第17話 鈍色の聖域

第17話 鈍色の聖域


早朝五時半、野上誠二は枕元のデジタル時計が数字を変える瞬間に目を覚ました。隣の寝室からは、微かに、しかし規則正しい澄子の寝息……ではなく、空気清浄機が吐き出す無機質な風の音だけが聞こえてくる。


誠二は音を立てないよう、寝返り一つにも細心の注意を払う。この家において、誠二の存在感は「湿度」のようなものであるべきだった。あっても邪魔にならず、しかし無視もできない、停滞した空気。


キッチンへ向かうと、カウンターの上にはすでに「それ」が置かれていた。ラップがピンと張られた平皿。中身は、昨夜の残りの焼き鮭の端切れと、切り干し大根。そして、一膳分のご飯がよそわれた茶碗。 「同居している大型の動産」への給餌。澄子のルーチンは完璧だった。


誠二はそれをレンジに入れ、加熱終了を告げる電子音が鳴る前に、指先で強制的に扉を開けた。あの「ピー」という音は、朝の静寂という名の防衛線をいとも容易く突破してしまうからだ。


「……いただきます」


誰もいないダイニングで、誠二は小声で呟く。かつて、娘の真理がいた頃は、ここは戦場だった。教育方針、誠二の無神経な言動、澄子の溜め込みすぎた不満。怒号が飛び交い、食器が触れ合う音さえ刺々しかった。 今のこの沈黙を、誠二は「成熟」と呼んでいる。 (これでいいんだ。お互い、干渉せずに、穏やかに。これが終着駅なんだ) 自分に言い聞かせる声が、冷めた鮭の皮を噛む音にかき消された。


六時十五分。誠二は城北中央公園へと向かう。 玄関を出る際、背後で澄子の部屋の扉が開く音がした。振り返ることはしない。彼女もまた、誠二が靴を履き終えるのを、扉の向こうで待っているはずだ。視線が混ざり合うことは、予定にないコストの発生を意味する。


公園の空気は、家の中の淀んだそれとは対照的に、刺すように冷たく、清々しい。 ラジオ体操の音楽が流れ出すと、誠二は周囲の人々に合わせて手足を伸ばした。


「野上さん、おはようございます」


隣で腕を振っていた初老の男性が声をかけてくる。 「ああ、おはようございます。今日も冷えますな」 「全くだ。でも、動くと気持ちがいい」


誠二は、この「挨拶」という行為に、渇いた喉を潤すような快感を覚えていた。家の中では、一週間かけても費やさないほどの言葉数が、ここでは数分で消費される。


体操が終わると、誠二は備え付けの倉庫から軍手と剪定ばさみを取り出した。ボランティアでの花壇の手入れ。これが、彼が自らに課した「聖域の防衛」だった。


パンジーとビオラ。冬の寒さに耐える花々の根元にある雑草を、一つひとつ丁寧に抜いていく。土の湿った匂い、指先に伝わる霜柱の感触。誠二は、家での「気配を消す生活」から解き放たれ、自分が確かにこの世界に質量を持って存在していることを確認する。


「あら、いつもありがとうございます。綺麗ですね。野上さんが手入れをしてくださるから、歩くのが楽しみなんです」


ウォーキング中の女性が足を止めて微笑んだ。 誠二は腰を上げ、少し照れくさそうに帽子に手をやる。 「いえいえ、ただの趣味ですから。この時期はパンジーが頑張ってくれると、こちらまで元気をもらえますよ」 「本当ね。この紫、とても鮮やかだわ」


誠二の胸の奥が、じんわりと熱くなる。 (俺はまだ、誰かの役に立っている。俺の言葉は、誰かに届いている) その高揚感は、家に帰れば瞬時に霧散することを知っている。だが、その一時的な麻薬のような肯定感がなければ、あの「真空」の中で息をつくことはできなかった。


午前十時。自宅に戻ると、リビングには澄子の姿があった。 彼女はパッチワークの布を広げ、眼鏡をかけて針を動かしている。 誠二が「ただいま」と言おうとした瞬間、澄子は手元の布に目を落としたまま、左手でリモコンを操作した。テレビから流れる料理番組のボリュームが、一段上がる。 それが、彼女の「入室確認」のサインだった。


誠二は声を飲み込み、そのまま自分の「領土」である元子供部屋へと直行する。 廊下を通る際、澄子が広げているパッチワークの模様が目に入った。それは、さまざまな色や形の端切れを、緻密な縫い目で繋ぎ合わせたものだった。 誠二はふと思う。 あの布の一枚一枚が、かつて彼女が流した涙や、自分に向けた怒りの残骸なのだとしたら。彼女はそれを丁寧に縫い合わせ、自分とは無縁の、美しく静かな地獄を作り上げているのではないか。


部屋に入り、ドアを閉める。 誠二はタブレットを取り出し、イヤホンを装着した。 画面には、昭和40年代のプロ野球のアーカイブ映像。砂嵐の混じったモノクロの映像の中で、選手たちが泥にまみれて咆哮している。 かつて熱狂したはずの光景が、今は遠い星の出来事のように思える。


ふと、イヤホンの隙間から、リビングの音が漏れ聞こえてきた。 ミシンの規則正しい音。 「カタカタカタカタ……」 それは、まるで時限爆弾のカウントダウンのようでもあり、あるいは、二人の間にある「真空」を維持するための、維持装置の駆動音のようでもあった。


誠二は深く椅子に沈み込む。 (寂しくはない。これは静穏だ。俺たちは、これでいいんだ) 彼は自分に言い聞かせ、画面の中の、もうこの世にはいない打者がホームランを打つのを眺めていた。


昼食の時間になれば、またキッチンのカウンターに「一皿」が置かれるだろう。 誠二はそれをレンジで温め、澄子が自室にこもるのを待ってから食べる。 会話はない。視線も合わない。 ただ、同じ屋根の下で、異なる真空を抱えた二つの個体が、静かに、確実に、終わりへと向かって漂っている。


窓の外では、彼が手入れをした公園のパンジーが、冷たい風に揺れているはずだった。そこには確かな色彩と、他者からの賞賛があった。 しかし、この3LDKの要塞の中では、色彩はすべて吸い込まれ、ただ鈍色の沈黙だけが、重く、優しく、二人を包み込んでいた。


誠二は、ゆっくりと目を閉じる。 次に目を開けた時、また時計の数字が変わるのを待つだけの、長い午後が始まろうとしていた。


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