第23話「胎児の目覚めと根菜の熱」
第23話「胎児の目覚めと根菜の熱」
重い瞼を持ち上げた時、誠二は自分が「無」に立ち返っていることに気づいた。
シーツの冷たい感触が、直接、全身の肌に触れている。昨夜、ウイスキーの奔流に身を任せ、バスタオルを食いしばって泣き濡れた果てに、彼は無意識のうちに服をすべて脱ぎ捨てていた。なぜそうなったのかは分からない。ただ、何重にも着込んだ「夫としての矜持」や「反省する退職者」という重い殻を、一枚ずつ剥がして捨てたかったのかもしれない。
誠二は、真っ裸のまま膝を抱え、布団の中で丸くなった。 暗い子宮の中にいる胎児のように。 外の世界には澄子の沈黙があり、老いがあり、物価高があり、届かない言葉がある。けれど、この薄い羽毛の壁の内側だけは、自分の体温だけで満たされた絶対的な聖域だった。
(……空っぽだ。俺は、もう空っぽだ)
不思議と、昨日のような激しい絶望はなかった。ただ、嵐が過ぎ去った後の海岸のように、荒涼とした静けさが胸に広がっている。 彼はゆっくりと起き上がり、抜け殻のような服を拾い集めて身に纏った。
台所へ行き、いつものようにやかんに火をかける。 シュンシュンという蒸気の音が、止まっていた時間を動かし始める。 白湯を一口、喉に流し込む。昨夜の酒で荒れた粘膜に、温かな水が沁み渡る。細胞のひとつひとつが、水分を得てゆっくりと目を覚ましていく感覚。
誠二は、そのまま玄関を出た。 城北中央公園のラジオ体操、そしてガーデニング。 昨日まであれほど渇望していた「他人からの優しさ」も、今は遠い場所の出来事のように感じられた。「いつもありがとうございます」という声をかけられても、誠二はただ、静かに微笑んで会釈を返すだけだった。期待もしない。悲しみもしない。ただ、そこに在る。
帰宅後、彼は迷わず「感謝業」に取り掛かった。 トイレを磨き、風呂場のタイルを擦る。 「ありがとうございます……ありがとうございます……」 昨日のような、血を吐くような悲痛な祈りではない。ただ、呼吸をするように、指先の感覚を陶器の滑らかさに集中させる。 体は爽やかだが、心は凪いでいた。
「……今日は、これを作ろう」
誠二は冷蔵庫から、泥のついた牛蒡、丸々とした大根、人参、里芋を取り出した。 澄子の聖域であるキッチンに立ち、包丁を握る。 「トントントン……」 まな板を叩く音が、規則正しく響く。 根菜を切る時の、あの「土」の匂い。力強く、頑固で、それでいて煮込めば甘くなる大地の香りだ。
大きな鍋にたっぷりの出汁を張り、硬い根菜から順に放り込んでいく。 里芋のぬめり、牛蒡の野性味のあるアク、大根の透明感。 グツグツと煮える音が、誠二の冷え切った心の奥底を、少しずつ揺らし始めた。 仕上げに、香りの強い味噌を溶き入れる。 立ち上る湯気は、優しく、厚みがあった。
二つのお椀に、溢れんばかりの具を装う。 誠二はそれをトレイに載せ、リビングのテーブルへ運んだ。 澄子はいつものように、パッチワークの作業をしていた。
「澄子さん」 誠二の声は、昨日の嗚咽が嘘のように穏やかだった。 「根菜をたっぷり入れた、具沢山の味噌汁を作ったんだ。二つ、装ったよ」
澄子が手を止め、眼鏡の奥でこちらを見た。 「……また、何か始めたんですか」 「いや。ただ、これからの季節、免疫力をつけたくてね。体が温まるよ。……よかったら、どうぞ」
誠二は、自分の分を先に一口啜った。 「あぁ……熱い」 喉を焼くような熱さではない。じわじわと体の中心から末端へと広がっていく、根菜たちの生命力の熱だ。里芋は口の中でねっとりととろけ、大根は出汁を吸ってじゅわっと溢れる。
澄子は、しばらくお椀を見つめていたが、やがてゆっくりと箸を取った。 「……里芋、皮を剥くのが大変だったでしょう」 「ああ。手が少し痒くなったけど、泥を落としているうちに、なんだか落ち着いたよ」
澄子が汁を一口、啜る。 「……少し、煮込みすぎです。人参が崩れていますよ」 「そうか。次は気を付けるよ」
相変わらずの指摘。相変わらずの、歩み寄りのない言葉。 けれど、誠二は不思議と、へなへなとへたり込むような絶望を感じなかった。 (崩れていても、味は出ている。それでいいんだ)
「澄子さん」 「……何ですか」 「俺、昨日の夜、裸で寝てたんだ。胎児みたいに丸まって」
唐突な告白に、澄子の箸が止まった。 「……何を、言っているんですか。本当に、不気味な人」 「自分でも笑っちゃうよ。でもね、そうやって寝てたら、なんだか『生きてるだけで、まあいいか』って思えたんだ」
誠二は、お椀を抱え直した。 「俺は、君と『そうそう』って話がしたい。思い出話もしたい。それは本音だ。でも、君がそれをしたくないのも、君の本音なんだよな」
澄子は、何も答えなかった。ただ、崩れた人参を静かに口に運んだ。 咀嚼する音が、微かに聞こえる。
「俺は、これからもトイレを磨くし、味噌汁も作る。君がどう思おうと、それは俺が俺として、まっとうに生きたいからだ。……だから、君は君のままでいいよ」
澄子の瞳が、一瞬、揺れたような気がした。 彼女はそれ以上何も言わず、ただ最後の一滴まで、誠二が作った味噌汁を飲み干した。 「……ごちそうさま。お椀、水に浸けておいてください。里芋のぬめりは、後で落ちにくくなりますから」
彼女は立ち上がり、リビングの窓を開けた。 冬の冷たい風が入り込み、根菜の甘い匂いをさらっていく。 けれど、誠二の指先には、まだ里芋を剥いた時の微かな痒みが残り、胃の腑には、確かな熱が居座っていた。
「ああ。分かった。水に浸けておくよ」
誠二は、自分の空になったお椀を眺めた。 胎児として目覚めた朝。 芽が出るのは、まだ先かもしれない。 けれど、この「具沢山」の熱量だけは、今、確実にこの防音壁の家の中に、小さな、けれど消えない足跡を残していた。
誠二は、冷たい水で椀を洗った。 その水の冷たささえも、今は、自分が生きている証として、誇らしく感じられていた。
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