第2話 四足子
「ひどく汚いね」
マンションの玉井先生の部屋で、映理子は率直な感想を述べた。清潔感のある彼のイメージが崩れていく。
「突然だったからさ、片付ける暇が無かったんだよ」
玉井先生は恥ずかしそうに言ったが、もっと致命的な、長い年月をかけて出来た汚れだ。トイレにはくっきりと黒いリングが付き、風呂は軽く見積もっても一年は洗っていない。部屋の隅にホコリが繁殖し、空気清浄機のフィルターにまで巣食い部屋にまき散らす。黄ばんだ白衣が冷蔵庫の裏に落ちており、ベッドの布団やカーペットは恐らくダニだらけ。なのに、クローゼットだけが綺麗に掃除されていて、スーツやシャツ、ズボンなどが整然と掛けられている。
「どうしてここまで・・・・・・」
映理子が呆れて呟くと、玉井先生は、くいっとメガネをあげた。
「実は僕なりの理論があってね。汚れはある一定まで溜まるとそれ以上溜まらないんだよ。定常状態さ。面倒臭い掃除を繰り返すより、定常状態を我慢するほうが良いんだよ」
「言い訳しない」
「はい、ごめんなさい」
映理子はまず布団、カーテン、黄ばんだ白衣を捨て、カーペットを剥ぎとった。部屋に邪気を撒き散らす空気清浄機は粗大ごみへ。それからお風呂とトイレを徹底的に掃除し、部屋中に掃除機をかけた。玉井先生にも、あれこれ指示をだして手伝ってもらった。
「これも捨てるの?」
彼は、使い慣れたカーテンを寂しそうに見ながらつぶやく。
「ダメ、だってシミだらけじゃない」
「これじゃあ殆ど何も残らないよ」
「一緒に選びましょ。新しいの」
映理子がにっこり微笑むと、玉井先生は、照れくさそうに顔を背ける。
「可愛いんだから、困ったな」
赤くなった彼の顔を見ながら、映理子は幸せを噛み締めていた。思うままに捨てられるなんて夢のよう。黄司なら絶対許してくれなかった。掃除しろと言うくせに、少しでも物を動かすとすぐに文句を言う。部屋こそ綺麗だったが、あの張り詰めた嫌な空気に比べたら、この狭くて汚くて臭い部屋の方がよっぽど澄んでいる。思いっきり息を吸ったら咳が出た。
「いつもは女の子とホテルで会ってたけど、これなら自宅に呼べるな」
「嫌なこと言わないで」
それから必要なものを一緒に買い揃えると、部屋は見違えるようにきれいになった。夕食を済ませれば当然いい雰囲気になってくる。
新品のベッドに腰掛けて、彼が映理子の腰に手を回した。落ち着いた手つき。映理子はその手慣れた雰囲気が少し嫌だった。
「おっと、その前に」
玉井先生は、小さなワインセラーからワインを、冷蔵庫からチーズを取り出した。
「ムートン・ロートシルトだよ。一緒に飲もう」
映理子は顔をしかめる。
「やめて、そんなものでご機嫌取るようなことしないで」
「でも、いいワインじゃないと女子は機嫌が悪くなる」
「一緒にしないで」
彼はガクッとうなだれてワインセラーに戻ると、別のワインを取り出した。
「千円のワインだよ。普段飲むやつ。これでいいかな?」
「うん、好き」
映理子はちょっと笑いながら玉井先生を抱きしめて唇を奪う。
リラックスして、何の違和感も緊張感もない。相手に気を遣うことなく、目を閉じて快感に没頭できる幸せ。堪らない。
なんて上手なんだろう。
完全に玉井先生の虜になった。彼のいない生活が考えられない。本名玉井啓司なので、啓司さんと呼ぶようになり、彼も映理子さんと名前で呼び合うようになった。
映理子は、もう二度と元の家には戻らず、啓司の家で生活を始めた。毎日朝食を食べ、一緒に仕事に行き、夕食をとり、夜はありとあらゆる啓司の手腕に連日歓喜の渦に埋もれた。知らなかった未知の世界。鐘の鳴るような快感。強烈な刺激。啓司の手が自分の肌に触れるだけで犬のようにスイッチが入ってしまう。はしたない。でも幸せ。
映理子と啓司の幸せな生活が穏やかに過ぎていった。その月は産卵月、啓司との水色の受精卵が産まれる筈だった。使いようが無いなと思っていたが、いくら待っても産卵しない。それから数日後、猛烈な吐き気が映理子を襲った。いつも生理周期は正確。それなのに、今回は何かおかしい。
検査薬を前に、映理子は息を呑む。
「妊娠・・・・・・してる」
映理子は呆然と呟く。受精卵が用意できていないのに妊娠してしまった。映理子と啓司は顔を見合わて、困惑する。
「大丈夫だよ。心配いらない。良くない方に考えては駄目だ」
啓司は、不安そうな映理子を抱きしめながら優しく言った。それでも映理子の震えは収まらない。
妊娠前に卵を用意するのは常識だった。生まれた子供にすぐ卵の中身を与えて脳を作るため。でないと脳が発達せず、爬虫類並の低い知能になってしまう。仕方なく用意出来なくても、産後は毎月産卵するため、極力早く用意して与えるべきだ。出来なければ人間としての成長がどんどん遅れる。ハイハイの時期が遅れる、言葉が遅れる。親として、こんな辛いことはない。
女医である映理子は当然分かっているだけに、不注意だった自分が情けなくて仕方ない。しかし、それ以上に嫌な予感がしていた。今まで生理と産卵周期がズレたことは一度も無かった。どうして急に崩れたのだろう。環境が変わったから? もし違う理由なら・・・・・・。
「結婚しよう」
啓司が言った。
「なにそれ、全然ムードない」
映理子は泣きながら頷く。嬉しい、勿論即了承だ。黄司との離婚が正式に決まっていないが、気持ちの上で全面的に啓司に頼れる。幸せだった。疑問の欠片もない。
映理子は胸を手で擦る。一点の黒い不安が拭えなかった。
*
北命病院で妊婦健診を受けた。映理子の同級生の綾子先生が診てくれた。プライベートでも会う間柄で、卒業旅行も一緒に行き、何でも遠慮なく言い合える。
「見えた、心臓動いてるよ。おめでとうだね」
綾子がエコーをあてながら言う。映理子は素直に喜べない。
「右の卵巣見えるかな、異常ない?」
人間の脳となる産卵用の卵は右の卵巣で作られる。左の卵巣は妊娠用。
「特に問題はないけど、気になることあるの?」
口籠る。情けなくて言えない。
「まさか、卵用意できてないの?」
映理子は両手で顔を覆い頷いた。綾子は大きなため息をつく。
「何してるの。ちゃんと避妊しなかったの?」
「産卵期だから、大丈夫だと思って」
「あなた医者でしょ。周期は崩れるもの、その気がないなら必ず避妊しなきゃダメだよ。当たり前じゃない」
返す言葉がない。普通、産婦人科の先生はこんなハッキリ言わないが、友達なだけにド直球の本音が辛い。
「黄司さんは何て言ってるの?」
「実は別の人と」
「え! 浮気?」
声が大きい。カーテンを挟んだ隣には看護師やエコー技師もいるのだから、本当にやめてほしい。
綾子は、黄司とも何度か会っている。外面の良い黄司は、友人からの評判もすこぶる良かった。
「後で詳しく話すけど、実は黄司とは別れたの。今は別の人と暮らしてる」
「誰?」
「・・・・・・玉井先生」
綾子は目を丸くしてまた叫びそうになったので、映理子は慌てて綾子の口を抑えた。
玉井先生のことは、綾子もよく知っている。研修医のとき、二人で脳神経外科を回り、お世話になった。「マッチョだよね、カッコいいとは言えないけど、やっぱりマッチョっていいよね」と、よく盛り上がった。
「ごめんね、悪かった。でも玉井先生か、いいよねあの先生。頭いいし、ホルモン出てる。マッチョだし。抱かれたくなるのも分かる」
映理子は、いつもあの手この手で散々楽しんでいることを思い出し、顔が赤くなった。
「映理子、前より幸せそうな顔してるよ。良かったね。今度三人でご飯行こう。私も久しぶりに玉井先生とゆっくり話したい」
綾子はニッコリと笑った。さっぱりしている。
親友はいい。すぐに切り替えて私の味方になってくれる。会えば、気持ちが軽くなる。
「産まれたあとに、すぐ卵作れば問題ないよ。発達に差は無いし。卵の相手はいるの?」
「まだ誰も。綾子の旦那借りれるかな?」
「貸してあげたいけど下手だよ」
映理子はクスッと笑った。大丈夫、出産の後は毎月産卵するようになるから受精卵を作る機会はいくらでもある。心配することは何もない。右の卵巣が問題ないと言われ、冗談が言えるくらい落ち着いた。
それからお腹の赤ちゃんは順調に育った。啓司から何人か卵候補の男性の話を聞いたが、どれも決め手に欠けていた。それに産後すぐに関係を持つなど考えただけでも負担だ。会陰も痛いのに不可能だろう。やる女性もいるらしいが相当の根性である。映理子は、精子だけを頂いてスポイトで注入するのが良いと言った。妊娠前は、そんな不自然な形は嫌だった。愛しい二人の男性からしっかり愛されて精を直接貰いたいと感じていた。それが女性に許された贅沢な絶対的な権利。でもそんな気持ちはもう皆無である。痛くないように、且つ早く精を貰えれば十分。しち面倒臭い過程は省略希望だ。
「僕としてもその方が嬉しいよ」
啓司が言った。
妻が別の男と行為をするのを耐えて、男は一人前になる。それを啓司が経験しないのは、不健全なのかもしれない。彼が成長する機会を奪って申し訳ないとも思ったが、そうも言ってられない。大事な子供のためだ。卵の相手は、北命病院の先生を選んだ。映理子も知っている。柔軟性があり、仕事で何度も助けてくれた。
よし、これでいい。あとは出産という大仕事に向けて休むだけだ。
映理子は、ほっと落ち着いた。嫌なことは考えない。受精卵が水色になるのに時間がかかる、そう綾子に伝えたときの一瞬しかめた眉が気になっていた。知っている、異常な兆候だ。でも問題ない場合が大半と教科書に書いてある。やめよう、考えるのは。
*
黄司からは、しつこくメールが来ていた。誤解だ、仁村の言うことを信じないで欲しい、話を聞いてくれ、俺たちの十年を誤解で終わらせたくない、頼む一度でいいから会ってくれ。
一度も返信しなかった。電話もしつこく、着信拒否にした。もう関わらないで欲しい。他人になりたい。離婚届は当然出されていない。まあいい。取り敢えず会いたくないのだ。離婚に関わるやり取りもしたくない。
病院にも何度か来た。姿を見かけ慌てて隠れたことがあり、守衛に病院に入れないようお願いした。守衛が追い返そうとして、一度大騒ぎになった。黄司のことを知ってる人も多く、「村崎先生の旦那さんじゃない、どうしたんだろう」と、噂された。噂を聞きつけて早速近寄ってくる男が沢山いて辟易した。早く玉井先生との関係を公言したかったが、職場に私事を持ち込みたくなかった。仕事に、患者さんに集中したかった。
禍福は糾える縄の如し。啓司と幸せになれば、不幸がやってくる。それは自然の摂理。陰陽が巡る限り避けられない。落ち度といえば、あまりに幸せを感じすぎたこと。喜びすぎるのは罪なのだ。程々に抑えるべきだった。
出産を無事乗り越え、男の子が産まれた。由紀夫(ゆきお)と名付けた。病院の先生から精子をもらい、翌月の産卵日前に頻回に注入したのに、産卵しなかった。無精卵すら、ない。困惑した、焦って涙が出た。半狂乱になった。
「落ち着いて、大丈夫だから、来月もう一度トライしよう」
啓司が優しく抱きしめてくれた。でも来月も駄目だった。無精卵すら産卵しない。これは異常である。女性の体は、いくら産後でやつれていようが全生命力を使い果たしてでも毎月産卵する。子供に脳を与えるために必死なのだ。それがないのはおかしい。深刻な病気の可能性が高い。二人共それが分かっているから暗くなる。
綾子にエコー、MRIで検査してもらい右卵巣癌疑いで摘出術が必要だと言われた。
地獄の宣告。
自分が死ぬことよりも、子供に脳を与えられないこと、まともな人間として育ててあげられないことが何よりも辛かった。卵巣癌は致死的である。早く手術をしないとすぐに癌性腹水がたまり転移する。時間の猶予はない。
綾子は流石医者だった。主治医の顔をしていた。泣く映理子を、丁寧な言葉で励ましてくれた。
まだ産後の体力も回復しないまま、すぐに全身麻酔の腹腔鏡下右卵巣摘出術が行われ、結果は良性腫瘍。癌じゃなかった。
気持ちの整理がつかない。良性の可能性もあると術前説明で聞いてはいた。しかし、癌の可能性の方が遥かに高いだろうと。
癌じゃなかったと喜ぶべきなのか。でも、もし手術しなければ、また産卵できた可能性があったのか? 何故すぐに手術を決めてしまったのだろう。分かっている、医療はそういうもの。百パーセントで進むことなど滅多にない。悪性だと思い手術したら良性だった時、無駄な手術をされた、ではなく、悪性で無くて良かった、と思うべき。呼吸器内科で肺癌を扱う映理子は、その領域の最先端で働いている。
・・・・・・ただ、あまりにも。
「腫瘍が卵管を塞いでいたから、手術しなくても産卵は期待出来なかったと思う」
綾子は目を伏せながら言った。映理子は、黙って頷く。
責められない。グループで検討し、カンファで相談し、放射線科医の意見も聞いて方針を決定している。映理子も当然自分で画像を確認し、苦渋の同意をしたのだ。
覚悟しなければいけない。
「いつまでも落ち込んではいられない。子供がいるんだから、次の段階に進まないと」
そうだ、頑張っていかないと。由紀夫はもう二ヶ月、少しずつ成長しているんだもの。同じような状況の人達はたくさんいる。出来ないことはないはず。口に出して初めて決心がついた。逃げる訳にはいかない。
辛い時、これで辛い人の気持が分かるようになったのだから悪いばかりではない、と思うようにしている。少し気が楽になった。
奇妙な子育てが始まった。
赤ちゃんは二ヶ月で物を目で追うようになり、三ヶ月で笑うようになる。由紀夫は二ヶ月目までは普通の子と変わりなく成長した。殆ど一日中寝ており、うんち・おしっこをおむつにして、お腹が空いたら泣いて映理子の母乳を求め、目の前のものを目で追う。変わってきたのは三ヶ月目から。一番の違いは笑わないこと。いくらあやしても笑わない。泣くことすらなくなった。お腹が空くとモゾモゾと手足を動かすが、前のように泣いて母を求めない。
「どうしたの由紀夫、なんで泣かないの?」
映理子が由紀夫の顔を覗き込んでじっと見つめても目が合わない。先月は目があったのに。
悲しいが徐々に進行している。追加の脳が入らないと、元々ある僅かな脳が、それでも生きていけるように成長する。成長した脳はまるで爬虫類の脳に似ている。大脳皮質は殆どなく、高度な思考は不可能。犬や鳥よりも知能は劣る。丁度トカゲやワニくらいの思考力。それだけでなく、喜怒哀楽の感情がない。ワニは笑わない、トカゲは悲しまない、蛇は泣かない、それと同じ。
おもちゃにも全く興味を示さない。夜泣きもしなくなったが、夜は起きて母乳を与えなければいけない。静かな子育てだ。存在感がない。
八ヶ月位になると普通は膝をついてハイハイが始まる。由紀夫もハイハイするようになるが、やはり違う。腕は成長し伸びるが足は短く、犬やゴリラのように膝をピンと伸ばして、手の平と足の裏がピッタリと地面について四足歩行を始める。脳のない子供は色々な名称で呼ばれ、魂無し子(たまなしこ)、爬虫子(はちゅうこ)などと揶揄されるが、一番広まっている呼び方は『四足子(よつあしこ)』。その由来がこれだ。
加えて変なこと、瞬膜が発達する。瞬膜とは鳥などが持つもう一つの瞼である。上下に閉じる普通の瞼に加えて、目頭からカーテンを横に引くように半透明の膜(瞬膜)が目尻に向かってサーッと動く。瞬膜は透けているので、閉じた状態で外の世界が見え、水の中や塵が舞う中でも相手を見据えることができ便利である。だが、黒目が覆われ目全体が白くなり、まるで死人やゾンビのような恐ろしい顔になる。視線の位置も分からない。ここまで来ると違いは一目で分かる。
外出するときは手足に靴を履かせ、抱っこ紐で公園に連れて行くと周りの視線が一気に集まる。あれこれと噂をされる。それでも根気強く外に出た。
ある晴れた気持ちのいい春の日、映理子は由紀夫と桜を見ようと、抱っこ紐で由紀夫を抱えて外に出た。もう仕事も辞めていた。啓司からも、落ち着くまで休むといいよと言われている。由紀夫の子育ては、普通より楽かもしれない。しつけ、教育がいらない。意味がないからだ。ただ世話をして、愛情を注げばいい。ただ、愛情を返してはもらえない。目も合わなければ、ニコリともしない。ただ無表情に部屋をウロウロして、気に入った隅の机の下など薄暗いスペースに蹲っている。あまり触ろうとすると嫌がる。抱きしめることを拒否される。
悪戯して、怒って、泣き喚いて、笑って、そんな当たり前が羨ましくて堪らなかった。
河川敷の桜並木を歩いた。平日の朝で周りには誰もいない。由紀夫をおろし、胴輪をつけて一緒に歩いた。由紀夫はまだ一歳半だが、走ると恐ろしく早い。映理子が全力で走ってやっと追いつけるくらいだ。少し離れたところから走り出すととても追いつけず、胴輪は必須だった。
桜が咲き乱れ春の気持ち良い風が吹いていた。映理子は気分が良くなり、川の流れと桜の花を交互に見ながらゆっくり歩いた。ふと、手が引っ張られた。由紀夫が道端で蹲って何かをしている。
「由紀夫? うんち?」
頭がモゾモゾと動いている。映理子は由紀夫の顔を覗き込んで悲鳴をあげた。
青虫を、アゲハチョウの幼虫を食べていた。
くちゃくちゃと咀嚼し、緑色の体液が口から垂れている。青虫の頭だけが転がっていてまだ少し動いていた。映理子が腰を抜かして、わなわなと震えていると、由紀夫は残った頭をパクリと食べ舌舐めずりをした。
映理子は慌ててティッシュを取り出し、由紀夫の口の周りを拭き、口を開いて中身を取り出そうとしたが危うく噛まれそうになった。
虫を食べていた。生きている虫を。
汚れたティッシュを握り、絶望した。今までは離乳食を与え、少ないながらもしっかり食べてくれていた。もっとほしい、とねだる顔が可愛かった。
おぞましい。
虫を食べているときの由紀夫は、別の生き物のよう。大切なモノが失われた。映理子は泣き出した。
もう限界だ。これ以上は育てられない。
初めてそんな感情が湧いた。
嘘だ。いまのは本心ではない。
慌てて否定する。思い返せば、由紀夫が生まれてから映理子は泣いてばかりだった。目が合わなくなったとき、泣かなくなったとき、四足になったとき、初めて瞬膜が動いたとき、いつも泣いていた。子供の成長を喜べない。こんなはずじゃなかった、ごめんね、私のせいで、と思い続けていた。溜まりに溜まった感情。
辛いことばかり。嬉しいときはほんの少し。バランスが悪すぎる。この先の長い由紀夫との人生、耐えられる自信がない。
本心ではないのに、酷い感情ばかりが心に浮かぶ。抑え込めない。
顔をあげると、由紀夫は道の真ん中で寝ていた。
映理子は涙を拭くと、深呼吸を何度か繰り返し、動悸が静まるのを待つ。
よし、大丈夫、もう歩ける。
寝てる由紀夫を抱っこ紐で抱えて立ち上がると、すぐ隣に人の気配がする。醜態を見られた。慌てて振り向くと、年配の女性が立っていた。恐らく五十歳程だろう。こちらを心配そうに見ている。彼女は映理子と同じように紐を握り、その先にもう一人、人間がいた。
黒髪で顔の美しい女性が四つ足で歩いている。胴輪で繋がれている。四足人。成人でこんな美しい四足人の女(四足女)は初めて見た。思わず見とれた。
「辛いのね。分かるわ、私にも」
彼女は映理子の手を強く握った。
「負けないで。挫けちゃだめ。良いことだってきっとあるわ」
この方は、四足女の母親なのだろう。説得力がある。
映理子は強く握り返す。
「初めてです。同じ境遇の人に会えたのは」
「良かったら家にこない? 仲良くなりましょう」
救いの手と感じた。
彼女の名前は我堂雪枝(がどうゆきえ)、六十二歳。四足女の名前は我堂玲子(れいこ)、二十歳、雪枝の娘だ。六十五歳の旦那、我堂辰彦(たつひこ)と三人で最近引っ越してきたとのこと。河川敷からしばらく歩くと豪邸に着いた。庭が広く、西洋風の洋館がどんと構えている。門を抜け、庭の敷石を歩き、玄関を開けると、二階まで吹き抜けの広いホールがあり、左手には二階に続く螺旋の階段がある。赤い絨毯が気持ちよく、アロマのいい香りが漂う。映理子は豪勢な作りにしばし言葉を失った。まるでホテルのロビーのよう。上品な彼女にぴったりである。
雪枝は、玄関で玲子の靴を四つ脱がせ、きちんと揃えた。映理子も雪枝にならい、それから四人で玄関ホールを抜けてリビングに入る。床は絨毯からフローリングに変わり、皮の白いツルツルしたソファや、四人がけのテーブルなどが置かれている。余計な家具は殆ど無い。きっと玲子が汚しても綺麗に拭き取れるように苦心して選んであるのだろう。部屋の奥の角には座敷牢が見えた。床から天井まで伸びる頑丈な白い柵が四角いスペースを作っている。牢の奥の壁は、ピンクや黄色の蝶・花畑が描かれており、まるで子供部屋のよう。陰惨な雰囲気はない。牢の中には小さめの小屋が建っている。玲子は、床の上をノソノソと歩き、自分からその小屋に入っていった。
座敷牢、これが現実。映理子は由紀夫を見た。新しいところが苦手なのか、映理子の足元でじっとうずくまっている。
雪枝がコーヒーを二人分持って戻ってきた。いい香りが部屋に漂う。
「座敷牢は、玲子さんが逃げ出さないためですか?」
映理子は一番気になることを聞いた。そこまで必要だろうか。
雪枝は、コーヒーを一口のみ、少し悲しそうに微笑んだ。
「どう思う?」
「リビングの扉に鍵をかければ十分かなと」
「そうね、でも違うの。あれは玲子を守るためなのよ」
玲子は何度も攫われたことがある、と。雪枝は、玲子の過去を語った。以前は、田舎でひっそりと三人で暮らしていた。娘の玲子は四足子だったが、乱暴なこともなく上品で、すくすくと育った。十四歳の時、雪枝が台所で料理をして、玲子が居間に一人でいた。一段落して雪枝が居間に行くと玲子の姿が無かった。居間は縁側で外と繋がっており、誰でも出入りできたが、治安が良いため危機感など全く抱いていなかった。慌てて夫の辰彦に連絡して探し回ったがどこにもいない。
四足子がいなくなった場合、保護者は自治体に脱出報告書を提出し、自分で捜索しなければならなかった。大人の四足人ならば危険性があるため役所の人間も捜索するが、子供の場合は手伝ってはくれない。
四足子に人権はない。犬猫の扱いと同じだった。彼らをむやみに殺したら罪になるが、殺人罪ではない。動物愛護管理法で裁かれる。それには理由があった。野生の四足人が人間を襲うため、駆除する必要があるからだ。駆除するからには殺人罪に出来ない、動物と同じに扱わなければならない。
古代中国の伝説の生き物である攫猿(かくえん)は、猿の格好をしているが、人間の女性を攫い子供を産ませたという。それと同じで四足人の男(四足男)は、人間の女性を見つけると、連れ去り、棲家に閉じ込めて、子供を孕ませようとする。その行為は何ヶ月にも及び、妊娠出産だけでなく、受精卵も産ませ、何故それを知ったか、受精卵を子に与え人間を作ろうとする。四足女は産卵はしないため、四足男と交わっても四足子しか生まれない。四足男が人間を作るためには、人間の女性を攫うしかなく、彼らは何故か人間を作ることを望むのだった。昔の人間は四足人に退化したが、それから脳と体を分けて産む特殊な進化を経て現在の人間にたどり着いたという。四足人が人間を作ろうとするのも進化の過程に他ならないが、それが脅威。四足男は当然人情や常識はなく、腕力や膂力は恐ろしく強い。恐ろしく早く走る四足男に狙われたら、人間の女はまず逃げられない。食欲で襲ってくる猛獣も恐ろしいが、性欲でかぶりついてくる四足人はもっと恐ろしい。そんな危険な存在を野放しにするはずはなく、野生の四足人がいたら、積極的に駆除する。
誰の助けも得られず、我堂夫妻は途方に暮れた。攫われたのか、森の中に逃げたのか、見当もつかない。ただ待って無事に戻るのを祈るしかなかった。
二週間ほど経ち、玲子が突然帰ってきた。庭でウロウロしていた。雪枝と辰彦は泣いて喜んだ。衣服は汚れることなく、いなくなったときのままである。森の中にいたのなら衣服が汚れているはず。やはり攫われたのだ。調べると妊娠していた。玩具のように弄ばれた。雪枝は悔しくて、唇を血が出る程噛み締めた。堕胎手術施行。
玲子は美しくなっている。だから狙われた。犯人が分からない以上、また狙われるだろう。我堂夫妻は戸締まりを徹底し守ろうとしたが、また半年くらいすると玲子が行方不明になる。そうして二週間ほどすると帰ってくる。妊娠しているときもあるし、そうでないときもある。最初に攫われてから六年ほどで、誘拐十三回、堕胎手術五回。凄まじい。
引っ越しを繰り返し、最終的に辿り着いたのが、牢の中に玲子を閉じ込めること。鍵は肌見放さず持ち歩く。これが一番安全だった。今年に入ってこの土地に引っ越してから、攫われることもなくやっと落ち着いた生活が送れるようになった。
雪枝は、一息で話した。映理子は、呆然として聞き入った。なんと大変な苦労をされたことだろう。由紀夫が男で良かったのかもしれない。
「男の子は、また別の大変さがあるわよ」
雪枝は映理子の心を見透かすように言った。
映理子は曖昧に頷いて由紀夫を見た。由紀夫は、映理子の足元から離れて牢の小屋に近づいていた。玲子は気配を感じたのか小屋から出てきて、しばし由紀夫と顔を見合わせた。それから皿にのったパンを顔を寄せ合って食べたり、くっつきあったりして、最後は二人で小屋の中に入っていった。
思わず涙がこぼれて、映理子は慌てて拭った。
「まるで姉弟みたいね」
雪枝が目を細めて微笑みながら呟く。
「また連れてきてもいいですか?」
「勿論よ、いつでも来て頂戴」
映理子はコーヒーを一口のみ気持ちを落ち着ける。すぐ涙ぐむようになった。気持ちが不安定なのだろう。でも、ここは癒やされる。救いだった。
「由紀夫くんだっていつ誘拐されるか分からないから、気を付けた方がいいわよ。対策したほうがいい」
「分かりました」
映理子は大きく頷く。
「最後は、攫われても無理に探し回らないことにしてた」
雪枝は力無い眼差しで言った。
「警察も誰も助けてくれない、夫婦の力だけでは限界がある。毎日毎日歩き回って、見知らぬ人に声をかけて、ビラを配って、すべてが無駄で。気持ちも体も疲れ切ったところで、不意に帰ってくる。何度も繰り返した。攫われない対策は大切だけれど、もし攫われてしまったら探しても仕方ない。帰ってくるのを祈って待つのがいい」
映理子は小さく何度か頷いて目を伏せた。
「分からないと思う。私達も何度も過ちを繰り返したから。連中はとても巧妙なのよ。でもきっと帰ってくる。そう信じるしかないの」
映理子は曖昧に微笑んだ。
*
インターホンが鳴った。雪枝は立ち上がり部屋から出ていく。由紀夫たちは小屋から出てこない。ふと、由紀夫が噛まれてはいないかと不安になり小屋を覗くと、体を寄せ合って寝ていた。
幸せそうだ。
そう思って後悔した。四足子は四足人と生きるべき、同類は同類と、私達人間とは合わない。子育てを放棄する考えだ。
「由紀夫は私と啓司さんが幸せにする」
映理子は自分に言い聞かせるように言った。
リビングの扉が開き、雪枝と男性が入ってきた。年は雪枝と同じくらい、背は低く、ラフなポロシャツを着ている。鼻が大きく、額が小さく、眉の太い顔で、突き出た腹が見苦しい。
「これはまた、綺麗なお嬢さんですね」
彼が陽気に言った。女好きな顔である。映理子はすぐに警戒した。
「私の弟です。餅助(もちすけ)といいます」
彼は雪枝の隣に腰を下ろすと、映理子をじっと眺めた。頭から足の先まで舐め回すような視線。お客に出す女の品定めでもしているようだ。
映理子は、気色悪くて堪らなかった。
「そろそろ旦那も帰ってきますので、この辺で失礼致します」
「そうね、またいつでも来てくださいね」
雪枝は察しがついたのだろう、引き止めない。
「まあ少し待ってくださいよ、時間は取らせませんから私の話を聞いてください。後悔させませんから」
映理子はキッと餅助を睨む。AVの勧誘ではないかと本気で疑った。
餅助は平気な顔で名刺を取り出した。宗教法人四足神教、相楽餅助と書いてある。
映理子は名刺を受け取るのも躊躇われた。宗教の勧誘などうんざりである。金を搾取されるだけだ。
「映理子さんも、雪枝姉さんと同じで四足子を育てていらっしゃると聞きました」
彼は既に映理子の名前を知っていた。雪枝が漏らしたのだろう。厭だ。
「私共は四足子を神と崇める宗教です。いかに彼らが尊く気高いかに気付くと、子育てもずっと楽になりますよ」
「餅助、その辺にしなさい。映理子さんも帰りたがっているのですから、無理強いは駄目よ」
雪枝は立ち上がって、無理矢理映理子と由紀夫を玄関まで誘導してくれた。
「ごめんなさいね、突然押しかけてきて。そんなつもりじゃ無かったのよ。映理子さんが来たときは餅助は入れないようにするから、また来てね」
雪枝は申し訳無さそうに言った。
「興味があったら名刺の連絡先に電話ください。あなたはきっと幸せになれる」
後ろで餅助が大きな声で言った。
映理子は、雪枝に丁重にお礼すると、餅助に目もくれず離れた。
帰り道、公園に寄った。三組ほどの親子と初老の男性がいて、ベンチにはガラの悪そうな若い男女が座っていた。映理子は、由紀夫を木登りで遊ばせながら、長居はよそうと思った。若い男女の好奇の目が由紀夫に注がれていたからだ。必死に木を引っ掻いて登ろうとしている由紀夫に「そろそろ帰るからね」と声をかける。
「無駄だろ、そんなこと言っても。脳無しなんだから」
ベンチの男がこちらに近づいてきた。女は笑って見ている。映理子は無視して、必死に由紀夫を引っ張るが諦めてくれない。
「帰るよ。ほら」
「俺が手伝ってやるよ」
男は、あろうことか、いきなり由紀夫を蹴飛ばした。由紀夫は飛ばされて地面に仰向けに転がり四足をバタつかせた。
「何をするんですか」
「本当に虫みたいな動きするんだな」
映理子は男を睨みつけた。男は実に楽しそうに笑った。
「手伝ってやったんだから怒るなよ。帰りたかったんだろ。なあ」
映理子が言い返そうとした時、黒い風が脇をすりぬけた。慌てて手を伸ばしたが遅い。由紀夫が男の左腕に噛み付いていた。赤い血がしたたりおちる。男は苦痛に顔を歪ませた。
「離しなさい、由紀夫」
四足子は、手加減できない。噛むとなれば容赦ない、噛み切るまで噛み続ける。犬やイルカなら甘噛することもできるが、ワニには出来ない。噛むときは殺すとき。それと同じだ。一歳児といえど、四足子の肝の座った噛みつきの威力は侮れない。
男は苦痛に顔を歪め、由紀夫の頭を殴った。
「やめて、叩かないで」
映理子が男の右腕を押さえつけた。
「俺の腕が千切れるだろうが。どうしてくれる」
映理子にもどうしていいか分からなかった。
「コイツ、絶対に殺してやるからな。お前もな」
男は怒り狂い、公園にいた他の親子も遠巻きに息を呑んでいた。
突然、黒い液体が舞い、三人の顔が泥だらけになる。由紀夫が墨でも吐いたか? 違う。もう一人の女が、砂場のバケツで泥水を浴びせかけたのだ。
一転、女の顔が青ざめる。由紀夫がゾンビのような白い目を見開いて女を見つめていた。瞬膜を閉じている。恐ろしい顔。由紀夫がおもむろに男の腕から離れ、地面に降り立ち、女の前に行く。標的が変わった。
「来ないで」
女が悲鳴を上げる。由紀夫が走り始め女に噛みつく寸前、映理子が何とか手にした胴輪の紐を握り、獣のように唸る由紀夫を止めた。
コノヤロウ、と叫びながら、男と女が由紀夫に駆け寄っていく。映理子は由紀夫に覆いかぶさった。
「許してください」
必死に懇願する映理子の背中や腰を二人の男女は滅茶苦茶に蹴った。ボキリ、肋骨が折れる嫌な感触。息が止まるほど痛かったが、映理子は唇を噛み締めて耐えた。骨が折れたのに怖気づいたのか、二人は足早に去っていく。
由紀夫は頭に痣もなく、歯も抜けていなかった。まだ興奮収まらないのか唸り声を上げている。映理子は優しく由紀夫の背中をさする。すると由紀夫は安心したのか、おとなしくなった。由紀夫は背中をさせられるのが好きで、母子ができる唯一の気持ちのやりとりだった。
映理子はホッとして息を吐くが、再び襲ってきた胸の痛みにしばし悶えた。触ると右胸の下の方の肋骨が動揺しており、骨折している。息苦しくはない、血も吐かない。骨が肺に刺さってはいないようだ。
それから痛い胸を擦りながら、眠ってしまった由紀夫を抱いて時間をかけて自宅に帰った。
由紀夫の怒りがここまでとは。母親の自分ですら恐怖を覚えた。周りのお母さん方もさぞ怖かっただろう。申し訳ないことをした。あの公園にはもう行けない。いや、外出自体が怖い。誰かのボールが由紀夫に当たったらと思うとゾッとする。
由紀夫は何もなかったように机の下に蹲っている。思い返す、反省する、そんな高度な思考は出来ない。叱ってもどうにもならない。
大人になったらどうなるのだろう。人を殺すかもしれない。恐ろしくて堪らない。玲子さんのように穏やかなら良いが、由紀夫は男だ。闘争心も強いはず。管理出来るだろうか。
映理子は洗面所の鏡に向かう。酷い顔。泥だらけで、化粧は剥げ、髪は乱れ、目に生気がない。生きる希望を失いかけている。つまらない。医学への情熱もすっかり失せた。好きだった音楽もくだらない。何もかもがどうでもいいのに、焦りばかり募る。不安で仕方ない。すべて失いそうで怖い。でもやる気がしない、やれない。その繰り返し。
映理子はソファに座り、啓司の言ったことを思い返した。生きるか死ぬか迫られたら、死ぬ方を選べ。この言葉通りなら、文字通り死を選ぶことになる。何もかもを置き去りにして・・・・・・。想像してみたが、救われなかった。悩みは消え去るが解決はしない。
ふと、思い当たる。死を選べとは、逆に捉えると生きるを捨てろということ。希望や夢、欲望、大切なものを一旦全て捨ててみてはどうだろうか。昔情熱をかけて今でも心残りなサックス、捨ててみる。音楽など二度と聴かなくていい。医師としてまともに働く姿、捨ててみる。二度と白衣を着なくていい。啓司との幸せな生活、捨ててみる。もう会わなくていい。由紀夫の将来、捨ててみる。いつでも手放していい。自分が今生きていること、捨ててみる。将来の健康、幸せに生きること、どうでもいい。今日死んだって心残りはない。
映理子は心に浮かぶ、大切なものを全て捨てていった。一つ捨てるごとに頭上に浮かぶ黒い雲のような塊がするりするりと自分の脇を滑って、ドシンと地面に落ちていく。一つ落ちるごとに青空が顔を出す。やがて空一面の青空になった。心地良い。生まれたばかりの赤ん坊、雪山で遭難してあとは死ぬのみとなった人、年をとり衰え若い頃の夢を叶えることは不可能と悟った老人は、こんな空を見るのかもしれない。
無責任だろうか。大事なことを片時も忘れず考え続けることが美徳なのか。いや、呪いだ。いくら好きなものでも嫌いになる。一度完全に捨て去ることで、反動でまた好きになる。反動をうまく利用すべきだ。
寝ている由紀夫を見た。彼はどう感じているのだろう。不幸だ不憫だと考えていたが、実際不幸とは限らない。食事に困らず、危険も無ければ何も不安なことは無いだろう。由紀夫は、青空を常に見ているのではないか。余計なことを考えずのんびりと生活して、幸せなのではないか。子供が幸せなら、親として何も気を揉むことは無い。子供を立派な人間にしたい思うのは、全部自分のエゴだ。自分の役割は由紀夫や周りの人を危険に晒さないこと。それで上出来としよう。
心が軽くなる。頭が冴えてくる。胸の痛みもいくらか軽くなった気がする。よし、取り敢えず少し寝よう。
映理子は着替えて顔を洗うと、ベッドに横になる。青い空だけを見続けるようにした。
室内はしんと静まり返る。映理子の寝息と、時計の針のカチコチと動く音だけが聞こえる。
音もなく玄関のドアが開かれる。何者かが辺りを伺いながら家に入り込み、リビングで寝ている由紀夫を見つける。そのまま、寝室に移動し、寝ている映理子を見つめニヤリと笑い、寝室のドアを閉めた。
映理子が目覚めると、窓からは夕日が差していた。大分寝てしまったようだ。伸びをすると胸がズキリと痛み、前に屈んでしばらく手で擦った。不用意に動いてはいけない。
由紀夫は起きてるかな。
ゆっくり立ち上がってリビングに移動した。定位置の机の下にはいない。トイレにも、キッチンにもクローゼットの中にもいない。家中を探し回っても見つからず、ジワジワと冷汗が出てきた。まさかとは思ったが、玄関を確認すると鍵が空いている。
鍵をかけ忘れた? 外に一人で出たのか?
マンションの廊下に由紀夫の姿はない。柵から乗り出して下を覗いたが転落した様子もない。部屋は五階建てマンションの三階で、映理子は上から下まで走り回って探したがやっぱり見つからなかった。
拐われた。間違いない。環境の変化を嫌う由紀夫が一人で遠くに行くはずはない。啓司に電話したが長い手術の途中でとても相談できない。役所に脱出報告書を出しても自分で責任持って探してくれと言われるだけだ。公園のカップルが仕返しに来たのか。でも、つけられていた様子もなかった。
ふと餅助の顔が浮かぶ。一番怪しい。あの悪巧みしそうな目、由紀夫を狙っていたのかもしれない。玲子さんを拐っていたのも、彼ではないか? 身内なら侵入しやすいし、十分あり得る。気になるのは名刺。これから悪事を働こうとする人間が名刺など配るだろうか。鞄の中から名刺を取り出すと名前、電話番号に加えて住所も書いてある。
・・・・・・罠か? 私を自宅に誘い出し危害を加えるため、とも考えられる。考え過ぎか。
餅助の家に行くべきか。雪枝さんは、待てと諭した。もしかしたら、餅助に騙されないよう釘を差してくれたのか。
冷静に呼吸を整える。またあの言葉が浮かぶ。生きるか死ぬかなら死ぬ方を選べ。ならば迷わず行けとなる。これは無謀か? 危険な場所に飛び込めという、危険思想なのか? 川に落ちた子供を助けようとして亡くなる親の話はよく聞く。
いや。映理子は顔を上げた。
初めから答えは決まっている。当然行く。その後押しに過ぎない。
タクシーに乗り、餅助の家に向かう。日はすっかり沈み、青白い街灯が照らす先に木造の古い家が見えた。トタンの屋根、外に張り出した無防備な窓ガラスが目立ち、鬱蒼とした蔦が外壁を包み、玄関の簡素なドアは簡単に蹴破れそうにも見える。
映理子は家と家の隙間に入り込み、人目につかないところで窓から中を覗いた。暗い廊下、人気はない。力を込めると窓ガラスが動いた。鍵が空いていた。
だが、躊躇って一歩が出ない。入ったら犯罪になる。警察に連絡されて捕まったら由紀夫を探せない。
ゆっくりと七回呼吸した。
入ろう。うじうじしていても仕方ない。
周囲を見回し、窓を開け、足をかけて部屋の中に侵入した。靴は脱いで手に持つ。古い木材とカビの匂いがする。壁は黒いシミが全体に広がり、歩くごとに床がきしんだ。窓の左手の廊下の先に玄関があり、すぐ前にドアがある。右手の部屋は恐らくトイレだろう。正面のドアを開けると居間で、案外清潔感がある。ちゃぶ台、座布団、テレビと馴染みの家具が並ぶ中、壁際に異様に立派な神棚がどんと構えている。社の両脇に小さな四足子の銅像があり、真ん中の扉の中に玲子の写真が飾られている。玲子を祀っている理由は気になるが、まずは部屋の捜索をする。押し入れ、箪笥、便所、浴室を探したが由紀夫の姿は無かった。ここにはいない。
困った、他に思い当たる場所がない。
玄関のドアが開く音がした。映理子はどきりとして冷汗が出た。狭い家、すぐに居間に辿り着くだろう。居間の窓から外に出ようとするが、神棚に引っかかって窓が半分も開かない。これでは体が入らない。餅助の足音はギシギシと重い音をたてながら徐々に近づいてくる。もう間に合わない。言い訳を考えなければ。脳を酷使してもっともらしい理由を探したが、見当たらない。正直に話して謝罪するか? しかし、不法侵入を許してくれるか? ダメだ、あの疑り深くていやらしい目をした男に何を要求されるか分からない。弱味を握られるのはまずい。
考えている間に足音は居間のドアの前に来た。もう流れに任せるしかないと観念したが、足音は素通りし、隣の便所に入った。チャンスは今しかない。映理子はそろりとドアを開けると廊下の窓から外に躍り出た。それから走って玄関に回ると呼び鈴を鳴らした。
「村崎です。餅助さんはいらっしゃいますか?」
映理子は大きな声で呼びかける。
トイレの水が流れる音が玄関先まで響いた後、驚いた顔をした餅助が出てきた。
「まさか本当にいらしてくれるとは。わざわざご足労頂いてありがとうございます」
餅助は丁寧に頭を下げてから、汚いところですがどうぞお入り下さい、と言った。
映理子も軽く頭を下げ、先程まで捜し回った部屋に新鮮な顔をして足を踏み入れる。居間の神棚にも驚いた表情を作り、立派ですね、とお世辞を言った。神棚の扉は閉じられている。
餅助は汗をかきながら床を片付け、お茶を用意してくれた。
「お茶、気持ち悪かったら飲まなくて良いですので」
第一印象と大分違う。もっと悪どい人間かと思ったが、意外と素直で正直に見える。
確かめたいのは二つ、由紀夫の居所と、餅助が四足神教を崇拝している理由。無難な質問から始めることにする。
「四足神教について詳しく教えて頂けますか?」
映理子はそう言ってニコリと微笑んだ。餅助は顔を真っ赤にして、目を逸らした。
「劣った人間、優れた人間、どう思いますか?」
餅助がはにかみながら言った。映理子は突然の問に戸惑う。返答次第で人間性が判断されそうである。曖昧に返事して誤魔化した。
「正直に答えて下さい。私のように容姿も悪く、ボロい家に住んで、当然金もない男は、美しく頭もいいあなたからしたら劣って見えるでしょう。確かにそうかもしれません。ならば当然四足子も劣った生き物となります。殺処分されるのですから」
耳の痛い指摘だ。
「劣っていると認めるのですか? 由紀夫くんを」
「認めたくないと抗っています」
餅助は優しく笑った。
「やっと気持ちを話してくれましたね。四足子の親は皆同じことで悩み苦しんでいます。子供が可哀想、です。でも考えてみてください。人生で不安や悩みなく過ごせた日が一日でも多い人が幸せな人です。四足子達を見て下さい。悠々と生きている。私達より遥かに幸せな人生を送ってますよ。彼らは私達の祖先でもあります。一度神棚に手を合わせて、崇めてみて下さい。少しずつ考えも変わってきますよ」
予想外だった。教義と自分の考えに通じるところがある。崇めるという考えはなかったが。
餅助は立ち上がって神棚の前に立ち手を合わせお祈りをした。静かな時が流れる。
「こうしていると自分も肯定されている気がするんです。誰にも相手にされない人生でしたから」
餅助は映理子を呼んで、同じようにやってみましょう、と勧めた。
映理子はやや気が引けたが、餅助にならってお祈りをした。
目を閉じながら由紀夫のことを考える。思えば彼に頭を下げたことはない。公園の男女が由紀夫を馬鹿にしたが、私も変わらない。深いところで軽蔑している。目線より高い位置に据えられた彼らの像に手を合わせていると、不思議と落ち着いた気持ちになれた。ふと涙まで込み上げてくる。私はずっとこうしたかったのかもしれない。由紀夫を、凄いね偉い子だねと褒めてあげたかった。
ハンカチで目を拭い、餅助にも深く頭を下げた。
「素敵な時間をありがとうございました」
餅助も手を合わせて頭を下げた。
「素直な人ですね。いくらでも変われますよ。あなたはもっと、幸せになれる」
じんときた。
「ところで」、餅助が言う、「由紀夫くんは家にいるのですか?」
映理子は餅助に全てを話したかったが、口をつぐんだ。まだ確信が持てない。
「今度は由紀夫くんと一緒にいらしてください。楽園の話をいたしましょう」
楽園・・・・・・、やはり宗教か。悲しい。
「楽園とは?」
「四足子が集まって、のんびりと暮らす施設です。田舎にあり、季節毎の花が咲く広い庭とたくさんの大きな建物がありまして、まさに楽園でしょう。雪枝さんと辰彦さんが運営してます。彼らは資産家ですから」
「どこにあるのでしょう?」
「駄目ですよ。四足子しか行けない決まりです。住所も彼らしか知らない。実は僕も一度も行ったことが無いんです。四足子を抱えた家族が我堂夫妻に子供を託すんです。幸せに育ててくれと。彼らが引き受けて連れて行く」
「帰ってくる子はいますか?」
「いえ、一度楽園に行ったら二度と帰らない約束です。四足子が不安定になりますからね。今生の別れをするのです」
「雪枝さんは何も言ってませんでしたが」
「村崎さんには宗教や楽園を勧めないようです。きっと向かないからと。でもせっかくいらしたのでお話ししてますがね」
映理子は唇を噛んだ。悔しい。そういうことか。私はプランBだったのだ。そう分かればすぐにでも我堂の家に行かなければ。
映理子は丁寧にお礼をして席を立った。
餅助も席を立ち、大変でしょうがまた来てくださいね、と、ねぎらいの言葉を言った。そうして、ドアを塞ぐように立った。
映理子は戸惑う。
帰さないつもりか。
冷汗が出た。この狭い部屋、体格差、無理矢理押し倒されても抗いきれない。
胸の鼓動が早くなる。手に力が籠もる。
餅助は無表情で映理子を見つめている。ふと、責められているのはこちらだと映理子は感じた。
「あの、何か?」
震える声で映理子が言った。
「村崎さん、あなたからも私に言うことがあるのではないですか?」
「何もありません。満足して帰るだけです」
「無断で家に入っていましたね。何か盗んだのですか?」
こいつ、相当な食わせ物だ。
「警察を呼びますよ」
餅助がすごんだ。
映理子は、ふっと肩の力を抜く。
「分かりました、話しましょう。ですが先に一つ確認させてください。この神棚の写真はどういう意味ですか?」
餅助がちらりと神棚を見上げてから、目が泳いだ。
「あなたの盗みとは何の関係もないこと。話す必要はありません」
「誓って盗みはしていません。私は何も恥ずべきことはない。あなたを信用すれば話します。教えてください、玲子さんを誘拐して乱暴していたのは餅助さんなのですか?」
「何てことを言うんだ!」
餅助が大声を上げた。
「玲子さんが乱暴されて一番心を痛めたのは私だ。彼女は私に近寄ってくれる、同じ時を共有してくれる。好きなんだ。恋してるんだよ」
映理子は眉をひそめた。歪んだ恋か、純粋な恋か。嘘と判断する根拠はあるか?
「疑っていますね。無理もないでしょう。人間と四足子の恋など聞いたことがないですから。ただ信じてもらうしかない」
悪人ではない気がした。勘でしかないが、そう信じることにする。
「由紀夫が拐われました。もしかしたらあなたの家にいるのかと思いましたが勘違いでした。疑ってごめんなさい」
餅助はハッと顔が曇る。
「由紀夫くんもですか。玲子さんと同じですね。悔しいですね。僕も出来る限りの協力しますよ」
雪枝が怪しい、とは言えない。
「私がここに来たことは誰にも言わないで下さい。雪枝さんにもです。いいですか?」
餅助は黙って頷くと、道を開けてくれた。
「いつでも相談して下さい、駆けつけますから」
映理子は、餅助の脇を走り抜けると、すぐに外に出て雪枝の家に向かった。
映理子はタクシーの中で考える。雪枝は四足子を狙っている。目的は恐らく臓器売買だろう。四足子の臓器は、脳以外ほとんど人間と変わりなく、高値で取引される。
四足子を拐うプランは二つ。プランAは四足子を持て余している親を見つけ、宗教に勧誘し、楽園と称して引き取る。親も薄々感づいているが、「子供の為」と自分の良心を騙して引き渡す。利害が一致する。プランBは、映理子のように宗教が合わない人間のため。四足子は拐われやすいが、探しても無駄だと言い聞かせ、発見を遅らせる。
小賢しいことを。一時でも信頼した自分が情けない。
映理子は唇を噛み、気持ちばかりが焦って、タクシーのグリップを強く握った。
*
豪邸は、一部屋だけ灯りがついている。再び、勝手に侵入する。二度目なので既に慣れていた。罪悪感はない。門の周辺にも監視カメラはなく侵入は容易だった。裏に周り、カーテンの隙間から中を覗くが誰もいない。窓を確認していくと、一つだけ鍵が空いていた。玲子が何度も拐われたのに警戒がお粗末。反省がないのか、加害者なのか、もしくは誘われているのか。
窓から部屋に入る。寝室だ。ベットが二つ、恐らく雪枝夫妻のものだろう。クローゼットがある。誘拐の証拠でもないかと開けてみると、大人サイズの拘束具が入っていた。手足や胴体を押さえつけるもの。何に使うのか。汚らわしい。
部屋を出ると吹き抜けの玄関ホール。玲子の部屋から物音がしたので足を向ける。ゆっくりとドアを開けると、座敷牢の中、玲子と由紀夫がお皿に盛られた乾燥コオロギを食べていた。
全身の力が抜ける。良かった、生きてた。
「どこから入ったの?」
後ろから声がした。雪枝だ。
映理子は振り返って雪枝と向き合った。手に汗がにじむ。
「あなた、まさか窓から勝手に入ったの?」
「ええ」
「呆れたわね、泥棒みたいな真似して。どうしたの一体?」
「どうしたも何も・・・・・・」
変だ。この落ち着きよう。
「由紀夫ちゃんは一人で来たのよ。あなた、ちゃんと戸締まりしなかったんでしょ。あれだけ言ったのに」
確かに四足子は道筋を覚えるのが得意で一度通った道は忘れないという。
「ずっとあなたの家に電話してたのよ。まさか家に忍び込むなんて」
雪枝は眉をひそめたが、それからゆっくりと笑顔になった。
「まあでも、仕方ないわ。私達も初めはそうだった。あちこち必死で探し回って、他人様を疑ったりもした。いま思うと、玲子も誘拐ではなく一人で外に行って、野生の四足男と関係を持って妊娠してたのかもしれないわね」
雪枝さんの言う通りかもしれない。
駄目だ。また、雪枝のペースに載せられている。つい安心して信じ込んでしまう。
「私の早とちりかもしれません」
映理子は思わず頭を下げた。
「いいのよ。でも由紀夫ちゃんも玲子が好きなのね。ほら見て、仲良さそうにくっついて」
悔しいがその通り。母親から逃げ出すなんて、母親失格。きっと私の態度が冷酷なのだろう。由紀夫にもそれが伝わっていた。
映理子は深く落ち込んで、また涙が出そうになる。
「思いつめないで。仕方ないことなの。由紀夫ちゃんは間違いなくあなたから産まれた子供だけれど、私達とは違う生き物なのよ」
映理子は無言で頷く。
「ここを施設だと思いなさい。昼間あなたが仕事している間だけ預ける。お泊りでもいいわ。あなたは少し由紀夫ちゃんから離れて、一時的に忘れて、自分の人生を取り戻すの。向き合う関係は良くないわ。お互いが前を向く関係にならなきゃ。ね、もう少し楽に考えて。自分の大切なもの大事なもの、そんな重たいものを一回全部捨てて自分一人の世界に身を置くことも大事よ」
自分の心が読まれたような気がした。いや、四足子の親は皆同じ気持ちになるのか。
「今日は由紀夫ちゃんを預かるから、ゆっくり考えて明日また来てね」
映理子は、軽く頭を下げる。薄いモヤの中にいるような、ぼんやりとした気分だった。何かに操られているような、それでいて心地良い。
部屋を出ようとすると、ドアが開いた。男が立っていた。初老の背の高い男。
映理子はハッと目を見開く。
こいつは見覚えがある。公園で私達が襲われていた時に遠巻きで見ていた。何故ここに?
「紹介するわ、旦那よ」
「初めまして。辰彦と申します。映理子さんですよね。いやあ、雪枝から話は聞いてましたが、とても美しい方で驚きましたよ」
男は愛想よく笑って言った。
「白々しいわね」
映理子は、鋭く男を睨んだ。
「なんと?」
「先程公園で私達を見てましたね。後をつけていたのでしょう?」
辰彦は雪枝と目を合わせて困ったような顔をする。
「散歩コースが同じだったのです。白状いたしますと、おっしゃるとおり私はあそこにいました。助けるべきでしたが、恥ずかしながら恐怖で足が動かなかった。情けないことです。心から謝罪いたします」
「そんな話はしてない。あなたが由紀夫を誘拐したんじゃないかと疑ってるの」
男は汗をかき始めた。
「やめてください、そんな。ありえない」
ふと玲子特有の甘い匂いがした。振り返るが玲子は座敷牢の中。気がついた。この男から玲子の匂いがする。寝室の拘束具とリンクした。
映理子は走り出し、玲子に抱かれていた由紀夫を無理やり抱えた。
「止まりなさい」
雪枝が叫ぶ。
「ふざけないで、もう騙されないわ。由紀夫は絶対に連れて帰る」
「違うわ。後ろを見て。あなたが危険なの。動いちゃ駄目よ」
寒気がした。背後から猛獣の気配。ゆっくり振り返ると、玲子の美しい顔が白眼の蛇のような形相に変わっていた。
映理子は尻もちをついて後退る。子供の由紀夫ですらあの暴力だ、玲子が全力で襲ってきたら半端でない。
「由紀夫ちゃんを置いて、落ち着かせて。無駄な動きをするんじゃないわよ」
「嫌よ」
一度由紀夫を離したら二度と戻ってこない、そんな気がする。
玲子がジリジリと近付いてくる。映理子の足先に手が触れた時、辰彦が玲子の背中に覆いかぶさった。
「早く逃げなさい。今のうちに」
何をしている?
逃げ遅れた。無駄死にを生んだ。玲子の手が辰彦の喉を潰した。声帯のある甲状軟骨が煎餅でも割れるようにパチっと音を立てて潰れるのが聞こえた。辰彦は、すぐに呼吸困難に陥る。怒りの収まらない玲子は無茶苦茶に辰彦の喉を食い破り、血が吹き出た。
「玲子、やめて」
雪枝が悲痛な声をあげ、その声に反応した玲子が今度は雪枝に飛びかかり、胸に噛み付いた。
由紀夫が映理子の手を離れ玲子に近付いていく。映理子は手を伸ばして止めようとしたが、由紀夫は平然と玲子の足に頬をこすりつけた。
まるでお面を剥がしたように、玲子の顔が穏やかになる。由紀夫と顔を見合わせると、また座敷牢に戻り何事もなかったように二人でコオロギの残りを食べ始めた。
映理子は改めて四足人の恐ろしさを知った。いくら手懐けても、少しのきっかけで猛獣に変貌する。牢や、拘束具も頷ける。
雪枝のそばに駆け寄る。死んではいないが苦しそうに息をしている。左胸から赤い肺が露わになって震えていた。
出血は酷くない。まだ助かる。
すぐに救急車を呼ぼうと携帯電話を取り出したが、雪枝に止められる。
「玲子が捕まるから、やめて」
口から血の泡を吐きながら苦しそうに言った。
確かに玲子の仕業だと隠しようもない。人を殺した四足人は容赦なく殺処分だろう。
「でも、あなたが死んでしまう。助かるかもしれないのに」
雪枝は、顔を苦痛に歪めながらも首を縦に振らなかった。
「玲子をお願い。私達の施設に入れてあげて。餅助に連絡すれば分かるから」
施設って・・・・・・。
「正直に教えて、四足子の臓器を売っていたの?」
雪枝は、最期の静かな瞬間を迎えようとしていた。苦痛の顔も次第に和らぎ、昼寝でもするように目が閉じかけていたのを少し開いた。
「何のこと?」
雪枝の最期の言葉。
嘘などつくだろうか。
映理子はしゃがみこんで、うなだれた。雪枝の忠告があったのに、私は四足子がいなくなって騒ぎすぎた。狂ったように走り回り、悲劇を生んだ。
動けずにいると、玄関のドアが開く音がして、餅助が部屋に入ってきた。餅助は二人の遺体を見回して青ざめ、言葉を失った。
「何故こんなことに?」
ありのままを伝えると、餅助がゆっくり映理子に近づいてくる。
「あなたに怪我はないのですか?」
「私は何も・・・・・・」
そう言い終わる間もなく、餅助はいきなり映理子を抱きしめた。不意のことで動けず、驚いて声が出なかった。
「良かった、あなたが無事で。私はただそれだけが心配で」
餅助の濃いヒゲが映理子の頬に押し付けられ、短くて尖った髪の毛が映理子の頭に刺さった。
鳥肌が立った。ものすごく暑苦しい。
「離れてくれませんか」
なんとか声を絞り出す。餅助は慌てて身を離した。額から大量の汗が流れている。
「失礼しました。あなたの気持ちも考えずに。四足神教に理解を示してくれたあなたに勝手に好意を抱いておりました。いや、これは大変な粗相を申し訳ありません」
「大丈夫ですよ。気になさらないで下さい。そんなことよりも、雪枝さんたちがあまりにも不憫で」
「葬儀は私が行います、心配いりません。姉さん達は覚悟の上だと思います。四足子を育てるということはこういうこと。いつ子供に殺されてもおかしくない、それでも四足子を手放せない。四足神教は、自分を犠牲にしてでも子供を守ると誓うところから始まるんです」
映理子は頭が上がらなかった。私が悪い。きっと餅助もそれを感じている。でもそれを飲み込んで許してくれた。
インターホンが鳴る。
「誰でしょう。私が見てきましょう」
餅助はそう言って立ち上がり、部屋を出ていった。由紀夫と玲子は、すやすやと寝息を立てている。
由紀夫が無事で良かった。ようやく昂ぶった気持ちが静まってくる。
「入るな」
餅助が怒鳴る声がする。それと同時に二人の男が部屋に入ってきた。引っ越し業者のような白と青の作業服を着ている。一人は金髪でスラリと細身であり、もう一人は体が大きくがっちりとしている。あとから餅助が入ってくる。
金髪の男は死体を見もせず、由紀夫を指さして言った。
「回収に来ました」
映理子に悪寒が走る。半信半疑だった臓器売買が現実になった。損得で動く人間の残酷を想像する。由紀夫を抱えて立ち上がった。守れるだろうか。
「頼んでません」
映理子は震えた声で叫ぶ。
「我堂夫妻からの依頼です」
まさか、信じられない。
「見れば分かるでしょ。もう死んでるの。キャンセルよ、仕事はおしまい」
金髪の男は死体にようやく気が付いたのか、ギョッとした顔をした。
「ですが、前金は支払っています。キャンセルできません」
「私の子よ。私が許可しない」
「困りましたね」
困った困ったと言いながら、男は映理子にジリジリと近寄ってくる。腕の中で由紀夫はまだ眠りに落ちている。
男は手を伸ばして由紀夫に触ろうとする。映理子がパチンと手をはたくと、男は薄笑いを浮かべた。
「可愛い叩き方だ、たまらないな」
何を言ってる?
映理子が戸惑っていると餅助がすっと映理子の前に立った。
「床の二人を持っていけ。それで許してほしい」
餅助はポケットからナイフを取り出し男に突きつけた。
「帰らないなら警察を呼ぶ」
金髪の男は、怖い怖いと言って肩をすくめた。
「知ってますか、角のある肉食獣はいないんですよ。刃物を持つのは弱者の証です」
男はそれから、まあいいでしょうと言って、しゃがんで死体を覗き込み、脈を取り、瞼を広げ、腹や胸を触った。
「まだ僅かに脈がありますね。分かりました、今日はこれで引き下がりましょう」
二人の男は一度戻り黒くて長いビニールを持ってくると、二体の死体を包み、床や壁に飛び散った血を綺麗に磨き上げて帰っていった。見惚れるほど手際よく、拍子抜けするほど呆気なかった。部屋には静寂が訪れる。
映理子はヘナヘナと座り込んだ。
終わった、ようやく。乗り切った。
餅助は、ゆっくりと振り返って映理子の前に座った。
「由紀夫くん、助かりましたね」
「あなたのお陰です、餅助さん」
映理子は餅助の顔を見て微笑んだ。
「あの、それで、お願いがあるのですが」
餅助が言う。ナイフはまだ握られている。
「何でしょう」
「由紀夫くんを助けたお礼に、キス、してもらえませんか?」
映理子の顔から血の気が引いていく。
「どうして、そんなこと言うの?」
「あなたの大事な由紀夫くんを助けたのだから、お礼のキスは妥当かと思いますがどうでしょうか?」
「私のことが好きなのですか?」
「好きです」
餅助は真顔だ。ナイフは離さない。映理子は顔を背けた。
「私はあなたの話が好きでした。四足神教のことももっと聞きたいと思っていました。ですが、はっきり言ってがっかりしました。キスを強要するような乱暴な人だなんて」
そう言って恐る恐る餅助の顔を見る。無表情。辛いのか怒っているのか判断できない。怖い。
「人が動くのには理由があります。対価を求めるのは当然です。私はあの連中に殺されてもおかしくなかったが、勇気を出して動いた。あなたはこれだけのことをやってもらったのに何も対価を払わないつもりですか?」
「後日お礼は致します。夫と相談してから・・・・・・」
「・・・・・・そうですか、じゃあお芝居はおしまいですね」
餅助は、映理子の腕から強引に由紀夫を奪い取った。
「返して下さい」
「ダメですね。あなたは話の分からない人だ。私はキスが欲しいと言った。それ以外はお礼にならない。お礼がないなら、ゼロに戻します。この四足子を彼らに渡す」
「餅助さん、あなたが四足子を大切にしていたのは嘘なのですか?」
映理子が叫んだ。餅助は薄ら笑いを浮かべ返事しない。
映理子の脇を風のように通り抜けたものがあった。玲子だ。彼女は真っ直ぐ餅助に襲いかかった。狙うは喉。
しかし、喉を切られたのは玲子の方だった。餅助のナイフが玲子の首に深く突き刺さる。血が溢れ出る。
「愛してたと言ってたのに」
映理子は叫ぶ。
「愛してましたよ。美しかったから。散々楽しませてもらいました。僕のように女に見向きもされない男は、こんな野蛮な女でも捕まえて慰めてもらうしか無いんです。馬鹿な疑似恋愛もしました。でもあなたを見て目が開きました。やはり人間の女を好きになるべきだとね」
また騙された。
「映理子さん、目を覚めましなさい。四足子を守るのは命懸けだ。雪枝達は命を賭けてましたよ。あなたも自分を犠牲にしなさい」
やれやれ、つくづくコイツの言うことは一理ある。その通り覚悟を決めるしかない。
映理子は唇を噛んで震えていたが、ゆっくりと頷いた。餅助は由紀夫を放り投げると飛ぶように寄ってきて、映理子を押し倒した。
ナイフを放り投げて両手で胸を揉みしだきながら、汚い舌で映理子の口周りを執拗に舐めてくる。映理子は口を開けず、ただじっと耐えた。
「ほら、それではお礼になりませんよ。しっかり口を開けて」
餅助はベルトを緩めると汚い下半身を露出した。
吐き気を催す。でもやらなくてはならない。
少しだけ口を開く。奴は興奮したのか、手であちこちを撫で回してくる。
もう少し、もう少し焦らさなければ。
映理子は顔を背けた。
「観念しなさいよ、あなたも」
「分かりました。どうぞお好きに」
映理子は大きく口を開いた。目をギラつかせた餅助が喰らいついてくる。臭くて大きな舌が映理子の口の中に潜り込んでくる。
映理子は薄目で餅助を見た。
ああ、なんて見た目通りの阿呆なんだろう。嫌がる女の口に急所の舌を入れてくるなんて。
殺してくれと拝んでるようではないか。
映理子はぐっと餅助の頭を引き寄せると、嗚咽がするほど舌を深く引き込み、渾身の力で噛み付いた。餅助は驚いて身を離そうとするが、映理子が両手でガッチリと餅助の胴を抱きしめ逃さない。
映理子の顔は蛇の形相になる。玲子の霊が乗り移ったよう。ぎりぎりとノコギリのように歯を動かしながら、首を狂った人形のように左右に振った。
餅助は映理子を殴ろうとするが体が密着して力が入らない。それに動けば動くほど舌に激痛が走り、結局ピクリとも動かなくなる。狂って左右に振れる映理子の頭を抑えることしか出来ない。
痙攣して硬くなった舌が徐々に千切れていく。赤い血が溢れ出てくる。完全に戦意喪失してる餅助は涙を流して辞めてくれと懇願するが、蛇になった女には理性も感情もない。今更遅かった。
半分まで切れたら早かった。最後に大きく頭を振って一気に離断した。
餅助は喉を押さえて苦しがる。舌が痙攣して喉に詰まっている。指で必死に舌を引っ張り出そうとしているが無駄だろう。それが出来ないように焦らしに焦らして舌を深く入れさせたのだから。
映理子は、呆然として死に行く餅助を眺めた。医師とはいえ、もがき苦しみ死んでいく人間を見ることは少ない。壮絶さに寒気がした。
餅助が動かなくなった。我に返って周りを見渡すが噛み千切った舌が見つからない。そういえば吐き出した記憶もない。口の中にはない。考えるのを辞める。
殺人犯。自分にレッテルがつく。
ふと、餅助のポケットの携帯電話が目に入る。取り出して発信履歴を見ると、ついさっき誰かに電話をかけている。かけなおす。
「まだ何か御用ですか?」
聞き覚えのある男の声。
「死体が増えた、回収して欲しい」
「承りました」
映理子は電話を切ると、倒れている玲子の髪を撫でた。
「さようなら、女神様」
玲子を置いていくのは辛いが連れて帰ることもできない。映理子は由紀夫を抱えて、家を飛び出した。雲のない晴れた夜、月が煌々と光っていた。口周り、胸元に血がついている。ハンカチで拭い、由紀夫を前に抱いて走り、何とか家に辿り着く。
もう動けなかった。色んなことがありすぎた。不法侵入、殺人、沢山の罪を犯した。私が関わったことで四人の人間が死んだ。しかも逃げた。
玄関に腰を下ろして呆然として頭を抱える。自分にはもう何の権利も資格もなかった。
すぐ目の前の玄関のドアが叩かれた。映理子はぼんやりと眺める。
玄関先で男の声がする。
「そこにいますね。死体は回収しました。後日対価を払ってもらいます。逃げないで下さいね、映理子さん」
去っていく靴音が響いた。
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