第20話 防音壁の家:「透明な火種」
第20話 防音壁の家:「透明な火種」
夜の十時を回ると、住宅街は死んだように静まり返る。野上邸の三LDKもまた、各々が個室に閉じこもり、換気扇の低い唸りだけが「生存」を主張する時間帯に入る。
誠二は自室でタブレットを眺めていたが、どうにも喉の奥が乾いて仕方がなかった。それは水や茶では癒えない、熱を持った渇きだった。今日の「感謝業」で心を使いすぎた反動だろうか、あるいは昼間の寿司の余韻だろうか。
「……少しだけ、飲むか」
誠二は静かに立ち上がり、上着を羽織って夜の冷気の中へ滑り出した。徒歩五分のコンビニエンスストアは、青白いLEDの光で夜を切り裂いている。酒の棚を眺め、誠二は迷わず「大吟醸」と金の文字で書かれたワンカップを二つ、手に取った。安酒ではない、ほんの少しの贅沢。さらに、惣菜コーナーで「いかの七味焼き」をカゴに入れる。
家に戻ると、リビングの明かりがまだ点いていた。 澄子が、ソファで読書をしていた。誠二の帰宅に気づいても、彼女はページをめくる指を止めない。
誠二はわざと、コンビニの袋を「ガサリ」と大きく鳴らしながらキッチンのカウンターに置いた。 「……澄子さん。たまには、一緒にどうだい。いい酒を買ってきたんだ」
澄子が眼鏡をずらし、冷ややかな視線を投げかけてくる。 「こんな時間に、何ですか。……それに、最近あなた、お金を使いすぎじゃないですか? お寿司の次は、大吟醸なんて」
その声は、鋭い。かつての怒りというよりは、生活の均衡を乱す者への、純粋な警戒心に近い。誠二は苦笑いしながら、アルミの蓋を「ピリッ」と剥がした。瞬間に立ち上がる、果実のように華やかで、芯の通った米の香り。
「いいじゃないか。たまの贅沢だよ。ほら、この『いかの七味焼き』も、レンジで少し温めると旨いんだ」
誠二は皿に並べたイカをテーブルに置いた。香ばしい醤油の焦げた匂いと、鼻をくすぐる七味の刺激。澄子は「呆れた」というように溜息をついたが、本を閉じ、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「……半分だけですよ。明日も早いんですから」
彼女は、自分からグラスを用意した。 誠二は、透明な液体を彼女のグラスに注ぐ。トクトク、と小気味よい音が沈黙を埋めていく。
「さあ、乾杯しよう」 「……はい」
グラスが触れ合う音はしなかった。澄子は乾杯の所作を嫌う。 誠二はぐいと一口含んだ。冷たい液体が舌の上で転がり、芳醇な甘みを残して喉の奥へと滑り落ちる。直後、内側からカッと熱が広がる。
「……旨いな」 「……そうですね。香りがいいです」
澄子も、唇を湿らせる程度に口をつけた。 誠二は七味焼きの一片を口に放り込む。弾力のある歯ごたえと共に、イカの旨味と唐辛子のピリッとした痛みが広がる。 「このイカ、結構いけるよ。澄子さんも食べてみて」
澄子は、上品に箸を伸ばした。 「……少し、辛すぎます。あなたは昔から、こういう刺激の強いものばかり好みますね」 「そうだったかな。でも、この刺激がないと、飲んだ気がしないんだよ」
誠二は、アルコールの力に背中を押されるように、言葉を紡いだ。 「最近、思うんだ。俺たちは、あまりにも『波風を立てないこと』に執着しすぎて、凪どころか、干からびていたんじゃないかって」
澄子の手が、ピタリと止まる。彼女はイカを咀嚼し、ゆっくりと飲み込んでから、誠二を真っ直ぐに見た。 「……干からびていたのは、あなたでしょう。私は、今のこの静かさが、一番の贅沢だと思っているんです。誰にも邪魔されず、誰の機嫌も取らなくていい生活」
「それは……そうかもしれない。でも、俺は最近、トイレを磨いたり、風呂を掃除したりしてるとね、自分がどれだけ君に甘えていたか、ようやく分かってきた気がするんだ」
「感謝業」の成果だろうか。以前の誠二なら、こんな気恥ずかしい台詞を吐く前に、自尊心が邪魔をしたはずだ。 澄子は、ふっと鼻で笑った。 「今さら、何を。十年前、私があれだけ泣いて訴えていた時は、テレビの音量を上げて聞いてさえいなかったのに」
過去の刃が、誠二の胸を薄く切り裂く。 「……すまなかった。本当に、あの頃の俺は馬鹿だった」 「謝ってほしいわけじゃありません。ただ、私はあの時に、自分の中であなたを『処理』したんです。そうしなければ、自分が壊れてしまうから」
彼女の言葉は、氷のように冷たく、しかし透き通っていた。 誠二は、大吟醸の残りを飲み干した。喉が焼ける。 「処理されても、構わない。でも、俺はまだ生きてる。この酒を旨いと思うし、君が隣で飲んでくれていることを、ありがたいと思ってるんだ」
澄子は二口目の酒を、今度は少し長めに含んだ。 彼女の頬が、わずかに朱に染まる。 「……調子のいい人。掃除だって、いつまで続くことか」
「戦いだよ、これは。怠けようとする自分との戦いだ」 「勝手に戦ってください。私は、観戦料を払う気はありませんから」
口調は相変わらずの「塩対応」だ。だが、彼女は席を立たなかった。 二つ目のワンカップを開けようとする誠二の手を、彼女は視線だけで制した。 「……それは、明日にしなさい。飲みすぎです」
「……分かった。澄子さんがそう言うなら」
誠二は素直に従った。 かつての自分なら「うるさい」と一蹴しただろう。だが今の誠二には、その制止さえも、自分に向けられた「関心」という名の贅沢に思えた。
リビングの空気は、まだ冷たい。 けれど、そこには大吟醸の華やかな香りと、イカを焼いた生活の匂いが、確かな層となって漂っていた。 「真空」の中に、少しずつ、人間が吐き出す熱気が混じり始めていた。
誠二は立ち上がり、空になったグラスとパックを手に取った。 「洗っておくよ。銅のエッグパンじゃないから、俺でも大丈夫だ」 「……お湯を使ってください。油が落ちにくいですから」
澄子は、再び本を手に取ったが、その目は文字を追っていないように見えた。 キッチンで皿を洗う誠二の背中に、彼女の視線が微かに触れたような気がした。
「おやすみ、澄子さん。今日も、ありがとう」
返事はなかった。 けれど、誠二がリビングを出る際、背後でパチンと電気が消える音がした。 暗闇の中、彼女もまた、自分の部屋へと戻っていく。 同じ屋根の下、異なる絶望を抱えながら。 それでも今夜の二人の胃の腑には、同じ酒の熱が、静かに灯っていた。
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