第9話 路地裏のフーデットガール
異能について
異能――それは、物理法則を無視して現れる「たちの悪い奇跡」だ。
なんの前触れもなく、一代限りの突然変異として芽吹くこともあれば、古い家系の中で「体質」として受け継がれていくものもある。
炎を生み出す者もいれば、影を踏んで人を縛る者もいる。死にかけた瞬間だけ未来を見る者もいる。
それが祝福か呪いかは、本人以外は決められない。
ただ一つだけ確かなのは――
社会の側は、そんなものを前提に設計されていないということだ。
だから、異能を持つ者は、自分の居場所を探すところから始めなければならない。
――夜の路地で、鴉は立っていた。
夜の路地は濡れていた。
夕立の名残を抱えたアスファルトが、街灯の光を歪めている。
溜まった水たまりが、オレンジ色の光を揺らしながら飲み込む。
端には、破れたゴミ袋と中身の出たコンビニ弁当、潰れた缶が無造作に転がっていた。
少し離れた大通りからは、笑い声と音楽が漏れてくる。
だが、この細い路地の中だけは、別のルールが支配していた。
鷹宮迅花は、そこを走っていた。
逃げているわけではない。
追っている。
三人組の不良が、息を荒くして先を行く。
安物の香水と酒とタバコが混じった匂いが、湿気と一緒に漂ってくる。
さっきまで、通りに停めた車のそばで、女を囲んで笑っていた連中だ。
手首を掴み、肩を押さえ、逃げ道を塞ぎ、
「遊ぼうよ」と軽い声で言いながら、その実、拒絶を許さない空気で追い詰めていた。
その輪の中に、ほんの一瞬――迅花自身の姿を、重ねてしまった。
——足りない。
胸の奥が、じりじりと焼ける。
昼間は、学校の生徒。
家では、言うことを聞く娘。
抑え込んだ力が、夜になると行き場を失って、皮膚の裏で暴れ出す。
迅花は地面を蹴った。
異能で強化された脚が、路面を噛む。
一歩ごとに、距離が目に見えて縮んでいく。
最初の一人。
背中を追い抜く寸前、その足を後ろから払う。
男は悲鳴を上げる暇もなく、顔からアスファルトに叩きつけられた。音が、重い。
受け身など取れるはずもない。
彼の身体は、路地に転がり、そのまま動かなくなった。
二人目。
振り向こうとした顔面に、ためらいなく肘を叩き込む。
骨と歯のぶつかる鈍い感触が、肘から肩へと抜ける。
男の身体は、壁に叩きつけられ、そのままずるずると座り込んだ。
残った一人が、反射でナイフを抜いた。
刃が街灯の光を弾く。
震える手。力の入らない足。
それでも「武器を持てば優位」という薄い幻想に縋る。
「クソ女——」
その言葉を最後まで言う前に、迅花の拳が腹にめり込む。
ぐしゃりと、内側から崩れるような感触。
肺から空気が押し出され、男の喉から声にならない音が漏れる。
男はその場で折れた。
路地に、静寂が戻る。
迅花は、肩で息をしていた。
握りしめた拳が熱い。
心拍が、耳の中でうるさく跳ねている。
——もう少し。
どこかで、そう思ってしまった瞬間。
動きが、止まった。
街灯の下に、影がひとつ立っていた。
男が一人。
錆びたフェンスに片肩を預けている。
派手さのない服。小柄で、目立たない骨格。
夜の街にいくらでも紛れ込めそうな顔。
それなのに、そこに「いる」と分かる。
倒れた不良は、瞬時に判断した。
迅花より、その男の方が“安全”だと。
「た、助けてくれ! こいつ——」
助けを乞う声は、最後まで続かない。
迅花が、首根っこを掴んで地面に叩きつけたからだ。
「逃げんなって言ったでしょ」
冷たい声。
男は情けない声を漏らし、抵抗をやめた。
迅花は、視線を上げる。
街灯の下の男と、目が合う。
視線が、動かない。
怯えも、興味も、善悪の色もない。
だが、気配が違う。
獲物を見る目じゃない。値踏みする目でもない。
ただ――よく研がれた刃物のように、静かに「見ている」。
「……見物?」
迅花は、警戒を隠さずに言う。
男は、肩をすくめた。
「いや。通りがかっただけだ」
瞬間、直感が告げる。――嘘。
この男は、今の一部始終を、最初から見ていた。
迅花は一歩、間合いを詰める。
男は、薄く笑っただけだった。
その余裕が、苛立ちを跳ね上げる。
「……あんたも、やる?」
挑発。
同時に、「どこまでやる気か」を測る試験。
男は、首を横に振った。
「今日はいい。発散は済んだだろ」
その一言で、迅花の動きが止まる。
——見抜かれた。
胸の奥が、かっと熱くなる。
路地の奥で、不良の一人がくぐもった声でうめいた。男はそちらを一瞥し、また迅花に視線を戻す。
「無茶はするな」
乾いた声。
「力がある分、戻れなくなる」
それが、妙に癪に障った。
「だったら、消えて」
吐き捨てるように言う。男は動かない。
代わりに、少しだけ口角を上げた。
「お前が終わらせたらな」
——なんだ、こいつ。
迅花は苛立ちをそのまま、不良の一人にぶつけた。
蹴り上げ、完全に意識を落とす。
それから、男の目の前まで歩いていく。
距離、二歩。
完全に間合いの中。
「文句あるなら言いなよ」
声が荒い。
胸の奥で、さっきから収まらないものが顔を出す。
「……あんたも、こいつらと同類でしょ」
唇が勝手に、きつい言葉を選ぶ。
男は否定も肯定もしない。
ほんのわずかに、視線だけが細められる。
迅花は距離を詰めた。異能で強化された脚。
いつでも踏み込める体勢。
男は、動かない。
その無防備さが、さらに腹立たしかった。
迅花は、殴った。
全力ではない。
だが、一般人なら確実に倒れる一撃。
――外れるはずがなかった。
だが、次の瞬間、世界がずれた。
拳が、空を切る。
視界が一拍遅れて追いついた時には、
迅花の身体は前に崩れ、バランスを失っていた。
何が起きたのか、分からない。
男は、ほんの半歩、横にずれただけだった。
そして、迅花の手首を軽く払っただけ。
それだけで、土台ごと崩された。
迅花は歯を食いしばり、即座に立て直す。
今度は蹴り。ためらいのない本気。
速さも角度も、誰もついてこられないはずの踏み込み。
——だが。
男は、蹴りの軌道に入らなかった。
足首を掴むことも、受け止めることもせず、
ただ一瞬、踏み込みの“芯”を外した。
次の瞬間、迅花は壁に背中を打ちつけていた。
痛みはない。
だが、完全に体勢を奪われている。
男の手が、肩に添えられていた。
力は、ほとんど入っていない。
それでも、そこから動けなかった。
「……ほら」
男の声は低く、淡々としている。
「慢心してる」
「……放しなさいよ!」
反射的に叫ぶ。
男は、あっさりと手を離した。
迅花は跳ねるように男から離れ、距離を取る。
胸が上下し、呼吸が荒い。
「ふざけないで……」
拳が震える。何発でも殴れる。
だが、さっきから一発も当てられない。
男は、両手をポケットに入れたまま、一歩だけ下がった。
「……何者」
吐き捨てるような問い。
「通りすがりだ」
名乗らない。
男は、街灯の影を背負ったまま続けた。
「本気出す前にやめとけ、このやり方、長く持たねぇ」
迅花には、意味が分からない。
なぜ止めない。なぜ説教をする。
なぜ、見下ろすようでもなく、褒めるわけでもない、中途半端な目をする。
——分からない。
「……あんたに、関係ない」
吐き出すように言う。
男は答えない。
その沈黙が、言葉よりも苛立ちを煽った。
迅花は踵を返した。
歩き出しながら、拳を握る。
背中のどこかに、まださっきの手の感触が残っている。
恐怖ではない。安心でもない。
「理解されなかった怒り」と「あしらわれた悔しさ」が、背骨の内側で燃えていた。
迅花は乱暴にフードを被り、夜の中へと消えていく。
背中に、怒りと反骨心を詰め込んだまま。
外の通りは、何事もなかったように流れている。
コンビニの灯り。
通り過ぎる車の音。
笑い声。酔いの回った足取り。
夜は、変わらない顔をしてそこにある。
迅花は拳を握った。
爪が掌に食い込み、わずかに痛む。
——なんだ、あれ。
背中に残る感触が、消えない。
壁の冷たさではない。
肩に触れた、一瞬の「重さ」だ。
掴まれていない。押されてもいない。
それなのに、身体が止まった。
——意味が分かんない。
余裕ぶって、軽口を叩いて。
「……ムカつく」
声に出すと、ほんの少しだけ楽になる。
それでも、胸の奥の熱は引かなかった。
あの男は、名乗らなかった。
名乗る必要がないとでも言うように。
迅花は、空を仰ぐ。
街灯に滲んだ雲が、低く垂れ込めている。
二度と振り返らなかった。
背中に視線が残っている気がして、歩幅を無理やり速めた。
玄関の鍵を閉める音が、やけに大きく響いた。
夜の湿った空気が、背中から剥がれ落ちる。
靴を脱ぎ、スリッパに足を入れるその動作だけが、かろうじて現実に繋ぎ止めてくれる。
居間の灯りは、すでに点いていた。
「……おかえり」
台所から顔を出した母の声は、いつもよりほんの少しだけ遅れて届いた。
迅花は、顔を上げずに頷く。
「ただいま」
それ以上の言葉は出てこない。
喧嘩のことは言わない。言う意味がない。
理解されないと分かっているからではない。
言葉にした瞬間に、すべてが壊れてしまいそうで――
口から出せなかった。
母は、迅花の様子を一瞬だけ見て、何か言いかけて――やめた。
代わりに、テーブルの上に湯呑みを置く。
「……陸上、辞めてから」
湯気の向こうから、静かな声がした。
「夜、増えたわね」
責める調子ではない。
落ち着いていて、ただ事実を言っているだけの声。
だからこそ、迅花の胸の奥がきしんだ。
「走れないわけじゃない」
思わず、少し強く返してしまう。
「分かってる」
母は、すぐにそう言った。
「分かってる」と口にしながら、
本当は、何も分かっていないことを――
迅花は、もう知ってしまっている。
異能。
理由は、それだけだった。
速すぎる脚。
強すぎる踏み込み。
スタートの一歩で、他人との距離を壊してしまう感覚。
勝てば勝つほど、誰も隣にいなくなる。
速く走るほど、スタートラインにひとりきりで立つことになる。
――だから、辞めた。
自分で選んだ。
逃げたわけでも、追い出されたわけでもない。
その事実を、母は知っている。
だが、その後に残ったものまでは、触れられない。
「……無理、しないで」
それが、母の口から出てくる精一杯の言葉だった。
迅花は湯呑みに口をつけたが、味はしなかった。
喉を通る熱だけが、身体の中に残る。
部屋に戻ると、カーテン越しに街の光が滲んでいた。
静かすぎる。
走る音も、スタートの号砲も、観客の歓声もない。
胸の奥で、行き場を失った力が蠢く。
怖い。
自分自身が。
それでも、止められない。
ベッドに腰を下ろし、拳を握る。
骨が鳴るほど、強く。
「……このままじゃ、だめだ」
誰に向けた言葉でもない。
答えも、ない。
迅花は立ち上がり、上着を掴んだ。
さっきの路地より、もっと危険な場所へ行くつもりだった。
走るためじゃない。
勝つためでもない。
ただ――胸の中の孤独を、殴り飛ばすために。
玄関の鍵が、再び静かに回った。
夜の風は、それほど冷たくない。
それでも迅花は、肩を少しだけすぼめて歩き出した。
街灯の切れ目。
コンビニから二本外れた細い道。
迅花は、わざと足取りを遅くした。
スマホを見ているふりをしながら、
イヤホンを片方だけ耳から外す。
――来い。
願いでも、祈りでもない。
ただ、「そうなる」と分かっているから、待つ。
「ねえ、ちょっとさ」
背後から声。
一人じゃない。
靴音は三つ。少し離れたところに、もう一つ。
反射的に振り向きかけて、
迅花は一瞬だけ“弱い顔”を作った。
目を見開き、言葉に詰まるフリ。
逃げようとして、わざと足をもつれさせる。
演技だ。
でも――心臓の鼓動だけは、誤魔化せない。
「なに、怖がってんの?」
「夜道一人? 不用心だな」
距離を詰めてくる。
肩に、無遠慮な手が触れる。
その瞬間、迅花は一歩引いた。
——触った。
それだけで、殴る理由は揃う。
「やめてください」
声が震える。
それを聞いて、不良たちは下品に笑った。
「やめてくださいだってよ! かわいい〜!」
「ほらほら、声上げんなって」
「ちょっと遊ぶだけだろ」
その瞬間――
迅花の中で、何かが切り替わった。
逃げ腰だった身体が、すっと立ち上がる。
背骨が伸び、重心が落ちる。
次の瞬間、最初に触れてきた男の顎に、拳が入った。
鈍い音。
歯がぶつかり合い、男の身体が崩れる。
「——っ!?」
驚きの声が上がる前に、二人目の腹へ蹴り。
三人目が殴りかかってくる腕を受けて、そのまま投げる。
速い。
強い。
そして、止まらない。
拳が当たるたび、胸の奥が少しだけ軽くなる。
詰まっていた何かが、外に吐き出されていく感覚。
――これだ。
陸上をやっていた頃には、なかった感覚。
スタートラインもゴールラインもない。
タイムも、順位も、記録もない。
ただ、力を出せばいい世界。
倒れた不良の一人が、震える声で問う。
「お、お前……なんだよ……」
迅花は答えない。
答えたくないのではない。
自分でも、分からないから。
最後の一人が、恐怖に負けて逃げ出したのを見て、追わなかった。深追いはしない。
“狩り”は、ここまで。
息を整える。
握った拳を見る。赤くなった指先。
痛みは、ほとんどない。
——また、やってしまった。
胸の奥に、冷たいものが一点だけ残る。
スッとしたはずなのに、すぐに戻ってくる違和感。
強すぎる。
使えば使うほど、「普通」から離れていく。
それでも――やめられない。
迅花はフードを被り直し、何事もなかったように歩き出した。
倒れた男たちを、一度も振り返らずに。
夜は、まだ深い。
同じ路地。
同じ時間帯。
違うのは――迅花の中の温度だけだった。
売人狩りと、幹部の顔
夜の繁華街は、昼よりも正直だ。
欲と金と嘘が、看板の光の下でむき出しになる。
迅花はフードを深く被り、人の流れの一番端を歩いていた。
足取りは軽い。
呼吸は整っている。――獲物を探す時の足だ。
ドラッグの匂い。
甘く、鼻につく化学の臭気。
覚醒して以来、嫌でも分かるようになった。
路地の奥。黒塗りのワゴン。後部ドアが半開き。
男が二人、段ボールを運んでいる。
売人。
末端ではない。動きに無駄がない。
迅花は、わざと足音を立てた。
「……あ?」
振り返った男の目に、迅花の姿が映る。
若い。細い。フードを被った女。
格好の獲物――そう判断するまでに、時間はかからない。
「迷ったのか? こっちは——」
言葉は最後まで続かない。
迅花の拳は、もう男の腹にめり込んでいた。
空気が、肺から絞り出される音。
男の身体が、折りたたまれるように崩れる。
もう一人が、反射でナイフを抜く。
反応は悪くない。
だが――遅い。
迅花は踏み込んだ。
回し蹴り。
顎が跳ね、男の身体が壁に打ちつけられる。
二人が倒れるのを確認してから、迅花は呼吸を整える。
――まだ、足りない。
ワゴンの中から、別の気配。
「……何してやがる」
ゆっくりと降りて来たのは、三人目。
肩幅が広く、目が濁っている。
このチームの幹部だと、直感で分かった。
男は、状況を一瞬で把握する。
倒れた部下。
立っている少女。
「クソが……女一人で調子に乗るなよ」
拳銃には手を伸ばさなかった。
この距離、この場所。
「殴って済ませられる」と判断した顔だ。
迅花は笑わない。ただ、構えた。
次の瞬間、男が突っ込んでくる。
体重を乗せたフック。
迅花は避けない。
受けて、返す。
肋骨が鳴る感触が拳に伝わる。
男の身体が横に飛ぶ。
「ぐ……っ!」
地面に転がる幹部を、迅花は追う。
逃がさない。
膝。
肘。
踵。
壊すためではない。
――二度と立ち上がれないようにするため。
男の呻き声が、路地に溶ける。
迅花は最後に男の胸倉を掴み、顔を近づけた。
「次は……売る相手、選びなよ」
声は低い。怒鳴らない。手を離す。
男は、その場に崩れ落ちた。
迅花は背を向ける。胸が、ざわつく。
――幹部を狩った。
いつもより、重い感触。達成感ではない。
どこか、「踏み越えた」感覚。
足を止め、夜空を見上げる。
強い。だから、出来た。
だから――怖い。
遠くで、サイレンが鳴り始める。
迅花はフードを深く被り、闇に紛れて姿を消した。
繁華街の中心にあるクラブは、深夜になるほど現実味を失っていく。低音のビートが床を震わせ、
照明が人の輪郭を削り、ここが「どこ」なのかをわざと曖昧にする。
その奥――
関係者以外立ち入り禁止のVIPルームで、不良チームの中枢が集まっていた。
ソファに深く座っている男が、この集団のリーダーだった。
見た目は派手だ。ブランド物のジャケット。
目立つロゴの腕時計。テーブルの上のシャンパン。
だが、目だけは落ち着かない。
彼は、「裏の世界で戦える人間」ではなかった。
ただ、「裏の世界を知っている風の男」に過ぎない。
「……で?」
リーダーはグラスを揺らしながら、低く言う。
「例の件、間違いねぇんだな」
向かいに座るのは幹部だ。顔に古い傷が一本。
背もたれに体重を預けない座り方。
こちらは明らかに、場数を踏んでいる。
「間違いねぇ」
短く、重い声で答える。
「昨日潰されたの、ウチの“運び役”だ」
その一言で、部屋の空気が一段重くなった。
運び役――
表に出ない金と物を動かす、重要な「血管」の一部だ。
「……女一人、だって話だったな」
「そうだ」
幹部は、スマホをテーブルに置く。
画面には――フードを被った少女の後ろ姿。
夜の街。
乱闘の一瞬。
倒れていく男たち。
角度がいい。
“撮るつもりで撮った”映像と写真。
一瞬、暴れた風に見えるが、
見れば見るほど「全員、狩り慣れている手つき」で倒されていると分かる。
「こいつだ」
リーダーは、舌打ちをする。
「……ガキじゃねぇか」
「ガキだが、化け物だ」
幹部の声には、冗談が一切混じらない。
「殴り合いになった奴ら、全員“壊されてる”」
「……殺しは?」
「してねぇ」
「だが、遊びでやってる加減じゃねぇ」
沈黙。
その時、部屋の隅で煙草を吸っていた男が口を開いた。
薬の売人。
痩せているが、目だけがギラついている。
「……あの女、最近、獲物を選ばなくなってる」
視線が、一斉にそちらに向く。
「最初は、チンピラとかその辺の雑魚だった」
「……今は?」
「超えちゃいけねぇラインを、超えやがった」
リーダーはグラスを置き、指でテーブルを軽く叩く。
「……つまり、そういうことだ」
幹部が続ける。
「もう“遊び”じゃねぇ。向こうは無自覚だろうが、こっちは被害が出てる」
リーダーは、顎に手をやる。
「……ガキ一人潰すのに、騒ぎすぎじゃねぇか?」
その言葉に、幹部の目が冷えた光を宿す。
「……だから言ってんだろ。ウチだけの問題じゃねぇ」
「……組織か」
「裏の組が、この街の流れを握ってる」
「で、その“流れ”を、あのガキが止め始めてる」
壁越しの音楽は、相変わらず低く鳴り続けている。
だが、この部屋の中だけは、別のリズムが支配していた。
「……特定は済んでるんだな」
「都内の学校だ。家も押さえてある」
幹部は淡々と告げる。
「顔も悪くねぇ。客は選ぶが、“見世物”にしたら回る」
誰かが喉の奥で笑った。
最後に、ボス格の男が缶を持ち上げ、テーブルにコツンと置く。
「探せ」
短い一言。
「殺すな。逃がすな。壊すな」
一拍置いて、言葉を継ぐ。
「手に入れろ」
誰も、反論しなかった。
クラブの外では、若者たちが笑い、踊り、
何も知らずに夜を消費している。
その裏で――
迅花の“狩り”は、確実に一線を越えてしまっていた。
学校終わりの放課後。
迅花は公園のベンチに腰を下ろし、赤く染まり始めた空を眺めていた。
夕方の公園は、夜の街と違って穏やかだ。
子供たちの声もまばらになり、
犬の散歩をする人の足音だけが、舗道を一定のリズムで叩いている。
静かすぎて――
身体の奥に溜まったものが、行き場を失って騒ぎ出す。
脚が、まだ熱を持っていた。
殴った感触が、皮膚の裏にしつこく残っている。
――足りない。
そう思った瞬間、自分で自分に歯を食いしばった。
走っていた頃は、こんな感覚はなかった。
トラックを蹴る音。
スタブロの硬さ。
呼吸が焼けるように苦しくなっても、前に出ようとする感覚。
あの頃は、速さに全部を預けていればよかった。
今は違う。
速すぎる。
強すぎる。
誰も並ばない。
誰も追いつかない。
自分で辞めた。
誰かに言われたわけでも、怪我をしたわけでもない。
「……強すぎるから、辞めます」
あの時、顧問にそう告げた自分の声が頭の中で蘇る。
困ったような、腫れ物に触るような目。
どこかで、自分すらも「異物」として扱ってしまった感覚。
迅花は手に持っていたペットボトルを握りしめる。
指に力が入りすぎて、ペットボトルがぐしゃりと潰れた。
夕方の空気は、生ぬるい。
走り終えた後の身体の熱だけが、そのまま残っている感じがした。
その背後で、靴音が止まった。
「……あー、やっぱ本物だ」
軽い声。
褒めるようで、完全に舐めている響き。
振り返るより先に、視界の下からスマホが突き出された。
画面。
路地。
倒れている男。
逃げ惑う影。
殴り抜いた瞬間の、迅花自身。
どれも、角度がいい。
“撮るつもりで撮った”映像だと分かる。
「昨日の。つーか一昨日のもある」
別の男が言う。
「いやー、女でここまでやるとは思わなかったわ」
笑い声。乾いていて、油の浮いたような笑い。
迅花は、反射的に距離を測る。
四人。
立ち位置が、逃げ道を塞いでいる。
いける。全員、倒せる。
そう判断した瞬間――
男が、低く言った。
「……元気だな、迅花ちゃん」
名前。
その二文字で、空気が完全に切り替わった。
三人目が、別のスマホを取り出す。
画面が切り替わる。
(……は?)
自分の家。
昼間の外観。
玄関。
そして――母。
さらに、学校の前。
友達と笑い合っている迅花の顔。
迅花の思考が、一瞬、真っ白になる。
(……なんで……)
男は何も言わない。
ただ、画面を見せるだけ。
母がゴミ袋を持って出てくるところ。
ポストを覗く姿。
玄関の鍵を開け閉めする手元。
……息が止まる。
「これな。今日の昼」
男は楽しそうに続ける。
「母ちゃん、優しそうだよな。声掛けたら、すぐ出てきそう」
胸の奥が、一気に冷える。
「なあ、想像した?」
低い声が、耳元の距離に近づく。
「お前が暴れた後の家」
「窓割れて、玄関壊れて、母ちゃん泣いて――」
「それでもお前、殴れる?」
喉が、鳴らない。
「別にさ、殺すとかじゃねぇよ」
男は肩をすくめる。
「そんな面倒なこと、する意味ないし」
「でも――壊すのは簡単だ」
男の指先が、迅花の顎を軽く叩く。
「お前が言うこと聞かねぇなら」
「写真、学校に流す」
「警察にも行く」
「あと、動画もある。音付きな」
一瞬、世界が遠のいた。
――動画。
それは、駄目だ。
頭で理解するより早く、本能が叫ぶ。
これは、本当にヤバい。
力はある。
倒せる。
逃げられる。
だが――
逃げた先で、守れないものがある。
「……クソ」
搾り出した声は、震えていた。
男たちは、その反応を待っていたように笑う。
「いい顔するじゃん」
「やっと分かった?」
背後から腕を掴まれる。
反射で振り払おうとして、止まる。
また、スマホが目の前に差し出される。
母の顔。
「大丈夫だって」
リーダー格の男が、軽く笑う。
「ちょっと付き合ってもらうだけ」
「お前、金になるから」
その一言で、すべてが落ちた。
――狩られている。
迅花は、初めて理解する。
自分は今まで、「殴れる相手」だけを選んでいただけだということを。
本当に下衆で、危険で、卑怯な連中は――
殴らせてもくれない。
悔しい。
腹が立つ。
怒りで視界が滲む。
それでも――
拳は、振れなかった。
(……私……)
強いはずなのに。
速いはずなのに。
自分の“遊び”は、もう完全に終わっていた。
「ほら、行こうぜ」
「強い女さん」
その呼び方が、初めて本気で気持ち悪かった。
迅花は、連れて行かれる。
初めて、“自分の力が通じない世界”に。
―――――――――――――――――――――――
鷹宮 迅花(たかみや・じんか)
年齢・立場
高校生。
都内の有名学園に在籍。
かつては陸上部のエース候補だった。
外見
長い黒髪を高い位置でまとめたポニーテール。
目力の強い、勝ち気な瞳。
派手なメイクやアクセサリーとは無縁だが、
「完成された美少女」として周囲に認識されるタイプ。
体格・身体性
陸上で鍛え上げた四肢には無駄な肉がなく、しなやかで強靭。
走る・跳ぶ・踏み込む――
瞬間的な動作に特化した身体をしている。
立っているだけで「地面とのつながり方」が普通の子と違う。
足裏で、いつでもスタートを切れるような重心の置き方をする。
過去と現在
中学から陸上一筋。
高校に入ってからは、学園内でも「有望選手」として期待されていた。
しかし、異能の覚醒をきっかけに、競技バランスが崩壊する。
・スタートが速すぎる
・踏み切り一発で地面を痛める
・接触しただけで、他選手を転倒させてしまう危険
記録だけ見れば圧倒的。
だが、「競技」として成立しなくなっていった。
本人の意思で退部。
誰のせいにもできない形で、陸上から離れた。
目的を失い、力だけが残る。
結果――
夜の街で「悪いやつ狩り」を始める。
善悪の基準
単純で、極端。
声をかけてくる
触ろうとする
脅す
→ なら、殴っていい。
それ以上の複雑な判断を、まだ持っていない。
裏社会の存在は知らない。
自分の行動がどれほど危険かも、まだ理解しきれていない。
異能名
身体能力強化(フィジカル・ブースト)
筋力・瞬発力・反射神経が、
「鍛えた成人男性」のおよそ2〜3倍にまで底上げされている。
特に脚力が異常に高い。
短距離や一瞬の加速に特化しており、
長距離戦や継戦能力は、それほど高くはない。
しかし、瞬間的な制圧力は、普通の人間とは比較にならない。
性格
勝ち気で、短気。
正義感はある――だが、短絡的。
力を持った自分に戸惑っている部分と、
その力に酔いそうになる自分を嫌う部分が、同居している。
褒められるのが苦手。
見透かされると、露骨に不機嫌になる。
一方で、意外にミーハーなところもあり、
恋バナやアイドルの話題になると、普通の年相応の女子高生の顔も見せる。
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