第一部第一章:お金の価値

第2話

謁見の間を支配していた重苦しい静寂を切り裂いたのは、国王のなりふり構わぬ絶叫だった。


「き、貴様ぁ……! 余の命令に逆らうと言うのか!」


玉座に座る国王の顔は、怒りで真っ赤に染まっていた。

口角から泡を飛ばし、額に青筋を浮かべるその姿に、もはや王としての威厳はない。


無理もないだろう。国の威信をかけた「勇者の借金免除」という勅命を、一介の商人に鼻で笑われたのだ。


それどころか国の象徴である勇者パーティーの装備を剥ぎ取り、一糸まとわぬ姿に晒された。王としてのプライドは、完膚なきまでに踏みにじられていた。


「衛兵! 何をしている、その男を捕らえろ! ……いや、殺しても構わん!」

「陛下……!?」

「勅命違反の国賊だ! この場で切り捨てろ!!」


玉座の周囲を固めていた近衛兵たちが、一瞬、戸惑いの視線を交わした。


相手は大陸経済を牛耳る大商人、ワイズ・コールマン。彼をここで斬れば、その後に来る経済的な報復――物資の停止、周辺諸国からの圧力――がどうなるか、兵士の頭でも想像がついたからだ。


だが国王の命令は絶対であり、何より目の前には全裸にされた勇者一行という異常事態がある。


数秒の躊躇の後、彼らの中で職業軍人としての義務感が勝った。


「か、覚悟……!」


二人の近衛兵が同時に踏み込む。王城を守る精鋭だけあって、その動きに隙はない。


左右から同時に繰り出された鋼鉄の槍が、正確にワイズの胴と喉元を狙って疾走する。


「残念です」


死の切っ先が迫る中、ワイズが漏らしたのは心底呆れた溜息だった。


「困りますね。暴力行為は――」


右から突き出された槍の穂先が、ワイズの喉元を貫く寸前。彼は半歩だけ左足を引いた。


紙一重。


風切り音が肌を撫でる距離で切っ先を躱すと、ワイズは突き出しきって伸びた近衛兵の手首を、左手で柔らかく掴む。


「我々のポリシーに反しています」

「なっ、ぐあぁっ!?」


力に逆らわず、引く。

はるか東洋に伝わる武術のように、流れる動作だった。


ワイズに引かれた近衛兵は前のめりにバランスを崩し、あろうことか左から迫っていたもう一人の味方へと激突。


重厚な鎧同士がぶつかり合う派手な金属音が謁見の間に響き、二人はもつれ合うようにして無様に転倒する。


「この守銭奴がァ!!」


その隙を突き、怒髪天を衝く勢いで飛び出してきた影があった。勇者アレクだ。


聖剣を失い、身につけているのは股間を隠す安物の下着一枚。


だがその身体能力は紛れもなく人類最強の勇者のもの。


豪奢な絨毯が踏み込みの衝撃で裂ける。瞬きする間もなくワイズの懐に潜り込んだアレクの瞳には、明確な殺意が宿っていた。


「俺に恥をかかせやがって! ぶっ殺してやる!!」


右の拳が唸りを上げて振りかぶられる。スキルも武器もない、単純な力任せの殴打。だがレベル補正のかかった勇者の拳は、攻城兵器にも等しい破壊力を持つ。


直撃すればワイズの頭など熟れた果実のように弾け飛ぶだろう。

聖女が悲鳴を上げようと口を開いた、その時。


拳が何かに当たる乾いた音が、謁見の間に響いた。


「え……?」


勇者アレクの拳は、ワイズの顔面の寸前で止まっていた。

いや、止められていた。


ワイズが右手に持っていた、分厚い革張りの『帳簿』によって。


勇者の膂力を、商売道具である一冊の本で受け流す。

常識外れの光景に、アレクの思考が停止する。


「な、んで……俺の拳を……」

「動きに無駄が多いですね。まるで勇者パーティの家計簿のようだ」

「ふざけ――」


アレクが言い返すより早く、ワイズの手首が返る。


「あぐっ!?」


帳簿の角が、アレクの脳天へ容赦なく叩きつけられた。脳を直接揺らされ、勇者の目が白黒と反転する。膝から崩れ落ちようとする勇者。


だがワイズはその落下すら許さない。帳簿を振り抜いた反動を利用し、流れるような動作で左の掌を下から突き上げた。


狙うは意識のスイッチ、顎の先端。


骨と骨がぶつかる硬質な音と共に、勇者の体が宙に浮く。


そのまま彼は糸が切れた人形のように背中から倒れ込み、ビクン、と一度大きく痙攣して動かなくなった


「あ、アレク……?」

「嘘……素手で、勇者を……?」


聖女が腰を抜かし、国王が玉座の背もたれにへばりつくようにして後退る。

床に転がった近衛兵たちも、起き上がることを忘れて呆然とワイズを見上げていた。


商人が、勇者を倒した。


魔法も、剣も使わず。ただの帳簿と体術だけで。その事実は、全裸にされたこと以上の恐怖となって彼らの心に刻み込まれた。


静まり返った謁見の間。


ワイズは乱れた襟を簡単に直すと、気絶した勇者を無造作に跨いだ。

まるで道端の石ころでも避けるかのように。


そして恐怖に顔を引きつらせる元顧客たちを見渡し、わざとらしく悪魔的に不敵な微笑みを浮かべ、唇を歪める。


「護身術は商人の基本ですよ。自分の身を自分で守れない者に、金を守ることなどできませんから」

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2025年12月29日 10:00
2025年12月30日 10:00
2025年12月31日 10:00

勇者様、装備のローンが残っていますが? 〜踏み倒そうとしたので、国中の店で取引停止にしました。素っ裸で魔王と戦ってください〜 けーぷ @pandapandapanda

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