第8話 裏と表
昼下がりの大学構内は、いつもよりほんの少しだけ騒がしかった。講義と講義の合間。
ベンチに腰かけてコンビニおにぎりを食べる学生。
サークルのビラを片手に、半分惰性で配り続ける上級生。
スマートフォンを覗き込み、画面越しの世界にだけ笑っている子たち。
どこにでもある大学の光景。
誰かにとって、退屈で、しかし確かに守られている日常。
由衣は、銀杏並木の下を歩いていた。
葉はすでに色を落とし、枝だけになったシルエットが冬の空を切り取っている。
隣には、みなみ。
飲みかけのペットボトルをぶら下げ、他愛のない話を続けながら歩いている。
空は高く、風は穏やかで――
何も起きていない、“普通の午後”だった。
――その時だった。
「……由衣さん」
名前を呼ぶ声が、空気の層をひとつ変えた。
由衣は、足を止めて振り返る。
声の主を認識するより先に、周囲のざわめきが微妙にずれるのが分かった。
そこに立っていたのは、学内で顔を知らない者は少ない男子学生だった。
背が高く、清潔感がある。
笑えば爽やか、黙っていても人当たりの良さがにじむタイプ。
サークルの飲み会では必ず中心にいる。
“大学生活が似合う人間”というカテゴリに、きれいに収まっている男。
周囲の学生たちが、空気の変化に気づいて足を止める。
「え……?」
「まじで?」
「これ、今……」
声にはならない気配が、視界の端で増えていく。
(……あ)
みなみは、一瞬で理解した。
(これ……告白だ)
視線。距離。沈黙の長さ。
女として、友人として、嫌でも分かってしまう“形”。
男子学生は、少し緊張した面持ちで、それでもまっすぐ由衣を見る。
「前から……気になってて」
由衣の喉がひくりと動く。
それでも、逃げない。
「……」
「よかったら、付き合ってください」
昼休みのざわめきが、そこでぴんと張り詰めた。
世界が一瞬だけ、音を飲み込む。
遠くの笑い声も、駐輪場の金属音も、すべてが背景に押しやられる。
由衣は、一瞬だけ目を伏せ、それから、きちんと顔を上げた。
「……ありがとうございます」
声は穏やかだった。
申し訳なさを含みながら、それでもぶれない響き。
「でも……ごめんなさい」
男子学生の瞳が、わずかに揺れる。
「今は、お付き合いするつもりはありません」
言い訳はしない。
誰かのせいにも、状況のせいにもしない。
“今は”とだけ添えて、はっきり断る。
男子学生は、少し驚いたように瞬きをしてから、苦笑を浮かべた。
「……そっか」
あまりにも、いい人らしい返事だった。
「……すみません」
「いや、ちゃんと言ってくれてありがとう」
そう言って、それ以上は踏み込まない。
周囲の視線を気にする様子も見せず、きちんと頭を下げて、その場を離れていく。
見ていた学生たちも、「残念だったね」「でも言えたのすごいよ」などと小声を交わしながら散っていく。
張り詰めていた空気が、少しずつ解けていく。
構内は、またいつものざわめきを取り戻した。
「……すごいね、今の」
少し歩いてから、みなみが口を開く。
さっきまで見ていた告白の余韻が、まだ声に残っていた。
「人気ある人じゃん、あの人」
「……そうみたい」
由衣は、少し困ったように笑った。
自分に向けられた好意の重さを、真正面から受け止めたあとに出てくる笑み。
「断るの、勇気いらなかった?」
「……少しだけ」
短く、正直に。
でも、後悔はなかった。
そのことはみなみにも伝わっていた。
みなみは、横目で由衣の横顔を盗み見る。
(……で?)
言葉より先に、心の中で問いが浮かぶ。
「……で?」
「……うん」
由衣は歩幅を崩さず、言葉だけを慎重に選んでいる。
「私……今……」
「……」
「好きな人、いるんだと思う」
そこで、みなみの足がぴたりと止まった。
「……え?」
“いるんだと思う”――その言い方に、由衣の不器用さと真剣さが混ざっている。
「……正確には……」
由衣は、少しだけ照れたように視線を逸らす。
「簡単な関係じゃないんだけど……」
「……」
「私を助けてくれた人……、ほら…ストーカーの時の」
その名を聞くだけで、あの夜の空気が一瞬で蘇る。
倉庫の冷たさ。足音。乾いた音。
“何か”が一瞬で、完全に終わらされてしまう気配。
みなみの目が、見開かれる。
「……はばきさん?」
「……うん」
その瞬間――みなみの挙動が、分かりやすくおかしくなった。
「え、え? ちょ、ちょっと待って」
「……?」
「え? あの? 戦闘屋の……?」
「……そうだけど……」
みなみは、両手をわたわたと動かしながら、由衣の周りを一歩分ぐるりと回る。
まるで、どこかに怪我でもしていないか確認するみたいに。
「つ、付き合ってるの!?」
「……付き合ってる、とは……」
由衣は、少し困った顔で首を傾げる。
「でも……一緒に、います」
「い、います!?」
声が、素直に裏返った。
「え、ちょ、え!?」
「……みなみ、声大きい……」
慌てて周囲を見回し、声を絞る。
「だって……! あの人だよ!? ストーカーの、一瞬で“消した”人だよ!?」
“消した”という言葉の選び方が、二人の見てきた現実を象徴していた。
「……え、なに?由衣……大丈夫なの?危なくない?」
心配と混乱が入り混じった問い。
由衣は歩みを止めてみなみに向き直る。その表情は穏やかで、不思議なほど揺れていなかった。
「……大丈夫」
「……」
「一番……安心できる人だから」
みなみは、言葉を失う。
(……まじか)
心の中でだけ、盛大に崩れ落ちる。
数秒、黙ったまま考え込んでから、諦め半分の笑みを浮かべた。
「……由衣さ」
「……うん」
「なんか……とんでもないところに着地したね……」
由衣は、少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。
「……そうかも」
大学構内では、今日も何事もなかったように学生たちが行き交っている。
ただ、世界の片隅で――
由衣の“日常”だけが、少しだけ、でも確実に色を変え始めていた。
――戦闘屋:鴉(レイヴン)
フリーの戦闘屋、《レイヴン》。
戦場の鴉と呼ばれる男の元には、今日も依頼が舞い込む。
名刺はない。事務所もない。
あるのは、短い連絡と、必要最低限の合図だけ。
スマートフォンが震える。それが、始まりの合図。
画面に表示されるのは、番号だけの簡素な着信。
言葉も短い。
“いつ”“どこで”“何人”。
それだけ聞けば、十分だ。
ヤクザの組長の護衛
夜の料亭。
石畳のアプローチ。ささやくような水音。
襖の向こうで、笑い声と、低く押し殺した怒気。
笑顔の裏に刃が隠れている場所。
レイヴンは、壁際に立っている。
何も言わない。何もしない。
やっている事は、それだけだ。
だが――「何も起きない」こと自体が、仕事の成果だった。組長は無事に席を立ち、
翌朝、街は何事もなかったかのように動き出す。
誰も知らない。
その場に一羽の鴉がいたことを。
海外マフィアの殲滅
場所は、日本ではない。
湿った夜気。異国の言葉。
規則の抜け落ちた街の隅っこ。
レイヴンは、“終わらせる側”として呼ばれる。
余計な言葉はない。
交渉も、情も、ここには存在しない。
必要なのは、「消す」という結果だけだ。
翌日、一つの勢力が地図から静かに消える。
ニュースにはならない。
だが、裏の世界では名前が回る。
――鴉が舞い降りた。
それだけで、十分だった。
怪物狩り
それは、人の形をしていない。
夜の森。廃れた施設。誰も説明できない違和感。
魔術。呪い。異能。
この世の裏側で、けれど確かに人を喰い、日常を削る何か。
レイヴンは、それを“特別”だとは思わない。
脅威は脅威。理由も起源も、彼には関係がない。
排除する。それだけだ。
朝になれば、子供たちはいつも通り学校へ向かう。
誰も知らない。昨夜、何が封じられたのかを。
知らなくていい。そういうふうに、この仕事は終わらせられる。
ストーカー、DV被害、喧嘩
一番、地味で――一番、多い依頼。
壊れかけた日常。
玄関の前で足を止めてしまう恐怖。
鳴るだけで心臓が跳ねる通知音。
怯える視線。
助けを求める声。
そこには銃も怪物もいない。いるのは、人間だけだ。
レイヴンは、相手の事情も、言い訳も、聞かない。
“線”を越えた時点で、もう終わっている。
数日後、被害者は普通に歩けるようになる。
暗い路地を避けなくなる。
玄関の鍵を閉める音に、過剰に怯えなくなる。
それで、仕事は完了だ。
依頼の内容は違う。
場所も、相手も、規模も違う。
だが、レイヴンがやることはいつも同じだった。
日常を壊すものを、日常の外へ追い出す。
それだけ。
彼は、英雄ではない。正義を語ることもない。
ただ、戦場に鴉が舞い降り、
仕事が終われば、何も残さずに飛び立つ。
そして今日も――どこかで誰かが何も知らないまま、“普通の一日”を生きている。
その影で動いているのが、戦闘屋レイヴンの仕事だった。
昼の路地裏は、思っていたよりも明るかった。
高いビルとビルの隙間。
直射日光は遮られているのに、
上から落ちてくる拡散した光がコンクリートの壁を白く照らしている。
昼間だというのに、人通りはない。
それ自体が――既に、異常だった。
レイヴン――九郎は路地の入口で立ち止まる。
(……来てるな)
空気が、薄く歪んでいる。
音が、ほんの僅かだけ、耳に届くまで遅れている。
人間の世界に、余計な“解釈”が混ざっている感覚。
怪異――それも、かなり質の悪い部類。
「口裂け女、か」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
都市怪談。子供の頃、誰もが一度は話題にした名前。「ポマード」「きれい」「マスク」
噂話、テレビ、ネット、冗談。
認知度が高いほど、怪異は強くなる。
そして――こいつは、その中でも最悪に近い。
ゆっくりと歩き出す。
右手にはナイフ。
刃渡りは短い。だが、何千回と握ってきた感触が手に馴染んでいる一本。
両手には硬化のルーンを刻んだ手袋。
皮革の裏地に刻まれた紋様が、かすかに脈打っている。
足元のブーツの踵には〈早駆け〉のルーン。
必要な瞬間に、一気に距離を詰めるためだけに刻まれた刻印。
(……昼間で助かったな)
夜なら、この路地はもっと“広がって”いる。
距離も、陰影も、怪異の支配領域も、すべてが水増しされていただろう。
「……ねぇ」
背後から、声。
振り向かなくても分かる。
来た。
「……私、きれい?」
女の声。
高くも低くもない、作られた“平均値”のようなトーン。どこにでもいそう。
だからこそ、どこにでも出てくる。
九郎は立ち止まり、ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、ロングコートの女。
顔は影に隠れている。だが、形は知っている。
やがて、影がずれ――裂けた口が覗く。
耳元まで引き裂かれた、歪んだ笑み。
――認知の集合体。
“そうであるべき姿”に縛られた怪異。
(……やっぱりな)
「質問は、受け付けてない」
淡々とした声で言う。
口裂け女は、くすりと笑った。
「……答えないと、殺すわよ?」
次の瞬間、声に重さが乗る。
路地の壁が、きしり、とわずかに鳴った。
「しいて言うなら、……好みじゃないな」
認知が、現実を書き換え始めている。
足元の影が伸び、路地の奥行きが“増えた”気配がし
た。
九郎は深く息を吸う。
次の瞬間、ブーツの〈早駆け〉が発動する。
地面を蹴る感覚が、一拍遅れて追いかけてくる。
世界の方が遅れたように感じる瞬間。
距離が、一気に潰れる。
口裂け女の腕が伸びる。
刃物のように変形した指先。
左腕を前に出す。
――硬化。
手袋のルーンが蒼く光り、衝撃が鈍い音に変わる。
腕を受け止める感触は、肉というより、濡れた木材に近かった。
(……効いてる)
振り抜いた拳の感触を確かめる。
だが、時間は短い。数秒の猶予しかない。
踏み込む。
ナイフが空気を裂く。
斬る、というより、“存在の継ぎ目を断つ”感覚。
口裂け女の輪郭が歪み、
悲鳴とも笑いともつかない音が路地に反響する。
「……ワタシッ! キレイイイイイィィイイー!!!……!」
声が割れ、ひしゃげ、人間という枠から外れた音に変わる。二足歩行の何かが、ばらばらに崩れていくような気配。
「だから――」
九郎は短く息を吐く。
「だから、終わらせる」
硬化が切れる前に、最後の一歩を踏み込む。
認知で作られた輪郭が、崩れていく。
裂けた口が、“記号”として意味を失っていく。
―――
路地裏には、ただの昼の静けさだけが戻っていた。
遠くの交差点の信号音。
車のタイヤが舗装路を擦る音。
人の笑い声。全てが、「普通」の側に戻っている。
(……撃滅、完了)
怪異はいない。噂だけが残る。
だが、今ここで人を殺す“口裂け女”はもういない。
路地の中央で立ち止まり、ナイフを収める。
ブーツの〈早駆け〉は沈黙し、
手袋の〈硬化〉も完全に落ちた。
(……そろそろ出てくる頃だ)
そう思った直後――微かな気配が、二つ。
壁の影。ゴミ置き場の奥。
“見ていた”視線。
「……もういいぞ」
九郎は前を向いたまま言う。
「出てこい。援護に入る気だったんだろ」
一拍の沈黙。
それから、慎重な足音が二つ、路地の奥から近づいてくる。
最初に姿を見せたのは、短いジャケットを着た女だった。
二十代後半。
目つきは鋭いが、その奥に疲労と緊張の色が混じっている。
その少し後ろから、もう一人。
眼鏡をかけ、鞄を胸に抱える女。
こちらは明らかに“現場に慣れていない”足取りをしていた。
二人とも、距離を保ったまま立ち止まる。
「……気づいてましたか」
ジャケットの女が、低い声で問う。
「最初からだ」
九郎は短く答える。
「助けに入るタイミングを探ってた。だが、入れなかった」
それは、責めではない。ただの事実の確認。
「……私たちは、霊能探偵事務所の職員です」
名乗りながらも、女は一歩も近づかない。
警戒しているのは九郎だけではなく、この場そのものだった。
「怪異反応を追ってきたら……もう、あなたが対処していた」
眼鏡の女が、少し震えた声で続ける。
「……正直、助かりました。でも……」
そこで言葉が途切れる。
九郎は、二人を一瞥した。
戦闘の余韻は、すでに切り落としている。
だが、“危険な男”という評価が消えることはない。
「……安心しろ」
九郎は、肩から力を抜きながら言う。
「終わってる。ここでもう、何も起きない」
二人は、すぐには信じない。
だが、霊能者としての感覚が、空気が正常に戻っていることを告げていた。
「……あなた、何者ですか」
ジャケットの女が、真正面から問う。
九郎は少しだけ考え、簡潔に答えた。
「フリーの戦闘屋」
「……レイヴン?」
名前を出したのは、眼鏡の女だった。
九郎の視線が、そちらへ向く。
「……噂で」
「そうか」
否定もしない。
「俺は怪異を追わない。向こうから来たのを、終わらせるだけだ」
二人の女は、無言で息を呑む。
霊能探偵として、“処理役”と“掃除役”の違いは理解している。
「……今日は、私たちの負けですね」
ジャケットの女が、苦く笑う。
「助けに入るつもりだったのに……見ているだけになった」
「無理に入らなくて正解だ」
「……え?」
九郎は路地の出口へ向かいながら言う。
「下手に人数が増えれば、その分だけ被害も増えてた」
忠告であり、評価でもあった。
二人は、その背中を黙って見送る。
「……ありがとうございました」
眼鏡の女が、思わず頭を下げる。
九郎は振り返らない。
「次からは、“入る前に終わってる可能性”も考えとけ」
淡々とした声だけを残し、彼は昼の街へ戻っていった。
残された二人は、しばらくその場から動けなかった。
「……本物、だったね」
「……ええ」
霊能探偵事務所の職員として、二人は理解していた。
あの男は、同業ではない。
もっと危険で、もっと確実な側の人間だということを。
霊能探偵事務所 ――民間の対霊組織
霊能探偵事務所は、雑居ビルの三階にあった。
一階には古びた喫茶店。
二階にはよく分からないIT系の事務所。
その上に、控えめなプレートがひとつだけ掲げられている。
心霊・失踪・調査全般
表向きの看板は曖昧だ。
だが実態は、怪異案件を専門に扱う民間の対霊組織だった。
壁には結界札。
棚には測定器具と、黄ばんだ古書。
ホワイトボードには、未解決案件のメモ。
エアコンの風に、どこか線香とコーヒーの匂いが混ざっている。
中央のテーブルを囲んで、職員たちが集まっていた。
「……で?」
室長・相馬 恒一郎(そうま こういちろう)が、コーヒーカップを置いて言う。
元刑事らしい落ち着きと、現場の人間特有の疲れが、目の奥に同居していた。
「昼の路地裏で、口裂け女案件が“もう終わってた”理由を説明してもらおうか」
黒瀬香澄(くろせ かすみ)が、一歩前へ出る。
現場対応担当。
短くまとめた髪と、視線の鋭さが印象的な女だ。
「私と白石で、反応を追って現場に入りました」
「……入った時点で?」
「既に戦闘中でした」
室内が少しざわつく。
東條ひなた(とうじょう ひなた)が椅子から半分飛び出す。
「え、誰か他所の事務所?」
「違う」
白石由紀(しらいし ゆき)が、眼鏡の位置を直しながら首を振る。
彼女は分析・霊視担当。
慎重で、言葉を選ぶタイプだ。
「……単独、でした」
「単独!?」
ひなたが素直に声を上げる。
「男一人で、口裂け女を押してました」
その一言で、橘 恒一(たちばな こういち)の表情が変わる。
古式寄りの陰陽師。
袴ではなくスーツを着ているが、立ち振る舞いに古い流儀が滲む男だ。
「……正気か?」
「私も、そう思いました」
黒瀬は、続ける。
「助けに入るつもりで様子を見てましたが……」
「……?」
「入れませんでした」
一瞬の沈黙。
相馬が、ゆっくりと問う。
「理由は」
「――優勢だった」
ひなたが思わず笑う。
「は? あの“口裂け女”だぞ?」
白石が、静かに重ねる。
「ガチです」
「魔術らしい発光は確認しました。けど、退魔術や典型的な霊能力は使ってませんでした」
橘が、低く唸る。
「……それは……」
「ええ」
黒瀬は、はっきりと言い切る。
「私たちが入ったら、足手まといになっていた可能性が高いです」
その言葉に、ひなたも口をつぐむ。
相馬は顎に手を当て、考え込む。
「……そいつ、名は?」
「本人は名乗りませんでしたが……」
白石が、少し躊躇してから続ける。
「……“レイヴン”と」
「……鴉、か」
相馬は静かに息を吐いた。
「最近、裏で名前が回ってきてるな」
「やっぱり……」
「怪異専門でもない。組織にも属さない。だが、結果だけを残して消える男」
橘が苦笑する。
「つまり……」
「つまりだ」
相馬は職員全員を見渡す。
「俺たちは“処理班”。あいつは――」
少し言葉を選び、続ける。
「最初から終わらせる側だ」
室内が、静まり返る。
ひなたが、ぽつりと言う。
「……味方か?」
「敵じゃない」
相馬は、きっぱりと言う。
「だが、同じ土俵に立てると思うな」
黒瀬が、思い出すように言った。
「……私たち、隠れてたの、最初から気づかれてました」
「……だろうな」
「“出てこい”って」
「……」
白石が、少し震えた声を足す。
「……殺気はなかったです」
「ほう」
「ただ……“入るな”って圧だけが、ありました」
相馬は、ゆっくり立ち上がる。
「覚えとけ」
「……」
「ああいうのが動いてる間は、街は平和だ」
「……」
「だが、あいつが本気で“狩り場”に出てきた時は――」
一拍置いてから、言った。
「もう、俺たちの手に負える段階じゃなくなってる」
誰も、反論しなかった。
霊能探偵事務所の窓の外では、何も知らない街がいつも通り動いている。
その裏で、戦場の鴉は確かに名を広げ始めていた。
夜の由衣の部屋は、静かだった。
外から聞こえるのは、遠くの車の音と、どこかの部屋で笑うテレビの声だけ。
蛍光灯ではなく、スタンドライトだけをつけた室内は柔らかく暗く、
その光が、テーブルの上の救急箱を淡く照らしている。
由衣は、救急箱の蓋を開け、中身を慎重に並べた。
消毒液。
ガーゼ。
テープ。
滅菌綿。
手つきは少し緊張しているが、逃げ腰ではない。
「……思ったより、軽そうですね」
九郎はソファに腰を下ろし、上着を脱いだ。
動きはいつも通りだが、左肩のあたりに浅い裂傷が見える。
「まあな。硬化が間に合った」
軽く言う。
それが余計、由衣の眉をひそめさせた。
「軽く言わないでください。怪我は怪我です」
由衣は、消毒液をガーゼに含ませる。
距離が縮む。
その近さで、九郎の体温と、戦場の匂いではない――洗剤と、わずかに汗の混じった“生活の匂い”が分かる。
(……近い)
胸の奥が少しだけ跳ねる。
それでも、手は止めない。
「……少し、冷たいですよ」
「構わない」
由衣は、そっと傷口にガーゼを当てた。
九郎の身体が、わずかに反応する。
だが、声で痛みを訴えたりはしない。
「痛みますか」
「いや。それより――」
九郎は少しだけ肩を動かし、背中側を示す。
「この辺、手が届かない」
「……どこですか?」
肩甲骨の内側あたり。
自分一人ではどうしても見えにくい場所。
由衣は、言われた箇所を見て、息を呑んだ。
自分が触れなければならない距離だ。
「……失礼します」
そう前置きしてから、由衣は一歩近づく。
指先が、九郎の背に触れる。
硬い。
鍛えられた筋肉の感触がはっきりと分かる。
(……すごい……)
一瞬だけ、女としての感想が浮かんでしまう。
慌てて気を引き締め、ガーゼで傷を拭き、消毒液を馴染ませる。
「……ここ、少しだけ赤くなってます」
「問題ない」
「問題あります。ちゃんと、処置します」
由衣の声は、少しだけ強かった。
九郎は、口元をわずかに緩める。
「……頼もしいな」
「からかわないでください」
言葉は冷静なつもりなのに、耳が少しだけ赤い。
テープでガーゼを固定し、最後にもう一度確認する。
「……これで、大丈夫です」
「助かった」
短い言葉。
だが、きちんとした感謝だった。
由衣はほっと息を吐き、一歩下がる。
「無理、しないでくださいね」
「努力はする」
曖昧な返事に、由衣は苦笑した。
それでも――
自分の手が届かない場所を任せてもらえたことが、少し嬉しかった。
部屋には、消毒液の匂いと、静かな安心感だけが残った。
九郎は上半身裸のまま、ソファに腰掛けている。
怪我の処置は終わった。
だが、まだシャツには手を伸ばしていない。
由衣は救急箱を片付けながら、無意識に何度も視線を送ってしまっていた。
肩。
胸。
腹部へと落ちる陰影。
鍛えられた筋肉は、誇示するような派手さではない。
“生き延びてきた結果”として、そこにある筋肉だった。
(……だめ……)
分かっている。
それでも、目が離せない。
九郎が気づかないわけがなかった。
「……さっきから、見てるな」
低い声。
由衣はびくりと肩を揺らし、慌てて顔を背ける。
「み、見てません……!」
「嘘だな」
即答。
由衣の頬が、一気に熱を持つ。
「……ち、違います……その……怪我が……」
自分でも弱いと分かる言い訳。
九郎は、ゆっくりと立ち上がった。
一歩。
また一歩。
距離が縮まる。
由衣は後ずさりたいのに、足が動かない。
「……由衣」
「は、はいぃ……」
視線を合わせるのが怖い。
胸の奥で、心臓が自己主張を始めている。
九郎は、由衣の目の前で止まる。
近い。息遣いが分かる距離。
「……見るな、とは言わない」
「……っ」
「だが……そんな目で見られると」
由衣の顎に、指先が軽く触れる。
持ち上げるほど強くはない。
“逃げ道はある”と示しながら塞ぐ圧。
由衣は、思わず九郎を見る。
その瞬間――視界が反転した。
背中が柔らかい感触に沈む。
ベッド。
「……く、九郎さん……!」
声が上ずる。
九郎は片腕をベッドにつき、由衣に覆いかぶさるような姿勢になる。
重さはあるのに、怖くない。
それどころか――安心してしまう自分が、はっきり分かる。
「……見るだけで、済むと思ったか」
囁くような声。
由衣は、ぎゅっと目を閉じる。
「……す、すみません……」
「謝ることじゃない」
九郎の視線が、由衣を逃がさない。
「……随分、熱い目で見るじゃないか」
その一言で、由衣の心臓が大きく跳ねた。
「……あ」
九郎は、ほんの少しだけ距離を詰める。
吐息が触れそうな距離。
「嫌なら、今すぐ言え」
「……」
由衣は震える指で、九郎の腕を掴んだ。
逞しい筋肉。
確かな現実の感触。
「……嫌、じゃ……ありません……」
声は小さい。
けれど、確かだった。
九郎の口元が、わずかに緩む。
「……そうか」
それだけ告げて、それ以上は急がない。
夜は、まだ長い。
この先をどうするかは――
もう、言葉はいらなかった。
由衣は赤くなったまま、ただ九郎を見上げていた。
朝の大学構内は、いつもと同じはずだった。
講義前のざわめき。自転車が駆け抜ける音。
パンをかじりながら走る学生の姿。
どこにも、怪異も戦闘もない。
そういう場所だ。表向きは。
――なのに。
由衣は歩きながら、違和感を覚えていた。
(……なんだろう)
視線が、刺さる。
真正面からじろじろ見るわけではない。
一瞬こちらを見て、すぐに逸らし、耳元で何かをささやき合う。
「……?」
気のせいだと思おうとする。
だが、何度も続くと、無視しづらくなる。
(……私、何か変?)
服装はいつも通り。
メイクも、特別なことはしていない。
首元に、朝の風がひやりと当たる。
由衣は、無意識に肩をすくめた。
教室に入り、みなみの隣の席に座る。
「おはよ」
「……おはよ……」
みなみの返事が、微妙に遅い。
由衣は、首を傾げる。
「……どうかした?」
「……ちょ、ちょっと……」
みなみが、身を乗り出してくる。
声を落とす。
「……由衣……」
「……?」
みなみは、一瞬だけ周囲を確認してから、由衣の首元を指さした。
「……それ……」
「……え?」
由衣はきょとんとしたまま固まる。
「……首……」
「……首?」
みなみは、顔を赤くして、慌てて囁く。
「……痕……ついてる……」
「……え?」
一拍。
由衣は理解する。
(……あ)
血の気が、一気に引いた。
「……っ!?」
反射的に首元に手をやる。
確かに――隠しきれていない。
「ちょ、ちょっと由衣! 髪! 髪下ろして!」
みなみが半ば強引に、由衣の髪を引き寄せる。
「……こう……! 見えないように……!」
されるがまま、髪で首元を覆う。
(……や、やだ……)
顔が、熱い。
さっきまでの視線が、全部“それ”に見えてくる。
「……ご、ごめん……」
「謝るなって……!」
みなみは呆れたように、それでも小声で言う。
「……で?」
「……で、って……」
「……九郎さん?」
由衣は、机に突っ伏した。
「……はい……」
みなみが、天を仰ぐ。
「……もう……」
「……」
机に額を押しつけたまま、由衣は恨み節をこぼす。
「……あの人……なんで……あんな……」
言葉が続かない。
「……目立つ所……」
「……言った方がいいと思うよ……?」
「……言います……」
由衣は、赤くなったまま、小さく呻いた。
(……絶対……言う……)
――首元だけは、やめてくださいって。
講義開始のチャイムが鳴る。
由衣は髪を整えながら、小さく息を吐く。
(……大学、来るだけで……こんな緊張する日が来るなんて……)
隣で、みなみが肩を震わせている。
「……笑ってるでしょ」
「……ちょっとだけ」
由衣は、恥ずかしさと、どうしようもない現実を抱えたまま、黒板の方を向いた。
――日常は、戻った。
ただし、首筋に小さな痕を残したまま。
ほんの少しだけ、色のついた日常として。
―――――――――――――――――――――――
霊能探偵事務所
民間の対霊組織。観測機材等で霊障を感知し怪異戦闘に特化した職員を派遣する。
黒瀬 香澄(くろせ かすみ)
今回レイヴンと遭遇した女①。
現場対応担当。冷静で判断が早い。
白石 由紀(しらいし ゆき)
今回遭遇した女②。
分析・霊視担当。眼鏡。慎重派。
東條 ひなた(とうじょう ひなた)
元気な女格闘家。
フィジカル担当。口より先に身体が動くタイプ。
橘 恒一(たちばな こういち)
男・陰陽師。
古式寄りの術者。理屈っぽい。
室長:相馬 恒一郎(そうま こういちろう)
元刑事。
怪異と人間の両方を知っている現実主義者。
怪異
この世界の怪異は、
「恐怖」ではなく「認識」で生まれる」。
噂や都市伝説が“怖い話”の段階を越えて、
人々の間で 「いる前提で語られ、共有される」 ようになると――
世界の方が、その空席を埋めるように形を与えてしまう。
それは幽霊でも神でもなく、
人間の感情と物語が作った “自動で動く災害装置” のような存在。
だから怪異には“ルール”がある。
それは怪異自身の本能ではなく、
人間が与えた物語の仕様書だ。
元になった人間がいる場合も、全く存在しない場合もある。
しかし一度“現実の席”を得てしまえば、
「確かにそこにいる」という事実だけが残る。
――この世界の怪異とは、そういうものだ。
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