世界を救った元英雄、記憶を失って異世界で牛丼屋になったら、教え子だった現勇者たちが泣きついてきたんだが?

ラズベリーパイ大好きおじさん

第一話 その玉ねぎ、魔王の首と同じ切り方です

記憶を失って、わかったことがある。


玉ねぎは縦に切ると繊維に沿うから、食感が残る。

横に切ると繊維を断つから、とろとろに煮える。

そして、涙が出るのは、玉ねぎの細胞が壊れて硫化アリルが発生するから──だそうだ。


「……はあ」


ため息混じりに、まな板の上の玉ねぎを見下ろす。

手は自然に動いて、皮を剥き、縦半分に割る。包丁の背で芯を取り除く。

次に、切り口を下にして置き──


シュッ、シュッ、シュッ。


均等な間隔で、包丁が降りる。

薄い半月切りが、次々と積み上がっていく。

涙は一滴も出ない。なぜか、慣れている。


「おい、親父! 特盛り、まだかよ!」


店内の奥の席から、がみがみした声が飛んでくる。

常連の労働者風の男だ。昼時を過ぎても客は途切れない。

この「まるごと牛丼」は、街道沿いの何でもない町の、何でもない店だ。


「ああ、今すぐに」

そう答えると、手元が早くなる。

火にかけた鍋に、さっき切った玉ねぎを放り込む。

醤油とみりんと砂糖、それに出汁を加える甘辛い香りがたちこめる。

同時に、別の鍋で温めておいた牛肉を投入。

一気に混ぜ合わせる。


「……ん?」


ふと、自分の手元を見る。

二つの鍋を同時に扱い、片手で玉ねぎを刻みながら、もう一方の手でご飯をよそう。

無意識に、そうしていた。


なぜ、こんなに器用なんだ?

記憶のない頭の中を、手探りで探る。

けれど、何も出てこない。

まるで、大切な本のページが、びりびりと破られてしまったみたいに。


「ご飯、炊けましたよ」


裏口から、小柄な老婆が顔を出す。

マーサだ。この店の、唯一の従業員というか、ほぼ家族同然の世話焼きだ。

彼女がいてくれるおかげで、記憶も技能もまるでない僕でも、なんとか店が回っている。


「ありがとう、マーサ。ちょうどいい」

ご飯を丼によそい、その上に煮込んだ牛肉と玉ねぎをたっぷり載せる。

最後に、真ん中にくぼみを作り、そこへ黄身がぷるんと揺れる温泉卵をひとつ、そっと落とす。


「お待たせ。特盛り温玉牛丼」

出来上がった丼をカウンターに置くと、男は顔をほころばせた。


「おお、これだよこれ! 親父の牛丼は、疲れた体に染み渡るぜ!」


男ががつがつと食べ始めるのを横目に、僕は次の注文に取りかかる。

カウンター越しに、外の通りを見る。

今日も平和だ。

馬車が通り、子どもたちが走り、陽射しがさんさんと降り注ぐ。

何の不満もない。


──そう思っていた。


「師匠!!!!」


ドアが、ばん! と音を立てて開いた。

いや、開いたというより、吹き飛ばされたという方が正しい。

蝶番がきしむ悲鳴をあげ、一人の人間が店内に転がり込んできた。


銀の鎧が泥だらけで、マントはぼろぼろ。

青みがかった金髪は汗で顔に張り付き、その碧い瞳は、必死に店内を泳いだ。

そして、僕の顔を見つめて、大きく見開かれた。


「見つけた……ついに、見つけました……!」


その若者──少年と言ってもいいだろう、せいぜい十八は過ぎていない──は、よろよろと立ち上がり、僕に一歩、また一歩と近づいてきた。

その目には、信じられないという驚きと、とてつもない安堵と、そして、深い、深い焦りが渦巻いていた。


「あの……?」


僕は首をかしげた。

客か? でも、武装しすぎている。

旅の騎士? それにしては、あまりに慌てている。

何より、その目が、僕を「知っている」ように見えた。


「師匠! ライエル師匠! お覚えがありませんか!? 私です! セシルです! あなたが剣の握り方から、呼吸法から、すべてを教えてくださった──!」


少年──セシルはそう叫ぶと、腰の長剣に手をかけた。

一瞬、ぎくりとする。

けれど彼は剣を抜かず、その柄の部分を、恭しく、僕に向けて差し出した。


「見てください! この紋章! 師匠が魔王討伐の折、自らに刻まれたと同じ盟剣の──」


彼の言葉は、そこで途切れた。

僕が、まな板に載せた次の玉ねぎに包丁を入れ始めたからだ。

シュッ、シュッ、シュッ。

静かな店内に、リズミカルな音だけが響く。


「……師匠?」


セシルの声が、小さく、不確かになる。

彼は僕の手元を見つめ、その顔色がみるみる蒼白になっていく。


「な……何を……」

彼の唇が震えた。

「今、玉ねぎを……半月切りにされましたよね?」

「ああ」

「その包丁さばき……間隔の完璧な均一性……無駄のない軌道……」

セシルの目に、大粒の涙が浮かんだ。

「あの、魔王軍第三軍団長、『剣呑みのオルグ』を、寸分の隙もなく斬り刻んだ伝説の剣技『流星十文字』と……同じでは……!」


ぽとり。

玉ねぎの切りくずが、ごみ入れに落ちた。


僕は包丁を置き、ゆっくりとセシルを見た。

「ごめん。全然覚えてないや」

「な……」


「それより」

僕は鍋のふたを開け、湯気の中を覗き込んだ。

「君、仲間が外で倒れてるけど、大丈夫?」


「──え?」


セシルが振り返る。

店の外、壊れたドアの向こうの路上。

甲冑をまとった少女が、もう一人の重装備の男を背負いながら、膝をついて喘いでいた。

二人とも、セシル同様に満身創痍だ。


「アリア! ゴドウィン!」

セシルが駆け寄る。

僕は軽く肩をすくめて、マーサに目配せした。

彼女はもう、古ぼけた木の椅子を二脚、店内に運び入れている。

流石だ。


「中に入りなさい。路上で倒れられると、商売上がったりだ」

そう言って手招きする。

セシルは狼狽しながらも、仲間を支えて店内に入れた。

三人はカウンター前に並べられた椅子に、ずしり、と腰を下ろした。


一様に疲れ切った顔。

鎧には刃傷や、何か得体の知れない黒い焼け焦げがついている。

そして、三人の視線が、一斉に僕に注がれる。

その熱量に、少し、のけぞりたくなった。


「で」

僕はふきんを手に取り、カウンターを拭きながら言った。

「何か、食べていく?」


三人の顔が、一瞬で凍りついた。


「食……食べる……?」

セシルが、かすれ声で繰り返した。

「師匠! 今はそんな場合ではありません! 世界が──」

「セシル、待て」


三人のうち、一番年長そうな、大柄な男──ゴドウィンと呼ばれた男が、深く傷ついた顔を上げた。

その目は、セシルよりも冷静で、そして、ずっと深い悲しみを湛えていた。


「師匠は……私たちのことを、本当に覚えていらっしゃらない」

「そんな! でも、先ほどの剣技──!」

「記憶がなくても、体が覚えている技はある」

ゴドウィンが、重たく言った。

「師匠は……あの最後の戦いで、大きな代償を払われた。その一つが、記憶なのかもしれん」


最後の戦い。

記憶のない僕には、ピンと来ない言葉だ。

けれど、三人の真剣な、絶望的な表情を見ていると、ふざけた返事はできなかった。


「……君たち、本当に僕のことを知ってるの?」

僕はそう尋ねた。

三人は、一斉に強くうなずいた。


「師匠なくして、今の私たちはありません」

鎧の少女──アリアが、か細い声で言った。

「剣の技術だけでなく……人としての在り方、弱者を守る心、すべてをあなたから学びました」

彼女の目尻が、赤くなっている。

「だから……今、世界が再び闇に覆われようとしている今……あなたに、もう一度、導いてほしいと……」


彼女の声は詰まった。

代わりに、セシルが前に身を乗り出した。


「魔王の残党が、新たな『闇の王』を擁立しました! 北部諸国はすでに蹂躙され、ここ東部平原にも、迫りつつある! 私たちが最後に希望を託せるのは、あなただけです!」

彼の拳が、カウンターの上で震えている。

「どうか……もう一度、剣を──」


その時、僕の背後で、ぐつぐつと煮える鍋の音が高まった。

醤油と砂糖の、食欲をそそる香りが、ぷんと立ちのぼる。


「あ」

僕は鍋の火を弱め、三人を順番に見た。

セシルの熱意に燃えた顔。

アリアの泣き腫らした顔。

ゴドウィンの、疲労と諦念の入り混じった顔。


そして、僕は言った。


「とりあえず、温玉牛丼食べないか?」

「…………………………………………は?」


三人の口から、同時に、間の抜けた声が漏れた。


「戦いの前には、炭水化物とタンパク質だよ」

僕は自然に、そう口にしていた。

なぜか、そう言うべきだと、体が知っている。

「それに、君たち、目に見えて疲れてる。空腹で判断力が鈍ってるんじゃないのかい?」


「ち、違います! 私たちは──」

「セシル」

ゴドウィンが、もう一度、仲間を制した。

彼はゆっくりと、店内を見回した。

研ぎ澄まされた包丁、きれいに整理された調味料の棚、湯気の立つご飯の鍋。

そして、何より、僕の、玉ねぎの皮がついた前掛け姿を。


「……師匠は、もう、剣を執るおつもりはない」

ゴドウィンの声には、怒りもなければ、責めるような調子もなかった。

ただ、深い、深い理解と、絶望があるだけだった。

「ここに……新しい『戦場』を見出された」


「ゴドウィン! 何を言う! 師匠は──」

「彼を見よ、セシル」


ゴドウィンが、静かに指を差した。

その先にいる僕は、ちょうど丼にご飯をよそい終わり、煮込んだ牛肉をすくい上げているところだった。

手つきは無意識に流れるように滑らかで、一つの無駄もない。


「あの動きは、確かに師匠のそれだ。だが、その矛先は、もはや敵ではなく……」

ゴドウィンの目が、少し潤んだ。

「……玉ねぎと、牛肉と、ご飯へと、向けられている」


沈黙が店内を覆った。

外の通りから、子どもたちの笑い声が聞こえてくる。

常連の男が「ごちそうさん!」と言って店を出ていく。

何もかもが、あまりに普通の、平和な昼下がりだ。


アリアが、小さくすすり泣いた。

「……そんな……私たち、どうすれば……」


僕は三つの丼を、カウンターの上に、ずらりと並べた。

その上に、温泉卵をひとつずつ、ぽとり、ぽとり、と落とす。

黄身が、ぷるん、と揺れる。


「まずは、食べろ」

僕は言った。

「腹が減っては、戦はできぬ──って、誰かが言ってた気がする」


三人は、目の前の牛丼を見つめた。

湯気が、ゆらゆらと立ちのぼる。

甘辛い香りが、彼らの疲れた嗅覚をくすぐる。


セシルは唇を噛みしめ、拳を握りしめた。

アリアは涙をこぼしそうな目をした。

ゴドウィンは、ただ深く、深く息を吐いた。


そして──

ゴドウィンが、真っ先に箸を手に取った。

「……失礼する」

彼はそう呟くと、丼にかぶりついた。


次の瞬間、彼の目が、わずかに見開かれた。

「……これは」


セシルとアリアも、遅れて箸を取る。

一口、口に運ぶ。

そして、三人の表情が、一瞬で変わった。


疲労と絶望でこわばっていた顔が、ほんの少し、緩む。

咀嚼するうちに、頬にほんのり色が戻る。

彼らは無言で、もぐもぐと食べ続けた。

まるで、長い間、まともな食事をしていなかったかのように。


僕はそれを見ながら、流し台の包丁を手に取った。

次の玉ねぎをまな板に載せる。

さて、夕方の仕込みを始めないと。

彼らが何を言おうと、今日も店は回る。

これが、今の僕の、唯一確かな現実だ。


「……師匠」


食べ終わった丼を前に、セシルが声を上げた。

彼の声には、先ほどの熱狂はなかった。

ただ、静かな、しかし確固たる決意がある。


「この牛丼……温かいです」


僕は、玉ねぎを切る手を止めずに、軽くうなずいた。

「ああ。冷めたら、まずいからな」


「違います」

セシルは、真っ直ぐに僕を見た。

「あなたが、私たちに教えてくれたこと……『強者たるもの、弱者に温かさを』という教えを……この丼は、思い出させてくれました」


僕は、はっとした。

確かに、その言葉。

どこかで、誰かに、何度も言ったような気がする。

胸の奥が、ちらりと熱くなる。


「私たちは、まだ諦めません」

アリアが、こぶしを胸に当てて言った。

目には、もう涙はない。

「たとえ師匠が剣を取らなくても……あなたがここにいるだけで、それは私たちの希望です」


ゴドウィンは黙って立ち上がり、椅子をしまった。

彼は深々と一礼すると、仲間たちに目配せした。


「……師匠」

去り際に、ゴドウィンが振り返って言った。

「この店……『まるごと牛丼』ですね。私たちが、この町の……いや、この世界の平和を、何としても守り抜いてみせます」


「だから──」

セシルが、最後に言い足した。

「どうか、この温かい牛丼を……この平和を……私たちが守っている間、ずっと、提供し続けてください」


彼らはそう言うと、壊れたドアから、再び外の世界へと歩き出した。

背筋は、入ってきた時よりも、ずっと伸びている。


僕は彼らの後ろ姿を見送りながら、手に持った包丁の重みを感じた。

玉ねぎの切り方。

戦い方。

守り方。


何かが、胸の中で、ゆっくりとゆっくりと、ほころび始めている。

けれど、まだ形にはならない。


「……さてと」

僕は独り言ち、まな板に向き直った。

「夕方の仕込み、しないとな」


シュッ、シュッ、シュッ。

包丁の音が、再び、小さな店内に響き始めた。

湯気の向こうで、今日も世界は、ゆっくりと回っている。

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