第4話 傷
朝の匂いは、もう消えていた。
代わりに、潮の匂いがする。
遠くで、確かに“何か”が蠢いていた。
集合場所は、湾岸部にある古い倉庫だった。
表向きは使われていない。
だが裏では、時々こうして“使われる”。
「ここで何かがあっても、誰も知らない」——そういう場所だ。
昼と夜の境目。
薄曇りの空が、コンクリートの表面に湿り気を残している。
海風が吹き抜けるたび、錆と潮とコンクリの粉っぽさが混ざり合い、肺の奥に張り付いた。
九郎――コードネーム、
倉庫の外壁にもたれ、腕を組んでいた。
背中に当たるコンクリートは冷たいが、不快ではない。
戦場と違い、ここではまだ誰も死んでいない。それだけで十分だった。
一番乗りではない。
だが、わざわざ早く来る理由もない。
合同任務は、まず“空気を見る”ところから始まる。
どの顔が軽いか。
誰が死ぬ側に寄っているか。
誰が、最後まで残る目をしているか。
そういうものを、最初に測る。
―――
最初に現れたのは、二人組だった。
一人は大柄な男。
筋肉質だが、動きに余計なところがない。
足音が静かで、肩の揺れが少ない。
“鍛えている”のではなく、“使ってきた”身体の動き方だ。
もう一人は女。
黒髪をきっちり後ろで束ね、視線が鋭い。
周囲を露骨に警戒するタイプではない。
あくまで“見るべき場所だけを見る”目線の動き方をしている。
「……来てるな」
女が、九郎を一瞥する。
その目に、警戒と――噂の確認が混じっていた。
「こいつがそうか?」
「写真より、普通だな」
数年前から、裏の界隈で名前が出始めた男。
単独で案件を片付ける。
深追いはしない。だが、標的は逃がさない。
――《レイヴン》。
「思ったより小さい」
「よく言われる」
九郎は肩をすくめるように軽く返した。
それ以上、会話は続かない。互いに、それで十分だった。
―――
次に来たのは、三人組。
全員男。
歩き方と視線の動きから、傭兵上がりの匂いがした。
一人は額に古い傷。
顔の真ん中を横切るその傷は、威嚇ではなく、ただの“履歴”として刻まれている。
一人は落ち着きすぎている。
周囲に興味がないように見えるが、視線は常に出口を把握している。
一人は、やけに周囲を見ている。
落ち着きのない男ではない。
ただ、敵を探す癖がもう抜けないだけだ。
「八人中、これで六人か」
額に傷のある男が言う。
「二人は?」
「もう来てる」
その声につられるように、自然と視線が九郎へ集まる。
沈黙が、一拍。誰かが口を開いた。
「……あんたが《レイヴン》か」
「そう呼ばれてる」
「数年前から、やけに聞く名前だ」
「耳がいいな」
軽口。
しかし場は笑わない。
笑うほど互いを知らないし、笑って許される仕事でもなかった。
―――
最後に、残りの二人が現れる。
一人は男。
長身で、白髪混じり。
表情は薄いが、腰に下げた刃物の質が“表の人間ではない”ことをはっきりと告げている。
もう一人は女。
短髪。
表情は読みにくいが、視線の焦点が常に「人」ではなく「状況」に向いている。
倉庫の中に、八人が揃った。
男六人。女二人。
そのうち――四人が、二つ名持ち。
・《レイヴン》――戦闘屋
・《ハウンド》――追跡屋
・《ブレイカー》――壊し屋
・《ウィドウ》――処理屋
名を持つ者たちは、自然と距離を取る。
無駄に近づかない。無駄に見ない。
力量を測る素振りすら見せない。
それは傲慢ではなく、礼儀だった。
―――
「全員、揃ったわね」
倉庫の奥から、七里が現れる。
タブレットを片手に、いつもの淡々とした声。
「今回の任務は――」
視線が一度、全員をゆっくりと撫でる。
「カルト集団“水の導き”の殲滅と、 供物にされた民間人の救出」
空気が、わずかに重くなる。
「水辺、夜間、複数拠点」
「供物あり」
その単語の並びだけで、何人かの顔から“遊び”が消えた。
九郎は、静かに言う。
「表の人間を使う連中か」
「ええ」
七里が頷く。
その横顔には、感情がほとんど浮かんでいない。
「だから、あなたを呼んだ」
「……好かれてるな」
「嫌われてる方が困るでしょ」
誰かが、小さく笑った。だが、すぐに静まる。
《ハウンド》が、九郎を見る。
「噂通りなら、あんたは誰かと組むタイプじゃない」
「組む必要があればそうする」
「必要がなければ?」
「壊れた後を見るだけだ」
短い。だが、その答えで十分だった。
《ブレイカー》が、肩を鳴らす。
「面白ぇ。死なないでくれよ」
「それは、あんた次第だ」
場に、わずかな緊張と、
奇妙な“信用の予感”のようなものが生まれる。
七里が締めくくる。
「詳細はこれから詰める。 ただ、一つだけ――」
全員の顔を順番に見てから、言った。
「今回、“単独行動”は許可しない」
沈黙。
九郎は何も言わなかった。
ただ、頷いた。合同任務だ。
面倒だが――もう、逃げる理由もなかった。
――――――――――
――最初の違和感は、静かすぎることだった。
夜の水路沿い。
苔と潮の匂いがまとわりつく。
深きものどもの拠点だと目星を付けた廃施設は、
呼吸するように闇を溜め込んでいた。
「……音がない」
《ハウンド》が、小さく言う。
耳のいい男の、その一言が重かった。
誰も返さない。
その沈黙自体が、すでに手遅れの気配を孕んでいた。
次の瞬間―― 足元が沈んだ。
「ッ――!」
床が“抜けた”のではない。
何かに、下から引きずり込まれた。
「罠だ、下が――」
九郎の声は、途中で爆ぜるような水音と衝撃にかき消された。
水が、落ちてくる。
天井から。
壁の隙間から。
逃げ道として想定していた通路が、音を立てて閉じていく。
「クソ……!」
悪態と同時に、九郎は前に出た。
考えるより先に身体が動く。
「散開! 固まるな!」
だが――
合同任務の初動で“散開”は、一番難しい命令だった。
―――
右側から、悲鳴。
《ブレイカー》が、前に出すぎていた。
足を取られ、水面から伸びた影に引き倒される。
「引き上げろ!」
誰かが腕を掴む。
だが、それはほんの一瞬遅かった。
水の中で、何かが蠢く。
一瞬だけ見えた、魚のような眼。
人間に向ける種類の視線ではなかった。
泡。
鈍い音。
首が、あり得ない角度に折れた。
一瞬。
それだけで、終わった。
「……一人、やられた」
誰かの声が、ひどく遠くに聞こえる。
九郎は奥歯を噛み締めた。
「チッ……読まれてやがる」
―――
左側。
閃光。衝撃。
耳鳴り。
《ウィドウ》が吹き飛ばされる。
着地に失敗し、石畳を転がる。
「脚……!」
彼女を庇うように、別の男が身を投げ出す。
その瞬間、足元から絡みつく感触。
粘つく何か。
海底の泥のような、冷たい“触手”。
「離せ! クソッ……!」
銃声。
だが、弾は効いていない。
撃ち抜かれるべき“急所”が、そもそも存在していない。
「……捕まった」
二人。負傷。そして拘束。
―――
「くそったれ……!」
九郎は、舌打ち混じりに前へ出る。
踵に刻んだルーン《早駆け》を、解放する。
世界が、一瞬だけ“遅くなる”。
水面を蹴り、影の“根元”へ走る。
「面倒な真似しやがって……!」
刃が閃く。
蒼い残光が、水面に線を描く。
拘束が、一瞬だけ緩む。
「今だ、引け!」
だが――
敵は、引かせる気などなかった。
壁一面に刻まれた印が、鈍く光る。
邪教の印。
古い海の底から引きずり上げられたような歪んだ模様。
「……誘導されたな」
七里の声が、ノイズ混じりの無線に割り込む。
「レイヴン、撤退を――」
「分かってる!」
だが、もう遅い。
水位は上がり、通路は完全に分断された。
一人死亡。
二人負傷し、拘束。
生き残りは――五人。
初動で、チームは壊れた。
九郎は、歯を食いしばりながら後退する。
「……最悪のスタートだ」
誰もそれを否定しなかった。
闇の奥で、何かが笑った気がした。
――――――――――
水路から離れた瞬間、音が変わった。
湿った反響音が消え、
代わりに、自分の呼吸と足音だけが残る。
九郎は、走りながら一度だけ背後を振り返った。
追ってはこない。
少なくとも――今は。
「……クソ」
小さく吐き捨てる。
撤退中も、何度か追撃はあった。
だが、それも“様子見”の範囲内だった。
生き残りも、全員が軽傷では済んでいない。
九郎だけが、無傷だった。
肩も脚も、正常。血は出ていない。
ルーン使用の反動も、ほとんどない。
動作に遅れもない。
だからこそ、最悪だった。
―――
曲がり角を二つ抜け、廃施設の外縁部に出る。
闇が薄くなり、夜風が肌を撫でる。
無線を確認する。
「……ハウンド、応答しろ」 《……》
「ウィドウ、聞こえるか」 《……》
ノイズだけ。
「……チッ」
“逸れた”のではない。分断された”のだ。
計画的に。
最初から、そうなるように組まれていた。
(初動で欲張った)
判断が遅れたわけではない。だが、合同任務の悪癖が出た。
――全員を生かそうとした。
それが、一番余計な動きだった。
九郎は壁に背を預け、
わずかに目を閉じて呼吸を整える。
心拍は、安定している。
手も震えていない。
《勝利》は使っていない。
使わなかった。――いや、“使えなかった”。
「……一人死んで、二人捕まって、俺は無傷か」
苦い独白。
三人の顔が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
すぐに追い払う。今は、考えるな。
地面に片膝をつき、装備を確認する。
弾、十分。
刃、正常。
ルーン刻印、生きている。
足元に《警戒》を浅く展開する。
耳が拾う。
水音。
遠くの規則的な動き。
敵は、まだ余裕を持っている。
捕まえた二人を、すぐには殺さない。
(“使う”気だ)
深きものどもを信奉する連中は、“無駄”を嫌う。
「……取り返すしかねえな」
誰に聞かせるでもなく、ぼそりと呟く。
単独行動は禁止――七里の声が脳裏をよぎる。
「……悪いな」
この状況で“待つ”という選択肢はなかった。
逸れた連中の位置は不明。
合流を優先すれば、捕まった二人の時間が削れていく。
九郎は立ち上がり、
来た道とは別の方向へ足を向けた。
罠を張る側は、“戻る”と読んでいる。
「……期待通りには動かねえ」
小さく悪態をつき、闇に溶ける。
無傷の身体が、やけに重い。
生き残った責任が、背中にひっそりと乗っている。
レイヴンは、音もなく進んだ。
今度は――狩る側として。
――――――――――
時間の感覚は、とうに壊れていた。
水音が、一定間隔で落ち続けている。
天井からか、壁の割れ目からか、それはもうどうでもよかった。
二人は並べて座らされていた。
拘束は解かれていない。
だが、それはもう問題の中心ではない。
身体は動く。痛みもある。
それでも――抵抗する理由が、もう見当たらなかった。
片方、《ウィドウ》は視線を床から上げない。
瞬きの回数が不自然に少ない。
呼吸は浅く、一定。
意識が「今ここ」にいるだけで、何も掴んでいない。
もう一人の男は、膝の上で組んだ指を
意地のように崩そうとしなかった。
それは祈りではなく、残っている“形”への執着だった。
沈黙は長く、重い。
何が起きたか。
どこから壊されたか。
その経緯を言葉にする意味は、もうなかった。
ただ一つ――
何かが決定的に奪われた。
それだけは、二人とも理解していた。
扉が軋む音を立てて開く。
ローブを纏った影が、二人を見下ろす。
声が、湿った石壁を這うように低く響く。
「……まだ、生きているな」
返事はない。
反応すること自体が、すでに不要になっている。
影は、それを確認と受け取ったらしい。
「抵抗は?」
「……」
《ウィドウ》の喉が、小さく鳴る。
だが声にはならない。
男の方が、ゆっくりと首を横に振る。
拒絶でも、服従でもない。
ただの“事実の提示”。
「……それでいい」
影は満足そうに頷き、立ち去る。
扉が閉まる。
再び、静寂。
やがて、《ウィドウ》がかすれた声で言った。
「……来る、よね」
「……ああ」
男の返事は、少し遅れて届いた。
「助け……」
「……」
言葉は途中で途切れた。
“助けが来る”という概念自体が、もう現実味を持たない。
希望でも期待でもなく、ただの“言葉”として遠ざかっていく。
《ウィドウ》は、目を閉じた。
「……もう、いい」
それは、死を望む言葉ではない。
戦うことを放棄する宣告でもない。
これ以上自分を削られないために、
心を固く閉じるという、最後の選択だった。
男は何も言わない。否定もしない。
二人の間に、共通の理解があった。
――ここで何が起きても、
もし助かったとしても。
“以前の自分たち”には戻らない。
遠くで、水音が変わらないリズムで続く。
その音が、
次に来る“何か”の準備であることを、二人はもう察していた。
抵抗はしない。
それは敗北ではなく、
生存本能が選んだ、最後の形だった。
そして――
その沈黙が、
レイヴンを戦場へ引き戻す“理由”になることを、彼らはまだ知らない。
――――――――――
夜は、完全に施設を包んでいた。
廃水処理施設の外縁。
崩れたフェンスと、草に覆われた斜面。
九郎――《レイヴン》はそこにいた。
呼吸は一定。
心拍は低い。
視界は、研ぎ澄まされている。怒りはある。
ただ、それが表には出ていない。
怒りが限界まで圧縮されると、九郎は静かになる。
余計な思考が消え、“判断”だけが残る。
本人が一番よく知っている状態だ。
(……位置、確認)
施設内の灯り。巡回の足音。水路の流れ。
すべてが、“殺しやすさ”の基準で見える。
無線が小さく鳴る。
《……レイヴン、聞こえる?》
七里の声。
いつも通り冷静だが、その奥に張りつめたものがある。
「聞こえてる」
返答は短く、乾いていた。
《……状況は?》
「潜伏完了。外縁部南側。警戒は薄い」
事実だけを並べる声。
七里は、その“平坦さ”で状況を察する。
《……随分、落ち着いてるわね》
「そうか?」
《ええ。嫌なほど》
九郎の口元が、僅かに歪む。
笑いとは呼べない表情。
「感情は邪魔だ」
《……今は?》
「今は、全部要る」
沈黙。無線越しに、七里が息を整える。
《……捕まった二人の状態、確認できた》
「……」
《生きてる。ただ――》
少しだけ言葉がつかえる。
《……急いだ方がいい》
七里は、視線を施設の影へ戻す。
暗闇の奥で、水面が鈍く揺れている。
「分かってる」
九郎の声が、さらに低くなる。
《……レイヴン》
「何だ」
《今のあなた――》
「――冷静だ」
被せるように言う。
「一番、いい状態だ」
七里は、それが「現場にとって一番危険な状態」だと知っている。
《……ええ》
小さく息を吐き、
それでも止める言葉を探さない。
《あなたがその声の時、現場は大体――》
「壊れる」
淡々とした自己認識。
「必要な分だけな」
九郎は、装備を確認する。
ナイフ。
弾。
――刻まれたルーン。
《勝利》は、まだ眠っている。
「合図はいらない」
《単独行動は――》
「承知してる」
嘘ではない。
ただ、その“承知”と“遵守”は別の話だ。
《……戻ってきなさい》
「仕事が終わればな」
通信が切れる。夜風が草を揺らす。
その瞬間、遠くで、黒い影が一羽、舞い上がった。
月明かりを背に、低く、音もなく。
――鴉。
九郎はそれを見上げ、目を細める。
「……行くぞ」
誰に向けた言葉でもない。
戦場に、〈鴉〉が舞い降りた。
それは、逆襲の合図だった。
――――――――――
無線は、静かすぎた。
ノイズも、呼吸音もない。
ただ、小さなランプの点灯だけが“回線は繋がっている”と告げている。
七里は車内でシートに深く身を預け、
フロントガラスの向こうに広がる闇を見ていた。
施設は見えない。
だが、その位置は把握している。
地図。監視映像。ドローンのログ。
そして、彼の沈黙。
(始めたわね)
確信に近い直感だった。
レイヴンが“危ない”時、無線は賑やかになる。
確認。報告。悪態。
本当に“危険”な時は――音が消える。
七里は、マグカップの縁を指先でなぞる。
中身はすでに冷めている。
《……レイヴン》
呼びかけは、ほとんど独り言だった。
返事は、来ない。それでいい。
(今は、集中させる)
彼はキレている。
だが、爆発はしていない。
刃物のように一点に絞られた怒り。
周囲の雑音を切り落とし、必要なものだけを残す状態。
七里は、それを何度も見てきた。
そのたびに現場は“きれいに壊れた”。
――きれいに、だ。
別回線で状況を確認する。
捕縛された二人の生体反応。弱いが、ある。
(間に合う)
信じる他、選択肢はなかった。
「……帰ってきなさい、なんて」
小さく笑うような、溜息混じりの独り言。
(あの人には、効かない)
レイヴンを止める言葉はない。
あるとすれば、戻る“理由”だけだ。
《……こちら、支援は即応可能》
念のため送信する。
聞いていなくてもいい。
必要になった瞬間、彼は拾う。
秒が、伸びる。
車内の時計が、やけに大きく刻音を響かせる。
(静かにキレてるわね)
思わず、口元が歪む。
(最悪……)
そして――
(最高でもある)
七里は、夜空に視線を向けた。
雲の切れ間。月明かり。
あの上空のどこかで、今ころ黒い影が低く飛んでいる。
――〈鴉〉。
「……仕事は、終わる」
誰に向けたものでもない確信を、そっと呟いた。
無線は、まだ沈黙している。
それでいい。次に音が戻る時、
すべてはもう片付いている。
七里は、ただ待つ。戻る場所として。
――――――――――
侵入口は、最初から開いていた。
壊された形跡はない。“招き入れるための入口”。
九郎――《レイヴン》は、迷わず中へ入る。
施設内部は、すでに“戦場の後”だった。
床一面に広がる血痕。
乾きかけた色と、まだ濡れている色が重なっている。
臓腑の一部が、意味もなく壁に貼り付けられている。
抵抗の痕ではない。儀式の残骸だ。
「……吐き気のする連中だ」
低く呟く。
だが声は震えていない。
キレている時の九郎は、怒りを殺すのではなく、
一点にまとめて刃に変える。
足音を消し、影から影へ。
《警戒》が微かに反応を示した。
前方――二つの“意識”。
邪教信徒。
ローブ姿。
手には、儀式用の刃物。
祈りの言葉を、ぶつぶつと繰り返している。
「……主よ……深き海より……」
最後まで祈らせはしなかった。
乾いた音。短い閃光。
一人は、声を出す前に喉を断たれた。
もう一人は、振り返る途中で膝から崩れ落ちた。
血が、新たに床の模様を濃くする。
レイヴンは踏み越える。
数には入れない。
“対象外のゴミ”だ。
奥へ進むにつれ、空気の密度が変わる。
湿度が上がる。
水音が近くなる。
「……来やがったな」
闇の向こうで、水面が盛り上がる。
人の形に似て、似ていない。
濡れた石のような皮膚。
どこか、亀裂だらけの魚にも似た顔。
目だけが、はっきりと“こちらを理解している”光を持つ。
――深きものども。
「歓迎はいらない」
レイヴンは、ナイフに刻んだルーン《断絶》を解放する。
刃が、静かに蒼く光を帯びる。
怪物が腕を振り上げる――が、遅い。
踏み込み、一閃。
音が変わる。
肉を裂く音ではない。
“繋がり”そのものを切り離すような、乾いた断音。
深きものどもは、声にならない泡を吐き出しながら崩れた。
水だけが、残されるように床へ広がる。
「……次だ」
心拍はまだ低い。
視界は澄んでいる。
通路の先には、地獄絵図が広がっていた。
生きている者。死んでいる者。
どちらとも言えない者。
信徒たちは逃げているか、祈っている。
どちらも同じだ。現実から目を背けているだけ。
レイヴンは銃を使わない。
音を立てず、静かに数を減らしていく。
一人。
また一人。
この場の“無駄な血”はこれ以上増やさない。
《早駆け》を一瞬だけ解放し、影から影へ跳ぶ。
「……救出対象は奥か」
無線は入れない。
今は、刃先を濁らせたくなかった。
床に描かれた邪教の印を踏み越え、
最奥部へ。
背後で、誰かが叫ぼうとした気配があった。
声は、喉で終わった。
施設の奥深くで、〈鴉〉は羽音すら立てず侵攻を続けていた。
これは戦闘ではない。
掃除だ。
最深部は、異様なほど静かだった。
水の滴る音さえ薄い。厚い扉の向こうには、
終わりだけが待っている。
レイヴンは、その扉を押し開けた。
軋む音。わずかな光。
狭いが、空気は濃い。床に描かれた印。
乾ききらない、黒ずんだ痕。
空気に残る、形容しがたい匂い。
中央に、二人。
拘束され、壁に背を預けるように座らされていた。
《ウィドウ》と、もう一人の男。
目は開いている。
だが、焦点はどこにも合っていない。
呼吸はある。
――生きている。それだけが救いだった。
レイヴンは、銃もナイフも下げたまま近づく。
足音を、あえて消さない。
男の方が、わずかに反応する。
指が震える。
逃げようとしない。
“逃げる”という選択肢が、もう回路から抜け落ちている。
《ウィドウ》は顔を上げなかった。
代わりに、レイヴンの影が床に長く伸びる。
影が二人の足元に触れた瞬間――
《ウィドウ》の肩が、かすかに揺れた。
「……音が……違う」
掠れた声。祈りでも、命乞いでもない。
ただ、“状況の確認”。
「終わった」
レイヴンはそれだけを告げた。
二文字が、
この部屋に貼り付いていた“何か”を一気に剥ぎ取る。
男が、息を呑む。
「……レ……イヴン……?」
名を呼ぶ声は弱い。
それでも、まだ現実へ手を伸ばそうとする音だった。
「生きてるか」
「……ああ……」
それで十分だった。
レイヴンはナイフを抜き、拘束を切る。
刃は静かに動き、速すぎず、遅すぎず。
《ウィドウ》はその感触に身を強張らせたが、
痛みが来ないことに、遅れて気づく。
「……」
声が詰まる。
レイヴンは、視線を合わせない。
顔も覗き込まない。
「立てるか」
「……分からない」
あまりにも正直な答え。
「なら、座ったままでいい」
レイヴンは背を向ける。
見られたくない時間があることを、
彼は知っている。
「……外は……」
「安全だ」
即答。
「もう、誰も来ない」
《ウィドウ》の呼吸が、ほんの少しだけ深くなった。
男が震える声で言う。
「……抵抗……しなかった……」
「知ってる」
否定も肯定もない。
「それで、生きてる」
「……」
「十分だ」
短い言葉。だが、それは“赦し”だった。
最深部の空気が、ようやく動き始める。
無線が微かに鳴った。
《……レイヴン?》
七里の声。九郎は応答する。
「救出完了」
《……了解》
一拍置いて。
《……戻ってきなさい》
「今、行く」
レイヴンは二人を振り返る。
「歩けなければ、担ぐ」
「……すまない」
「仕事だ」
それは嘘ではない。だが、それだけでもない。
扉の向こう側――血と闇に満ちた通路へ。
〈鴉〉は、奪われたものを抱えて、静かに帰路についた。
夜明け前の空は、色を決めかねていた。
黒でもなく、青でもない。
ただ、重く、冷たい。
施設から少し離れた舗装路。
止められた車。エンジンは切られ、人の気配は薄い。
七里は車の外で待っていた。
腕を組み、視線は一点――闇の奥に固定されている。
草を踏む、遅い足音。
三つ。
七里の視線が、僅かに動く。
闇から現れたのは九郎――《レイヴン》。
その両脇には、捕虜だった二人。
自力で歩いている。だが、ただそれだけだ。
七里は何も言わずに近づく。
近くで見ると、二人の状態がよく分かる。
怪我は応急的に処置されている。
だが――心は、まだ戻っていない。
目が、違う。
「……生きてるわね」
確認。
「生かしてある」
「違いは?」
「後で考えろ」
短いやり取り。
七里は頷き、それ以上は踏み込まない。
二人を車の後部座席へ誘導する。
無理に話しかけない。触りもしない。
ただ毛布だけを掛ける。
「今は、これでいい」
自分に言い聞かせるように。
処理は速い。
施設はすでに別ルートで封鎖され、証拠は消える。
名前も記録も、表には出ない。
「……一人、死んだ」
七里が静かに言う。
「確認した」
「……」
それ以上は続かない。
九郎は車のボンネットに腰を下ろしかけ、煙草を取り出して――やめた。
代わりに夜気を深く吸う。
無傷だ。それが、一番気に入らない。
「あなた、血がついてないわね」
七里の言葉は、責めでも非難でもない。
「必要な分しか、やってない」
「……ええ」
七里は、少しだけ目を細めた。
「でも――」
「何だ」
「静かすぎる」
九郎は答えない。
それが答えだった。
車内。捕虜の二人はお互いを見ない。
窓の外も見ない。ただ、「音のない場所」にいる。
七里は運転席に座り、バックミラー越しに一度だけ彼らを確認する。
「……今夜は、病院に行かない」
「分かってる」
九郎は助手席に座り、シートに背を預けた。
「必要な処理は、私がやる」
「任せる」
信頼。ただし、依存ではない。
エンジンが静かに回り始める。
「……レイヴン」
七里が前を向いたまま言う。
「あなた、今回――」
「後悔はしてない」
被せるように言う。
「だが、満足もしてない」
「……そう」
車は闇から離れていく。九郎は目を閉じた。
七里はハンドルを握る手に、少しだけ力を込める。
「……あなたは、優しいわ」
静かな声。
「違う」
即答。
「嫌いなものが、はっきりしてるだけだ」
女と子供を喰い物にする連中。
尊厳を踏み潰すやり方。それだけは、許さない。
七里は、それ以上何も言わなかった。
車内に落ちた沈黙は、さっきまでの無音とは違う。
“終わった後”の静けさだった。
夜明けが、近づいている。
〈鴉〉は、血の匂いを背後に置き去りにして、
静かに空へ戻っていった。
――――――――――
ルーン魔術について
ルーン魔術――
“文字そのものに宿る力”を、刻み・唱え・循環させて現象を引き起こす、古い系統の魔術。
魔力資質や才能よりも「覚悟」が求められる。
世界の底に流れている“意味”と“形”を、
抽象ではなく「記号」として固定し、
それを刻印という行為で肉体や武具に縫い付ける。
九郎は、そのルーンを“神秘”としては扱わない。
祈りでも信仰でもなく、
ナイフや銃と同じ「道具」として扱う。
ルーンは、詠唱と刻印、そして使用者の体内を巡る“運び”によって回路が完成する。
詠唱は、その回路を起動させる「スイッチ」にすぎない。
彼が常用するルーンは、少ない。
無駄を嫌う男らしく、必要なものだけを選び抜いている。
《早駆け》
踵に刻むルーン。
一時的に速度を引き上げる。
“地”との接地感覚を底上げし、
踏み出した一歩の“結果”が、数歩先まで届くように補正する。
視界が広がるのではない。
世界が遅くなるのでもない。
ただ、自身の移動に関する“遅れ”が、
ほんの一瞬だけ削ぎ落とされる。
肉体への負荷も、決して軽くはない。
ルーンの効果が切れれば、筋肉と関節に重さが残る。
それでも九郎は、《早駆け》を躊躇なく使う。
踏み込みが一歩早く届くかどうかで、生き死にが決まる場を、何度も見てきたからだ。
《断絶》
刃に神秘を付与するルーン。
金属という“物質”に宿る力ではなく、
そこに刻まれた「意味」を増幅させる。
“斬る”“裂く”“断つ”。
その概念そのものを刃の周囲に纏わせることで、
物理的な硬度を超えた対象にも干渉できる。
深きものどものような、“この世界に完全には馴染んでいない存在”を、
現実側へ無理やり引きずり降ろしてから切断する。
見た目はただの一閃。
だが、音は違う。
肉を切る音ではない。
“繋がり”を断ち切る音。
水と肉、肉と魂、信仰と存在――
それらを一瞬だけ切り離すことで、怪異を“落とす”。
九郎にとって、ルーンは信仰ではない。
過去に、戦場で拾った“生き延びるための技術”の一つ。
祈りは捨てた。
だが、使えるものは何でも使う。
ただ一つだけ――
彼はルーンを「遊び」には使わない。
刻印は少なく、目的は明確に。
それが、
葉佩九郎――《レイヴン》にとってのルーン魔術の在り方だった。
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