第18話 『凪の食卓』

第18話 『凪の食卓』


夕刻のスーパーの喧騒は、誠二にとって異世界の祭りのようだった。 主婦たちの鋭い視線が特売品を射抜き、子供がカートの車輪を鳴らして走り去る。その生命力の奔流の中で、誠二は少しだけ胸を張って、冷蔵ケースから卵のパックを二つ、カゴに入れた。


一週間前、澄子の「聖域」である冷蔵庫から、断りもなく卵を二個拝借して目玉焼きを作った。翌朝、冷蔵庫の卵ケースの空いたスペースに、付箋が貼られていた。 『使った分は、補充してください』 文字に感情はなかった。怒りですらない。ただ、帳簿の不整合を指摘するような、冷徹な事務連絡。


「よし。返すだけじゃ、芸がないからな」


誠二は独り言を飲み込み、レジへと向かった。 今日の彼は、少しだけ高揚していた。城北中央公園でボランティア仲間から「料理ができる男は格好いい」とおだてられた影響かもしれない。あるいは、澄子が丹精込めて縫っているパッチワークのように、自分も何か「形のあるもの」を提示したくなったのかもしれない。


帰宅すると、換気扇の「ゴー」という音が迎えてくれた。 澄子はリビングの隅で、また別の布と格闘している。誠二はキッチンとの境界線——目に見えない国境——の手前で、わざとらしくレジ袋を鳴らした。


「……ただいま。これ、卵。二パック買ってきたから、冷蔵庫に入れておくよ」


澄子の針が止まる。しかし、顔は上げない。 「……そんなにたくさん、入りません」 「あ、ああ、そうか。いや、半分は僕が使うから。今から、だし巻き卵を作ろうと思ってね」


澄子からの返答はない。テレビのニュース番組が、どこかの国の紛争を淡々と報じている。 誠二は意を決して、澄子の「聖域」に足を踏み入れた。


まずは、道具の確保だ。澄子が使い込んでいる銅製のエッグパンを手に取る。ずっしりと重く、手入れの行き届いた道具の感触が、誠二の指先に緊張を強いる。 ボウルに卵を三つ割り入れる。「コン、パカッ」という乾いた音が、静かなキッチンに響く。


「澄子さん、出汁は……あ、これを使っていいかな。顆粒のやつ」 「……ご自由に」


背中越しに届く声は、やはり温度が低い。 誠二は構わず続けた。ボウルの中で菜箸を動かす。「カシャカシャ」という軽快な音が、換気扇の唸りを上書きしていく。 「公園でね、料理の話になったんだ。最近は男性も台所に立つのが当たり前だって。みんな、結構やってるみたいだよ」


独り言に近い。返事は期待していない。だが、誠二は言葉を止めなかった。沈黙を埋めるためではなく、今この瞬間の自分の鼓動を確かめるための、独白。


「砂糖は控えめにして、少し醤油を垂らして……。ほら、いい色になってきた」


コンロの火を点ける。青い炎がシュンと音を立てて鍋底を舐める。油を引いた瞬間の、じゅわっという期待感。 熱した銅板に卵液を流し込む。ジッ、と弾けるような音がして、一気に甘い香りが立ち上がった。卵と出汁が混ざり合い、熱によって変質していく、豊潤な匂いだ。


誠二は全神経を集中させた。 「おっと、そこだ。……よし、巻けた」 一回、二回。不格好ではあるが、黄色い塊が層を成していく。 かつて、新婚の頃。澄子が作った出し巻き卵の美しさに感動して、「これなら毎日でも食べられる」と言った記憶が、ふと脳裏をかすめた。あの時、彼女はどんな顔をしていただろうか。思い出そうとしても、今の彼女の無表情な横顔が記憶を上書きしてしまい、うまく結像しない。


最後の一巻きを終え、誠二はまな板の上で包丁を入れた。「サクッ」と微かな音がして、中から湯気が立ち上る。断面からは、閉じ込められていた出汁がじんわりと滲み出していた。


誠二は二つの小皿を用意した。 それぞれに三切れずつ、丁寧に並べる。 そして、一皿をトレイに載せ、リビングのテーブルへと運んだ。 澄子のパッチワークの作業台から少し離れた、共有のスペースへ。


「作ったものを、二つに分けたんだ。……よかったら、澄子さんもどうぞ。出来立てが一番おいしいから」


誠二は、もう一つの皿を自分の分として、反対側の椅子に置いた。 澄子は、ようやく顔を上げた。 眼鏡の奥の瞳は、誠二を捉えているようで、その実、背後の壁を透過しているようにも見える。彼女はゆっくりと針を置き、指先に刺さった見えない棘を抜くような仕草をしてから、立ち上がった。


「……いただきます」


ボソリと呟き、彼女は椅子に座った。 誠二も向かい側に座る。 二人の間に、湯気を立てる黄色い塊がある。


澄子は箸を取り、一切れを口に運んだ。 誠二は自分の分を口にするのを忘れ、彼女の口元を凝視していた。 (味はどうだ? 醤油が強すぎたか? それとも、出汁が足りなかったか?)


澄子の咀嚼は静かだった。 飲み込んだ後、彼女は湯呑みの茶を一口すすり、静かに言った。


「……少し、甘すぎます」 「そうか。やっぱり砂糖が多かったかな。次はもう少し減らしてみるよ」 「……」


澄子はそれ以上何も言わなかった。しかし、彼女の手は止まらず、残りの二切れも口へと運ばれた。 それは「美味しい」という称賛よりも、誠二にとっては重みのある行為だった。 彼女は、誠二が差し出した「物質」を受け入れたのだ。


誠二も自分の分を食べる。 確かに少し甘い。だが、自分で作ったという高揚感が、その甘さを「温かさ」に変換してくれる。 喉を通る熱が、冷え切っていた胃の腑をゆっくりと解かしていく。


「城北の公園も、もうすぐ梅が咲きそうだよ。澄子さんも、たまには散歩に行かないか? 綺麗だよ、あそこは」


誠二の誘いに、澄子は答えない。 ただ、空になった皿をじっと見つめていた。 彼女の頭の中では、「この男は死んだもの」という処理プロセスが、一瞬だけエラーを起こしているのかもしれない。あるいは、ただ単に、後片付けの手間を計算しているだけなのかもしれない。


「ごちそうさま。お皿、私が洗っておきます」


澄子が立ち上がり、誠二の皿も一緒に手に取った。 「あ、いや、僕がやるよ」 「いいえ。エッグパンの洗い方、あなたは知らないでしょう。銅は傷つきやすいんです」


それは、拒絶でありながら、同時に「この家のルール」への勧誘でもあった。 澄子はキッチンへ戻り、蛇口をひねった。 水の流れる音が、再び二人の間の会話を断ち切っていく。


誠二はリビングに残され、彼女の背中を見つめていた。 彼女が去った後のテーブルには、パッチワークの切れ端が一つ、ぽつんと落ちていた。 鮮やかな赤色の、小さな布。


誠二はそれを指先で拾い上げようとして、やめた。 今、その布に触れてしまえば、自分が必死に維持している「静穏という名の真空」が、一気に崩れてしまうような気がしたからだ。


「……美味しかったよ。ありがとう」


誠二の声は、水の音にかき消されて、彼女には届かなかったかもしれない。 それでも、誠二は満足していた。 今夜の家の中は、いつもより少しだけ、出し巻き卵の匂いが残っている。 それだけで、今日という日が「無」ではなかった証拠になる。


誠二は自室に戻り、再びイヤホンを耳に押し込んだ。 昭和のプロ野球。モノクロの画面。 だが、耳の奥には、まだ彼女が皿を重ねた時の「カチッ」という音が残っていた。


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