第10話 檻
闇試合――多額の金が動く、非合法な地下格闘試合。
法律の外側にあるくせに、そこに集うのは貧民でもチンピラでもない。
観客席には、スーツを着た政治家。
政府高官、闇組織の幹部、財界の怪物たち。
そして、そのすべてを見て見ぬふりをする警察上層部。
リングに上がるのは、表では名を呼ばれない格闘家たち。
喧嘩で生きてきた連中。
「戦闘屋」と呼ばれる連中も、時々そこに立つ。
命を賭けて殴り合う。
そのたび、上の席で数字が動き、笑い声が増えていく。
ここでは「正義」も「ルール」も、賭け率の前には意味を持たない。
―――――――――――――――――――――――
――その世界のどこかで、カチ、と金属の音が鳴った。
遠く離れた部屋で鉄の檻が軋んだ、そんな気がした。
あの夜、九郎が路地で見た少女は――その後も走るのをやめなかった。
夜の繁華街。
ネオンの光がビルの谷間を染め、下には酒と煙草と吐瀉物と汗が混ざったような臭いが溜まっている。
昼間には見えないものが、夜になると形を持つ街。
その匂いを嗅ぎつけるように、迅花は夜へ出た。
標的は、決まっていた。
路地裏で細々と薬をばらまく売人。
遊び半分でナイフを持ち歩き、弱い獲物を探すガキ。
「壊すこと」でしか飯を食えない連中。
彼女は走った。
アスファルトにスニーカーが打ちつけられ、街灯の光がそのたび跳ねる。
影から影へ。
音を殺して近づき、隙を見た瞬間に踏み込む。
跳ぶ。
蹴る。
殴る。
固いものが割れる音。
骨が鳴る振動が、拳や脛を伝って気持ちよく腕まで上がってくる。
何人も地面に転がした。
呻き声と、潰れた息と、逃げていく背中。
逃げ場を塞いで殴りつける瞬間――胸の奥で、何かが静かになる。
何も考えなくていい。
正しいか間違っているかもいらない。
目の前の「悪い奴」を倒す。それだけ。
その静けさが、怖い。
怖いのに、止められない。
「ちょっとやりすぎだろ……」
そんな声が、裏社会の端っこから漏れ始めるのにそう時間はかからなかった。
ただの女の喧嘩じゃない。
ただの不良の暴走でもない。
「妙な女がいる」
「夜に走るバケモンがいる」
「売り場を潰された」
「幹部が病院だとよ」
弱者に牙を剥く世界は、“異常な力”の匂いにも敏感だ。
そして“裏”は、面白がるより先に値踏みを始める。
使えるか。
売れるか。
金になるか。
ただのチンピラなら、「調子に乗ったガキ」で終わった。
だが迅花は、“稼ぎ頭”を潰した。
売り場を焼き、金の流れを止めた。
それだけで、彼女は「目を付ける理由」として十分だった。
「高校生くらいの女だってよ」
「身体、やべぇらしい」
「顔は……悪くねぇらしいぜ」
軽い笑い。
薄汚れた欲望。
それらが幾つも集まり、ひとつの評価へ収束していく。
――商品。
その言葉が、裏社会の帳簿に静かに打ち込まれた。
そして、“迅花”という存在が、彼らのリストに加えられた。
ーーーーーーーーーーーーーー
薄暗い部屋だった。
クラブの裏手。スタッフ用出入口ですらない、“裏口のさらに裏”に隠された小部屋。
床のコンクリートは、湿り気を含んでいる。
何度も酒や何かがこぼれ、そのまま拭かれずに乾いたのだろう。
生ぬるいアルコールと煙草と、古い汗の臭いが、床からゆっくり立ち上ってくる。
男たちが何人もいた。
椅子に深く座り込んで足を組むやつ。
壁にもたれて黙ったまま見ているやつ。
笑っているのに、目だけ冷えているやつ。
その視線が、一点に集まっていた。
部屋の中央、安い椅子に座らされている少女――迅花。
手足は縛られていない。
縛らなくても、逃げられないように配置されているだけだ。
出口という出口を塞ぐように、男たちが散らばっている。
それだけで、十分だった。
一番前に座る男が机に足を投げ出したまま、退屈そうに笑う。
「お姫様、やっと捕まったな。探したぜ、マジで」
軽い口調。
だが、目だけが笑っていない。
迅花は何も答えない。
睨み返すだけだ。
喉の奥に、まだ“噛みつきたい衝動”が残っている。
走り続けた夜の勢いが、まだ完全に冷めていない。
それが自分でも分かるからこそ、口を開きたくなかった。
男は肩をすくめる。
「怖がる必要はねぇよ。
……いや、少しは怖がった方が可愛いか?」
後ろの連中が笑う。
安い笑いだ。飲み屋で女をからかうみたいな調子。
だが人数と、ここが“安全じゃない場所”だという事実が、それだけで十分な圧になっていた。
別の男が、壁に貼られた写真を指で叩く。
フラッシュを焚いたような白飛び。
路地で誰かを蹴り飛ばす瞬間。
走りながら振り向いた、乱れたポニーテール。
――それは全部、迅花の姿だった。
「お前さ、調子乗ってたよな」
男は、写真からゆっくりと視線を移し、本人を見た。
「“悪い奴相手ならいいだろ”って顔して殴ってただろ」
「……………………」
沈黙は、肯定にも否定にもならない。
ただ、言い返す言葉が見つからなかった。
「正義感? 違うな」
男の声は、妙に柔らかい。
「“自分の力を持て余してる奴の顔”だ。
面倒くせぇけど……分かるよ、そういうの」
それは、優しい共感ではなかった。
「お前の気持ちも分かるよ」と寄り添う声ではない。
ただ、売り物を見て、どの棚に並べるかを決める商人の声。
男は指をパチンと鳴らす。
「――で、本題だ」
空気が静かに沈む。
「お前みたいな“分かりやすく強い女”がいるとな」
男は、わざとゆっくりと言葉を選びながら、楽しそうに続ける。
「裏は放っとかねぇんだよ。
闇試合、賭け試合って知ってるか?」
迅花の肩が、ほんの少しだけ揺れた。
テレビやネットのどこか端っこで、聞いたことがある単語。
同級生が冗談めかして話した都市伝説みたいな話。
でも今、その単語が、具体的な匂いと重量を持って迫ってきていた。
男はそれを見逃さず、口の端を吊り上げる。
「リングって言っても普通のじゃねぇ。檻だ。逃げられない。
観客は金持ち。賭けるのは金、賭けられるのは命」
指を一本一本、折るように言葉を重ねる。
「……そういう世界」
別の男が、乾いた笑い声を漏らす。
「頭ぶっ壊れた連中と、化け物みたいな奴しか出ねぇ。
でもな、そこに“若くて、女で、強い”新顔が出てきたら――」
男は、人差し指でゆっくり迅花を指した。
「盛り上がる。それだけで価値が跳ねる」
空気が、ひとつの方向へ固まっていく感覚。
迅花の胃が、ゆっくりと縮む。
「嫌ならどうする?」
本来なら、そこにそういう言葉が続くのが“人間の会話”だ。
だが、この場にはそれはない。
誰もそんなことを言わない。言わせる気もない。
リーダー格の男が、静かに口を開いた。
「出てもらう」
机に置いた手の甲を、指で軽く叩きながら続ける。
「勝てば……まあ、いろいろ考えてやるよ」
それは救いの言葉ではない。
ただ、鎖の先にぶら下げられた餌のようなもの。
そして。
「負けたら?」
迅花が、かすれた声で問うた。
一拍の沈黙。
笑いも止む。
空気だけが、じわりと重くなる。
男は、わざと明るく言った。
「分かりやすく言うとな――お前は“商品”だ」
口の中でその言葉を転がし、楽しむように続ける。
「体も、力も、人生も、誰かの物になる」
背後の男のひとりが、軽く舌打ちをして笑った。
「家族も、友達もな。写真? あるよ。住所も。
逃げ道は、もう無い」
それは、脅しの言葉として高めた声ではなかった。
あくまで「もう決まった事実」を、確認するように置かれた言葉だった。
迅花の背筋を冷たいものが這い上がる。
怒りがある。
悔しさがある。
吐き気がする。
なのに、脚の震えだけが止められない。
ここは、本当に“ゲームじゃない場所”だ。
誰も助けない。
大人も警察も正義の味方もいない。
ここは、「間違えたら戻れない世界」の向こう側。
男が、肩を叩くように軽い声で言う。
「むしろ感謝しろよ」
笑いながら、あくまでビジネスの調子で。
“お前の強さ”に値段が付いたんだ。
ただの学生なら、こんな舞台、普通は立てねぇ」
その「優しさを装った言葉」が、いちばん残酷だった。
笑い声。
煙草の匂い。
視線。
金の匂い。
世界が静かに決まっていく。
逃げ場のない現実だけが、ゆっくり心に沈んでいく。
迅花は、唇を噛んだまま何も言わなかった。
言葉にしたら、本当に折れてしまう気がしたからだ。
ーーーーーーーーーーーーー
九郎がその話を最初に聞いた時、動いたのは眉がひとつだけだった。
夜のバーの片隅。
色の抜けかけた木のカウンター。
安ウイスキーの匂いと、薄いジャズ。
天井近くの換気扇が、役に立っているのか分からない程度に煙草の煙をかき混ぜている。
情報屋が何気なく口にしたのは、いつものゴシップのひとつだった。
「最近ちょっと面白いのがいる。女子高生だ」
氷の転がる音が、グラスの中で小さく鳴る。
「夜で暴れてる。男数人まとめて黙らせる怪物」
九郎は、グラスをくいと傾けた。
「……怪物ね」
無関心そうな声。
ただ、その言葉と一緒に、瞼の裏に別の夜の光景が浮かぶ。
路地裏で、勢いだけで突っ込んでいこうとした、あの少女の横顔。
妙に強く、壊れた方向へ自分から走っていこうとする目。
(やっぱり止まらねぇか)
心の中で、苦い独り言が転がる。
あの時、「走る方向を間違えるな」と言えたかもしれない。
「お前の“その力”の落としどころを考えろ」と、少しだけ踏み込めたかもしれない。
言わなかった。
通りすがりで流した。
その“何もしなかった自分”が、今さら胸の奥をちくりと刺す。
数日後。
同じ情報屋が、違う声色で言った。
「――消えた」
氷がグラスの内側を叩いて、静かな音を立てる。
「誰が」
「その女だよ。
ちょっと前まで普通に“狩ってた”のに、急にだ。ぱったり」
「死んだのか?」
言葉だけは淡々としていた。
情報屋は、面倒くさそうに煙を吐く。
「それなら、まだ楽だろ。……“裏に沈んだ”可能性が高い」
九郎の指が、グラスの縁で止まった。
無言。
情報屋は、肩をすくめる。
「最近、変な連中が動いてる。表向きはただの不良チームだが、
後ろが臭ぇ。“見つけたら金になる”って顔してた」
「…………」
九郎は煙草を取り出さなかった。
代わりに、静かに息を吐く。
あの時、路地で見たガキ。
妙にまっすぐで、妙に壊れかけていた。
「馬鹿が」
誰に向けた言葉か、自分でもよく分からない。
自分か。
あの少女か。
こんな場を平然と作る連中か。
全部かもしれない。
だがもう、線は引かれてしまった。
“偶然見ただけのガキ”
“ただの通りすがり”
そういう距離感は、裏の連中が動いた時点で通用しない。
女、子ども。そのあたりを食い物にする手が伸びた。
それだけで、理由としては十分だった。
九郎は、カウンターに金を置いて立ち上がる。
ジャケットのポケットに手を突っ込みながら、吐き捨てるように呟いた。
「……やっぱ、嫌な予感ってのは当たるんだよな」
そして、動き始めた。
――迅花を探す為に。
――間に合うかどうかも分からないままに。
ひとつだけ確かなのは。
“レイヴンが、また狩り場に降りる”ということだけだった。
ーーーーーーーーー
崩れ落ちるときは、誰かに突き落とされて谷底まで一気に、なんて派手なものじゃない。
もっと静かで、もっと薄く、もっと残酷な形で始まる。
――移送される車の中。
窓には濃いスモークフィルム。
外の街灯が流れているのは分かるが、景色は歪んだ光の帯にしか見えない。
世界と繋がる線が、全部切られていた。
後部座席で、迅花は座らされている。
手錠も足枷もない。
けれど、自由はどこにもなかった。
両脇に座る男が二人。前に運転と助手席。
車内の空気は狭く、煙草とファブリーズと汗が混ざっている。
隣の男が、スマホを弄りながら無造作に言う。
「顔、もうちょい綺麗に撮っとけよ。宣伝用に使うんだから」
反対側の男が笑う。
「動画もあるぞ。こないだの“お掃除ショー”。
動きいいし、売れるわコレ」
笑いながら話しているのに、画面は彼らの間だけで閉じている。
本人には、一切見せない。
“本人の存在”より、“コンテンツとしての彼女”の方が彼らにとっては先にある。
迅花は、歯を食いしばった。
悔しい。
腹が立つ。
怖い。
全部あるのに、喉まで来た言葉がそこで止まる。
口を開いた瞬間――
「自分が今、“商品だ”という前提を認めてしまう気がした」。
だから何も言えない。
言えない自分が、また悔しい。
車内には、薄くBGMの音が流れていた。
チャラついた歌詞と軽いビート。
その合間を縫うように、男たちの事務的な会話が飛び交う。
「オッズどうする?」
「最初は負け濃厚で煽って、途中から勝てそうに見せりゃ倍跳ねる」
「ガキだから痛がる絵が綺麗だよな。派手に泣きゃ、配信で海外の連中が喜ぶ」
声色に、悪意すら薄い。
ただの“仕事”だ。
その淡々とした温度の低さが、逆に残酷だった。
後ろの席にいる迅花は、空気のように扱われる。
そこに“人”がいるという前提が、会話のどこにもない。
「……やめろよ」
声が出た。
自分でも驚くくらい、小さな声で。
前の座席の男が一瞬だけ振り返る。
その目に動いた感情は、「面倒」と「無関心」だけ。
「静かにしてれば、もっと楽だよ」
それだけ。
それだけ言って、顔を前に戻す。
それで会話は終わりだった。
迅花は――“無視される”という行為が、ここまで冷たいものだと知る。
怒鳴られる方が、まだ人扱いだ。
殴られる方が、まだ存在を認められている。
今ここにいるのは、戦力として数値化され、
性能として評価され、
値札を貼られた “生きた商品”。
人間としての輪郭が、少しずつ削り取られていく感覚。
息が浅くなる。
胸が痛い。
体は強いのに、心だけが妙に細くなっていく。
――脳裏に浮かんだのは、いつものトラックの音。
朝に聞こえた集配車のエンジン音。
コンビニの前で笑っていた友達。
家で出された夕飯の味噌汁の湯気。
なんでもない日常だったものが、今は信じられないくらい遠い。
(もう、戻れない)
そう思った瞬間、喉の奥が熱くなった。
泣くな。
泣いたら壊れる。
壊れたら、完全に“モノ”になる。
頭では分かっているのに――
目頭が勝手に熱くなる。
拳を握る。
爪が掌に食い込む。
痛みで、辛うじて自分を繋ぎ止める。
車は停まらない。
闇の奥へ、さらに奥へと進み続ける。
「ステージの日程だけどよ、観客の国の時間帯合わせて深夜な」
「はいはい、あの子“持つ”かな?」
「持たなきゃそれはそれで盛り上がる。
壊れてく様も需要あるし」
笑い声。
迅花は――初めて、“心だけが自分より先に擦り切れていく”感覚を知った。
強い体があるのに。
殴れば勝てる腕があるのに。
それでも届かない。
ここは拳じゃ壊せない場所だ。
異能も、拳も、筋肉も、支えにならない世界。
ただ静かに、ゆっくり、静かに、魂だけを削る場所。
「……助けなんか、来ないか」
かすれた声で、心の中だけで呟く。
その小さすぎる希望さえも、すぐに自分で踏み潰す。
期待して壊れるより――最初から諦めた方が楽だ。
そう思おうとしても。
胸の奥で、微かに、誰かの背中がちらつく。
路地裏で、無駄に落ち着いた顔で自分を止めた、小柄な男。
“現実だけ”を見ていた背中。
――何で今、思い出すんだよ。
それすら、苦しかった。
車は、闇の奥へ消えていく。
少女の“人間としての輪郭”を削り取りながら。
――――――――――――
檻の向こうは、熱気に満ちていた。
笑い声。
怒号。
酒の臭い。
床に捨てられた紙コップや空き缶を踏む、ぐしゃりという音。
命のやり取りを見世物にする場所のくせに、不思議と“日常の延長”みたいな空気があった。
――だって、誰も怯えていない。
檻の中で殴り合っている男たちでさえ、顔を歪めているのは痛みだけじゃない。
「外して賭けを台無しにしたくない」
「ここでいい絵を見せれば、次も呼ばれる」
そんな打算が、拳の握り方にも覗いていた。
殴られる側も、殴る側も、「痛い」と叫ぶためじゃなく「賭け金」を背負って戦っている。
負けたら終わり。
勝っても、またどこかで使われ続ける。
その諦めと覚悟が、背骨の中に染み込んでいた。
「……なんだよ、コレ……」
頭の奥が、冷たい湖に沈められていくみたいだった。
背中を乱暴に押される。
通路の鉄柵に肩をぶつける。
金属の冷たさが、骨に響いた。
痛い。
でも、その痛みよりも周囲から向けられる視線のほうが、ずっと痛かった。
見る。
値踏みする。
笑う。
恐怖からではない。
純粋に、面白がっている。
期待している。
「マジで女じゃねーか」
「映えそうだなぁ、これは」
「あの体なら……何ラウンド持つかな」
言葉が突き刺さるたび、体温が削られていく。
怒鳴られて殴られる、分かりやすい恐怖じゃない。
もっと冷たい種類の恐怖――。
“自分という人格が、もうどこにも無い恐怖”。
ここには、「鷹宮迅花」という名前は存在しない。
あるのは、ラベルだけ。
──【賭け試合に出る女】
──【売れる商品】
──【壊しても良い玩具】
それだけ。
通された控え室は、色の無い箱みたいだった。
壁はくすんだ灰色。
床は厚いゴムマット。所々黒く染みついた跡がある。
その上に、安っぽい椅子が一つ。
壁際には、血のシミがついたタオルが無造作に丸めて放り込まれている。
匂いがした。
鉄錆と、乾いた汗と、古い消毒液が混ざった匂い。
人間が“道具として使われた後”だけが残った空気。
――吐きそう。
喉が上下し、唾を飲み込むだけで精一杯だ。
「準備しとけよ」
そう言い捨てて、扉が閉まる。
カチャ、と錠が落ちる音が、狭い部屋に響いた。
その音が、やけに静かで、やけに大きい。
その瞬間、ようやく理解する。
(逃げられない)
ここへ来るまで、恐怖と現実はまだ噛み合っていなかった。
怒れば戦えた。
走れば逃げられた。
「何とかなる」と身体が勝手に思い込んでいた。
だが今は違う。
足がすくんで動かない。
背中を冷たい汗が伝う。
手のひらはじっとりと湿っているのに、指先だけが冷えて感覚が薄い。
息が、浅い。
(勝てばいい、勝てばいいだけ……)
それは“戦略”ではなく、ただの逃避だった。
さっき見せられた試合の残像が蘇る。
骨が変な方向に曲がる音。
観客が牙をむくみたいに叫ぶ声。
血しぶきが上がった瞬間、歓声が跳ね上がる異様な空気。
勝っても壊れる。
負けたら終わる。
そして何より――
“勝っても負けても、自分には「選ぶ権利」がない”。
(なんで……こうなった?)
答えは分かっている。
自分が夜の街を走り回ったから。
力に酔って。
強いふりをして。
ヒーローの真似事をして。
それでも。
(こんな所まで落ちるなんて、思わなかった)
胸がきゅっと縮まる。
震えを止めるために自分の腕を抱きしめる。
けれど、その腕さえも頼りなく感じる。
その時、外のざわめきが一段階跳ね上がった。
歓声が、変わる。
さっきまでの雑多なノイズではない。
期待と興奮が混ざった、鋭い音。
空気の質が変わる。
誰かが入ってくる。
直感で分かる。
“格が違う奴が来た”。
複数の足音。
そのうち一つだけ、床を踏む重みが違う。
近づいてくるたび、足元のゴムがわずかに沈む感覚が伝わる気がした。
扉の向こうで、男たちの口笛が聞こえる。
金網を叩く音が混ざる。
「来たぞ……」
「ああ、今日の目玉だ」
牢の隙間から見える影。
巨大な背中。
光を弾くような滑らかな肌。
異常に太い腕。
空気が、一瞬で重くなった。
呼吸が止まる。
怖い。
理屈じゃない。
“生き物としての直感”が全身で警鐘を鳴らした。
(……勝てるわけがない)
震えそうになる膝を、必死に押さえ込む。
唇を噛んで、声にならない息を飲み込む。
強がりの言葉は、もう出てこない。
静かに、じわじわと心だけが沈んでいく。
そして――檻の前で、その男が立ち止まった。
鉄の格子越しに見上げる。
最初に目に入ったのは、肩幅。
壁のように分厚い。
脂肪のたるみではなく、積み上げた鉄板のような筋肉。
腕。
「鉄腕」と呼ばれる所以が、一瞬で理解できた。
異様に発達した前腕は、皮膚を膨張させ、
それでも収まりきれず、不自然な膨らみを描いている。
拳を軽く握っただけで、筋肉の線がうねり、皮膚の下で何層もの束が動くのが分かった。
黒い肌は、照明を受けて鈍く光る。
その厚みは、殴られる側から見れば壁であり、逃げ場のない天井でもある。
そして、その顔。
笑っている。
優しい笑みじゃない。
怒っている顔でもない。
子供のおもちゃ売り場で、どれから壊そうか選んでいる男の笑みだった。
視線が絡んだ瞬間、膝の裏がひやりとした。
(……こいつ、やばい)
理由はいらない。
身体が勝手に理解してしまう。
肉体より先に、「生存本能」が震えている。
鉄腕は檻の前で止まり、顎を少し傾けた。
「……これか?」
低く、よく通る声。
それだけ。ただそれだけなのに、
“品定めされている動物”になったような屈辱感が刺さる。
背後の男たちが笑う。
「そうそう、それそれ」
「お前の今日の相手」
「壊しすぎんなよ? 商品だ」
またその言葉。
“商品”。
胸の奥で、何かがかすかに軋む。
鉄腕の目が細くなる。
興味深そうに、じっとこちらを見る。
値段を見る。
質を見る。
どこから壊すか、考える。
そんな視線――。
「……大丈夫か?」
不意を突くような問いが落ちた。
一瞬だけ、胸の中に小さな希望が浮かぶ。
けれど、すぐに続いた言葉が、それを踏み潰す。
「ビビりすぎると、試合がつまらなくなる」
柔らかい声色で、残酷なことを言う。
「“どう壊すか”選ぶ楽しみが減るからな」
笑顔のまま。
一滴の悪意も滲ませない。
ただの事実を、優しく説明するような口調。
喉が締まる。
空気が入らない。
拳が震えていることに気づいたのは、
鉄腕がそれを見て、楽しそうに眉を上げたからだ。
「……ああ、いいじゃねぇか」
心底嬉しそうだった。
“怖がらせる価値がある”――そう判断された目。
鉄腕は格子を掴んで、軽く握った。
キィ……と金属が悲鳴を上げる。
太い指が、鉄を“物”として扱っている音。
客席から歓声が沸き上がる。
「おい」
鉄腕が、子供に言い聞かせるみたいな調子で言った。
「逃げるなよ?」
その一言で、心臓が跳ねる。
逃げる。その選択肢は――
最初から、ない。
檻。
観客。
見張り。
賭け金。
この世界全体が、“逃げない前提”で設計されている。
鉄腕は笑う。
「逃げる奴、嫌いなんだ。折る場所、増やさなきゃいけなくなるからさ」
笑顔のまま。
暖かい声色のまま。
静かに言う。
「痛いの、長くなるぞ?」
背筋が凍る。
怒りも誇りも言い訳も、全部消える。
胸に残るのは、ただ一つ。
“怖い”。
心臓が握られたみたいに収縮する。
手足が冷たくなる。
視界の端が暗くなっていく。
これが、“化け物”だ。
「……試合、楽しみにしてる」
鉄腕が踵を返す。
足音が遠ざかる。
鉄格子が再び閉まった。
重い音が響き、世界がまた密閉される。
歓声はまだ遠い。
けれど、恐怖だけが内側に残り、
胸の奥でじわじわと腐り始めていた。
――逃げられない。
――勝てない。
――壊される。
初めて、迅花の中で、完全な“敗北”がはっきりとした輪郭を持った。
ーーーーーーーーーーーー
鉄の扉が開く音は、もう何度も聞いたことがあるはずなのに――
今回は、違った。
耳の奥でこだまして、頭蓋の内側を何度も叩く。
心臓を掴んで、きつく絞り上げるような音に聞こえた。
「次、ショータイムだぁぁ!!」
司会役の男が、マイクもなしに叫ぶ。
喉が潰れかけているのに、それでもよく通る声。
歓声が爆発する。
熱狂。
悪意。
期待。
欲望。
全部が混ざり合って、空気を油っぽく重くする。
檻の外は、眩しいほどの光だった。
照明が、リングを真上から白く照らす。
柵の外には、ぎっしりと観客。
顔が見えないほどの数の目が、こちらを見ている。
笑っている。
酒を飲んでいる。
賭け金をやり取りしている。
――誰も、彼女を“人”として見ていない。
背中を強く押される。
柵の内側へ敷居をまたぐ。
足元のマットが、わずかに沈む。
足が震えた。
「膝が笑う」という言葉がある。
今なら理解できる。
これだ、と。
踏み出そうとしても、脚が「嫌だ」と拒否する。
筋肉と骨が、全力でここから遠ざかろうとしている。
リングの中央に、鉄腕が立っていた。
笑顔。
優しい顔。
観客の声に応えて、手を軽く挙げている。
絞首台で縄を触りながら、今日の空模様の話でもしている処刑人のような顔。
鉄腕が、こちらを見る。
目が合う。
呼吸が止まる。
(無理だ)
言葉にはならない。
音にもならない。
喉の奥で、ただ思考が潰れたみたいに繰り返される。
(無理だ 無理だ 無理だ 無理だ)
胸の奥で、理性の声が小さく折れていく。
逃げ道を探す。
反射的に周囲を見回す。
四方は金網。
その外には、腕組みして待っている荒くれたち。
当然のように、出入口には太い腕の男たちが立っている。
――逃げ場は、どこにもない。
(ヤバい……)
分かっている。
この男は、“勝つために戦う”んじゃない。
“壊すために戦う”。
それを仕事として、楽しんでさえいる。
観客席のどこかから声が飛ぶ。
「今日の嬢ちゃん、可愛いじゃねぇか!」
「顔は残せよ、鉄腕ー!」
「壊すなら脚からいけ! 痛ぇらしいぞ!」
世界が笑っている。
自分だけが、笑えない。
呼吸が短くなる。
肩で息をしていた。
胸が苦しい。
視界が狭い。
(落ち着け……落ち着けって……!)
自分に言い聞かせる。
でも――身体は言うことを聞かない。
怖い。
ただ、それだけしかない。
戦って勝つ、とか。
誇りを守る、とか。
弱い奴を守る、とか。
そんな綺麗な言葉じゃ上塗りできないほどの、むき出しの恐怖。
鉄腕が一歩、近づく。
それだけで観客が歓声を上げる。
足裏に伝わる、わずかな振動。
心臓の鼓動と重なって、リズムがぐちゃぐちゃになる。
(……誰か)
心の奥で、小さな声が生まれる。
助けて。
誰でもいい。
お父さんでも、
お母さんでも、
あの時、自分を止めた男でも。
誰でもいいから――。
怖い。
怖い。
怖い、怖い、怖い――!
鉄腕が言う。
「大丈夫。死にはしないよ」
優しい声で。
その一言が、決定打になった。
視界がぐらりと歪む。
膝が折れそうになる。
“死なない程度には壊す”と確信している声。
命より軽く、“壊される”ことを前提にした言葉。
逃げたい。
守りたい。
でも――身体は震えるだけ。
司会が叫ぶ。
「――試合開始ッ!!」
鐘が鳴る。
甲高く、逃げ場のない音。
その音が、
迅花の心を――
折った。
――――――――――――
プロの喧嘩屋。地下格闘界では名の知れた黒人の大男。
筋骨隆々で、特に前腕の発達は異様。
良い意味でも悪い意味でも「プロ」。
リングの上では相手を“壊すこと”に徹するが、私生活では愛妻家。
だからこそ、仕事と日常を完全に切り離している。
リングの中にいるのは、「壊すこと」だけを担当する怪物だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます