夜を歩く鴉と、待つ女たち

@1192kuro

第1話 鴉の降りた夜

第一章


 


鴉が降りた夜


 


夜は、世界から音を奪われたみたいに静かだった。

ただ本当に音が消えたのではなく、 佐倉由衣の世界からだけ、選択的に音という現実が切り落とされていた。


 

倉庫の隅。冷たいコンクリートの床に座らされている

背中を押しつけられたコンクリートは氷のように無慈悲で、ひとつ息を吐くたびに、身体の内側から少しずつ体温が蒸散していく感覚があった。


埃の匂い。古い鉄の匂い。油の臭気。

それらが層になって空間にこびりつき、空気そのものを濁している。


白いブラウスはくすみ、しわを深く刻まれ、スカートの裾は無造作に乱れている。


――ああ、自分はいま、 「人間として扱われていない場所」にいるのだ。


その現実だけが、やけに鮮明だった。


 


由衣は、目を惹く美貌を持つ女ではない。

通り過ぎれば忘れられる顔立ち。

けれど、細く柔らかな輪郭をまとった身体は、どこか庇護欲を誘う。

落ち着いた佇まいと、笑ったときに相手を安心させる表情。

そして本来なら、それを自然に守ってくれる世界に立っていた――はずだった


(……どうして、こんな場所に……)


 


心の奥で呟いた問いは、返事を得ないまま沈んでいく。

彼女は騒ぐ人間ではない。衝突を避ける。

空気を読んで、その場に合わせて生きてきた。

「手のかからない人間」として、社会に溶けることを選んできた。


それは、あまりにも静かで冷たい理解だった。

そして理解した瞬間、心のどこかがひび割れた。


手首は背後で縛られている。切り傷も開いた痛みもない。指もまだ動く。なのに身体全体は固まって、命令が通らない。

「動こう」と思考が伝令を出すたび、麻痺した恐怖がそれを飲み込んでいく。

怖い、という段階はもう通り過ぎていた。


 


目の前には三人の男。

声を荒げない。雑談もしない。

仕事の確認だけを、淡々と交わしている。


「学生だ。身元は問題なし。」 「反応は鈍い。薬は使ってない」 「明日の夜に動かす。それまでここで保管だ。」


(…保管)


そのひと言が、胸の奥深くで崩れ落ちた。

人間と名前を呼ばれる存在ではない。

取引対象。資源。数字に置き換えられる命。

喉が震える。涙がにじむ。――泣きたい。

けれどそれは、あまりにも容易く“壊れる側”を受け入れてしまう行為に思えた。


(まだ終わっていない――終わらせたくない)


そう念じた瞬間、涙は目の縁に熱を宿しながら留まった。


(……お母さん……)


 


そのときだった。外で金属が擦れる、ほんの小さな音。

空気が、張り詰める。男の一人が顔を上げる。


「……誰だ」


返答はなく――次の瞬間、照明が消えた。


由衣は反射的に目を閉じた。閉じた瞼の裏で、涙が零れた。

闇、聴覚が呼吸を始める。

足音。

軽い。迷いがない。

乾いた音。

肉の奥で響く衝撃音。

呼吸が潰される音。

身体が床へ叩きつけられる音。

静寂の中でだけ、鋭く浮かび上がる現実。

由衣は声を殺す。

悲鳴という本能さえ、恐怖に取り上げられていた。


――やがて。灯りが戻る。視界が戻る。



三人とも床に倒れていた。

一人は壁に打ちつけられ、白目を剥き痙攣している。

一人は喉を押さえ必死に呼吸音を探して、掠れた空気だけを吐いている。

一人は顔面を床に押し潰されたまま動かない。

圧倒的な速度。

圧倒的な暴力。

抵抗という概念すら発動する機会を奪った“処理”。



そして、その中心に――ただ一人、立っている男。


 

近づいてきて、由衣は思った。

——小柄だ。

背は高くない。

筋肉はあるが、誇示するほどではない。

顔立ちは、ごく普通。

悪く言えば、どこにでもいそうな男。

影のような男だった。記憶に定着しない顔。


――なのに。その存在だけが、空間の重力を握っていた。


男はそっと身を下ろし、視線の高さを合わせる。


「……聞こえるか」


抑制された声音。必要以上の温度を与えない声。

由衣は震えながら頷く。


「怪我は」

「⋯⋯ありません」


 


声が震えた。

目の縁に溜まった涙が、また零れる。

男は、それを見ても何も言わない。

ただ、手際よく拘束を切った。

刃は決して肌へ触れない。医療に似た、冷静で優しい正確さ。


「立てるか」


身体を起こした瞬間、足が崩れる。

肩に触れられる。抱き寄せない。

固い。鍛えられた、無駄のない身体。

ただ支える。それが、限りなく優しかった。


 

――助かる。


遅れて胸に落ちる実感。

外に出る。夜風が涙を冷やし、現実を輪郭づける。

男は倉庫を一度だけ振り返り、確かめ、切り捨てた。

もう“過去”として分類するように。



車に静かな操作で乗せられ、ベルトが締まる。


「家は」


住所を告げると、男はそれ以上何も言わず、車を走らせた。

走り出す。名は名乗らない。何も語らない。

沈黙だけが、奇妙に深く柔らかい。バックミラー越しの一瞬の視線。その刹那、抑えていた涙が堰を切った。

街灯が増え、人の匂いが戻り、生活という名の現実が近づく。

涙は止まらなかった。アパートの前で車が止まる。


「……ここだな」


 

頷く。

降りる。それでも足が止まらず、振り返る。


「ありがとうございました……! あの、名前を――!」


短い沈黙。ほんの一拍。風のような呼吸。


「……知る必要はない」


それだけ。

エンジン音が夜の底へ溶けていく。

由衣は、しばらく立ち尽くしたままだった。

頬を伝う涙の冷たさだけが、自分という存在に確かな輪郭を与えていた。


 

――鴉は、名を残さない。



けれどその夜、世界の表と裏の境界線が、一本はっきりと刻まれた


 


 


 


 


 


第一章・裏


 


鴉(レイヴン)の視点


 


倉庫の外壁は、想定より古かった。

錆びた鉄骨。

補修の跡が雑で、踏めば音が出る。

 

——使い捨ての場所だな。


 


鴉は、息を整えた。

銃は使わない。音が立つから。

耳を澄ます。

中にいるのは三人。会話のテンポが早すぎる。

慣れている連中だ。


壁沿いに回り、非常口の蝶番にナイフを差し込む。

力は入れない。金属が鳴く前に、止める。

灯りが視界に入る。座らされている女が一人。


——若い。


大学生くらい。派手さはない。

だが、視線が一度引っかかった。

華奢で、柔らかそうな身体つき。

怖がっているのに、騒がない。

目だけが、必死に現実を追っている。


 

男の一人が言う。


「明日の夜に動かす」


 


胸の奥で、冷たい何かが音を立てず沈む。


 

照明を落とす。


 

一人目。

顎を極め、頸のラインごと奪う。

声帯へ指向的に沈黙を与える。


二人目。

振り向いた瞬間、腹部に拳。

横隔膜が潰れ、呼吸という機能が一瞬奪われる。

膝で追撃。

内臓の軌道が乱れる。


三人目。

遅い。

恐怖で腰が引けている。

だから――終わる。

後頭部を掴み、壁へ打ち付ける。

骨が震える音が指先に伝わる。

床へ落とす。


 

――三秒。全員床


 

照明のスイッチを落とした。

灯りを戻す。

女は、目を閉じている。

涙が落ちている。

鴉はゆっくり近づいた。

不用意に触れない。驚かせない距離でしゃがむ。


「……聞こえるか?」


小さく頷いた。

声は、出せる状態だ。


「怪我は」


怪我は無し。拘束を切る。

刃は、皮膚に触れさせない。


「立てるか」


 

立ち上がろうとして、足がもつれる。

反射で肩を支える。


——軽い。


抱き寄せない。支えるだけ。


外へ出す。

夜風に晒すと、女は深く息を吸った。

倉庫を一瞥。

全員床に沈んでる。追手の心配はない。


車に乗せる。シートベルトを締める。

走り出しても、女は何も聞かない。

その沈黙が逆に重い。バックミラーで一度だけ見る。

泣いている。音を殺して。


——普通の生活に戻れればいい。


 


それ以上は考えない。

アパート前で停車。



「……ここだな」


 


頷く。礼を言われ名前を聞かれる。

鴉は答えない。名乗らない。エンジンをかけ、夜へ出る。

ハンドルを握る手に、力が入っているのに気づいて、少しだけ緩めた。


 

——深入りするな。

それが、裏で生き残るコツだ。



小柄な影は、街に紛れた。

何も残さず、何も約束せず。


 


ただ一つ、

あの女が“裏を見た”という事実だけを置いて。


 


鴉はその夜も、止まらなかった。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 

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