『卵を産む女』

香森康人

第1話 卵作り

 女性が卵を産むこと、それが当たり前の世の中。女性は産卵と月経を毎月交互に繰り返し、まともな子供を作るには両方で受精が必要だった。妊娠出産しても、生まれた子供の脳は不十分で、人間らしい脳がない。その身体に、受精し鶏のように産卵した卵の中身を与えることで、脳は急速に変化し、初めて人間としての意思を持つことが出来る。身体と脳を分けてうむのである。

 実に罪深くて悩ましいのが、産卵と月経の2つの受精の父親は別でないといけないこと。同じ父親では子供は育たない。愛がややこしくなり、もっと自由になる。好きな女性が結婚していても終わりではない。結婚していても狙っていい、好きになっていい、相手もそれを求めている。人類は厄介な方向に進化することで、より健康で頑強な体と人生百二十年は当たり前の長寿を得たのだった。

 

 村崎映理子(むらさきえりこ)は三十二歳女医で、大学病院の呼吸器内科でグループ長をしていた。グループには他にも医師がおり、困るとすぐ映理子に相談に来た。映理子は臨床能力が高く決断力があるので、皆が映理子に頼っていた。研修医の教育も担当していたが、映理子は見た目が若く、普段は学生のように気さくな口調で話すので、映理子のことを本気で好きになってしまう研修医もしょっちゅういた。映理子が既婚者なのを皆知っていたが、

「卵の父親になれませんか?」

と口説いてくる。

 もし関係を持っても浮気ではない。自然の摂理だから仕方ないこと。常に二人の男を求めるのは女の本能だった。

 映理子はいつも、若い男の欲望をたたえた目を見ながら、仕事を頑張りなさい、と返事する。その気になれない。心が動かなかった。

 仕事が終わり家に帰っても、映理子は安らげない。物音を立てないように慎重に動く。自室で勉強している一つ年上の夫、村崎 黄司(こうじ)、の機嫌が悪いと、うるさいと怒鳴られるからだ。彼は、見た目は若く幼いがカメラ会社の課長であり、向上心があって常に何かを熱心に勉強していた。

 映理子は黙々と料理をしながら、夫と何の話をするか考える。同僚から聞いた愚痴、ニュースでやっていたこと、何でもいいのだが、話がまとまっていないと彼は眉をしかめて、話の筋が見えない、と文句を言う。これが結構ストレスだった。何も準備せず思いついたことを思いつきで話しあえる夫婦が羨ましかった。冷蔵庫からワインを取り出して飲んだ。最近お酒の量が増えている。

 二人の生活には限界がある。子供が欲しかった。

 黄ちゃんは嫌がるだろうか、私が他の男と卵作りをすることを。

 夫婦生活で子供を作ることは大きな関門である。夫にとって自分だけの大切な妻が外に行き、男漁りをし、関係を持って帰ってくるのだから。行為は妊娠と全く同じで、繋がってしまう。我慢ならないのは当然なのだが、そこを辛抱しなくてはならない。

 映理子は、夫がどう言うか全く想像がつかなかった。怒るのか、うろたえるのか、何かと理由をつけて先延ばしにするのか。正直、夫の性格がいまいち掴めないでいる。どういうところで怒り、いつ喜ぶのかいまいち分からない。だから疲れる。気を揉む。真面目でまともな人だと思って結婚したけれど、波長が合うとはいえない。でも一人の堕落した生活に戻るより、ピリっとした今の生活の方がマシだと思う。

「黄ちゃんは私を愛しているのだろうか。それとも、ただ所有物として見ているだけなのか。どちらにしても、私は彼から逃げられない」


 夕食の時間になり、彼が部屋から出るなり言った。 

 「俺の部屋の巻き尺、知らないかな?」

 映理子は総毛立った。

 私だ。この前、家具の寸法を測りたくて夫の机の引き出しにある巻き尺をこっそり借りて、返し忘れた。夫は部屋のものをいじられるのが嫌いなので、掃除で彼の部屋に入ることはあっても、物には触らないようにしていた。あの時はすぐ返せば良いからと気を抜いていた。

 映理子はすぐに呼吸を整え平静を装う。そこは呼吸器内科、ぬかりない。

「知らないよ」

 馬鹿な私。素直に謝れば済むのに、あの眉をしかめて不機嫌になった夫の顔が怖くて嘘をついた。勝手に借りて罪一つ、嘘をついて罪二つ。

「そうか、じゃあ俺がなくしたのかな。最近使った記憶はないけど」

 物分りの良さが逆に不気味。夫は席に付き夕食を食べ始める。彼は私の作った料理に文句をつけることはない。いつも美味しいと言ってくれる。映理子は取り敢えず難を逃れホッとして席についたが、彼の後ろのガラス窓の棚に目をやり、また目を伏せた。巻き尺があった。彼がひょいと後ろを向けばすぐに気がつくだろう。映理子は自ずと沈黙する。話せばボロが出そうだ。巻き尺に気がついた彼が罪を二つ重ねた私を叱るだろう。また厭な夜になる。

 明日しれっと戻してもいいけれど、神経質な夫のことだから、昨日なかったのに今日あるのはおかしい、と気がつくだろう。もう捨てる。それしかない。彼が部屋に帰ったら、今夜のうちにマンションのゴミ捨て場に置いてこよう。でないと心が落ち着かない。ああ、つくづく馬鹿な私。夫の私物を捨てて罪三つ。今までもこうやって罪を重ねてきた。彼だけの原因ではない。自分の責任も多いにある。恐らく怖がりすぎているのだろう。笑って受け流すくらいの鷹揚さがあれば私達の生活も違ったのに。

 今日に限ってなかなか夫は自室に戻らず、普段飲まないビールまで飲み始めた。彼は酔うとまともになる。怖い顔もしなくなるし、よく話すようになる。映理子はいつも思う、もうずっと一日中酔っててくれれば良いのにと。

「子供が欲しい」

 予期せず口から漏れた。耐えられない。酔った今しかなかった。

「気になる奴がいるのか?」

「誓って、いない。ただあなたとの子供が欲しいだけ」

「嘘だろう」

 笑っているのに、目が怖かった。

「今日いくつ嘘をついた? 俺がこれだけ柔らかい雰囲気を作って待っていたのに、一向に白状しなかったな。分かってるだろう? 巻き尺のことだよ」

 夫は、振り向きもせずに手を後ろに回して棚を開け巻き尺を取り出した。ゆっくりと、それを手のひらで回しながら、ちらりと映理子を見た。

「見えていたよね?」

 映理子は体が震え、声が出なかった。ここまで夫を怒らせたのは初めてかもしれない。

「初めに謝ればいいのに。信頼してないよね俺のこと。悲しかったよ、料理の味なんて何も分からなかった。本当に泣きそうだったんだ。映理子の不誠実な態度に。いつから君はこんな嘘ばかりつく女になったんだ?」

 全部私が悪い。そう思うのに、謝る言葉が出てこない。

「だって、黄ちゃんがいつも怖い顔するから」

「俺のせいか? 今は確かに怖い顔もしているだろう、でもそれはお前が原因じゃないのか? いつもそうだ。俺は意味もなく怒ったりしない」

 悔しかった。一握りでも彼が、自分も悪かった、と認めてさえくれれば救われるのに。原因はすべて私、今後は私が行動を改めるしかない、夫は何一つ変えることなく今まで通りで良し、そんなわけない。膝の拳を強く握った。言い返せない、言い負かされるのが怖い。

「もう一度言うが、子供が欲しいなんて嘘だろう。ただの浮気心だろ」

 夫は食べ終わった食器をシンクに運び、ゴム手袋をつけてキレイに洗い、食器乾燥機にピッタリ収納すると欠伸をして自室に戻っていった。

 私のストレス、半端ない。

 離婚すれば。また脳裏をよぎる。それができないのは、惚れた弱みだった。先に夫を好きになったのは映理子の方、あの時の感情が錨となって引き留める。子供が出来れば彼も変わるかもしれない。やっぱり子供がほしい。なんとしても。


            *



 満開の桜が病院の玄関を彩る。春、生物の芽生えは映理子の心にも穏やかな高揚感を与えた。

 来た。

 診療中、映理子は股の違和感に気づく。研修医の男の子に続きを頼み、切りのいいところでトイレに行く。下着を確認すると、白い卵が産まれていた。大きさは鶏の卵くらいだが形はまん丸である。産卵だった。良かった、うっかりお尻で潰してしまっていたら大変なことになる。

 一ヶ月毎に産卵と生理を交互に繰り返す。一般に産卵は右の卵巣、生理は左の卵巣が担当している。産卵の月は楽だ。痛みもないし出血もない。産んでしまえばそれでおしまい。あとは割って中身を便器に捨てて、殻をトイレットペーパーで包んでパキパキ潰して汚物入れにポイッとするだけ。初めて産卵したときは恥ずかしくて落ち込んだけれど、もう慣れたもの。ささっと取り掛かろうとすると、脇の壁の見慣れない張り紙に目がとまった。

「只今産卵した女性各位

 その卵、捨てないで下さい。人間の卵は生殖医療や新薬の開発に重要です。貴重で価値のあるものです。どうか捨てずに下の籠にお入れください。もちろん匿名で構いません。ご協力を宜しくお願い致します。

               北命病院基礎研究室」

 初めて見た。医局会でもこんな告知はなかったし、学内メールにも連絡はない。でも女性の生理に関わることだし、大っぴらにせず個室でこっそり伝達しているのかもしれない。

 映理子は悩んだが、研究で使用するのは事実だし、自分も大学院のときにお世話になったこともあり、そっと卵を籠に入れた。既に一つ真っ白な卵が入っていたことも後押しした。

 前に向き直り、ほっと溜息をつく。トイレに入ると毎回溜息がでる。一番癒やされる空間。誰にも気兼ねない。研修医の子は優秀で真面目だから多少任せても安心、少しくらい休んでも良いだろう。

 頭に浮かぶのは黄ちゃんのこと。あの夜、彼は私のベットに潜り込んできて、私を抱きしめ、頭を撫でた。何か違う、そうじゃない、私は猫じゃない。頭を撫でられればニャンニャンご機嫌になる程甘くない。女医の端くれとして、プライドも少しはある。それでもこれ以上関係を壊したくなくて彼に抱かれた。でもモヤモヤは残っている。問題は何も解決していない。最後に必要なのは私の勇気、迫力だろう。分かっているけど難しい。

 トイレから出て仕事に戻った。研修医の子(澤井くん)は予想通りテキパキと仕事をこなしてくれていた。カルテ記載、来週の検査のオーダー、造影剤の同意書取りなど沢山あるが、彼がいると流れるように終わっていく。お礼を言うと、澤井くんは顔を赤くして、いえ、と言った。

 彼は無駄口叩くことなく黙々と働くタイプだが、視線は決して落ち着いていない。映理子が電カルでCT画像なんかを見ていると明らかに隣で映理子の横顔を注視している。映理子は集中できず、冷や汗まで出てくる。「何か?」と聞くと、いえ、と言う。

 好意は嬉しいけれど、あなたはまだ研修医、私の顔なんか見てないで画面を見なさい。と、言いたいのだが、呼吸器内科も人員不足。不純な動機でもいいからとにかく入局して欲しいので、はっきり言えない。

 澤井くんの顔を見ていると、不意に先程のトイレの貼り紙が気になった。もしあれが詐欺だったら。いかがわしい目的だったとしたら・・・・・・。寒気がした。

 男にとって、好意を持った女性の卵はとても興奮するもの。割って食べたいと思うらしい。行為をするのと同じくらいの快感があるとのこと。もしどこかの男の手に渡って、口に入れられたら・・・・・・、厭だ。とても厭だ。体の深いところで遺伝子が繋がってしまうような、レイプにも似た嫌悪感がある。そもそも大学に七年いるが雑談でもあんな話を聞いたことがない。

 映理子は、近くの看護師に小声で聞いてみた。

「先生、まずいですよ。すぐに取りにいったほうがいいです」

 迂闊だった。やっぱりそうか。

 慌ててトイレに駆け戻るがもう張り紙も籠も綺麗に回収されていた。上を見上げる。カメラは見当たらないが、あったと考えるのが自然。誰の卵かが重要なのだから。恐らく一部始終撮られていただろう。

 肩の力が抜けた。自分の体に大した価値などないと思うが、騙されて暴かれるのは悲しい。忘れてしまえばそれまでだが、張り手で殴られたような痛みが残っている。

 犯人探し。無理だ。卵が盗まれたなど大きな声で言えない。みんな一様に心配してくれるだろうが裏で何を考えるかわからない。いやらしい噂が流れている他科の男性医師達の顔が浮かぶ。セカンドレイプのよう。

 ナースステーションに戻ると澤井くんが落ち着きなさそうにカルテをめくっていた。

「顔色が悪いですよ」

 労るように言ってくれた。優しい言葉がありがたい。

「嫌なことがあってね、でも頑張るから大丈夫」

 何とか今日を乗り越えよう。途中で帰るわけにはいかない。

 パソコンに手をおいて、薬のオーダーをしようとし、ふと思い出した。一昨日夫と行為をして避妊しなかった。受精卵の可能性がある。無精卵は白で、受精卵は綺麗な水色に変わるので普通一目で分かるが、映理子の受精卵は、最近調子が悪いのか、産卵後二三日経たないと色が変わらない。産みたては無精卵と同じ純白である。

 もし誰かが飲んでしまったら・・・・・・、悲惨な結果になる。映理子は焦った。

 ふと、澤井くんの様子がおかしかった。いつも固定して私の横顔ばかり見ていたのに、目が泳いでいる。最近私に強い興味を示しているのは彼。犯人としては十分にありうる。女の協力者もいるだろうが、そんなことはどうでもいい。

 映理子はじっと澤井くんを見つめてみた。彼の動揺の振幅が大きくなる。こめかみに汗が流れていた。確信をもつ。

「今夜ご飯行きましょう。オーベン命令よ。予定空けなさい」

「承知いたしました」


            *


 映理子は彼を責め立て、問い詰めようという気はなかった。正直、卵を盗んだのが澤井くんなら良かったとも思う。彼は悪人ではない。せいぜい個人で楽しんで、ひっそりと完結するはず。

 彼に伝えたかった。決して食べないように。

 ただ、映理子は口下手。男性と二人で向き合うと言葉が出てこない。職場で散々話し合っている後輩なのに、レストランで向かい合うと緊張する。

 澤井くんは、お酒が入ると陽気になった。

「同じ研修医で産後の女の子がいまして、多分胸が張ってたんでしょう、トイレで搾乳してその水筒を研修医ルームの机の上に無防備においていったんです。忙しかったのでしょうね。急変でもあったのでしょうね。周りに誰も居なかったので、僕、少し飲んだんです。どうせ捨てるものだろうと。薄くて全然美味しくないんですが、すごく刺激的で良かったんですよ」

「あんまり他所では言わないほうがいいわよ」

 映理子は顔には出さないが驚いていた。やはり男の子には秘めた欲望があるものだ。

「初めてですよ、話したのは。村崎先生には何でも言えちゃうんです。相手を安心させて気を抜かせる雰囲気、ありますよね」

 それはきっと何を話しても怒らないだろうという甘え。確かにそう。自分は怒れない。多少嫌でも、険悪な雰囲気を作りたくない方が勝ってしまう。特に男性に睨まれるのが怖い。映理子の欠点だった。

「私も怒ると結構怖いんだから」

「想像できません」

 舐められたもの。そろそろあれが来るに違いない。

「お子さんを作られる予定はありますか?」

 そらきた。私はどうしてこんなに脇が甘いんだろう。こんな年下の子にまで。

「夫と相談してるところ」

 澤井くんは目を輝かせた。

「お相手は決まっていますか?」

「こっそり探してるところ」

「今日は僕がご馳走します」

「いいよ、突然男らしくしなくても」

 思わず笑ってしまう。澤井くんが可愛くて仕方ない。

「先生は笑うと寒気がするほど美しいです。僕、先生のこと、何としても欲しくなりました」

「そう言われても女子は嬉しくないの。獲物になった気分。分からないでしょ?」

「離婚して下さい」

 一瞬心が揺らいだ。黄ちゃんと離れて暮らす、もう会わない、そんな生活を瞬き一回分の間、想像した。

「いい加減にしなさい」

「嘘です、冗談です。そこまでは望みません。卵の父親でいいんです、駄目でしょうか」

「研修医でしょ、まずは仕事を頑張りなさい」

 映理子は逃げのため、いつもの常套句を言う。

「はぐらかさないで下さい。僕がいつも、未熟ですが、真面目に働いているのを村崎先生も見てくださっている筈です。医学が好きですし、患者さんが好きですので、仕事については問題ありません。頑張れる自信があります。僕は、村崎先生が欲しいんです。今日すぐにでも」

 澤井くんの顔は、少し格好良かった。食事に来て初めて分かったけれど、プライベートの話をしても楽しい。

「でも、産卵日過ぎてるから」

 何を言ってるんだ自分は。アホか。これでは貞操の緩い馬鹿女ではないか。

「じゃあ二ヶ月後、約束してください」

 映理子は、不安になって黙った。勢いに押されている。少しテンポを緩めて空気を変える必要がある。

 澤井くんも言い過ぎたと思ったのかバツの悪そうな顔をした。

 このままでは良くない。私の卵作りとかそんなことよりも一番大切なのは、明日からも彼が問題なく病院で働くこと。医者になるのは並大抵のことじゃない。不安定な気持ちで臨んで欲しくない。有望な彼だからなおさら。

 これ以上、こじらせてはいけない。

 映理子は拳を強く握って、つかえそうな喉から言葉を絞り出した。

「正直になって答えて。私の卵が病院のトイレで盗まれたの。あなたは関係ないよね?」

「知りません」

 即答。

「信じていいの?」

「嘘ではないです。そもそも女子トイレには入れません」

 こんな真顔で嘘を言えるはずがない。そう思った。

「帰りましょう。また明日病院でね」

「村崎先生、二ヶ月後の約束は」

「じゃあ、また」

 映理子は尾を引く澤井くんの視線を振り切って店を出た。

 翌朝、北命病院の三次救急に澤井くんが運ばれてきた。

 

            *


 映理子は落ち着かない朝を迎えた。昨夜からどうも胸が騒ぐ。言い足りなかった、楽しむべきではなかった。どれもこれも裏目に出る気がした。

 病棟に行き澤井くんの姿が見えず、映理子は哀れなくらい狼狽えた。何度電話をかけても出ない。

 どうしたんだろう。嫌な予感がする。

 脳神経外科の玉井啓司(たまいけいじ)先生がナースステーションに駆け込んできた。色黒でガタイのいい男の先生だ。

「村崎先生、澤井が集中治療室に」

 映理子は顔をぐしゃぐしゃにして涙を流し、集中治療室に駆けた。

 澤井くんは人工呼吸器に繋がれ、動脈圧ラインが手首に刺さり、首にも管が刺さっていた。点滴を流すシリンジポンプがチカチカと点滅している。

 脳卵不適合脳症。頭部MRIと髄液検査の所見から疑いようがなかった。受精卵は母親を同じにするまだ脳の入っていない魂無し子に与えるもの。母親が異なっていたり、既に脳の入った人間に入れると、細胞分裂を繰り返し遊走能をもった多数の受精卵の細胞が一斉に既存の脳に襲いかかり致命的な拒絶反応・脳症を起こす。結果は悲惨。澤井くんも血漿交換にステロイドパルス療法と最大限の免疫を抑える治療を施されているが、虚しくすらある。

 神様が決して許してくれない過ち。

「何を馬鹿なことを。澤井のやつ」

 玉井先生が顔をしかめて呟いた。澤井くんは呼吸器内科の前は脳神経外科を回っており、玉井先生にさんざん可愛がってもらっていた。映理子の下についている時も、病棟で玉井先生が澤井くんによく声をかけていた。

 あいつは是非脳外に入れたい。

 玉井先生がよく言っていた。求められる子だった。

 映理子はベットサイドにしゃがんで澤井くんの手を握った。

「何かご存知ですか? 今回のこと」

 玉井先生が、映理子に聞いた。何も言えなかった。自分のせいなのだろうか、責任は自分にあるのだろうか。昨日もっともっと澤井くんを問い詰めて、強引に鞄を奪ってでも中身を確認するべきだったのか。少なくとも、今日産卵した卵は受精卵の可能性がある、と一言言えばよかった。

 玉井先生が映理子の肩に手をおいてさすった。温かく、優しい手だった。

 扉が空き女性が一人駆け込んでくる。内科病棟のまだ新人の看護師である。見慣れた顔だ。彼女は横たわる澤井くんを睨みつけ、ギリギリと歯ぎしりをした。目から涙が溢れている。

「村崎先生、お話があります」

 映理子は瞬時に察する。

 この人が私の卵を盗んだ人。

 空いている会議室で机をはさんで向かい合う。看護師は映理子を睨みつけている。犯罪者を見る目。盗人はあなただというのに。しばらく待っても何も言わないので映理子から口を開いた。

「睨まないで」

 相手は少しひるんだ。目が若干怯えている。

「好きでしたか? 澤井先生のこと」

 彼女はすがるように言った。

 病棟では素振りなかったが、澤井くんのことが好きだったのだろう。刺激しないように気をつけなければいけない、映理子は思った。

「私にとっては研修医の一人だった」

「どうして教えてあげなかったんですか? 受精卵だって。昨夜食事していたのに。まさか、殺してやろうなんて思ってなかったですよね」

「何故あなたがそれを知ってるの? 私の卵のこと」

「私が盗んだからです」

 これをはっきりと聞かないと話が進まない。

「何で盗んだの?」

「澤井先生に頼まれたからです」

「断ればよかったのに」

 看護師はまた泣き始めた。そもそも自分が卵を盗んだのが始まり、あのとき断っておけば、その思いが押し寄せているのだろう。

「全部私の責任です、澤井先生が死んだのは」

「それは違うよ。あなたも悪いけど私も悪い。でも私の卵を求めた澤井くんが一番悪い。言い方悪いけれど自業自得。もう泣かないで」

「澤井先生に食べて貰いたかったんです、私の卵を」

 看護師は言った。映理子は戸惑う。意味がわからない。

「トイレにもう一つ卵がありましたよね。あれ私のなんです。澤井先生に、村崎先生の卵だよって嘘をついて渡したんです。最初は」

 映理子は返す言葉がない。先が読めた。なんて憐れな気持ち。

「でも澤井先生があんまり大喜びしてたので、私、嘘をつき切れなくて、結局村崎先生の卵を渡したんです。そうしたら澤井先生、急に固まって、慌てて私の卵を落としたんです。割れました。パチンって。可哀想な私の卵」

「辛かったね」

「澤井先生、謝ってましたけど、しっかり村崎先生の卵は受け取りました。私、後で掃除したんです、潰れた自分の卵を。それがあまりに惨めで」

 映理子は、卵を盗んだ彼女を責める気はもう一切なかった。ただ慰めの言葉を繰り返した。


            *


 熱せられたアスファルトで哀れな迷いミミズが焼かれる季節となった。猛暑日が続き、あまりの暑さにセミも泣かないほどだった。

 土曜の昼、玉井先生が指定したホテルに映理子は急いだ。夫の黄司は、仕事で会社に。こっそり会うには一番いい時間帯だ。

 広いロビーのソファーに座って文庫本に目を落としていた玉井先生は、息を切らせた映理子を見つけると親しげに手を振った。見た目はガチガチのアウトドア系なのに、不思議と本が似合う。地頭の良さが滲み出るのだろう。映理子は汗だくだった。

「急がなくても大丈夫ですよ。暑いですね」

 映理子は玉井先生の横に座る。ロビーに広がるレモングラスの香りが心地いい。

「何の本ですか?」

「刑事ものですよ。悪役の発言が面白くてね」

「悪役の?」

「作家は、人に言えない本音を悪役にしゃべらせるんです。よくやる手です。体裁を保つために主人公に斬り捨ててもらいますが、まるで隠せてないから笑っちゃうんです。悪いこと考えてますよ」 

「そんなものですか?」

「持論だけどね」

 二人は席を立つと、エレベーターに乗った。緊張のせいで胸がドキドキと高鳴る。狭いエレベーター内で玉井先生に汗の匂いをかがれてしまうのではと焦り、慌てて手で顔をあおぐ。

 エレベーターをおり、無言で廊下を歩き、ドアを開き、個室の席に腰を下ろす。レストランのウェイターがニコニコと微笑みながらワインリストを持ってきた。

「コースは承っております。お飲み物をお選び下さい」

 玉井先生おすすめのイタリアンだ。映理子が内密に相談したいことがあると伝えたら予約してくれた。

 落ち着いてから玉井先生が口を開く。

「お誘いいただいたときは驚きました。村崎先生は病院のマドンナですから」

 落ち着いた物腰、優しい口調、上手なお世辞、完璧である。女性を安心させて、心を開かせる。何人もの女性が彼と卵作りしたのも頷ける。

 映理子は思わず生唾を飲んだ。

「玉井先生が女性から、・・・・・・その、た、卵作りを依頼されたとき、お相手の旦那とは会われるんですか?」

 彼は、緊張した映理子を察してか、わざと気さくに笑ってみせた。

「場合によりますよ。会いたいという旦那さんもいらっしゃるし、名前も聞きたくないという人もいます。僕からの要望は一切無いので、全て相手夫婦の言いなりです」

「詳しく教えて下さい」

 玉井先生は、困ったなあと呟きながら恥ずかしそうに笑った。

「少し過激な話も出ますがいいですか?」

「構いません。性的なことも全部教えてください」

 それならと、彼は饒舌に話し始めた。

「友人の男性から依頼されることがあります。お前が一番信頼できるって言われてね。ただこの場合は簡素に済ませてくれと言われるのが殆どなので、服も脱がずに、最小限だけずらして、あちこち触らず済ませます。泣いてしまう女性もいて、必死に慰めることもあります。形式的なものだから、生物学的に仕方ないことだからと。いいワインを開けてチーズを食べさせると大体落ち着きますがね。ケチって安いワインだと駄目なんですよ、現金なもので。金の力の恐ろしさよ。女性から依頼されることももちろんあります。このタイプの女性は自分をしっかり持っていて、旦那の言いなりではなく、自分で選びたいという意思があるので泣くことは皆無ですね。むしろ凄く乗り気で服も全部脱ぎ捨てて毎晩毎晩あの手この手で楽しむことが多いです。僕とは元々知り合いのことが多いので朝まで語り合ったりとか、気が乗ったらもう一回とか、自然と恋人みたいな雰囲気になります。僕は女性の容姿で断ったりしないですし、事後も一切執着することなく今まで通りの関係に戻りますので依頼が多いようです。でも一度困ったことがありまして、とっくに受精卵が出来ていたのに僕との関係を続けたくて卵を破棄していた女性がいまして、これは旦那にキツく問い詰められました。僕と示し合わせていたのではと。僕にも反省するべきところがあったので丁寧に謝罪しましたが」

「卵を作ったあと、女性は旦那と今まで通りですか? ぎこちなくならないのでしょうか?」

「それが不思議なところですよ。人体の妙技といいますか、旦那は前よりも献身的で優しくなる。それを乗り越えて初めて一人前の男になるようです」

 映理子は黙ってしまった。玉井先生の話した女性達がただただ羨ましかった。理解のある夫、辛くても耐えてくれる愛のある夫。黄司はきっと許可しないだろう。前提にすら立てていない。いくら相談しても無駄なのだ。

「お悩みのようですね」

 玉井先生は優しく微笑んだ。

 ああ、彼のこの目。何でも話してしまわずにはいられない。

 映理子は、子供を欲しいと思っているが、夫の理解がなく同意してくれないこと、普段の夫の態度などを話した。情けなくも危うく泣きそうになった。玉井先生は最後までじっと聞いたあと、しばらく沈黙した。

 映理子は恐れた、離婚したほうが良いといわれるのではと。誰の目から見てもそう映るほど私達の関係が崩れていると思いたくなかった。

 でも彼は、凡庸な人間ではなかった。

「死ぬことですね」

「え?」

「死を選ぶことです」

 何だ? 理解できない。これがアドバイス? 死ぬとは誰が。私が? それとも黄ちゃんが? そんなに辛いなら死んでしまえ、とそういうこと?

「あの、何をおっしゃりたいのでしょう?」

 玉井先生は至って真面目な顔をしている。ふと、彼の顔が怖くなった。猟奇的な人間、サイコパス、犯罪気質、そんな言葉が脳に浮かび、目を逸らした。

「言葉が足りないですね、詳しく説明します。矛盾するようですがこれは生き方の問題です。生きるか死ぬかを迫られたときは迷わず死ぬ方を選べ、ということです」

 同じことを言っている。違いが分からない。

「私が馬鹿なのか、全然分かりません。それに、そういう危険な考えはちょっと肌に合わないというか」

「逃げてはだめですよ。その逃げの姿勢がいつも不運や争いを生むのです。度胸は訓練です。生きるか死ぬかの状況を毎朝考え、自分で死を選び、しっかり死に切ることまで考える。いつもその覚悟をするのです。そうすれば自然と色んな事が上手くいくものですよ」

「じゃあ先生は、辛くて悩み、自殺を考えている人の背中を押して、死ねと言うのですか? それが医者の言うことですか」

 分かってる、玉井先生はそんな人じゃない。澤井くんが脳死になったときの態度を見れば、疑いようのないこと。でも彼の理論ではそういうことになるではないか。

 玉井先生は焦る様子もない。頭のいい彼のこと、そんなことは当然吟味済みなのだろう。

「誰にでも言えるアドバイスではありません。人を選びます。村崎先生のように落ち着いていて、向上心のある人に向いてます。まあ、信じられないかもしれないですが、困ったときに少し頭の片隅で考えてみてください。きっと助けになると思いますよ」

 映理子は、やっぱり理解できなかった。正直に言うと玉井先生に好意をもっていた。でも今は怖い、またどんな過激なことを言うか分からないし、下手をしたら心中こそが一番美しいと言いかねない。

 嫌だ。私は死にたくない。生きたい。

「嫌悪感、抱いてますね。自然な反応です」

 玉井先生はまた元のにこやかな表情に戻った。

「もう少し考えてみましょう。これはつまり、脳幹の逃避本能に打ち勝てということ。逃避本能はとても重要ですが、時にかなり厄介でもある。過去にトラウマがあると、別に危険ではないと分かっているのに脳幹が勝手に反応してパニック発作を起こすことがある。だから、逆に死を選ぶことで、脳幹の逃避本能を鎮めて、気持ちが穏やかになる、そんな不思議な現象がおこる。覚悟を決めると震えがとまるのはそういうことです」

 分かったような分からないような説明である。映理子は医者になってしばらく経つが、聞いたことがない。

「澤井の遺書は見ましたか?」

 映理子は小さく頷く。澤井くんは遺書を残していた。小さな紙にただ一行、「僕が脳死になったらすべての臓器を生体移植に回してください」とだけ書いてあった。丁寧で落ち着いた文字。震え一つなかった。これから死ぬというのに、書きたいこと沢山あるだろうに、彼はそれしか書かなかった。

「あいつは、死に際に覚悟したんですよ。不治の病、苦しんでも、もがいても、意識があるのはたった一晩。普通の人間なら狂うでしょうね。澤井はきっと落ち着いていた、僕はそう思うんです」

 映理子は澤井くんの葬式を思い出していた。御両親の同意を得て、希望通りこの夏に移植に回り、亡くなった彼。健康で、おそらく余命百年はあったはずなのに突然死んだ彼。何故覚悟などできるのだろう。自分が今死ぬなんて想像できない。この先何十年も希望と未来が広がっているとしか思えない。

「今日はこの辺で。また会いましょう。あんまり長いこと美しい人を前にしてると、夢から帰ってこれなくなりそうですから。困った時にはまた連絡ください」

 最後はしっかりお世辞を言って、相手を気分良く帰す。これが社会人の嗜みなのだろう。

 映理子は一人になって、玉井先生の言葉を反芻していた。


            *


 北命病院の医師が企画する慰安旅行があり、映理子も参加にチェックした。医療不信のある黄司は、この医者だけの旅行に嫌悪感を示したが、何度も頼み込んで渋々了承してくれた。場所は伊豆、近場だが海が見えるいい旅館が多い。

 現地集合でいいのだが、誰が言い出したか大型バスを貸し切って、内科医から外科医、耳鼻科医から麻酔科医まで当直の人を残してみんなで乗り込み出発した。修学旅行のようである。病院では言い争う他科だけれども、今日に限っては皆穏やかな顔をしている。

 映理子も同僚の内科女医と並んで座っていた。斜向に玉井先生が見える。女子高生が気になる男の子を盗み見るみたいにチラチラと眺めた。格好いいとまではいかない。黄司の方が顔はいい。でも、落ち着きがあるし、少し会話するだけでも知的な新鮮味が面白い。女性にモテるのも頷ける。この玄人さんに卵の父親をお願いすれば丸く収まるのだが、どうもその気にはなれなかった。

 旅館につくと、一人一部屋割り振られて通された。映理子の部屋は和室で、広くはないが広縁もあり、窓の外には海が広がる清々しい部屋だった。波の音が聞こえ、磯の匂いがする。広縁の籐椅子に腰を掛けて目を閉じると、風が体を吹き抜けるように癒やされた。遠くに灯台が見える。夜に行き来する灯りを眺めるのが今から楽しみだ。一歩部屋から出れば、すでに飲酒を始めている医師達の騒々しい声を浴びるから、この一人の空間が貴重である。

 ふと窓から外を見ると四人の男性が歩いている。自分よりいくらか若いだろう。皆背が高くスリムな体型だった。そのうちの一人、一際ハンサムな男性がいる。映理子はしばし見とれた。チラとこちらを向いたその人と目が合い、慌てて目を逸らす。映理子は、顰め面をして空を眺めながら、顔のいい男性につい惹かれてしまう自分を恥ずかしく思った。

 夕食は予想通り大騒ぎだった。医者は飲み会となると何故か羽目を外しすぎる。それに性的な発言もやたら多い。女医だって当たり前のように男性患者の陰茎に尿道カテーテルを入れているからか、多少のことは平気だと思われている。まあ実際平気なのだが、高校の同級生に話すといつも驚かれる。

 映理子は早々に食べ終わると、宴会場を出て一人大浴場に行った。夕食時で空いていた。洗い場で体を洗いながら自分の体を眺める。よく食べる方だが腹にも腰にも贅肉が付いていない。乳房は程よいサイズでピンクのアクセントがバランスよく配置されている。まだ落ちてない。我ながら悪くない。いつも風呂でチェックして自尊心を高めている。じきに緩んでくるだろうが今の健康を喜んだ。

 露天に入りながら先程の男性を思い描いた。この体が彼に抱かれているところを。彼も喜んでくれるのではないか。声をかけてくれたら嬉しいけれど、甘くない。欲しいなら私の方から動かないと。黄司はきっとこれが嫌だったのだろう。子供を産みたい女性はくるくる目移りして、いい男性を貪欲に求め関係を持ちたがる。ホルモンの影響なのだろう、貞操な女性でも抗えない。健康に性を熟した映理子も、まさに男の体と精を求めていた。

 機会は訪れるもの、風呂場を出た涼み処に、風呂上がりの彼が座っていた。目をつぶってじっとしている。映理子は一旦通り過ぎてからそれに気が付き、不自然に後戻りをして、少し離れた椅子に座った。火照った顔が更に熱くなり手で仰ぐ。

 彼は身動きしなかった。

 早く声をかけないと。一回きりのチャンスかもしれない。

「暑いですね」

 顔を伏せて問答を繰り返していると、彼の方から声をかけてくれた。

「暑がりなんですよ。せっかくお風呂に入ったのに、また汗をかいてしまって」

 映理子は思わず浴衣の前の襟をパタパタと仰いだ。彼の目が映理子の胸元にいき、また戻る。映理子は慌てて手を離し、隣の椅子に近寄って続けて聞いた。

「お友達と旅行ですか?」

「会社の同僚と愚痴旅行ですよ。ストレス溜まってますから、みんな」

「どちらの会社ですか?」

「精石株式会社というカメラ会社です」

 驚いた、夫と同じ会社だ。

「私の夫もそこで働いてますよ。村崎黄司といいます。プロジェクター部門なのですがご存知ですか?」

 彼も目を丸くして、しばらく映理子の顔をじっと見つめていた。目が合っても逸らさない。映理子も見つめ返した。格好いい。吸い込まれそう。このまま抱きしめてくれないだろうか。ダメだ、バカ女になっている。あまりに脇が甘すぎる。

 彼は正面を向き直ると、頭を伏せて手のひらで顔を拭った。

「どうしました?」

「いえ大丈夫です」

 彼はまた向き直ると、優しく笑った。

「知ってますよ。村崎課長。僕はカメラ部門なので直接の上司ではないですが、格好良くて面倒見も良くて有名です。あなたのような美しい人がいるのが羨ましい」

 実際は円満な家庭ではない。傍から見るとそう映るのだろう。

「あなたも素敵じゃない。彼女さんもいらっしゃるんでしょう?」

「いえ、いませんよ。全然縁がないです」

 映理子は悩んだ。もう少し突っ込んだことまで聞いてしまうか。初対面で早すぎるか。でも彼は夫の同僚だし、全くの他人ではない。一気に畳み掛けよう。

「でも卵の父親になってくれと、よく頼まれるのでは?」

 彼は苦笑いをして手を振った。

「頼まれることはまれにありますが、全部断っています」

 ガラガラと期待が崩れる音がする。

「どうして?」

「産まれた子供に執着が湧いてしまうからです。卵の父親は子供に関わらないのが慣習ですが、僕にはそれが無理で、あれこれ干渉してしまいそうなので、お相手にも悪いかなと。なので断ってます」

 誠実な人。ただ性行為したさに飛びついてくる男とは違う。映理子は一層彼が好きになった。

 彼は仁村秀二(にむらしゅうじ)、30歳とのこと。

 彼に聞かれ、映理子も女医であると明かした。

 彼に誘われて浴衣のまま、庭を散歩した。気持ちのいい風が吹いている。一緒に来た男性医師とすれ違うと、仁村さんと私を見比べて、この男性はどちらの方ですか、と余計なことを聞いてくる。愛想笑いをして通り過ぎる。

「村崎課長は、家ではどうですか?」

 ええ、自分勝手で家事は全然やらないし、酷いものですよ、と言いたかったが、会社での評判が落ちても良くないので無難に答えた。

「村崎課長と食事に行くこともあるんですよ。結構仲良しなんです」

 知らなかった。意外な一面だった。人付き合いの下手そうな黄司に友人がいるとは思わなかった。

 それからも彼と話を続けたが、彼が聞くのは夫の事ばかりだった。

 旅館に戻り、ロビーで彼と別れた。少し歩いて振り返るが、もう彼はいない。

 部屋に戻り、広縁に腰掛けた。波の音が心地良いはずなのに、頭の中は仁村さんのことでいっぱいだった。灯台の光が静かに往復するのを眺めながら、映理子はそっと息をついた。

「どうして私のことは何も聞いてくれなかったんだろう」

 自分が彼にとってただの一婦人にすぎないと考えると、胸が締め付けられるように痛んだ。あの綺麗な指先が私の肌に触れたら、どんなに嬉しいことだろう。寝れない夜になった。

 翌日、彼を目で探したが見つからなかった。朝早く旅館を出たのだろう。あっけない失恋。全然楽しくない旅行になった。


            *


 長い帰りのバスに乗り、家に着いたのは夕方八時。映理子は、愛想を振りまいて疲れ切っていた。帰ったら取り敢えず風呂に入って休みたかったが、黄司は勿論許さない。

「早く飯を作ってくれ。ずっと待っていたんだよ」

 彼は平然と言う。確かに遊んできたのは私だ。だけれども少しくらい休ませてくれてもいいだろう? それにはっきり言って夫の方が私より料理が上手だ。やろうと思えば自分でいくらでも作れるのだ、この人は。なのに、やろうとしない。私を困らせようと、早く帰ってこさせようと、わざとお腹を空かせて待っているのだ。

 失恋の苛立ちもあってかなり腹が立ったが、大人しく料理を始める。コートも脱がずにキッチンに立った。食器を並べるのも、お茶を出すのも全部私。

「少しくらい手伝ってくれてもいいんじゃない?」

 チクリと言う。

「遊んできたのはお前だろ。帰ってきたらその分働けよ」

 チクリと言い返される。もうムカついてムカついてティッシュ箱を捻り潰したい気持ちだった。

 でも、何とか抑える。

 焼きうどんを作った。向かい合って二人で食べたが、映理子は一言も話さなかった。

「あのさ、怒ってる?」

 彼が言った。映理子は首を振る。

「嫌なら行かなきゃいいじゃん? 医局旅行なんて。偉そうな奴らの集まりだろ、どうせ」

 違う、私が怒っている理由は主にあなた。そう言いたいが、言えば更に言い返される。何も言えない。悔しい。

「子供の話だけどさ、体外受精を受けなさい」

 黄司が出し抜けに言った。突然のことで映理子は固まった。

「どういうこと?」

「映理子もどこかの男と性行為などしたくないだろう。だから、精子だけもらって、体外受精で受精卵を作れば問題ないだろう。それなら俺も認めるよ」

 映理子は、ふと玉井先生の「生きるか死ぬかなら死ぬ方を選べ」を思い出した。ああ、今こそその時だ。生きるとはこの不自然な生活を続けること、死ぬとは破局を恐れず行動すること。私のこの怒りを爆発させるときだ。どうなったって構わない。

「あなたは医学のド素人だから教えてあげるけどね、体外受精は針を指して採卵するのよ。母体に負担がかかるの。それは分かってる?」

 黄司は目を釣り上げて怒った。

「馬鹿にするなよ。分かってるに決まってるだろう」

「妻が他の男性と卵を作ること、それに耐えるのは夫の義務、それも分かってる?」

 黄司は何も言わず映理子を睨みつけている。

「体外受精は不妊治療の一環なの。健康に卵を作れる妻にそれを強要するのは虐待よ。それ以上私に言わせるなら、あなたとはもうやっていけないわ」

 清々しい。険悪な雰囲気なのに、なんて気持ちが良いのだろう。

 映理子は高揚していた。何を言われようと、言い返せる自信があった。

 予想に反して黄司はうなだれている。お皿の一枚位は飛んでくるものと覚悟していたが、全く覇気がない。

「じゃあ、相手は誰かいるのか? どうせ決まらないのだろ?」

「いる。仁村さんよ。あなたの同僚らしいわね。旅先で知り合ったの。彼になら私の体全部を捧げても構わないわ」

 思わず本音が出た。言ってから恥ずかしくて辛くなった。失恋した癖に。

 黄司は当然驚いていた。予想外の名前に動揺して、しばらくあれこれ思案している。

 映理子はちょっと笑って弁解した。

「でも無理なの。彼は卵の父親は誰であっても断るそうだから」

「いや、俺が言えばうんと言うかもしれない」

 信じられない返事だった。

「認めてくれるってこと?」

「あいつは確かに誠実でいい男だ。彼なら良いかもしれない。俺からも頼んでみるよ」

 涙が溢れた。こんな優しい言葉はいつぶりだろう。思い切って言えば変わるもの。映理子は泣いて黄司にありがとうと繰り返して言った。

「遊んできたのにイライラしててごめんね」

「いいよ。俺もきつく言い過ぎた。浴衣の映理子を男の医者に見られるのが嫌だったんだ。悪かった」

 死ぬ方を選択したはずなのに、良い方に転んでいる。不思議だった。


            *


 いよいよこの日が来た。仁村さんに会う夜。期待していなかったが、まさか良いと返事が来るとは。こんな幸せでいいのだろうか。

 あれから夜はずっと彼のことを考えていた。夫には悪いが、夢中になっている。彼に抱かれる想像を何度となくした。はて、自分はこんなに貪欲だっただろうか。きっと、抑圧された反動だろう。楽しみで仕方ない。

 一般に妻の卵作りは夫の最大の試練だ。他の男を好きになって何度も愛し合うわけだから。夫よりも性格、肌の相性が合うとなれば自然と夫から離れていく。女は裸で抱き合うと気持ちがブレる。匂い、肌の柔らかさ、形の違い、優しい手つきが忘れられなくなる。どんなに夫を愛していても、目の前のキスしている男に気持ちがよってしまう。夫には悪夢だが、妻に正当に許された本気の浮気は、怖いほどの興奮があった。

 彼のアパートに来るよう言われ、仕事終わりに電車を乗り継いで練馬駅で降り、住所を調べながら辿り着いた。古くて小さなアパート。洗濯機が外にあり、二階に上がる階段が赤く錆びている。青い蛍光灯が光っていた。

 部屋が近づくに連れ、動悸がした。好き好きとは言っても一度しか会っていない相手だ。これからその人に全てを晒して卵作りをするなんて・・・・・・、寒気がするほど興奮する。

 なかなかインターホンを押せなかったが、勇気を出して指に力を込めた。もう戻れない。始まる。覚悟した。

 ドアが開いて仁村がぬっと顔を出した。

「押しかけ女房です!」

 映理子が明るく声をかけたが、彼は返事をしない。一瞬の沈黙、不機嫌そうな目つき。

 あれ、どうしたんだろう。

「入れ」

 低い声で命令された。

 興奮がすっと冷めた。戸惑ったがここで帰るわけにはいかない。散々期待して来たのだから。カバンを前に持ち不安そうに頭を下げて中に入った。思えばこの時に立ち去ればよかったのだ。危機感が足りなかった。

 部屋の中は散らかっていた。ベッドの上には服が雑然と放られ、床にもコンビニ袋、ヘッドホン、丸まったティッシュなどまでが散乱している。とても女性を迎え入れる部屋ではない。でもよく見ると、開かれたクローゼットの中は整然と服が並び、スーツケースが収められ、窓枠も綺麗にホコリが拭き取られている。普段はキッチリとしている人が、今日に限って荒れて散らかした、という感じだ。

 嫌なことでもあったのだろうか。いや、私が来ることが嫌なのか? 黄司から頼まれて断れなかったのなら、申し訳ない。帰るべきかもしれない。

 映理子は胃が重くなった。

 仁村は足を組んで椅子に座り、机に置かれた缶ビールをぐぐっと飲みながらスマートフォンをいじっている。立っている映理子をまるで無視。座れとも言わない。

 機嫌が悪いとはいえ、こんな失礼なことがあるだろうか?

 仕方なく映理子は自分で椅子に座ると、声をかけた。

「仁村さん、あの、もしお嫌でしたら帰りますから、言ってください。強引なお願いでしたものね」

 仁村はチラッと上目に映理子を見ると、何も言わずまた電話に目を落とした。

 映理子はどうしていいか分からず、カバンを握って俯いた。もう帰ろう、そう思ったとき彼が言った。

「ベッドに寝ろ」

 え? 何て?

「さっさと服脱いで寝ろよ。それをしに来たんだろ」

 耐えられなかった。こんな雑に扱われる筋合いはない。彼への感情も一気に冷めていく。映理子にだってプライドがある。

「いい加減にしてください。寝ろ、なんて。断ります。もう帰りますから」

 すると、仁村は急に立ち上がり乱暴に映理子の腕を掴んで立たせるとベッドに押し倒した。

「やめて」

 そう叫ぶ映理子の声は、薄い壁に反響して消えた。仁村の動きは粗暴だが、どこか機械的で、人間らしい迷いは見当たらない。映理子は必死に腕を振りほどこうとするが、相手はまるで金属製の締め具のように硬く、冷たい。

 ダメだ、やられる。

 そう思ったとき、不意に彼の手が止まった。床のビニール袋を拾い上げて嘔吐している。映理子は慌てて布団をまくって下を隠した。

「ダメだ、やっぱり気持ちわりい」

 彼が言った。もうさっぱり分からない。一体何がしたかったのか。取り敢えずこの隙に逃げるしかない。

 飛び起きてスカートを掴んで走ろうとしたが、ガッシリと彼に掴まれる。

「待てよ。逃さないぞ。お前だって不思議に思ってるだろう、俺が一体何をしたいのか。面白い話を聞かせてやるから、もう少し長居しろや」

 物凄い握力。抵抗したら腕を折られるのでは無いか。大人しく従うしかないようだ。

「あなたの話なんか聞きたくないわ。どうせ自分勝手な理屈でしょう?」

 平手が映理子の左頬に飛んできた。頬がヒリヒリと痛むが、ぐっと食いしばる。こんなことで負けない。

「俺はな、お前を憎んでいるんだよ。何故だと思う?」

「分かるわけない」

「黄司さんの妻だからだ」

 意味が分からなかった。どうしてそんなことで憎まれなきゃならない。胸が煮えくり返ったが、ふと合点した。

 子供は母親と、体の父親と卵の父親がいてやっと誕生する。つまり子供には母親と、二人の父親の遺伝子が入っている。それはつまり、男二人の子供でもある訳だ。そのためかこの世界には男同士の恋愛がかなり多い。愛し合った二人の男が、女の体を媒介にして念願の子供を作ることが出来るのだ。そういった例は何度も聞き知っている。三人が三人ともお互い愛し合っていて、三人の愛の子供が生まれるというパターンもある。

 それは、つまり・・・・・・。

「分かったようだな。流石に頭はいいな。俺と黄司さんは恋人同士なんだよ」

 打ちのめされた。あれだけ私を制限しておきながら、自分は浮気をしていたなんて。

「俺も黄司さんとは喧嘩したよ。知らなかったからな、妻がいるなんて。でも説得されたよ。あの女の体を使って僕たちの最愛の子供を産もう。結婚しているのもその為だ、とね。どうだ、ショックだろう」

 映理子は既にもう何も耳に入ってこなかった。

「だけどね、やっぱり無理だったよ。女の体は気色悪くてたまらない。諦めた。じゃあどうすると思う?」

 映理子は再びベッドに押し倒された。

「殺すんだよ。そうすれば黄司さんもお前を諦めるだろう。そのためにスーツケースまで用意したのだから」

 鬼のような形相をした仁村は映理子に馬乗りになり、首に両手を回した。

 ぼんやりとした中、映理子は考えた。生きるか死ぬかなら死ぬ方を選べ。この状況で生きるとは、死ぬとは。

 意識が途絶える直前、映理子は言った。

「手を引く」

「何だと?」

「黄司から手を引く。離婚するわ。そうなればもうあなたのものでしょう。私を殺す必要も無いはずだわ」

 ここで生きるとは、黄司との不安定な生活を現状維持すること、死ぬとは破局を素直に認めること。

「どうせ嘘だろう」

「カバンを取って。離婚届けが入ってる」

 無意識のうちにカバンに離婚届を忍ばせていた。別れたくないと思っていたのに、念のため持っておこう、と心の何処かが作用して用意させていた。きっと正直な気持ちなのだろう。頭で考えることよりも、心の無意識の方が常に正しい。

 仁村は離婚届けを取り出すと、目を丸くして見ていた。

「本当にいいのか?」

 嬉しそうな顔。哀れだった。黄司の本性を知らないのだろう。きっと絶望する。

「構わない」

 映理子はボールペンでさっと自分の名前を書き、印を押すと、仁村に手渡した。

「自由に処理して。でも、もし黄司がサインしなかったとしても私が彼と関わることは金輪際ないから安心しなさい」

 仁村は離婚届けを抱いて泣いて喜んだ。ありがとう、そう言った。

 今がチャンス。こいつの気が変わらないうちに。

 映理子はさっとスカートを履くと、カバンを持って外に飛び出した。そのまま走り続けて駅まで行き、電車に飛び乗る。ドアが閉まるまで安心出来なかった。

 震える手でスマートフォンを握りしめる。最後の望みは、玉井先生しかいない。

「困ったときには連絡を」

 ホームの改札を抜けた瞬間、外の薄暗い駐車スペースに止められた車のヘッドライトが映理子を照らした。運転席には玉井先生がいる。彼はすぐにドアを開け静かに声をかけた。

「待っていたよ。大丈夫か?」

 その優しい声と目が、映理子の張り詰めていた心を一瞬で緩ませる。

「怖かった・・・・・・」

 映理子は、感情を抑えられず泣き出し、そのまま彼の唇を奪った。優しく受け止めてくれた。腰に回る手が懐かしい。澤井くんが集中治療室にいるとき、彼が私の肩に置いてくれた手だ。温かった。



 

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