第2話 ヒビ



佐倉由衣 1話で攫い屋に誘拐された女子大学生。

助けられなかったら海外の変態に売られてた。



―――――――――――――――――――――――



 

 

鍵が回る音が、やけに大きく響いた。

金属が噛み合う短い音が、まだ冷めきらない鼓膜を揺らす。

ドアを閉めた瞬間、由衣はその場に腰を落とした。

 

背中を預ける。安っぽい木製のドアの、冷たい感触。

体温に馴染むには少し時間がかかるはずなのに、肌はそれを待たずにこわばる。

 

息を吐く。

吐いたはずなのに、胸の奥に溜まった空気は抜けない。

深呼吸の形だけ繰り返す。肺は動いているのに、心臓の鼓動だけが速いままだ。

 

部屋は、いつも通りだった。

 

ワンルーム。

安い照明。

玄関からベッドまで、数歩で届く狭さ。

 

揃っていない靴。

机の上には開きっぱなしのノートとペン。

ゴミ箱の端に引っかかったコンビニのレシート。

洗って干しっぱなしのマグカップ。

 

生活の匂いがある。

洗剤と、前日に淹れたインスタントコーヒーと、柔軟剤の混じった空気。

 

――戻ってきた。

 

その事実だけで、膝が震えた。

「戻れた」じゃない。ただ、「戻ってきただけ」。

その差が、肌の内側でじわじわと広がっていく。

 

由衣はゆっくり立ち上がり、足元をふらつかせながら洗面所へ向かう。

 

鏡の前で、しばらく動かなかった。

 

蛍光灯の白い光が、ぼんやりと顔を照らす。

そこに映っているのは、自分のはずなのに、少しだけ他人に見えた。

 

目を引く顔ではない。

芸能人みたいな派手さも、モデルみたいな整い方もない。

 

だけど、落ち着いた輪郭。

人の前で笑えば、相手の警戒心をふっと抜くことができる、そんな顔。

 

今は、その「いつもの表情」が作れない。

 

目の縁が赤い。

雑に拭ったせいで、涙の跡がはっきり残っている。

頬には薄くこすれた赤み。首筋には自分でも気づかなかった痣がうっすらと浮かんでいた。

 

蛇口をひねる。

水が勢いよく流れ出す音が、妙に遠く聞こえる。

 

両手を差し出し、冷たい水を掬い、顔を覆う。

 

水は冷たい。

皮膚がきゅっと縮む。でも、その冷たさだけは、「ちゃんとここにいる」感覚を連れ戻してくれる。

 

倉庫の床の冷たさとは、違う。

あそこは「冷たさ」そのものが、命を削る現実と繋がっていた。

ここはただの水道水で、ここはただの狭い洗面所で――それでも、膝は少し震えた。

 

シャワーを浴びることにする。

 

服を脱ぐ。

布が肌を離れる感覚が、あの時の「乱暴に引き剥がされる感覚」と一瞬だけ重なり、指先に力が入る。

 

深く息を吸って、吐いて。

浴室の扉を閉め、シャワーのレバーをひねる。

 

湯が肩に落ちた瞬間、膝が崩れた。

 

タイルの上にその場でしゃがみ込む。

お湯が頭から流れ落ちてくる。

頬も顎も首筋も、熱と冷えの中間みたいな温度で覆われる。

 

声は出さない。

出したら、何かが壊れる。

 

喉の奥で、声になりきれなかった音が震えている。

その震えを押し殺すように、奥歯を噛みしめる。

 

涙が混じった湯が、ゆっくりと排水口に流れていく。

埃の匂い。油の匂い。足音。手首を掴む指の力。

 

「保管」という言葉。

 

“破壊”でも“処分”でもなく、“保管”。

人を、物と同じ分類で置いておくための言葉。

 

思い出すのは、あの闇の中に現れた影。

 

小柄な男。

どこにでもいそうな顔。

街中ですれ違っても、きっと印象に残らないタイプ。

 

それなのに、近づいた瞬間――世界の重さが変わった。

 

空気の密度が変わる、あの感覚。

部屋の中の全部が、“その人間を基準に”組み替えられるような圧。

 

――名も、理由も、残さない。

 

何をしている人かも言わない。

何のためにそこにいるかも説明しない。

 

ただ、「家は」と聞いた声だけ。

 

「家はどこだ」

 

短い言葉。

それが唯一、自分を“物”じゃなく“帰る場所のある人間”として扱った言葉だった。

 

由衣は、湯を止めて、長く息を吐いた。

 

タオルで身体を拭く。

柔らかい布が、皮膚の上を滑る感触が、ようやく「日常」の側の情報として頭に入ってくる。

 

部屋に戻り、ベッドに腰を下ろす。

 

スマホを手に取る。

着信履歴もない。通知もない。

 

誰にも連絡しない。

説明する言葉がない。

理解してもらえる自信もない。

 

「ちょっと怖い目にあってさ」

「変な人に絡まれて」

そんな軽い言葉に、あの倉庫の冷たさも、あの声も、あの気配も、押し込めることなんて出来ない。

 

布団に入る。

明かりを消す。

 

暗闇は、さっきの闇とは違う。

窓の向こうの街灯の光が薄くカーテン越しに滲み、輪郭をぼかした家具が見える。

 

ここは自分の場所だ。

鍵もかけた。チェーンもかけた。窓も閉めた。

 

それでも、心臓は早い。

 

目を閉じると、足音が近づく気がする。

静かな部屋の中で、自分の呼吸音だけがやけに大きい。

 

由衣は、胸の前で手を組んだ。

祈るような形。

でも、神様を思い浮かべているわけじゃない。

 

――また、来るかもしれない。

 

理由はない。

確信もない。

 

ただ、そう思った。

 

あの「どこにでもいそうな顔」の男が、

どこかでまた、誰かのために闇に現れる。

その延長線上に、自分が再び巻き込まれる未来も、“あり得る”と知ってしまった。

 

由衣は、浅い眠りに落ちながら、自分が“知ってる側”になったことをぼんやりと理解していた。

 

戻されたのは「日常」じゃない。

“裏側を知った日常”のほうだ。

 

 

ーーーーーーーーーーー

 

 

昼下がりの講義室。

 

ざわつく前方。

半分眠そうな教授の声。

ページを捲る紙の音。キーボードを打つカタカタというリズム。

 

由衣は窓際の席で、ノートを開いていた。

 

ペン先が止まる。

何を書こうとしていたのか、分からなくなる。

 

教授の声は確かに聞こえている。

内容も、頭に入れようと思えば入れられるはずだ。

いつもなら、そこそこ真面目にメモも取る。

 

けれど、今日は「意味」が頭に入らない。

 

耳に届くのは音だけ。

言葉として形にならない。

 

――あの夜が、まだ終わっていない。

 

追われた記憶。

暗がりで聞いた、男たちの息遣い。

靴底がコンクリートを踏む乾いた音。

 

暴力の匂いと、地面の冷たさ。

 

助かった。それは事実だ。

倉庫からも、男たちからも、あの時間からも。

 

けれど、「戻れた」わけじゃない。

 

ノートの上に意味のない線を描きながら、由衣は窓の外に視線を逸らす。

 

キャンパスの中庭。

コンビニ袋をぶら下げた学生たち。

ふざけながら走るグループ。

ベンチでイヤホンをつけて頷いている子。

 

世界は、普通に回っている。

 

帰り道、駅前の人混みに紛れる。

 

誰もが普通で、誰もが無関係だ。

 

笑っている学生。

スマホを見ながら歩く会社員。

子どもを連れた母親。

夕飯のメニューについて話しているカップル。

 

――みんな、知らない。

 

街灯の下で、由衣だけが、この街の“裏側”をほんの一瞬だけだが見てしまった。

 

アパートに戻り、鍵を閉める。

一度回して、手を離しかけて――もう一度、回す。

 

二回、確認する。

今までは一度で済んでいた。

 

カーテンを閉め、部屋の灯りをつける。

いつもの部屋。

いつもの匂い。

 

なのに、落ち着かない。

 

ソファに座り、膝を抱える。

膝頭を胸に引き寄せると、心臓の鼓動が近くに感じられる。

 

胸の奥が、じわじわと冷えていく。

 

――助けてくれた人の顔を思い出す。

 

小柄で、目立たない。

どこにでもいそうな顔。

名前も聞いていない。名乗られもしなかった。

 

それなのに、

“普通じゃない”と、一瞬で分かってしまった。

 

怖かった。

 

でも、それ以上に――現実が、壊れた感じがした。

 

「世界はこういうものだ」ときちんと線引きしていた場所の外側に、

もうひとつ別の層があるのだと、無理やり扉をこじ開けられたような感覚。

 

由衣は立ち上がり、キッチンで湯を沸かす。

 

ケトルが小さく唸り、湯気が立ち上る。

スーパーで安く買った紅茶のティーバッグを、マグカップに落とす。

 

カップ一杯の紅茶。

両手で包むと、指先が少し温まる。

 

それでも、手は少し震えている。

 

「……戻れないんだ」

 

声に出して、ようやく気づいた。

 

もう、知らなかった頃の自分には戻れない。

 

「世の中そういうこともあるよね」と、他人事の顔でニュースを見られる場所には、もう立てない。

 

でも、踏み込む勇気もない。

 

あの男たちみたいに、あの男みたいに、

あの世界の真ん中に寄っていく覚悟なんて、持てるはずがない。

 

宙ぶらりんのまま、日常と裏側の境界線に立っている。

 

由衣は、紅茶を飲み干し、カップを洗う。

 

その動作だけは、いつも通りだ。

洗剤の匂い。水の冷たさ。カップがシンクでカチンと鳴る音。

 

ベッドに入り、明かりを消す。

 

暗闇が、少し怖い。

 

目を閉じても、眠りは浅い。

何度も寝返りを打つたび、シーツの擦れる音が妙に大きく響く。

 

由衣はまだ、鴉の止まり木ではない。

 

ただ――

 

この世界の裏を知ってしまった、普通の女のままだ。

 

そして、そのひびは、

静かに、確実に広がっていた。

 

目に見えない場所で、

「普通」と「もう戻れない何か」の境目を、少しずつ侵食していた。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

朝は、ちゃんと来る。

 

目覚ましが鳴って、

カーテンの隙間から光が差し込んで、

天井の染みが、昨日と同じ場所にある。

 

宮坂由衣は、しばらくその天井を見つめていた。

 

――ここは、日本だ。

――自分の部屋だ。

 

それを確認するのが、朝一番の習慣になっていた。

 

ゆっくり起き上がる。

 

足を床につける。一瞬、裸足のまま立ち上がりかけて、

はっとしてスリッパを探す。

 

「……あ」

 

小さく、息が漏れる。

 

もう、コンクリートの冷たさも、割れたガラスの痛みも、ここにはない。

それでも、身体は覚えている。

床に直接足をつける瞬間、脳が勝手に“あの冷たさ”を思い出してしまう。

 

――大丈夫。ここは、あそこじゃない。

 

自分に言い聞かせるように、スリッパに足を滑り込ませる。

 

 

大学への道は、相変わらず混んでいた。

 

駅前のカフェ。

サラリーマンの列。

制服姿の高校生。

人を避けるために少し進路を変え、そのたびに「死角」を確認している自分に気づく。

 

友人が話しかけてくる。

 

「由衣、今日の講義さ――」

「うん……あ、ごめん、もう一回言って」

 

声は出る。

笑顔も、作れる。

 

けれど、頭のどこかで、常に出口を探している自分がいる。

 

人の流れ。

一番狭くなっている場所。

もし何かあったら、どちらに走るべきか。

どこまでが「人目」の範囲か。

 

(……やめよう)

 

意識して、力を抜く。

肩の力を落とし、息を深くする。

 

普通でいい。今は、それでいい。

 

そう言い聞かせないと、日常の形を保つことすら、難しくなってしまいそうだった。

 

 

夜。

 

シャワーを浴びて、部屋着に着替えて、ベッドに腰を下ろす。

 

静かだ。

音がないわけじゃない。

 

冷蔵庫の低い振動音。

遠くの車の走行音。

隣の部屋の住人が椅子を引く音。

 

ちゃんとした「生活の音」。

 

由衣は、スマートフォンを手に取って、

画面を消したまま、しばらく握っていた。

 

(もう、会えない)

 

そう思う。

そう思うべきだ。

 

あの世界の人間は、日常に居続けるべき存在じゃない。

そうであってほしいと、どこかで願っている。

 

それでも――ベッドに横になり、毛布を引き寄せる。

 

(……)

 

低い声。

短い言葉。

硬い身体。

ため息みたいな笑い方。

 

由衣は、胸に手を当てる。

 

怖さは、消えていない。

時々、夢も見る。

 

倉庫の冷たさ。

縛られた手首の感覚。

あの男たちの笑い声。

 

でも、その夢の最後には必ず――

闇の中にあの背中が現れる。

 

それが、悔しいような、救いのような、複雑な気持ちを連れてくる。

 

それでも。

 

「……大丈夫」

 

誰にでもなく、呟く。

 

「私……ちゃんと、生きてる」

 

それは、“今ここにいる自分”への確認であり、

“あの時助けてくれた誰か”への、遅れた報告でもあった。

 

カーテンの向こうで、街の灯りが小さく瞬いている。

 

由衣は、目を閉じた。

 

明日も朝は来る。

大学もある。

課題もある。

 

それでいい。

 

それが――

あの人が、命を賭けて守ってくれた「日常」だから。

 

そして、心の奥で、そっと思う。

 

(もし、どこかで――)

 

(また会えたら)

 

その時は、ちゃんと笑って、

 

「ありがとう」って言おう。

 

それだけで、十分だ。

 

夜は静かに、更けていった。






 

 

佐倉 由衣  大学生 

 

容姿:

清楚で落ち着きのある見た目。特別な美形ではないが、整った輪郭と柔らかそうな髪の質感が、第一印象を穏やかに見せる。

抱きしめれば折れてしまいそうな身体の線が、自然と庇護欲をそそるタイプ。

 

性格:

見た目通りの優しい性格。空気を読んで場を和ませることもできるが、ただ従順なだけではなく、過去の傷を「無かったこと」にせず、自分で乗り越えようと前に進もうとする芯の強さを持つ。

裏側を知ってもなお、“日常”を捨てずに掴み直そうとする女。 


 

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