軍手を置く仕事

紙魚。

軍手を置く仕事がある。

 俺は、店舗を持たない便利屋だ。

 名刺も看板もない。事務所らしい拠点もなく、仕事の連絡はいつも携帯に直接入る。番号は公開していないが、不思議と回り回って辿り着く人間がいる。そういう依頼だけを受けてきた。


 依頼主の素性を深く聞かないのが、この稼業では一番長持ちするやり方だった。金の出どころや、誰の紹介かを気にし始めると、仕事のほうが先に尽きる。


 その日かかってきた電話も、最初から要点だけだった。


「白い軍手を、指定の場所に置いてほしい」


 声は落ち着いていて、妙に事務的だった。男か女かも判別しにくい。感情の起伏が削ぎ落とされていて、読み取れるのは要件だけだ。


「新品未使用で、片方だけだ」


 それだけ言って、黙った。


 俺は頭の中で条件を整理した。

 白い軍手。新品。片方。置くだけ。


 違法性はない。危険物でもない。

 内容としては、イベント設営前の目印を置く仕事や、店舗改装前の仮設表示よりも単純だ。


 少し間があった。


「……扱い方だけ、気をつけてほしい」


 理由は説明されなかった。

 俺も聞かなかった。


 こういう依頼で細かい理由を探ると、ろくなことにならない。俺は便利屋で、調査員でもなければ、正義感で動く人間でもない。必要なのは、聞いたとおりにやることだけだ。


「間違っても素手で触るな」


 それが唯一の条件だった。


 報酬は、内容に対して不釣り合いなくらい良かった。

 危険手当の類だろうと考え、深くは気にしなかった。


 指定された場所は、交差点の脇だった。

 こういう指定は、珍しくない。

 人の流れが速く、誰も足元を気にしない場所。

 長く留まる理由がなく、立ち止まるほうが不自然になる。


 置く位置は、いつも少しだけ外す。

 邪魔にならず、無視もされきらない。

 気づいた人間が、一瞬だけ判断を止める程度。

 それが、仕事としていちばん面倒が起きにくい。


 昼間なら人通りが多いが、夜は流れが速い。誰も立ち止まらず、足元を見る余裕もない。


 縁石の影。

 見ようとすれば見えるが、わざわざ近づく場所じゃない。


 周囲を一度見回した。

 人の足の向き、車の減速、信号の変わり方。どれもいつも通りだ。誰かに見られても、不審に思われる動作ではない。


 新品の軍手は、袋から出した瞬間、白さが際立った。

 汚れたアスファルトの上では、妙に浮いて見える。


 ゴム手袋をはめ、軍手を置く。

 指を離す。


 それで終わりだった。


 振り返らずにその場を離れた。

 仕事は、いつもそうだ。何も起きない前提で終わる。


 ただ、その夜は少しだけ違った。

 帰宅してからも、あの白さが頭に残っていた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 翌朝、ニュースは見なかった。

 テレビをつける習慣がないし、朝から重たい情報を入れたくなかった。


 その代わり、昼過ぎにスマホを開いて、SNSを眺めた。

 通知が溜まっていたわけでもない。手が勝手にそうしただけだ。


 短い動画が流れてきた。

 ドラレコ映像。交差点。信号待ち。


 見覚えのある角度だった。


 画面の中央で、数台の車が止まっている。信号が変わる。

 先頭の車が、少し遅れて発進した。


 次の瞬間、ハンドルが切れた。


 意図的な操作には見えない。

 避けようとした様子もない。ただ、曲がった。


 車はそのまま横断歩道に突っ込み、映像が大きく揺れた。

 音声が歪み、クラクションと悲鳴が重なる。


 動画はそこで終わっていた。


 コメント欄を開く。


〈ブレーキ間に合わなかったんだろ〉

〈スマホ見てた説〉

〈高齢者かな〉


 少し下に、違う流れの書き込みがあった。


〈運転手、ハンドルの手が変だったって〉

〈力が抜けたって言ってたらしい〉

〈運転手が病気だった、ってこと?〉


 曖昧な噂話だ。

 信ぴょう性はない。いつものことだ。


 俺は動画をもう一度再生した。


 衝突の直前、画面の端に白いものが映り込んでいる。

 横断歩道の縁。縁石の影。


 軍手だった。


 片方だけ。

 新品のまま。


 映像は荒く、拡大すれば輪郭が崩れる。

 それでも見間違えようがなかった。


 指先が止まった。


 偶然だ。

 道路に軍手が落ちていること自体は、珍しくない。


 そう頭では分かっているのに、視線が離れない。


 コメント欄をさらに読む。


〈二日目には違和感ほぼ消えたって〉

〈病院でも原因分からなかったらしい〉


 治った、とは書かれていない。

 ただ、元に戻りつつある、という書き方だった。

 

 動画を閉じても、白い輪郭が残った。


 俺は昨日の夜を思い返す。

 縁石の影。

 見ようとすれば見えるが、わざわざ近づく場所じゃない。


 置いた位置と、映像の位置が、妙に重なる。


 偶然だ。

 そう言い切るには、少しだけ距離が足りなかった。


 仕事の依頼は、それきり途切れていた。

 催促も、確認も来ない。


 それが余計に気になった。


 いつもなら、終わった仕事はすぐに頭から切り離す。

 結果がどうなろうと、それは依頼主の問題だ。


 だが今回は、動画の続きを探してしまった。

 別の角度。

 別の投稿。


 どれにも、同じ白は映っていない。

 最初の動画だけだ。


 俺はスマホを伏せた。


 たまたま見ただけだ。

 そう言い聞かせる。


 だが、胸の奥に引っかかりが残った。

 小さく、硬い異物みたいな感触。


 その日の夜、通知音が鳴った。


 次の配置の連絡だった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


次の配置まで、数日あいた。


 何も起きなかった。

 少なくとも、表向きは。


 仕事は普段どおり入った。

 鍵の受け渡し、立ち会い、撤去作業。どれも問題なく終わる。身体に異変はないし、手が言うことを聞かないこともない。


 それでも、動きが一拍ずつ遅れていた。


 ドアノブに手を伸ばす前、ほんの一瞬ためらう。

 書類にサインをする前、ペンを持ち直す。

 理由は分からない。意識しているわけでもない。


 ただ、手の存在を意識する時間が増えた。


 夜、風呂に入るときもそうだった。

 蛇口をひねる前に、ゴム手袋をしていないことに気づき、何もせずに笑ってしまう。意味のない動作だ。家の中で素手を避ける理由なんてない。


 スマホを見る回数も増えた。

 新しい通知があるわけでもないのに、画面を点けては消す。


 例の動画は、もう流れてこなかった。

 検索すれば出てくるはずなのに、探す気にならない。


 置いたからだ。

 そんな考えが、唐突に浮かんで、すぐに打ち消す。


 因果関係を考え始めると、仕事ができなくなる。

 俺は便利屋で、結果を背負う立場じゃない。


 それでも、街を歩くと視線が下がる。

 無意識に、足元を見る。


 白いものが落ちていないか。

 落ちていたら、どうするつもりなのか。


 考えたくなくて、歩調を早めた。


 その日の夕方、太客から短い連絡が来た。


《次は夜》

《場所は後で送る》


 それだけだった。


 文面は事務的で、前回と変わらない。

 なのに、胸の奥が少しだけ硬くなる。


 あの交差点と、動画の白。

 頭の中で、勝手に線が引かれていく。


 偶然だ。

 そう言い聞かせる言葉が、前より軽い。


 その夜、寝る前に手を見た。

 左右とも、変わりはない。


 握って、開く。

 問題なく動く。


 それでも、確かめてしまう自分がいる。


 次の配置は、いつもより慎重にやろう。

 理由は分からないが、そう思った。


  何も起きていないはずなのに、

 気づけば、次のことばかり考えていた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


太客からの連絡は、日が落ちてからだった。

 位置の説明は短く、距離も目印もない。地図のリンクだけが添えられている。


 少しでもズレるのが嫌だった。


 理由は分からない。

 ただ、前よりも位置に対して神経質になっている自覚はあった。


 商業ビルの裏手。

 昼間は人の出入りが多いが、この時間帯は搬入口だけが生きている。換気扇の低い唸りが、壁に反射して戻ってくる。


 俺は歩いて、何度か往復した。

 置ける場所はいくつもある。だが、どれもしっくりこない。


 排水溝の縁で足が止まった。


 見ようとすれば見えるが、

 わざわざ覗き込む位置じゃない。


 前に置いた場所と、

 条件だけが、妙に重なる。


 理由は言葉にできない。

 ただ、ここだと思った。


 周囲を確認する。

 誰もいない。

 音だけがある。


 ゴム手袋をはめ、軍手を取り出す。

 袋を破る音が、やけに大きく聞こえた。


 置く。

 指を離す。


 それで終わりのはずだった。


 立ち上がり、角を曲がる。

 数歩進んだところで、背後から音がした。


 速くも遅くもない、一定の間隔。

 何かが、繰り返し動いている。


 足音じゃない。

 走ってもいない。


 全身が動く気配がない。

 だから余計に、

 腕の先だけが動いているように感じた。


「……手が……」


 声が聞こえた。

 若くも老いてもいない、判別しにくい声。


 俺は立ち止まらなかった。

 振り返りもしない。


 歩きながら、音だけを聞く。


 空気が、わずかに揺れる音。

 布でも皮膚でもない、説明しにくい擦過音。


 意味のない反復。

 速さも、意図もない。


 次の瞬間、音が消えた。


 その直後、

 液体と物体の中間みたいな音が、地面に落ちた。


 鈍い。

 だが、乾いてはいない。


 短い悲鳴が重なり、すぐに途切れた。


 俺は早足になり、そのまま路地を抜けた。

 胸の奥がざわつく。心臓の音が、換気扇の唸りに混じる。


 車に乗り込んでから、しばらく動けなかった。


 置いた直後だった。

 時間が、近すぎる。


 偶然だ。

 そう言い切るには、さっきの音が生々しすぎた。


 エンジンをかけ、現場から離れる。

 バックミラーは見ない。


 その夜、ニュースは見なかった。

 代わりに、音だけが残った。


 一定の間隔。

 動かされる先端。

 聞き慣れない衝突音。


 眠れず、何度も目が覚めた。


 翌朝、現場を撮られた写真がSNSで流れてきた。

 誰かが遠くから撮った、人だかりの写真だ。


 そこに、

 昨夜の音は写っていなかった。


 投稿に詳細は書かれていない。

 飛び降り、という単語だけが目に入る。


 いくつかの返信が、やけに具体的だった。


〈落ちる前、手をブンブン振ってたって〉

〈誰かに合図してるみたいだったらしい〉


 合図じゃない。

 そう思った瞬間、自分でも驚いた。


 俺は、何を知っているつもりなんだ。


 動画は上がっていなかった。


 だが、音は確かに聞いた。


 手が、勝手に動く。

 そのイメージが、頭にこびりつく。


 俺は自分の手を見た。

 開いて、閉じる。


 問題なく動く。

 それでも、確かめてしまう。


 置いた。

 起きた。


 前回よりも、確信に近い。


 仕事を断るべきだと思った。

 だが、太客からの連絡は来ない。


 こちらから切り出すには、まだ言葉が足りなかった。


 街に出ると、無意識にビルの縁を見てしまう。

 高い場所。

 手すり。


 白いものは見えない。

 それでも、目が離れない。


 置くという行為が、

 何かを呼んでいるような気がしてならなかった。


 その日の夕方、

 次の連絡が入った。


《今夜もある》


 胸の奥で、何かが固まる。


 三度目は、

 もっと近くで起きる気がした。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


太客からの次の指示は簡素だった。

 位置の指定も、距離もない。地図のピンだけが送られてくる。


 少しでもズレるのが嫌だった。


 前よりも、はっきりとそう思った。

 場所が違えば、起きることも違ってしまう。そんな気がしてならない。


 夜の幹線道路を走る。

 車内はエンジン音とロードノイズで満ちていて、窓の外の細かい音はほとんど入ってこない。聞こえるのは、クラクションや悲鳴みたいな、はっきりした音だけだ。


 ピンの近くで減速する。

 横断歩道。街灯。歩道の縁。


 信号が赤に変わった。

 前の車が止まり、後ろが続く。


 俺はハザードを一度だけ点け、路肩に寄せた。

 ゴム手袋をはめ、白い軍手を取り出す。


 新品。片方だけ。


 車外に出る。

 夜の空気は冷たく、人の視線はどれも前方に向いている。足元を気にする者はいない。


 置く場所を、半歩ずつずらす。

 邪魔にならない。

 無視もされきらない。


 ここだ。


 軍手を置き、指を離す。

 その白さだけが、視界の端に残った。


 車に戻る。

 ドアを閉め、エンジンをかける。


 信号はまだ赤だった。


 前方で、人の流れが乱れた。


 誰かが後ずさりし、別の誰かがぶつかる。

 動きが一斉に引きつる。


 次に聞こえたのは、悲鳴だった。

 車内まで届く種類の声。


 俺はアクセルから足を離したまま、前を見た。


 横断歩道の向こうに、男が立っている。


 距離はある。

 だが、様子がおかしいのは分かった。


 胴体はほとんど動いていない。

 その場に立ったままなのに、腕だけが忙しい。


 正確には、

 手の動きだけが、周囲と噛み合っていない。


 男の足元で、何かが落ちた。

 街灯の下で、一瞬だけ光る。


 包丁だった。


 人の影が一気に引く。

 悲鳴が重なり、クラクションが鳴る。


 男の動きが、そこで途切れた。


 包丁は、もう手にない。

 落ちている。


 男は反射的に屈んだ。

 拾い直そうとする。


 だが、動きが止まる。


 拳を作ったまま、固まっている。


 男はもう片方の手で、その拳に触れた。

 開こうとしているのは分かる。

 だが、形が変わらない。


 同じ動作を、何度か繰り返す。

 結果は変わらない。


「……手が……」


 声は大きくなかった。

 叫びというより、確認に近い。


 周囲がざわつく。

 距離を取る者、スマホを向ける者。


 サイレンが近づいてくる。

 遠くから、確実に。


 信号が青になった。


 俺はアクセルを踏んだ。

 流れに乗り、現場から離れる。


 バックミラーに、人だかりが映る。

 男の姿は、すぐに判別できなくなった。


 胸の奥が、静かに冷えていく。


 置いた。

 起きた。


 順番だけが、揃っている。


 少し走って、路肩に車を寄せた。

 エンジンを切る。


 スマホが震えた。


《確認済》


 太客からだった。

 それだけ。


 俺は画面を伏せた。


 回収、という言葉が頭をよぎる。


 軍手を回収すれば、

 何かが止まるんじゃないか。


 だが、さっき見た光景が、それを否定する。


 男は、軍手に触れていない。

 近づいてもいない。


 それでも、手は言うことを聞かなかった。


 つまり、もう始まっている。

 拾うかどうかとは、関係なく。


 片づければ、安心できる。

 だがそれは、終わったことにしたいだけだ。


 事故や事件は、

 片づけるものじゃない。


 残るものだ。


 ハンドルに手を置き、強く握る。

 指は、問題なく開く。


 それを確かめてしまう自分に、

 遅れて恐怖が追いついてきた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


その夜は、太客からの連絡はなかった。


 連絡が来ないこと自体は珍しくない。

 だが、前の三件を思い返すと、妙に静かすぎた。


 俺は何度かスマホを確認し、結局、こちらからメッセージを送った。


《次は受けられない》


 理由は書かなかった。

 書こうとして、やめた。


 返事はすぐに来た。


《了解》


 短い。

 拒否を引き留めるでも、理由を問うでもない。


 少し間を置いて、続けて届いた。


《今夜は別の人が置く》

《場所は同じ》


 それを見た瞬間、胸の奥がざらついた。


 同じ場所。

 つまり、あの横断歩道だ。


 俺は迷ってから、車のキーを掴んだ。


 置くためじゃない。

 回収するためだ。


 意味がないことは、分かっている。

 軍手を回収したところで、起きたことが消えるわけじゃない。


 それでも、

 あれをそのままにしておくのが耐えられなかった。


 誰かが、素手で触る。

 その想像だけが、頭から離れなかった。


 現場は、昼間の顔に戻っていた。


 通行人は多く、横断歩道も賑やかだ。

 昨夜の出来事を、知っている人間がどれだけいるのか分からない。


 白い軍手は、あった。


 縁石の近く。

 視界の端に残る位置。


 誰も気に留めていない。


 俺は近づこうとして、足を止めた。


 素手は避けろ。

 あの条件が、頭をよぎる。


 ゴム手袋は持ってきていない。


 そのとき、

 横から伸びてきた手が、軍手を掴んだ。


 若い男だった。

 落とし物でも拾うみたいな動作。


「あっ」


 声をかける間もなかった。


 男は軍手を持ち上げ、首を傾げた。


「……なんだ、これ」


 次の瞬間、

 男の動きが、わずかに止まった。


 指先が、ぎこちなく動く。


 持ち替えようとしている。

 だが、うまくいかない。


 男は笑おうとした。

 冗談みたいに誤魔化そうとする。


「いや、なんか……」


 言葉が途切れる。


 軍手を握ったまま、

 手首だけが、妙な角度で固まっている。


 もう片方の手で、

 その指を外そうとする。


 開かない。


 強く引いても、形が変わらない。


「ちが……」


 言いかけて、止まる。


「……手が……」


 周囲の人間が気づき始める。

 視線が集まり、距離が生まれる。


 男は軍手を落とした。


 落とした、というより、

 力が抜けて離れた。


 手は、だらりと下がる。


 数秒、沈黙があった。


 男は自分の手を見つめ、

 何度か開いて、閉じる。


 今度は、動いた。


「……え?」


 戸惑いだけが残る。


 俺は軍手を見下ろした。


 誰かが触れた。

 素手で。


 異常は、短かった。

 数秒。

 せいぜい、数十秒。


 それで終わった。


 俺は軍手を拾い上げようとして、

 やめた。


 触れてしまえば、

 今度は自分が当事者になる。


 その考えが、

 はっきりと形を持った。


 スマホが震えた。


《回収はしない》


 太客からだった。


《回収という発想が、間違いだ》


 続けて、短いメッセージが届く。


《事故や事件は、片づけるものじゃない》

《残るものだ》


 俺は画面を見つめたまま、動けなかった。


 軍手は、

 まだそこにある。


 だが、さっきとは意味が違う。


 あれは、

 拾わせるためのものじゃない。


 触れさせるためのものだ。


 触れた人間が、

 ほんの一時、引き受ける。


 完全には、消えない。

 だから、溜まりすぎない。


 だから、置く。


 俺は初めて、

 この仕事の意味を言葉にできた気がした。


 軍手を置くのは、

 起こすためじゃない。


 残りすぎないようにするためだ。


 現場を離れながら、

 俺は二度と振り返らなかった。


 それでも、

 白は視界から消えなかった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


拾わせるためじゃない。

 触れさせるため。


 それが、今の答えだった。


 軍手は、事件を起こすものじゃない。

 まして、止めるものでもない。


 あれは、溜まりすぎないようにするためのものだ。


 強い残り方をした場所には、

 人の動きが引っ張られる。


 手が言うことを聞かなくなる。

 体が、意思より先に動く。


 だから、置く。


 誰かが素手で触れることで、

 ほんの一部を引き受ける。


 短い時間。

 数秒か、数十秒。


 それで十分だ。


 完全に消す必要はない。

 残っていていい。


 ただ、一点に溜まるのがまずい。


 回収しない理由も、ようやくはっきりした。


 拾ってしまえば、

 触れた人間が、はっきり残る。


 引き受けたものまで、

 一人に集まってしまう。


 それは、この仕組みが避けていることだ。


 だから、置く。

 名前も、顔も知らない誰かに触れさせる。


 無責任に見えるかもしれない。

 だが、そうしないと回らない。


 俺は、便利屋だ。

 正しさを選ぶ仕事じゃない。


 壊れないように、

 少しずつ減らす。


 軍手を置く仕事は、

 そういう仕事だ。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


電話は、こちらからかける前に鳴った。


 画面に表示されている番号は、いつもと同じだった。

 非通知でも、登録でもない。ただの数字の並び。


 俺は一呼吸おいて、出た。


「……もしもし」


『君、まだ現場にいる?』


 声は落ち着いている。

 だが、どこか急いていた。


「もう離れています」


『そう。ならいい』


 一瞬、間があった。

 通話の向こうで、何かを選んでいる気配。


『回収はしないでくれ』


「分かっています」


『いや。分かっている人ほど、やりたくなる』


 少し強めの口調だった。

 叱るというより、焦りに近い。


『きれいにしたくなる。

 終わらせたくなる』


 俺は黙って聞いた。


『でも、それをやると――溜まる』


「溜まる?」


『分散されるべきものが、動かなくなる』


 言い回しは曖昧だったが、

 核心だけは外していない。


『溜まりすぎると、危ないらしい』


 また、その言い方だ。


「あなたも、直接は知らないんですか」


 短い沈黙。


『私も、頼まれている側だ』


「孫請ですか」


『もっと下だよ』


 乾いた笑いが、短く漏れた。


『元請けはね、

 これを“必要な工程”だと言っている』


「何のために」


『国を維持するために、だそうだ』


 言葉だけが、やけに大きい。

 言い方は、事務的だった。


『君が見ているのは、その一部だ』


 紙をめくる音がした。

 何かを確認している。


『君が置いた三件は、

 どれも軽いほうだ』


 胸の奥が、ゆっくり沈む。


「軽い……」


『触れた人間が、すぐ戻っただろう』


 確かにそうだった。


『あれで済んでいるうちは、

 まだ“間に合っている”』


 間に合わなくなったら、どうなるのか。

 聞かなくても、想像はできる。


『置けない場所もある』


 太客は、唐突にそう言った。


「人が来ない場所ですか」


『違う』


 即答だった。


『触っても、量が制御できない場所だ』


 それ以上の説明はなかった。


『軍手が悪いんじゃない。

 置き方の問題でもない』


 声が、少しだけ低くなる。


『止まらないものを、

 遅らせているだけだ』


 それで十分だと言うように、

 電話は切れた。


 画面には、通話時間だけが残る。


 俺はしばらく、そのまま動けなかった。


 国の維持。

 工程。

 溜まりすぎると、危ない。


 どれも実感はない。

 だが、軍手を置く理由だけは、はっきりした。


 これは、起こさないための仕事じゃない。


 完全に防ぐことはできない。

 だから、触れさせる。


 分けて、薄めて、

 目に見える形になる前に逃がす。


 それだけの工程。


 次の指示が来ることだけは、分かっていた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


太客からの指示は、夜の公園だった。


 住宅地に挟まれた小さな公園で、

 遊具は使われておらず、足音だけがやけに響く。

 指定された位置は、街灯の外れだ。


 向かう途中、敷地の端に小さな神社があることに気づいた。

 近所の人間しか使わなさそうな、控えめな鳥居。


 夜の神社は縁起が悪いと聞いたことがあるが、時間に結構な余裕があったので、暇つぶしで参拝していくことにする。


 鳥居をくぐり、砂利を踏む。

 夜でも、境内は妙に整っている。


 本殿の横を通ったとき、

 御神木の根元で、白が目に入った。


 軍手だった。

 新品で、片方だけ。


 誰が、いつ置いたのかは分からない。


 俺は足を止めず、

 一度だけ目を向けて、視線を切った。


 公園に戻り、指示どおりの位置に軍手を置く。

 視界の端に残る場所。

 誰かが踏みとどまらずに通り過ぎる位置。


 指を離し、歩き出す。


 軍手は、

 今日も意味を持たない場所に置かれている。

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