第19話 防音壁の家:「千五百円の光悦」

第19話 防音壁の家:「千五百円の光悦」


「……結局のところ、あなたたちは不幸でいることが『好き』なのよね」


タブレットの画面の中、お気に入りのメンターが事もなげに言い放った。誠二はイヤホンの奥で、心臓が小さく跳ねるのを感じた。昭和の野球動画を卒業し、最近はこうした自己啓発やマインドフルネスの動画を貪るように見ている。


(不幸が好き……? まさか。俺はただ、平穏を求めているだけだ)


そう言い聞かせようとして、喉元で言葉が詰まる。平穏という名の停滞。波風を立てないという名の逃避。それが澄子との間に「真空」を作り上げ、自分を孤独という檻に閉じ込めているのだとしたら、それは確かに「不幸」を自ら飼い慣らしていることに他ならないのではないか。


「いや、違う。変えてみせる」


誠二は勢いよく立ち上がった。 まずは「感謝業」だ。彼は最近、これを自らに課した軍規のように守っている。 洗面所からゴム手袋を取り出し、トイレの扉を開ける。かつては澄子に任せきりだった場所。便器の蓋を開けると、澄子の完璧な清掃のおかげで、もともと汚れなど見当たらない。しかし、誠二はあえてブラシを手に取った。


「ありがとうございます。ありがとうございます……」


小声で唱えながら、陶器の肌を磨く。シュッ、シュッという規則正しい音。 悪い習慣は、放置された空き地に生い茂る雑草のように、放っておいても勝手に身につく。自分を正当化する癖、不機嫌を撒き散らす癖、黙り込む癖。 だが、良い習慣は違う。それは温室で育てる繊細な花のように、毎日意識して水をやり、自分の中の「怠惰」という害虫と戦い続けなければ、すぐに枯れてしまう。


(今日くらい、やらなくても澄子さんは気づかないだろう) (腰も痛いし、動画の続きを見ようか)


囁きかける誘惑を、誠二は首を大きく横に振って打ち消した。 「いかんいかん。ここでやめたら、元の木阿弥だ」 次は風呂場だ。シャワーヘッドを磨き、排水溝の髪の毛を取り除く。 「ありがとうございます。いつも、体を清めてくれて」 湿ったタイルの匂いと、洗剤の泡が弾ける微かな音。無心に手を動かしていると、不思議と胸のざわつきが収まっていく。心を込める。それは、ただの家事ではなく、自分の中に溜まった「澱」を掻き出す作業でもあった。


夕方、誠二は城北中央公園のボランティアの帰りに、商店街の魚屋へ立ち寄った。 店頭には、艶やかなネタが並んだ握り寿司のパックがある。


「大将、これ二つ。……え、千五百円? 前は千円で買えたよね」 「旦那、勘弁してよ。米も高いし、光熱費も上がりっぱなしだ。これでもギリギリなんだから」


誠二は千円札三枚を出しながら、世の中の変容を肌で感じた。自分の年金も、ビルメンテナンスのアルバイト代も増えないのに、世界は勝手に高騰していく。この三千円は、今の自分にとって決して小さな出費ではない。


帰宅すると、リビングには澄子の気配があった。 彼女は定位置の椅子に座り、パッチワークの針を休めていた。 誠二はレジ袋をカサリと鳴らし、努めて明るい声を出した。


「ただいま。澄子さん、今日は魚屋の前を通ったら、すごく美味しそうなのがあったんだ。奮発して二パック買ってきたよ」


澄子がゆっくりとこちらを向く。その視線は、誠二の手元のレジ袋に、一瞬だけ止まった。


「……お寿司なんて、贅沢ですね。今夜は煮物を作るつもりでしたのに」 「まあ、そう言わずに。たまにはいいじゃないか。千五百円もしたんだよ、一パック。前より随分高くなったけど、その分、ネタが光って見えてね」


誠二はテーブルに寿司を並べた。 中トロの脂が照明を反射して輝き、琥珀色の穴子が甘い詰めを纏っている。 「さあ、一緒に食べよう。澄子さんも、よかったらどうぞ」


二人は向かい合って座った。 誠二は心の中で「感謝業」の延長として、心からの「いただきます」を言おうと決めていた。


「いただきます。……お、このマグロ、口の中でとろけるな。澄子さん、どう? 美味しいよ」 「……そうですね。脂がのっています」


澄子の反応は、相変わらず凪の海のようだった。 だが、誠二は気づいていた。彼女が一番好きなウニを、大切そうに最後に残していることを。かつて、真理がまだ小さかった頃、家族で回転寿司に行った時も、彼女はいつもそうしていた。


「公共料金も上がって、大変だよな。家計も苦しいだろうに、いつもやりくりしてくれて、ありがとうございます」


誠二は、喉まで出かかった「感謝」を、言葉にして放った。 「ありがとうございます」という言霊が、空気清浄機の音を突き抜けて、彼女の耳に届く。 澄子の箸が、ぴたりと止まった。


「……急に、どうしたんですか。気持ち悪い」 「いや、今日YouTubeでね、不幸が好きな人は感謝が足りないって言われて……。いや、そういうわけじゃないんだけど。とにかく、この家がいつも綺麗なのは、澄子さんのおかげだと思ってるんだ」


澄子は無言で、残していたウニを口に運んだ。 咀嚼する間、彼女の眉間に微かな皺が寄った。それは怒りというより、処理しきれない感情をどうにか格納しようとする、システムのエラー表示に見えた。


「……掃除、してましたね。トイレと、お風呂」 「え、ああ。わかったかい?」 「道具の置き場所が、少し違っていましたから」


彼女は冷たく指摘したが、その後に続いた言葉は、これまでになく「温度」を持っていた。


「……でも、蛇口の曇りは取れていました。そこだけは、評価します」


誠二は、不覚にも泣きそうになった。 千五百円の寿司よりも、自分の努力が彼女の「観測」にかかったことの方が、ずっと贅沢なご褒美に思えた。


「ありがとう。明日も、またやるよ。いい習慣を身につけたいんだ」 「……ほどほどにしてください。やりすぎて壊されたら困りますから」


澄子はそう言って立ち上がり、自分の空いたパックを片付け始めた。 その背中は、相変わらず無色透明の防音壁のようだったが、誠二には、その壁に小さな「窓」が開いたような気がした。


夕食後のリビングに、わずかに寿司の酢の香りと、誠二の微かな満足感が漂う。 悪い習慣に戻ろうとする自分を、また明日も、公園のボランティアと感謝業で叩き起こさなければならない。それは一生続く戦いかもしれない。


それでも、誠二は確信していた。 この真空の中にも、酸素はまだ残っている。 自分たちが不幸を「好き」で居続けるのをやめれば、この家にも、また別の風が吹くはずだと。


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