよぎる。

 生きるか死ぬかなら死ぬ方を選べ。

 この言葉が優しく映理子に響く。その通りかもしれない。 


「話してくれないよね」

 啓司はそう言って笑った。由紀夫を膝の上に乗せて優しく背中を撫でている。

 映理子は黙っている。懐の広い夫でも、言えない。

「実は人を殺しました、合計四人も」

 無理だ。妻が殺人鬼と知ったら、どんな男でも青ざめて逃げ出すに違いない。彼の目の色が変わるのが怖い。

「あの日でしょ、僕の顔見たら慌てて起き上がって無理して笑顔作った日。目の下がクマだらけだった。以前も由紀夫のことで落ち込んでたけど、あの日を境におかしくなった。僕に何も話をしてくれなくなった。そうだよね?」

 頭の良い啓司の余計な詮索が鬱陶しかった。これ以上何も聞かないでほしい。

「色んな作戦を考えたんだよ。しつこく問い詰めるか、温泉にでも行く、探偵を雇うか、酔わせてうっかり喋ってもらうか。どれもダメだ」

「隠し事なんてしてないよ」

「またそれだ。最近ハグもさせてくれない」

 啓司の顔がふっと暗くなる。

「浮気してるの?」

 映理子は力なく首を振った。

「啓ちゃんを苦しめてるよね。私は酷い人間。でもふっといなくなったりしないから心配しないで」

 ふっといなくなりたい、そう思ってるのに、よくもぬけぬけと嘘がつける。

 啓司は不安そうに映理子を見てから、しばらく宙をみた。次の作戦でも考えているのかもしれない。


 由紀夫と一緒に、歩き慣れた静かな遊歩道をゆっくり進んだ。黄金色のイチョウのアーケードに、黄色い絨毯。青々とした秋の高い空が覗く。全て無意味。何の癒やしにもならない。

「待ってましたよ」

 後ろから声をかけられ、ビクリとして振り返る。金髪の男、あいつが立っていた。髪とイチョウの葉が溶け合っている。薄笑いを浮かべていた先日とは違い、神妙な表情だ。

 映理子は無視して歩く。

「辛いでしょう、あなたの気持ちはよく分かります」

 男を振り切るようにずいずいと先に進む。遊歩道に来たことを後悔する。脇道がない、逃げられない。

「警察は来ない。僕はあなたを安心させたい」

 思わず振り返った。

「我堂家も、餅助家も、あなたの指紋や証拠はすべて消しました。彼らも転居したことにして、既に手続きも済んでいます。新聞も止めました。直に新しい住人が来るでしょう。事件にはなっていません。だから、そんなに帽子を深く被ることはないんです」

「信じられない」

 男は、映理子の隣を歩いた。

「罠に嵌める気はないし、脅しもしません。ただ、辛そうなあなたを見てられない」

 由紀夫を抱えて走り出した。男はもう追いかけて来なかった。

 家に帰ってからも、男の言葉が繰り返し頭に響く。罪が消えるわけではないが、少し気が楽になった。それは事実。夜ベッドに入り、窓から月を眺めながら、あの金髪男の顔が浮かぶ。もっと話を聞きたかった。

 翌朝、啓司が仕事に出てから、待ちきれないように家を出た。由紀夫は家においていく。

 また遊歩道を歩いた。人気がない。来てないのだろうか。ベンチで本を読んで時間を潰す。一時間程たち、遠くからあの男が歩いてくるのが見えた。映理子は思わず立ち上がって、慌てて座り直す。弱味を見せると、ああいう奴はとことん付け込んでくる。

 黙って本を読んでるふりをしていると、彼はすっと目の前を通り過ぎた。ふっと顔を上げると、目があった。にっと笑って、白い歯が覗いた。

「良いところですよね、毎日だって来たくなる」

 彼は映理子の隣に腰を掛けて言った。

「そうね」

「あなたは昨日僕と話して楽になった」

「そうでもないけど」

「でもまだ辛いから、もっと楽にしてもらいたい」

「全然違うわ」

 彼は嬉しそうに微笑んで映理子を真っ直ぐ見つめた。映理子も本から顔をあげて横目で彼を見る。しばらく見つめ合った。

「良いよ。もっと楽にしてあげる」

「頼む」

「まず聞くけど、映理子さん、あなたは善人かな、悪人かな」

「善人、のつもりよ」

「それがいけない。それでは一生救われないよ」

 映理子は唇を噛んで堪えた。何でこんな奴に説教されているのだろう。でも、情けないが、自分では答えを見いだせない。

「善人が罪を犯すと、耐えられない。特に人殺しはね。いい人間であるはずの自分がどうして、と苦しみ続ける。辞めちゃえばいいんだよ、善人を。悪人になればいい。悪人なら悪いことをしても苦しまない。善人が良い事をしても苦しまないのと同じだよ」

「無茶苦茶な論理ね。じゃあ、あなたはもう完全な悪人って訳?」

「そうだよ。子どもの頃から悪人さ。とっくにオセロは黒に裏返ってる」

 彼は、大きくため息をついて、生い立ちを語りはじめた。小学生の頃、酷いいじめにあい、毎日のように殴られていた。殴り返したかったが、ずっと我慢していた。悪いことだと思い込んでいた。でも日々の継続した暴力の果てに、悪人に憧れるようになった。善人はうんざりだった。儀式のように万引をして、それからいじめていた奴らを思いっきり殴りにいった。石も使う、枝も使う、殴る刺す、何でもありだ。だって晴れて悪人になったのだもの。良いに決まってる。

 一度黒に裏返ったら、白には戻れない。戻ろうとすると、今までの行い全部が降りかかってきて、押し潰されるから。悪のほうがよっぽど楽だし、気持ちが良い。何をしたって罪の意識なんて感じない。相手に恨まれても、泣きつかれても、これっぽちも響かない。彼らは反省してほしいと求めてくるが、分かってないんだよ。反省なんてしないんだ。反省は白がやること。黒は悪事を働くのが自然なんだよ。

 みんなそうやって不遇な環境から少しずつ黒に裏返っていく。

「恐ろしい人。私には理解できない」

「いいかい、あなたは人を殺した。罪のない人も巻き込んで四人もだ。あなたのせいだ。しかも隠蔽した。あなたがどう思おうと、もう立派な悪人なんだよ」

 映理子は、男の顔を見れなかった。目の前が暗くなる。断定されると、そんな気がしてくる。

「楽になるには悪人になりきるか、死ぬかのどちらかだ。もしくは生涯苦しみ続けるか」

「それなら苦しみ続けた方がいい」

「無理だね。絶対無理だ。人間は弱い、必ず楽になる道を選ぶ」

 映理子は立ち上がった。来なければ良かった。危険極まりない。

「帰るのかい。もう一つ伝えておくよ。黒は白とは暮らせない。残念だけど、おしまいだよ。別れるしかない、旦那とはね」

「勝手に決めるな」

 男はふっと優しい顔になった。

「ごめんよ、怒らないでほしい。喧嘩なんてしたくない。ただ楽になる道を示しているだけだよ」

「もう会うことはないわ。あなたのこと、とっても嫌い」

 映理子が歩き出すと、後ろから抱きつかれた。

「やめて、離して」

「ほら、こんなに震えてる。怖いんだよ。不安なんだ。旦那にも打ち明けられない、気持ちが離れていく。子供は四足子、自分は悪人。安らぐ要素が一つもない。気持ちは痛いほど分かる。孤独なんだ。僕もそうだった」

「いい加減にして」

 映理子は手を振り回してようやく逃れ、彼を睨みつけた。

「僕には嘘をつかなくてもいい。悪いことでも何でも全部受け入れて笑い飛ばしてあげるから、いつでも来ていいよ。毎日ここにいるから」

「だから、大っ嫌いって言ってるでしょ」

「旦那、良い奴なんだろ。蹴飛ばしてみろよ、気持ちいいぞ」

「黙れ」

 走って逃げ出した。

 

            *


 啓司はやはり尊敬すべき人間だと思う。強い人だ。映理子がこんなに塞ぎ込んで、何も本音を語らないのに、腐らず、そばに寄って冗談を言ってくれる。笑わそうとしてくれる。

「道で女の人のキレイな後ろ髪を見たら、男はどう思うか分かる?」

 啓司が言った。映理子は首をふる。

「ああ、正面から見たらブサイクな顔であってほしいと願ってるんだよ」

「どうして?」

「だってもう二度と会えないかもしれないだろ。後ろ姿も顔も美人だったら一層悲しいじゃないか。だからキレイなのは髪だけにしておいてくれと願う。これこそが知られざる男の心理だ」

 ふーん。映理子は同意しかねた。

「高級腕時計をした男はパンツが臭い。どうしてだと思う?」

「うーん、外見ばかりに拘って、見えないところは手を抜く、とか?」

「馬鹿にしちゃいけない、パンツくらい男だって洗うよ。立って用を足すとき、終わり際に振らなければいけないだろ、実は時計とアレは位置が結構近いんだよ。だから思いっきり振り回せないんだ。それでパンツに夜露が漏れるんだ。結構臭くなる」

 ふーん。映理子はまた同意しかねた。

「男は立って用を足した後、手を洗わないことがかなり多い。きっと女の人が男子トイレを覗いたらその頻度に腰を抜かすよ。びっくりするくらいみんな手を洗わない。なんでだと思う?」

「面倒くさいから?」

「汚くないんだよ。男は自分のアレは全然汚くないと思ってる。だから手を洗う必要が無いんだ。これも女子には分からないだろうな」

「汚っ」映理子は顔をしかめる。

「メリーさんの怖い話知ってる?」

「あの何度も電話かかってきて、最後はあなたの後ろにいますってやつでしょ」

「そう、実はあの話は社会における重要な教訓なんだ。分かる?」

「さっぱり全然何のことか全く分からない」

「最近研修医に言うんだよ。いいか、メリーさんを思い出せ、どんな細かいことでも一歩進むごとに逐一報告すること。相手がうんざりするほどに。それがミスを防ぐ。これは大丈夫だろうと思ったことに重大なことが隠れてるんだ。いま病院全体でメリーさん活動を始めたんだ」

「みんな何て言ってる?」

「ホラー好きは手に負えないって」

「だろうね」映理子はちょっと笑った。きっと綾子も笑ってると思う。

「やっと笑ったね」

 啓司は赤ワインを飲みながら満足そうに息を吐いた。映理子も随分お酒が入っている。啓司は追及するのを辞めてくれたらしい。くだらない話をして気を紛らわそうとしてくれる。一番ありがたかった。

 自分が啓司の立場だったらどうだろう。きっと一緒に憂鬱になって、喧嘩しあって、どんどん悪くなっていく。自分はすぐに沈み込んでしまうが、啓司はそんなとき逆に明るくなってくれる。いつもそれで救われる。

 そんな啓司がある晩、顔に大きな痣を作って帰宅した。痛々しそうなのに、何故か笑っている。映理子はもう動悸が始まっていた。

「転んだの?」

「いや、殴られた。知らない男に。怖い世の中だよな」

「そうなんだ」

 映理子は適当に相槌をつく。

 二人は向かい合って黙って夕食をとる。映理子はチラチラと啓司の顔を盗み見るが、ずっとニコニコしている。

「駅から歩いてたらさ、黒い車から金髪の男が出てきて、急に話しかけてきたんだよ」

 映理子は息が止まりそうだった。声が出ない。

「道でも聞かれるのかと思ったら、"車で少し話しませんか?"とか言うんだよ。薄笑い浮かべながら」

 あの男らしい。いい加減な軽い笑顔をいつも浮かべている。啓司は何が嬉しいのか、実に楽しそうに話を続ける。

「怪しいから無視したら、"映理子の話ですよ"だって。だから俺、急にキレちゃってさ、"お前か"って叫びながら殴っちまったんだよ。そしたら殴り返された」

 映理子は、膝の上に手を合わせて神妙な顔をして俯いている。

「俺、泣いてたみたいでさ、"殴られたくらいで泣くなよ"ってそいつに茶化されちゃったよ。映理子とどういう関係かって聞いたら、"この前、公園で抱き合った"とか言うんだぜ。いやあ、あまりに妄想が過ぎるよな。どうせ道で映理子を見かけた程度のくせにさ」

 啓司はまだ笑っている。映理子は啓司の顔をじっと見つめた。

「いや、いい。何も言わないで。俺が喋るから。その男がさ、それからさ、あまりに馬鹿馬鹿しいんだけどさ、映理子が四人も殺した連続殺人鬼だって言うんだよ。流石に笑っちゃって、それからこのアホみたいな笑い顔が治らないんだよね。俺の。変だろ?」

 啓司はクスクスと笑い続ける。

「馬鹿だよなあの男も。浮気までで止めておけばいいのに。殺人鬼なんて・・・・・・。どうした、映理子も笑っていいんだぜ」

「一つだけ訂正させて」

「どうぞ」

「浮気はしてない」

 啓司は、一瞬止まり、また大笑いした。

「映理子も面白いな。いや、それは安心したけど。本当に泣きたいくらい安心したけど、まずは殺人鬼を訂正しろよ」

 啓司の笑い声だけが虚しく尾を引く。

「逃げてもいいよ、私から」

「え、なんで?」

「殺人鬼だから」

「OK分かった。じゃあ設定を考えよう。映理子は幼少期から虫やカエルや猫を殺すことに異常な快感を覚え、大人になってもその美貌で男を誘惑し、樹海での特殊なプレイを希望して男を連れ出して殺し、自殺に見せかける。うん、B級だな。使い古された設定。イントロ五分でうんざりする」

「啓ちゃんやめて。聞いて、これから私は何一つ嘘をつかない。些細な嘘だって絶対に。分かった?」

 啓司の笑いがようやくおさまると、途端に全くの無表情に変わる。

「私は四人の人間を死に追いやった。うち一人は餅助っていう男で、私がこの手で殺した。あとの三人は死んで欲しくなかったけれど、私に関わったために死んだ」

 啓司は、あの理知的な表情に戻って、慎重に言葉を選んで話した。

「殺人がいかに罪か、それは状況による。詳しい話を聞かせてくれ。それで俺は映理子を判断する。場合によっては今すぐこの家から出ていく」

 映理子は、理性的な啓司の声にホッとする。取り乱して、話も聞かずに出て行ってしまうのを恐れていた。

 話し合える。

 映理子は、散歩道で我堂雪枝と会ったことから、金髪男に言われたことまで、詳細に啓司に説明した。啓司は話を聞くにつれ、どんどん落ち着きを取り戻していくようだった。

 話を聞き終えて、啓司は口を開く。

「俺が映理子を支えると、ここに宣言する」


           *


 空気が少し変わった。不自然な愛想笑いが消え、また以前のような本音の声が行き来するようになる。

 啓司は、昼は激務の合間をぬって映理子に連絡し、帰ってからは映理子を優しく抱いた。映理子の不安を全部引き受ける、そう言ってくれた。啓司は気丈に振る舞ってくれているが、相当参っているはずだ。甘えすぎてはいけない。

 映理子は悩まなくなった。良い意味でも悪い意味でも吹っ切れてしまった。

 上手くいくようにみえたが、悲しいかな、既に彼らは不幸に取り憑かれている。呪いの報せは次から次へと家に入り込んでくる。

 ある夜、映理子と啓司が二人でソファに座り映画を見ていると、インターホンが鳴る。誰か来た。映理子が玄関に向かいドアを開ける。薄暗い電灯の下、ぴったりのスーツを纏い、黒鞄にピカピカの革靴をはいた男が立っていた。顎に白の混じった清潔感のあるヒゲを生やし、目はキリリとして俳優のような格好良さがある。

「蛇澤おじさん、どうしたの? 突然」

 映理子の脳卵の父親である。

「久しぶりに顔が見たくなってね。上がっていいかな?」

 啓司も玄関までやってくる。写真で蛇澤のことは知っており、ペコリと頭を下げた。

 三人は食卓に移動する。蛇澤は、椅子をずらし映理子の真っ直ぐ向かいに座り、啓司は映理子の隣に座った。

 映理子は緊張して話題が浮かばない。もじもじと机の上で手を揉んでいる。蛇澤も口を開かない。

 映理子は、蛇澤のことが苦手だった。

 映理子の体の父親は、映理子が物心つく前に死んでしまい、顔も知らない。だから、よく脳卵の父である蛇澤が遊び相手をしてくれた。優しく頭をなでてくれるので本当のお父さんのように懐いていたが、年齢が上がるにつれて蛇澤の大きな問題に気付く。彼は、相手がどう思おうと、自分の意見が正しいのだから、従うべきだと考えている。

「いいから、直しなさい」

 蛇澤のきつい口調が怖くて、何も言い返せない。段々苦痛になっていった。映理子の母親も、結局最後まで一緒に暮らさず距離を置いていた。

 だけど、映理子の医学部での学費や、月々の生活費を援助してくれたのも蛇澤であり、嫌でも、彼には頭が上がらなかった。恩がある以上、邪険にできない。

「四足子がいるな」

 蛇澤は由紀夫をちらりと見た。

「大変だろう」

「だいぶ慣れましたよ、はじめは大変でしたが」

 映理子にかわって啓司が返事するが、蛇澤は啓司に目もくれない。

「医者の仕事を休んでるな。どうしてだ?」

 映理子は一層肩身が狭くなる。

「由紀夫の世話に追われてて」

「他にもあるよな、理由が。お前は不埒な男とつるんでいる。金髪で目の危険な男だよ。知ってるだろう? そいつがわざわざ俺に会いに来た」

 あいつ、蛇澤にまで。

 映理子は悔しくて唇を噛む。

「蛇澤さん、映理子を疑わないでください。ご心配なのは分かりますが」

「悪いが」蛇澤がようやく啓司を見る。「席を外してくれないかな。駄目なんだよ、君では。映理子をちゃんと教育できてないだろう。このザマだからな」

「教育って、妻は教育するものですか?」

「当たり前だろ。馬鹿か君は。女なんて縛り付けないと、フラフラとどこへでも行くんだよ。風船と同じだ」

 啓司の無言の怒りを、映理子は感じた。

 抑えてほしい。蛇澤には何を言っても無駄だ。こういう考えの男なのだ。争っても意味がない。

 そっと啓司の膝に手を置いて。

「これ以上あなたを侮辱させたくない。私は慣れてるから、部屋に戻って映画の続き観てて」

「いや、ここにいる」

 啓司は、立ち上がるとおもむろに上着を脱ぎ捨て、Tシャツ一枚になってどかりと座った。筋骨隆々の腕と胸筋が現れる。どうやら筋肉で威嚇する作戦らしい。

 映理子は頭を抱えた。

「俺はな、映理子」蛇澤が無視して話を続ける。「お前のことが心配なんだよ。何とかしてあげたいと思ってる。だからどうだろう、俺の家に来ないか? 一緒に暮らそう。良い事と悪い事をまた勉強し直せばいい。俺が全部面倒を見る」

 どうも蛇澤は口を開けばパワーワードばかりだ。映理子と啓司が目を合わせて、少し笑った。

「おじさん、もう帰ってよ。相変わらず自分勝手なこと言って。余計なお節介だよ」

 啓司を馬鹿にした精一杯の仕返しだが、映理子の手は震えていた。

「さあ、ほら帰れ」

 啓司が立ち上がり、蛇澤の襟首を掴んで引き上げる。蛇澤は、二人を交互に見てため息をつく。

「修正不能か」

「修正不能だ、馬鹿野郎」

 そのまま蛇澤の荷物と共に玄関の外に放りだした。

 映理子は、玄関に鍵をかけ、荒い息をする啓司に抱きついた。

「お父さんに悪口言って悪かった」

 啓司の手は、映理子を優しく包み込む。映理子はまだ震えている。

「一度もあんなこと言えなかった。でも、怖い」

「大丈夫だよ、あんなヒョロいやつに何もできやしない」

 そうなら良い、そうであって欲しい。

 

            *


 穏やかな日が続いた。日が短くなり、空気が澄んで、雪もチラホラと降るようになる。 

 由紀夫は冬になると虫を食べなくなる。芋や野菜や鶏肉を好み、虫嫌いの映理子にはありがたい。啓司は、殆ど病院で寝起きしている。冬になると脳梗塞や脳出血が激増するため、北命病院脳卒中集中治療科の部長である啓司に休みはない。名目上休みはあっても、難しい症例が来ると後輩に頼られてすぐ呼び出されるため、家に帰る暇がないのだ。

 映理子も呼吸器内科で働いているときは忙しかった。肺がんの患者さんの気持ちに寄り添い、間質性肺炎急性増悪の患者さんの息苦しさに無力を感じ、大量喀血の患者さんに血だらけになりながら虚しく気管挿管をしていた。大変だったが、また戻りたいという気持ちがある。

 由紀夫は、一歳半になり身体はかなり大きくなった。普通の子供では五歳くらいの大きさだろう。四足子は成長が早い。また近くに民間の施設があり、鍵のついた檻の中だが、由紀夫を預かってくれる。費用は高いが、仕方ない。少しずつ以前の生活に戻っていく。リズムがつくと安心する。

 そんなとき母親(村崎芽衣 むらさきめい)から電話がかかってきた。久しぶりに会いたいとのことで、午後に芽衣の指定したカフェで落ち合う。

 芽衣は五十歳、平均寿命が百二十年の彼らにとっては折り返し前でまだまだ若く、髪も黒く艶があり肌もつるりとしているのに、気の弱そうなオドオドした雰囲気と、地味な格好で随分年配に見える。

 その日、芽衣は一層不安そうで落ち着かなかった。映理子は彼女の顔を一目見て、嫌な予感がした。

「最近ね、とにかく不安なのよ」

 芽衣が挨拶も早々に話し始める。

「夜中に何度も起きて風呂釜を覗くの。髪の毛が浮いてないかって。昼も冷蔵庫がちゃんと閉まってるか玄関の鍵がかかってるか心配で仕方ないのよ」

 ぶつぶつと独り言のように話をする。

「お母さん、それはね、病気なのよ。なんでも不安になることがあるの。半夏厚朴湯っていう良い漢方薬があるから一度試してみない?」

「いやよ、嫌。薬なんか飲んで、ボケっとして、鍵かけ忘れて、泥棒に入られたらどうしてくれるのよ? あなた責任取れるの?」

「責任って、そんな」

 芽衣に治療を勧めても、いつもこの調子で喧嘩になってしまう。もはや、状況が悪化して母の方から助けを求めてくるまでどうしようもないと、半ば諦めている。

 ただ、それはいつものこと。

「他に相談したいことがあるんでしょ?」

 芽衣は、額の汗をしきりに拭っている。

「相談というか、謝りたくて。蛇澤さんが来たのよ」

 やはりそうか。映理子の胸がズキンと痛む。

「私の悪口でも言ったの?」

「そんな事は何も。すごく優しくなってて、ずっと話を聞いてくれて、何日か家に泊まったの。私も寂しいでしょ、つい甘えちゃって。そしたら彼、久しぶりにまたアレやらないかって」

「アレって?」

 芽衣は恥ずかしそうに、下を向いて呟く。

「脳卵作り」

「どうして? 必要ないでしょ、そんなもの」

「ゲームみたいなものなの。上手くいけば卵の色が変わる。すぐに割ってしまえばそれまでだし。私達、若い頃何度もそうやって遊んだのよ」

 母親の生々しい話に、映理子は吐き気を覚える。

「随分楽しんだのね。いいんじゃないの、勝手にすれば。何を謝ることがあるの?」

「水色の脳卵、出来たんだけど、割ろうとしたら・・・・・・、蛇澤さんに取られた」

 芽衣は殆ど息も絶えんばかりの霞んだ声で、ひたすらごめんなさいと謝罪を続けた。映理子も返す言葉が見つからなかった。まさか蛇澤がそこまでやるとは。

 脳卵は、とても危険である。まだ脳のない四足子に適合する脳卵を入れれば、知能を得て問題なく成長するが、既に脳のある成人に不適合の脳卵を入れれば脳卵不適合脳症となり澤井先生のように脳死状態になる。では、成人に自分と適合する脳卵を入れた場合どうなるか(適合する脳卵とは、体の父親とは別の男性と母親が作った脳卵のこと)。大脳は静かに機能を停止し、数日間意識が失われるが、そのまま脳死状態にはならず、新しく入れた脳卵が新しい脳を作り、そこからまた一人の人間の一生が始まる。人生のリセット。立派に成長し、知識や人間性を獲得しても、リセットされてしまえばまた赤ん坊の知能からやり直しになる。体は大人のままで、実に奇妙だ。

 まともな母親なら、子供を生んだあと、脳卵は作らない。だが芽衣のように、ゲーム感覚で楽しむ軽薄な大人もいる。

「やめられないのよ、あの感覚は。あなたには分からないと思うけど」

 映理子は静かに涙をこぼした。芽衣は気付いてすらいなかった。


           *



 啓司が仕事を辞めた。

「人生の夏休みだよ。頑張りすぎてたから。また気が向いたらやればいい」

 これで夫婦ともに無職になる。朝は何時に起きてもいい、昼はダラダラして、夜は寝るだけ。予定なしの日々。気ままに生活しているようだが、啓司はぴったりと映理子の側について離れない。

「母を失ったよう」

 啓司は映理子のその言葉を聞いて、拭えない恐怖を感じていた。金髪男のストーカー、蛇澤の脳卵、それに加えて唯一の肉親である母の無情。映理子の精神面は限界である。一見明るく振る舞っているが、音もなく自死するのではないか。そう思えてならない。

 生きるか死ぬかなら死ぬ方を選べ、映理子に伝えたその言葉が悔やまれる。辛い時は死んで楽になれ、とそういう意味では無い。あれは、自分を一歩乗り越えるための些細な後押しに過ぎないのだが、今の映理子にはそう響かない。ほんの少しの時間でも映理子を一人にしたくなかった。

 やることは他にもある。家の鍵を二重にし、防犯カメラを玄関や窓の外に設置し、宅配便の受取ではいつでも金属バットを握れるようにしておいた。由紀夫の散歩も、食材の買い出しも全部啓司が引き受けた。

「箱入りババアになっちゃうわ」

 映理子は力なく笑った。

 だけれど、啓司の神経質で過保護な対応は映理子の調子を一層悪くした。低い天井の下で気持ちが晴れるはずも無い。青空は憂鬱を吸い取って自然に返してくれるものらしい。

「ペンチならいいか?」

 どうしても外に出たい映理子に、啓司はバットを持ち歩くと言った。当然駄目だし、代案のナイフも却下である。ペンチならまあ、ミステリーの凶器としても聞いたことがないから良いか、と映理子が許可した。

 由紀夫を施設に預けて久しぶりに二人で街中を歩いた。クリスマスシーズンでサンタやトナカイの人形が楽しそうに微笑んでいる。美容室やお菓子屋さん、イタリアンレストランなど、歩きながらちょっと覗くだけでも楽しかった。

 啓司はしっかりと映理子の手を握っている。映理子は、その握力に安心して、ただ呑気に楽しんでいた。

 久しぶりに外食するならどこが良いか考えると、やはり蕎麦屋さんだろう。映理子は蕎麦がこの上なく好きで、「死ぬ前に最後に食べる物は?」というありきたりの質問にいつも蕎麦と答える。

 通い慣れた蕎麦屋で定番の鴨せいろそばを頼み、蕎麦湯で汁を全部飲んだ。満足した。

「これでいつ死んでもいいな」

 思わずそんな言葉が出て、慌てて口を閉じる。啓司がすごい形相で映理子を見ている。

「絶対に許さないからな。もし本気なら、心中だ」

「大丈夫、啓ちゃんは神様よりも仏様よりも頼りになるから。死んで天国に行っても、頼りない天使に文句ばかりで休まらないよ」

「それじゃあ死ねないな」

「当たり前じゃない。そんな事全然考えてないから心配しないで」

 啓司はようやくほっと溜め息をついた。


 そろそろ由紀夫を迎えに行く時間だ。

 由紀夫の施設は、保育園ではない。四足子もいるが、成人の四足男も四足女もいる。みんな檻に入ってじっと時を過ごす。彼らは退屈しているようには見えない。寧ろ狭いところで安心して蹲っているようである。四足男は四足女を見ると発情して騒ぎ始めるので、男女は別々の部屋にいる。だが、四足男は、四足女だけではなく、人間の女にも異常なほど発情する。四足男は、人間の女を誘拐する習性がある。暗い洞穴に連れていき、何人かの四足男が代る代る無理矢理行為をして、脳卵と、四足子を作ろうとする。知能のない彼等がどうして理解しているのか不明だが、四足子に別の父親の脳卵を入れることでまともな人間になることを知っており、それをやろうとするのだ。人間の女を見つけたときの四足男の興奮は異常である。

 二人で施設に行き、映理子が男子部屋に入ると、騒がしくなる。檻は二十程あり、四足男が映理子の女の香りで次々と目を覚まし、檻に歯を突き立てて指を絡ませる。南京錠の鍵はあるけれど、少し心許ないと不安になる。

 いつもの場所に由紀夫がいなかった。職員に聞くと、珍しく騒いだので、隔離室に檻ごと移動したとのこと。由紀夫が興奮しているときは、映理子だけの方がいい。啓司には男子部屋の入り口で待機してもらい、映理子だけが隔離室に向かった。

 四足男達の叫び声はいつも映理子を憂鬱にさせる。

 由紀夫も大きくなったらこうなるのだろうか。家を抜け出して、女性を襲ったら取り返しがつかない。一生施設に預けるべきなのか。可哀想ではないのか。

 終わらない問答。餅助や金髪男の四足子ビジネスに子供を委ねてしまう人達の気持ちは、痛いほど分かる。

 隔離室につく、重い横開きのドアを開けると、暗闇が広がっている。微かに息遣いが聞こえる。どこに檻があるのか、いくつあるのか、他の四足男がいるのか、さっぱりわからない。

 映理子は扉を閉めると、手探りで部屋の隅の机まで行き、置いてある懐中電灯を手に持ってスイッチをいれる。弱々しい光が部屋を照らす。檻は1つしかなかった。近づいて檻の中を照らすと、由紀夫が小さく丸まって寝ている。

「お待たせ、疲れちゃったのかな。お家に帰ろうね」

 映理子がそう囁いて預かった鍵で檻を開けようとしたとき、部屋がパッと明るくなる。驚いて顔を上げると、蛇澤が部屋の入口に立っていた。

 蛇澤が外から来れば、啓司が黙っているはずはない。ならば初めからこの部屋に隠れていた。私を騙すために。

「助けて!」と叫ぶが防音の隔離室では無駄である。

 蛇澤は何も言わずに映理子を押し倒すと馬乗りになった。

「俺はな、見ていられない。お前が悪い人間になっていくのを。悩みぬいたが、リセットしかない。きっと将来、リセットしてもらえて良かったと思う日が来るから、信頼してくれ」

 蛇澤はポケットから水色の脳卵を取り出す。

「神もお許しだ」

 振り切った悪人は悪意がない。自分の中の善意で動く。

 映理子が暴れようにも、蛇澤の力が異常に強く、あまりに無力。啓司と由紀夫の顔が浮かぶ。全てが消去されてしまう。涙が止まらない。呼吸が粗くなって、ゼエゼエと苦しくなり、段々意識が朦朧としてくる。

 蛇澤はまだ迷っているのか、卵を握りしめてじっと映理子を見つめていた。


 啓司は、隔離室の扉の隙間から電気が漏れ出ていることに気がついた。隔離室は常に暗闇を保つのが規則だから、明かりがつくのはおかしい。映理子が誤ってつけたとは考えにくい。不意に不安になり、隔離室に向かう。

「詰めが甘いな。やっぱり素人だな」

 振り向きざまに、頭に激痛が走る。啓司は倒れ込み、前頭部をおさえた。頭蓋骨が不自然にカリカリと動く。骨折は明らかだ。虚ろな目で仰ぎ見ると、檻が一つ空いており、金属バットを握った金髪男がいた。

「どうして檻の中に?」

「経営者だからな、何でもありだよ」

「お前がここにいるなら、隔離室の中には誰がいる?」

 金髪男は質問に答えず、隔離室まで歩き、入っていく。開け放たれたドアから映理子の悲痛な叫び声が聞こえてくる。

 起き上がって追いかけたいが、体が動かない。猛烈な頭痛と吐き気、眠気が襲ってくる。

 耳元で唸り声が聞こえる。頭の脇に檻があり、髭面で禿げた大きな四足男が恨めしそうに隔離室を睨んでいる。

 薄れゆく意識の中で、他に選択肢は無かった。ポケットのペンチを取り出し、南京錠をちぎって、檻を開けた。禿げの四足男は弾けるように外に出ると、隔離室に飛び込んでいく。男の悲鳴と怒鳴り声が響く。

 しばらくして、四足男が映理子を片手に抱えて出てきた。金髪男は追いかけてこない。

 映理子はぐったりしている。呼びかけても返事がない。なぜ、意識がない?

 四足男は、そのまま元の檻の中に戻り、映理子をおろした。

「目を覚ませ、映理子。頼む逃げてくれ」

 啓司が叫んでも映理子は全く動かない。

 四足男は、もぞもぞと映理子の体を触っている。

「触るな!」

 啓司は四足男の足を掴み引っ張るが、恐ろしい蹴りが顔に飛んできて、そのまま意識を失った。


 映理子は、熱い吐息を頬に感じ目を覚ます。暗く低い天井と知らない男の顔が目に入る。瞬時にまともな人間では無いと分かる。四足男。

 ふと見ると、足元で啓司が頭から血を流して倒れている。ピクリとも動かない。こちらを向いた真っ白な顔、半分開いた目、疑いようもなく死んでいる。

 映理子は、呆然として声も出なかった。啓司が死んだ。本当に現実なのか? 自分にこれから起こる災難。四足男に襲われた女性は、まず両下腿の骨を折られるという。逃げ出さないように。それから時間をかけて凌辱の限りを尽くされる。本当にそうなるのか。

 四足男が、映理子の足をさすった。鳥肌が立つ。どこにするか、探っている。歯がガタガタと震え涙が出てくる。

 ころころと、映理子の脇に丸いものが転がってきた。水色の卵、脳卵だ。滲んだ目で卵を見つめる。どうして、こんなところに。

 檻の外にいつの間にか蛇澤が立っていた。

 四足男は脳卵を見つけると、素早く手に取り目の上にかかげてよく眺めている。それから映理子の顔を見ると、卵をおもむろに割り、大きな手のひらの上に乳白色の中身を注いだ。

 不意に、映理子の脳裏に啓司の顔が浮かんだ。由紀夫を膝の上に乗せて優しく撫でている。自分が一番心休まる景色。それから由紀夫が桜並木を歩いているところ、自分が病院で働いている姿、医局旅行のバスで見た啓司の横顔、そんなものがどんどんと無意識のうちに溢れ出てくる。走馬灯は、死に瀕したときに、脳が勝手に起動して自分の記憶から助かる手段を検索するシステムと聞いたことがある。ああ、なんて自分の脳はポンコツなんだろう。助かる手段なんてどこにもない。ただ楽しかった思い出ばかりじゃないか。諦めるな。でも、やっぱりそれでいい。続けてくれ。

 四足男は、映理子の顔の前に手をかざすと、液体をゆっくりと鼻に注ぐ。

 鼻の奥が熱くなっていく。不思議なことに全然むせない。苦しくもない。ただ居心地がいい、気持ち良かった。適合とはこういう感じか。なぜ四足子が脳卵を入れられるときに暴れないのかよく分かった。これは動けない。気持ち良すぎる。それになんだか眠くなってきた。

 映理子はぼんやりと霞みゆく意識の中で、ただ啓司と由紀夫と一緒に寝転んでいる夢を見ていた。



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