第21話「芽吹かぬ庭の鏡」
第21話「芽吹かぬ庭の鏡」
冬の朝の光は、鋭利な刃物のように寝室のカーテンの隙間から差し込んでくる。 誠二は、昨夜の大吟醸が嘘のように、すっきりとした目覚めを迎えた。アルコールの熱が抜けた後の身体は、どこか軽く、新しく生まれ変わったような錯覚さえ覚える。
(今日も、自分を律することから始めよう)
布団の中でそう誓い、誠二は洗面所へと向かった。 蛇口をひねり、冷水で顔を洗う。肌が凍るような刺激に、意識が鮮明に研ぎ澄まされる。タオルで水分を拭き取った後、彼は鏡の前に立ち、自らに課した「朝の修行」を開始した。
「笑う練習」だ。
メンターの動画によれば、脳は表情筋の動きを感知して「幸せである」と誤認するという。誠二は、こわばった頬の筋肉を無理やり引き上げ、口角を左右に広げた。 鏡の中に映るのは、不自然に剥き出しになった歯と、笑っていない濁った瞳。それは、喜びの表現というよりは、威嚇する猿か、壊れた操り人形のようだった。
「……あ、い、う、え、お。ありがとうございます。感謝、感謝……」
声に出して、さらに頬を釣り上げる。目尻に深い皺を寄せ、かつての「事なかれ主義」で作り笑いばかりしていた頃とは違う、真実の笑顔を模索する。 その時だった。
背後の廊下を、澄子が音もなく通り過ぎようとした。彼女はふと足を止め、鏡越しに誠二と視線がぶつかった。 誠二は、頬を釣り上げたまま固まる。 澄子は、幽霊でも見るような、あるいは名状しがたい嫌悪感を抱いたような目をして、小さく呟いた。
「……怖いですよ。朝から」
それだけ言い残すと、彼女はリビングの方へと消えていった。 静寂が戻った洗面所で、誠二の顔から力が抜けた。釣り上げられていた頬が重力に従って垂れ下がり、鏡の中には、一気に老け込んだような憔悴した男が残された。
「……なんだかなぁ」
誠二は溜息と共に吐き出した。 必死だった。自分を変えようと、新しい人格をこの老いた肉体に叩き込もうと、昨日からずっと戦っている。だが、その努力は、最も近くにいる人間にとっては「不気味な余興」に過ぎないのだ。 時折、すべてをぶん投げたくなる。 (今さら、何になる。こんなことをして、死ぬまで「演じて」何が変わるんだ) 心の底から沸き上がる虚無感。それは、澄子との三十年以上の年月が作り上げた、巨大な冷気だった。
だが、誠二はキッチンへ行き、やかんに火をかけた。 シュンシュンと鳴る音を聞きながら、彼は自分に言い聞かせる。 (まだ、球根を植えたばかりじゃないか。土の中で何が起きているか、外からは見えない。芽が出るまでには、もう少し時間がかかるんだ)
白湯をゆっくりと啜る。温かい液体が食道を通り、冷え切った内臓をじわじわと温めていく。その微かな熱だけが、今の彼の唯一の味方だった。
六時過ぎ。誠二は城北中央公園へと向かった。 澄子はリビングで、背中を向けて茶を飲んでいた。 「……行ってくるよ」 「はい」 会話はそれだけだ。
公園に着くと、ラジオ体操の音楽が流れ出す。 「腕を前から上にあげて、大きく背伸びの運動!」 誠二は周囲の人々と共に、冬の朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「おはようございます、野上さん。今日もいい姿勢ですね」
体操が終わると、ウォーキング仲間の中年女性が明るく声をかけてきた。 「ああ、おはようございます。冷えますね」 「本当。でも野上さんが毎日花壇を綺麗にしてくださるから、ここを通るのが楽しみなんです。いつも本当にありがとうございます」
彼女の言葉は、冬の陽だまりのように温かく、誠二の凍りついた心に染み渡った。 「いえいえ、私のほうこそ。皆さんにそう言っていただけるのが、生きがいですから」
誠二は自然に笑っていた。鏡の前であれほど苦労した笑顔が、よその人との会話の中では、こんなにも容易く溢れ出す。 それが、どうしようもなく悲しかった。
(長年連れ添ってきた妻よりも、名前も知らないよその人の方が、僕に対して優しいなんて。僕の努力を、この人たちは一瞬で肯定してくれるのに……)
その優しさが、かえって家の中の「真空」を浮き彫りにする。 家に戻れば、またあの、言葉を削ぎ落とした静寂が待っている。 誠二は、花壇の土を弄りながら、深く、深く、土の匂いを嗅いだ。
「ありがとうございます。ありがとうございます……」
泥に汚れた軍手を見つめながら、彼は自分を奮い立たせる。 澄子が自分をどう思うかは、課題の分離だ。それは彼女の問題であり、僕の問題ではない。僕は僕の「善き習慣」を続けるだけだ。
だが、心の一部が、ひっそりと泣いている。 いつか、あの鏡の中の不気味な笑顔が、澄子の前で本当の笑顔に変わる日は来るのだろうか。 それとも、この花壇のように、誰かのために咲き続けるだけで、自分の家には一輪の花も咲かないまま終わるのだろうか。
誠二は、立ち上がり、空を仰いだ。 雲ひとつない青空が、彼の孤独を嘲笑うかのように、どこまでも高く、澄み渡っていた。 彼はもう一度、小さく「ありがとうございます」と呟いた。それは澄子へでも、公園の人へでもなく、まだ芽吹かない自分の中の球根への、祈りのような言葉だった。
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