第7話 再開 3

R-15 展開 正直これがやりたかった。


 


夜の由衣の部屋は、静かだった。

外を走る車の音も、隣室の生活音も、ここまではほとんど届かない。

世界から、そっと切り離されたみたいな静けさ。

 

小さなワンルーム。

ワンピースが掛けられたハンガーラック、本の少ない本棚、コンパクトなテーブル。

物は多くない。

それでいて、どれも「適当にそこにある」わけじゃない。

畳まれたブランケット、整えられたクッション、テーブルの上のコースター一つまで、持ち主の性格がそのまま滲んでいた。

――ちゃんと日常を生きている人の部屋だ、と思う。

 

九郎は玄関に立ったまま、無意識に視線を巡らせた。

侵入口。退路。死角。

その全てを確認する癖は、もう消せない。

ここが安全か危険かを測っているわけじゃない。

ただ、身体が勝手に「そういう見方」をしてしまう。

 

「……どうぞ」

 

少し緊張の混ざった声。

それでも、逃げ腰ではない。

スリッパを勧める仕草もぎこちないが、拒絶の気配はどこにもなかった。

 

九郎は靴を脱ぎ、部屋に上がる。

狭い玄関を抜けて、ワンルームの真ん中まで進む。

距離がほんの数歩縮まっただけなのに、由衣の胸の鼓動が、一段高くなった。

不安は、ある。

それでも、怯えではない。

 

「……狭くて、すみません」

 

「十分だ」

 

短い返答。

それ以上の評価もしない。

それがかえって、由衣を安心させた。

この人は、余計なことは言わない。

いいとも悪いとも言わず、「ここでいい」とだけ受け止める。

由衣の肩から、少し力が抜けた。

 

 

――――

 

 

テーブルを挟んで、二人は座った。

ケトルから注いだ紅茶は、まだ湯気を立てている。

ティーバッグの紙のタグが、カップの縁で小さく揺れた。

 

「……九郎さん」

 

「ん」

 

「今日は……泊まっていきますか?」

 

問いかけた瞬間、由衣は視線を伏せる。

でも、声ははっきりしていた。

消え入りそうな囁きではなく、「自分で選んで口にした言葉」だった。

 

九郎は、一瞬だけ由衣を見る。

視線の奥で、何かを素早く測る。

表情の影。呼吸の浅さ。膝の上で重ねた指先の強張り。

そこにあるのは、迷いと、覚悟と――少しの期待。

 

(……一時の感情だけじゃない顔だな)

 

衝動で飛び込んでくる目じゃない。

未来を約束してくれと縋る目でもない。

 

「……俺は、落ち着く場所を持てない人間だ」

 

ゆっくりと、確認するように言う。

 

「……はい」

 

由衣は、指先に力を込める。

 

「明日には、別の場所にいるかもしれない」

 

「……分かってます」

 

即答だった。

 

由衣は、ぎゅっと手を握る。

それは自分を奮い立たせるためでもあり、覚悟を形にするためでもあった。

 

「それでも……」

 

喉が小さく鳴る。

それでも、言葉は止まらなかった。

 

「帰る場所の一つで、いいんです」

 

重い言葉ではなかった。

「全部を捧げて」と縛る言葉でもない。

ただ――この人の帰り道のどこかに、自分の部屋が、ちょっと引っかかっていてくれたら。

その程度の、けれど由衣にとっては十分すぎる願いだった。

 

九郎は、ゆっくりと息を吐く。

 

(……ちゃんと現実を見てる)

 

夢見がちな目ではない。

「一緒にいてくれれば何でもいい」と言う甘さもない。

この男が何者で、どこに立っていて、どこまでしか踏み込ませてくれないか。

それを理解した上でなお、そばに居たいと口にしている。

 

「……据え膳を断るほど、俺は聖人じゃない」

 

「……っ」

 

遠回しな言い方なのに、意味ははっきりしている。

由衣の頬に、わっと熱がこみ上げる。

耳まで赤くなり、視線がさらに落ちる。

 

九郎は、かすかに笑って続けた。

 

「今夜は、ここにいる」

 

「……はい」

 

今度の返事は、とても小さかった。

けれど、嬉しさを隠しきれない揺れが混ざっていた。

 

 

――――――

 

 

灯りを落とした部屋は、窓の外の街灯と、家電の小さなランプの光だけが残っていた。

薄暗がりの中で、シーツの皺が、二人の呼吸の軌跡みたいに乱れている。

 

しばらくの間、世界はベッドの上で完結していた。

名前を呼ぶ声も、布が擦れる音も、熱を帯びた肌に触れる指先の感覚も――

全部が、過去じゃなく「今」のものとして積み重なっていく。

 

時間の流れが、ゆっくりと現実に戻ってきた頃。

由衣は、九郎の胸に顔を埋めたまま、しばらく動かなかった。

呼吸はまだ少し速い。

それでも、そこにあるのは「恐怖の名残」ではなく、別種の高鳴りだった。

 

悪夢じゃない。

あの、暗い倉庫の記憶でもない。

胸の下から聞こえてくる鼓動は、確かに今ここにいる人間の音だ。

 

由衣は、張りのある胸板に頬をすり寄せ、ゆっくりと目を閉じた。

九郎の指が、髪に触れる。

梳くような、撫でるような、リズムを刻むような動き。

優しいが、迷いはない。

「触れてしまっていいのか」と問う手ではなく、「触れると決めた」手だった。

 

「……怖くなかったか」

 

静かな問い。

 

「……少しだけ……」

 

正直な答えが、暗がりに溶けていく。

 

「でも……」

 

由衣は、顔を上げる。

部屋は暗いのに、すぐそばの九郎の表情だけは不思議とよく見えた。

仕事の顔とも、昼の顔とも違う。力が抜けた柔らかい目をしている。

 

「……九郎さんが、ここにいるって……分かってたから」

 

その一言に、九郎の喉がわずかに動く。

 

守ると約束したわけじゃない。

言葉で「大丈夫だ」と繰り返したわけでもない。

それでも、「ここにいる」と認識されている。

その事実が、九郎の中のどこか――張り詰めた場所に、静かに触れた。

 

「……無理はするな」

 

「……してません」

 

由衣は、ふっと微笑んだ。

 

「……自分で、選びました」

 

その言葉は、ゆっくりと、けれど迷いなく落ちていく。

彼に拾われた“被害者”としてじゃない。

助けてもらった過去に縋る立場としてでもない。

「自分で歩いて、自分で選んで、ここにいる」

その確認だった。

 

由衣はもう一度、胸に顔を埋める。

今度は、どこにも躊躇がない。

 

鼓動。低く、一定で、力強い。

その音が、すぐ耳の下で鳴っているだけで、胸の奥に溜まっていた焦りや不安が、少しずつ溶けていく。

 

「……すごい……」

 

掠れた声で、由衣が呟く。

 

「何が?」

 

「……身体……」

 

指先が、そっと九郎の胸元をなぞる。

硬い。

鍛えられた筋肉が、薄い皮膚の下でなめらかな起伏を描いている。

飾り気のない、ただ「生き延びてきた」身体。

 

九郎の身体は、服を着ている時には目立たない。

脱ぎ捨てられた布の下から現れたそれは、コンパクトな体格に詰め込まれた戦場の痕跡だった。

余計な膨らみはなく、削れるところは削れている。

山の稜線のような筋肉のラインは、レイヨウが絶壁を駆け上がる時の、無駄のない美しさを思わせた。

 

由衣は、その感触に深く息を吐く。

 

「……安心します……」

 

九郎は何も言わず、由衣の背に腕を回した。

包み込む、というより「支える」抱き方。

逃げ場を塞ぐのではなく、「ここにいていい」と位置を決めるような安定。

由衣は、その中で小さく身じろぎし、さらに身を寄せる。

肌が触れ合うか、触れ合わないかの距離。

呼吸と鼓動だけが、互いの存在を確かめ合っている。

 

「……忘れられない恋って、きっと……こういうのなんだと思います」

 

由衣の声は、少しだけ震えていた。

 

「無理に、掴まなくていい恋」

 

追いかけて、拘束して、縛り付ける恋じゃない。

未来を約束させて、代わりに日常を差し出すような恋でもない。

ここにあるのは、「今、同じ場所にいる」ことを大事にする距離感だった。

 

九郎は、由衣の肩に静かに手を置く。

強くも、弱くもない。

いつでも離せるし、いつまでも離さなくてもいい中途半端な力加減。

由衣は、逃げなかった。

むしろ、その手のひらの温度に、少しだけ身体を預ける。

 

明日は休日だ。

早朝に叩き起こされる予定もない。

誰かからの連絡も、今のところ、ない。

 

約束はしない。

未来の話も、しない。

「今夜はここにいる」と決めた、その範囲だけでいい。

 

九郎は、そういう夜が嫌いじゃなかった。

 

 

――――――

 

 

どれくらい時間が経ったか、時計を見ていないから分からない。

九郎は、由衣の背に手を置いたまま、ゆっくりと呼吸を整える。

由衣の呼吸も、少しずつ落ち着いてきた。

それでも、完全な眠りに落ちてはいない。

 

明日は休み。

ここが今夜の終点だ。

帰る場所を持たない男と、

それを理解したうえで、なお「ここにいてください」と言った女。

 

由衣は、逞しい身体に、ささやかな重さで身を預ける。

九郎は、その重さを拒まず、腕の中に留めておく。

 

夜は、まだ深い。

窓の外の街灯は変わらず灯っていて、遠くの道路には、まばらに車の光が流れていく。

ここだけが、時間から少し外れた場所みたいだった。

 

カーテンの隙間から漏れる薄い光が、ベッドの上に淡い影を落とす。

二つの影が重なり、わずかに揺れ、また落ち着く。

時計を見る必要はない。

ただ、呼吸に合わせて、ゆっくりと夜が進んでいく。

 

 

 

 

カーテン越しの白い明るさの中、やがて浴室の方から一定のリズムが聞こえ始めた。

シャワーの音。

水が壁や床に当たって跳ね返り続ける、途切れない音。

静かな部屋の中では、その音が思っていた以上に存在感を持って響く。

 

(……っ)

 

キッチンに立ちながら、フライパンを持つ由衣の手が、一瞬止まった。

昨夜まで、この部屋には一人分の生活音しかなかった。

歯磨きの音も、シャワーの音も、コンロに火を点ける音も、全部「自分の音」。

今は――浴室の向こうに、別の生活音がある。

 

九郎がシャワーを浴びている。

その事実を意識しただけで、胸の奥が、きゅっと縮まる。

 

「……」

 

由衣は、何でもないふりをしようとした。

卵を割り、ボウルに落とす。

殻を掴んだ指先が、ほんの少し震える。

フォークで溶きながら、トースターにパンを入れ、ダイヤルを回す。

いつもの朝食。

手順は身体が覚えているはずなのに、どこかぎこちない。

 

シャワーの音が、少し強くなった気がして、由衣は思わず背筋を伸ばした。

 

(……な、何考えてるの……)

 

自分で自分に小声で突っ込みたくなる。

ただシャワーを浴びているだけ。

それ以上でも、それ以下でもない。

なのに、昨夜の体温や、腕に閉じ込められた感覚が、簡単に思い出されてしまう。

 

フライパンに油を引きながら、無意識に頬に触れてみる。

熱い。

 

(……落ち着いて……)

 

ジュッ、と卵が焼ける音。

その現実的な音が、思考を引き戻してくれる。

ベーコンを並べ、菜箸を動かし、サラダを盛る。

いつもより丁寧に盛り付けている自覚があって、それがまた恥ずかしい。

 

シャワーの音が少し弱まる。

由衣の心臓が、それに合わせて跳ねる。

 

(……出てきたら……)

 

何て声をかければいいんだろう。

「おはようございます」でもない。

「シャワー、どうでした?」でも、絶対におかしい。

余計なことを考えれば考えるほど、手元が忙しくなる。

熱したフライパンから、こんがり焼けたベーコンの匂いが立ちのぼる。

 

パンが焼ける香りと、コーヒーの香り。

嗅ぎ慣れたはずの朝の匂いが、今日は少しだけ特別に感じた。

 

シャワーの音が止まる。

 

静寂。

ほんの数秒なのに、やけに長い。

由衣は、背を向けたままトースターを開け、パンを取り出す。

カチャ、と小さな金属音が響く。

 

「……」

 

心臓の音がうるさい。

それでも――キッチンには、確かに「朝の匂い」が満ちていた。

焼けたパン。

卵とベーコン。

立ち上るコーヒーの湯気。

 

日常の匂い。

 

由衣は、その中で、少しだけ落ち着きを取り戻す。

 

(……それだけでいい)

 

今は、それでいい。

 

 

――――――

 

 

朝食の後片付けを終えると、部屋の中には、名残惜しい静けさが残った。

使い終わった皿がシンクの中で水を弾く音。

マグカップの底から立ち上るかすかな香り。

さっきまでそこに座っていた九郎の気配が、まだソファのクッションに残っている気がした。

 

「……散歩、行きますか」

 

由衣が、おそるおそる、けれど嬉しそうに言う。

 

「いいね、行こう」

 

九郎は、当たり前みたいに応じた。

 

二人は並んで外に出る。

休日の午前中。

住宅街は、まだ眠気を少しだけ引きずっている。

犬を連れて歩く人、

洗濯物を干すベランダ、

遠くで子どもの笑い声。

 

由衣は歩きながら、ときどき九郎の横顔を盗み見る。

距離は、近い。

手を伸ばせば触れられる。

でも、触れない。

その「触れない距離」が、今の由衣にはちょうどよかった。

 

「……九郎さん」

 

「ん?」

 

少し間を置いて、由衣は言う。

 

「昨日、少しだけ話してくれましたよね。

 お仕事のこと……」

 

九郎は前を見たまま、小さく息を吐く。

 

「大した話じゃないぞ」

 

「……でも、聞きたいです」

 

踏み込みすぎない声。

けれど、「知りたい」とはっきり言う距離感。

 

九郎は肩をすくめた。

 

「元は自衛隊。普通に勤めて、色々あって辞めた。……それからは……旅だな」

 

「あちこち回って、そうしてるうちに変なのに当たった」

 

「変なの……?」

 

「この世の裏側ってやつ」

 

言い方は軽くても、笑ってはいない。

 

「魔術とか、怪物とか、異能者とか。表に出ない連中」

 

由衣の足取りが、わずかに遅くなる。

 

「……本当に、あるんですね」

 

「あるある。知らない方が幸せだけどな」

 

由衣は、しばらく黙って歩いた。

 

「……九郎さんは……」

 

「流れで首突っ込んだだけだ」

 

言い切る前に遮られる。

 

「困ってるのを見たら放っとけなくてな」

 

「……」

 

「気づいたら、街の揉め事から、人に見せられないのまでやるようになってた」

 

由衣の胸が、きゅっとなる。

 

「……怖くないんですか」

 

「怖いぞ」

 

即答だった。

 

「だから準備するし、無茶はしない」

 

少し間を置き、ふと続ける。

 

「……それに」

 

九郎は、ちらりと由衣を見る。

 

「由衣みたいに、ちゃんと戻れる場所がある奴を見るとさ」

 

由衣は、足を止めそうになって、ぎりぎりで堪えた。

 

「……はい」

 

「まあ……悪くない仕事だったって思える」

 

胸の奥に、あたたかいものが広がる。

自分が「助けられた側」で終わっていないことが、少し誇らしい。

 

「……私、九郎さんの世界に踏み込むつもりはありません」

 

九郎は、少し意外そうに眉を上げる。

 

「ほう」

 

「でも……」

 

由衣は前を向いたまま、言葉を繋げる。

 

「帰ってくる場所の一つでいられたら……それで、いいです」

 

九郎は、少しだけ歩調を緩めた。

 

「……それで十分だ」

 

砕けた声。

でも、誤魔化しはない。

二人はまた並んで歩き出す。

裏の世界と、日常の世界。

その境目で、今は同じ速さで。

 

由衣は、小さく笑った。

 

(……この人は、ちゃんと帰ってくる)

 

そう思えるだけで、この散歩は十分だった。

 

 

――――――

 

 

散歩のあと、二人は小さなカフェに入った。

住宅街の角にある、昔ながらの店。

ガラス越しに午後の光が差し込み、店内は静かで、時間がゆっくり流れている。

 

由衣は窓際の席に座り、カップを両手で包んだ。

温かいコーヒーの湯気が、細く立ち上り、すぐに空気に溶けていく。

 

(……こういう時間、久しぶり)

 

向かいの九郎は、背もたれに軽く体を預けている。

肩から力が抜けていて、“仕事の顔”の時とは明らかに違う。

ただ、コーヒーを飲みに来た男の顔。

その「普通さ」が、由衣にはたまらなく尊かった。

 

その時。

 

テーブルの上で、九郎のスマートフォンが短く震えた。

音は鳴らない。

けれど、その振動一つで――由衣には、何の連絡か、だいたい分かってしまう。

 

(……来たんだ)

 

九郎は、画面を見下ろす。

一拍。

目の奥の色が、静かに切り替わる。

 

差出人は、七里。

仕事の連絡。

文面は短く、説明はない。

それだけで、十分だった。

 

九郎は、小さく息を吐き、視線を上げる。

 

「……悪い」

 

「……お仕事、ですか」

 

由衣の声は、驚くほど落ち着いていた。

 

「そうなる」

 

「……」

 

九郎は、少し言い淀む。

迷いを見せるのは、彼にしては珍しい。

 

「今日は……休みのつもりだった」

 

「……はい」

 

「だから……」

 

言葉が続かない。

 

由衣は、ふっと笑った。

柔らかく、穏やかに。

 

「大丈夫ですよ」

 

「……」

 

「九郎さんの世界、そういうものだって……分かってます」

 

強がりじゃない。

寂しさは確かにある。

それでも、それを相手にぶつける気はない。

 

「……悪い」

 

「いいえ」

 

由衣は、首を横に振る。

 

「ちゃんと……帰ってきてください」

 

「……」

 

「帰る場所の一つ、ですから」

 

その言葉に、九郎の表情がほんの少しだけ緩む。

 

「……行ってくる」

 

「はい」

 

由衣は立ち上がり、軽く頭を下げた。

 

「お気をつけて」

 

「……ああ」

 

九郎は席を立ち、店の出口へ向かう。

ドアを開ける前に、一度だけ振り返った。

由衣は、笑顔のまま、小さく手を振る。

その姿を、九郎は一瞬だけ、深く目に焼き付けた。

 

何も言わず、店を出る。

ドアベルが鳴り、すぐに元の静けさが戻ってくる。

 

由衣は、カップの縁を指でなぞりながら、小さく息を吐いた。

 

(……また、日常だ)

 

でも、不思議と不安はなかった。

あの人は行く。

そして、またどこかで戻ってくる。

その「帰ってくる場所の一つ」に自分がなれているなら――

今は、それで十分だ。

 

窓の外を見る。

 

灰色のビルと、細い電線と、くすんだ空。

その間を、一羽の鴉がゆっくりと横切っていった。

 

まるで、空の高いところで一度羽を休めてから、またどこかへ飛び立っていくみたいに。

 

由衣は、ほんの少しだけ笑って、カップの残りを口に運んだ。

コーヒーは、まだ温かった。

 

 

佐倉 由衣

立場:鴉の止まり木。

戦場から戻った鴉が、羽を休めるために、そっと降り立つ場所。





 









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