第3話 葉佩九郎
葉佩 九郎(はばき くろう)
戦闘屋。
戦闘力を商品として提供する、戦いそのものを生業とする男。
表の社会には存在しない。名も記録も、どこにも残らない。
目を覚ましたとき、最初に目に映ったのは――見知らぬ天井だった。
それだけで、もう十分だった。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、部屋の輪郭を静かに撫でていく。
夜の名残がまだ空気に沈んでいる。
汗と、香水と、洗剤が混じり合った、その部屋特有の匂い。
――どこにでもあって、しかし九郎にとっては結局どこにも帰属しない匂い。
葉佩九郎(はばき くろう)は、仰向けの姿勢のまましばらく動かなかった。
身体が重い。傷ではない。疲労でもない。
倦怠感。
名前をつけるなら、それだけがはっきりと残っていた。
隣で女が眠っている。
名前は、もちろん知っている。
しかし今、それを思い出す必要はなかった。
裏の仕事関係者。情報屋の端くれ。あるいは仲介役。昨夜は酒を飲んだ。話もした。
そこに理由はなかった。必然も、運命も、美談もいらない。
ただ“そうなった”というだけの事実が、それで十分だった。
九郎は静かに視線を動かし、自分の腕にかかっていた女の髪をそっと払う。
起こさないように。それだけは守る。
だが、ベッドから抜け出すだけの意志は、まだ身体の奥で見つからなかった。
——家がない。
より正確に言えば、帰る場所を“作っていない”。
仕事で飛び回る。国境をまたぐ。
日付がどこかで崩れ落ちる生活。
家を持って固定されるより、こうして誰かの部屋に転がり込む方がずっと都合がいい。
「……ん……」
女が小さく声をこぼす。寝返りを打ち、背中を向ける。
その背中を見ても、九郎の胸には何も生まれない。
情も、罪悪感も、温度もなかった。
ただ――微かなだるさだけが、まだ身体の奥に沈んでいる。
昨夜の熱は、もう跡形もない。
残っているのは、体温が引いたあとに残る空っぽな疲労。
ベッドサイドの椅子には、服が無造作に掛けられている。
銃はない。ナイフもない。
それでいい。戦わない朝があっても、構わない。
九郎は目を閉じる。
(……あの娘は、日常に帰れただろうか)
脳裏に浮かんだのは、倉庫で泣いていたあの小さな背中。
呼吸がひとつ深くなる。
すぐに、その思考を追い払う。
混ぜるな。
これはそういうものじゃない。
時計の針の音が、部屋に静かに沈む。
「……朝?」
女が、目を開けた。
寝起きの声。現実へと揺れ戻ってくる柔らかな表情。
「起きてた?」
「今な」
短い会話。それ以上は必要ない。
関係には、余白だけがあればいい。
「コーヒー、飲む?」
「あるなら」
女は欠伸をしながら身体を起こす。
シーツが滑る音。肌を離れていく温度。
その音を背中で聞きながら、九郎は再び天井を見る。
長居するつもりはない。
だが、今すぐ出る理由もない。
住処も、帰りを待つ誰かも持たない男の朝というのは、たいていこういうものだ。
倦怠感。静けさ。それから、少しの空白。
コーヒーの香りが、ゆっくりと部屋に満ち始める。
九郎は、ひとつ息を吐いた。
――今日は、何もしない。
そう決めるには、十分な朝だった。
フライパンの上で卵が小さく音を立てる。
油の匂い、立ちのぼる湯気。
静かな朝――のはずなのに、空気はすでに仕事の匂いを孕んでいた。
テーブルの向かい。
女は七里(ななさと)。もちろん本名ではない。
裏の仕事を仲介する女。情報と人脈を売る女。
嘘はつかない。ただ、真実を出す順番を平気でずらすだけだ。
「砂糖いる?」
「いらない」
九郎はトーストを割り、必要最低限の動作だけで朝を進める。
七里はブラックのままカップを持ち、少しだけ笑う。
昨夜の情景を思い出した顔だ。
だが、それ以上の意味を与える気はお互いにない。
「……で」
九郎が切り出す。
「その顔は、用件がある」
「察しがいい男は嫌いじゃないわ」
七里がタブレットをテーブルに置く。
画面にはぼやけた監視映像。
水辺。夜。
そして人影の後ろに伸びる、不自然な影。
「邪教集団」
「……」
「正確には、“深きものども”を信奉する連中」
その単語に、九郎の指先が止まる。
「日本国内か」
「東アジア一帯。拠点は複数」
「合同か」
「ええ。複数人」
その言葉だけで、嫌な予感は手触りを持つ。
「……俺はパスだ」
迷いのない拒否。
「単独ならともかく、合同は面倒だ」
「今回の相手、“面倒”なんて言葉で済まないわ」
七里は肩をすくめる。
「水辺で人が消える。 遺留品は濡れているのに、溺死じゃない」
「深きものどもは嫌いだ」
「知ってる」
「知ってて持ってくるな」
七里は、唇の端だけで笑う。
「だって――」
少しだけ身を乗り出し、胸の谷間を見せつけ冗談めかした色気を足す。
「昨夜、ずいぶん助けてくれたじゃない」
九郎は表情を動かさず、コーヒーを口に運ぶ。
「それとこれは別だ」
「そう言うと思った」
七里はフォークで卵を突き、声を少し落とす。
「でも、あなた――」
「……」
「女と子供を食い物にする連中、嫌いでしょ」
静寂。空気が少しだけ冷える。
「……調べたか」
「仕事だから」
七里は目を逸らさない。
「今回の邪教、“供物”にしてるのは女と子供よ」
沈黙。
トーストが、静かに時間を吸うように冷めていく。
「報酬は?」
「高いわ。それに――」
七里の声が柔らかく鋭くなる。
「あなたが入らないなら、代わりに“壊される誰か”が出るだけ」
舌打ちは飲み込んだ。
「……性格悪いな」
「褒め言葉」
九郎は息を吐き、立ち上がる。
皿を流しへ運ぶ。
この朝が“休暇”ではなくなった音が、確かにした。
「合同のメンツは?」
「癖者揃い」
「だろうな」
ジャケットを手に取る。肩に重さが戻る。
「……一回だけだ」
「一回で終わるといいわね」
満足げな微笑み。
そして、戦場の空気が少しだけ部屋に宿る。
「コーヒー、おかわりいる?」
「いらない」
玄関へ向かう背中に、七里が声を投げる。
「ねえ、九郎」
「何だ」
「昨夜の“借り”、返してもらうから」
「……高くつくぞ」
ドアが閉まる。音が消え、静寂が残る。
――それでも男は、歩き出す。
帰る家を持たない男。
けれど、戻るべき“場所”は確かにある。
それは――仕事という名の戦場だ。
葉佩 九郎(はばき くろう)
職業 戦闘屋
裏社会では鴉(レイヴン)で通ってる小柄で普通な見た目をした男。
元陸上自衛隊
銃火器、ナイフ、環境、使える物はなんでも使う。
魔術師ではないが《ルーン魔術》を使う事が出来る。
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