第24話「琥珀の滴、雪解けの音」

第24話「琥珀の滴、雪解けの音」


三月の風は、まだ冬の名残を孕んで冷たいが、陽光には微かに春の柔らかな粘り気が混じり始めている。城北中央公園の梅はすでに散り、代わって桜の蕾が、はち切れんばかりに膨らんでいた。


誠二は、弾むような足取りで商店街を歩いていた。手には、ずっしりと重い魚屋の保冷バッグ。中には、店主が「今朝、築地で一番のやつを競り落としたよ」と胸を張った、木箱入りのバフンウニが鎮座している。


「野上さん、これ以上のは今シーズンもう入らないかもよ!」


そう言われて差し出されたウニは、一粒一粒が濡れた琥珀のように輝き、濃厚な海の記憶を閉じ込めていた。一箱、五千円。退職後の身には「ちょっとした」どころではない贅沢だが、電話をもらった瞬間に、誠二の迷いは消えていた。


「澄子さん、驚くかな」


誠二は、道すがら寿司のパックを二つ買い足した。一パック千五百円だが、これだけのウニを銀座のカウンターで食べれば数万円は下らない。そう考えれば、この三LDKのダイニングで食べるのは、世界で最も贅沢な「お家騒動」のような気がしてくる。


玄関を開けると、いつものように澄んだ、そして拒絶するように静かな空気が満ちていた。だが、今日の誠二は、その静寂を恐れない。


「澄子さーん、今日はごちそうだよ!」


大きな声を出した。キッチンのカウンターに、わざと音を立てて保冷バッグを置く。リビングのソファで針を動かしていた澄子が、眉をひそめて顔を上げた。


「……何事ですか、大きな声を出して。三軒先まで聞こえますよ」


「ははは、いいじゃないか。見てくれよこれ、最高のバフンウニだ。魚屋の兄ちゃんがわざわざ電話をくれたんだ。澄子さん、これ大好物だろう?」


誠二は保冷バッグから、木の香りがほのかに漂う箱を取り出した。蓋を開けると、潮の香りと共に、鮮やかなオレンジ色の宝石が姿を現した。


澄子は、持っていた布を膝に置き、吸い寄せられるように立ち上がった。その瞳が、一瞬だけ少女のように見開かれる。だが、すぐにいつもの冷徹な仮面が、彼女の顔を覆った。


「……また、こんな贅沢をして。お寿司まで二パックも。今月、まだ十日もあるんですよ」


「いいんだよ。澄子さんの好きなものを、一緒に食べたかったんだ。……ほら、俺たちももう六十五だ。墓場にお金は持っていけないからね。生きているうちに、旨いものを旨いと言って食べなきゃ損だよ」


誠二は、自分でお皿を用意し、寿司を並べた。そして、箱からウニを贅沢に掬い取り、軍艦巻きの上に「これでもか」と盛り付けていく。指先に触れるウニのひんやりとした感触と、独特の磯の香りが、誠二の胸を高鳴らせた。


「さあ、座って。冷たいうちに食べよう」


澄子は、何か言いたげに唇を震わせたが、結局は何も言わずに椅子の引き出しに手をかけた。 二人の間に、琥珀色のウニが並ぶ。


「いただきます」 「……いただきます」


澄子が、震える箸先でウニの山を崩さないように慎重に掴んだ。それをゆっくりと口に運ぶ。 誠二は、自分の口に入れるのも忘れ、彼女の表情を凝視した。


澄子の喉が、小さく動く。 濃厚なウニが舌の上で熱を持ち、クリームのように溶けていく。磯の香りが鼻を抜け、甘みが脳を直接揺さぶる。 その瞬間、彼女の目尻が、ほんのわずかに、本当にわずかに下がった。


「……どうだい、旨いだろう?」


「……。……悔しいけれど、今まで食べた中で、一番かもしれません」


澄子の声は、小さかった。けれど、そこにはいつもの「拒絶」ではない、素直な敗北宣言のような響きがあった。


「そうだろう、そうだろう! 俺も、これ一粒で、一週間のアルバイトの疲れが吹き飛ぶ気がするよ」


誠二もウニを口にした。 圧倒的な「命」の味がした。 かつて家族で囲んだ賑やかな食卓。娘の真理がウニを欲しがって、澄子が自分の分を半分分けてやっていた光景。若かった誠二が、そんな二人を眩しそうに見ていた、あの夏の夕暮れ。 すべてが、この一粒の味の中に溶け込んでいる。


「澄子さん」 誠二は、ウニの甘みを噛み締めながら、静かに語りかけた。 「俺、この半年、一生懸命自分と戦ってきたんだ。トイレ掃除も、笑う練習も、君に好かれたい一心でやってきた。でもね、今は少し違うんだ」


澄子は、二粒目のウニを口に運び、目を閉じていた。


「君が俺を許さなくても、俺が君の隣でこうして旨いものを食べて、君が『美味しい』って顔をしてくれる。それだけで、俺の人生はもう、お釣りがくるんだなって。……墓場に持っていくのは、お金じゃなくて、今のこの味の記憶でいいんだ」


澄子は、目を開けた。 そこには、これまで誠二が見たこともないような、深い、深い沈殿したような光があった。


「……あなたは、本当に勝手な人。さんざん私を一人にしておいて、今さらそんな綺麗なことを。……でも」


彼女は、誠二の皿に残っていた最後の一粒を、さっと自分の箸で掠め取った。


「……このウニの代金分くらいは、明日からのあなたの掃除、大目に見てあげます」


「ははは! 厳しいな、澄子さんは。でも、それでいいよ。それが俺たちの、今の形なんだから」


窓の外では、三月の風が防音壁を優しく叩いていた。 かつては絶望の象徴だったその壁が、今は二人だけの、この静かな祝宴を守る繭のように思えた。


誠二は、空になったウニの木箱を大切に片付けた。 そこにはもう何もない。けれど、部屋の中には、微かな潮の香りと、二人の間に流れる「ぬるい空気」が確かに残っていた。 それは、氷を解かす春の雨のような、ささやかで、けれど確かな変化の予感だった。


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『硝子の真空地帯 ―熟年家庭内別居の記録―』 春秋花壇 @mai5000jp

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