第16話 『真空に薄荷(ハッカ)は香る ―独り笑うための感謝業―』
第16話 『真空に薄荷(ハッカ)は香る ―独り笑うための感謝業―』
シャワーを浴び終えた誠二の身体からは、ハッカの清涼な香りが立ち上っていた。それは、この家を四十年支配してきた澱んだ空気に対する、彼なりのささやかな宣戦布告であり、同時に自分自身を肯定するための儀式でもあった。
誠二は、磨き上げたばかりのトイレの前を通り、意気揚々と台所へ向かった。 そこには、昼食の準備を終えようとしている澄子がいた。彼女は、誠二が放つミントの香りに微かに鼻を動かしたが、何も言わずに小皿を並べている。
誠二は、彼女の背中に向かって、意識して明るい声を投げた。
「澄子さん、冷蔵庫の卵、二つ使ってもいいかな。明日の朝、散歩のついでに新鮮なのを買ってきて返すよ」
澄子がぴくりと肩を揺らした。昨夜の「ビール」に続き、今日の「澄子さん」という呼びかけ。彼女にとって、誠二の変貌は未知の害虫の侵入のように不気味に映っているのかもしれない。
「……勝手にすれば。返してくれれば文句はないわ」
澄子は振り返りもせず、冷たく言い放った。だが、誠二はもう、その拒絶に傷つくことはなかった。彼女が不機嫌なのは、彼女の課題だ。俺は、俺がやりたい「親切」を、俺の責任でするだけだ。
「ありがとう。助かるよ」
誠二は、冷蔵庫の澄子エリアから卵を二つ取り出した。殻を割る「コン」という乾いた音。フライパンに落とされた白身が、熱を帯びた油と出会って「ジュワッ」とはじける。 香ばしい匂いが立ち込め、白身の縁がチリチリと茶色く色づいていく。
誠二は、丁寧に二つの目玉焼きを焼き上げた。 黄身は絶妙な半熟。そこに、ほんの少しの醤油を垂らす。立ち上る湯気と共に、醤油の焦げた食欲をそそる香りがキッチンに広がった。
彼は、それを別々の小皿に盛り付けた。 一つは自分用。そしてもう一つを、澄子が今まさに腰を下ろそうとしているテーブルの右端へ、そっと置いた。
「もしよかったら、どうぞ。焼きたてが一番おいしいから」
澄子は、自分の座席に置かれた皿を、まるで見慣れない爆弾か何かのように見つめた。
「……何よ、これ。私は自分の分を用意したって言ったはずよ」 「分かっているよ。これは、俺がただ焼きたかったんだ。澄子さんの分まで焼くと、なんだか料理をしているっていう実感が湧いて楽しくてね。お腹がいっぱいなら残してくれて構わない」
誠二は、自分の皿を持って、対角線上の左端に座った。 「いただきます」
彼は、自分の目玉焼きの黄身を箸で突いた。とろりと溢れ出す濃密な黄色い液体。それを白身に絡めて口に運ぶ。 「……うん、うまい。やっぱり火を通したての卵は最高だな」
誠二は、心から満足そうに咀嚼した。 澄子はしばらく無言で座っていたが、やがて、忌々しそうに箸を手に取った。
「……無駄にするのは嫌いなの。いただくわ」
彼女は、誠二が焼いた目玉焼きを、まるで毒味でもするかのように慎重に口へ運んだ。 咀嚼する。飲み込む。 その間、誠二は彼女を凝視することはしなかった。ただ、自分の目玉焼きの旨さを噛み締め、城北中央公園の青空を思い出しながら、穏やかな時間を過ごしていた。
「……焼きすぎよ。私はもっとレアが好きなの」
澄子が、小さく呟いた。 誠二は、その言葉を聞いて、思わず小さく吹き出した。
「ははは、そうか。次はもう少し早めに火を止めるよ。……感想を教えてくれてありがとう、澄子さん」
「次なんてないわよ」 澄子はそう言いながらも、皿に残った黄身を、付け合わせのパンで綺麗に拭って口に放り込んだ。完食だった。
二人の間の「真空」は、まだそこにある。 だが、誠二が焼いた卵の温もりと、ハッカの香りが、その冷たい空間に微かな対流を生んでいた。
「ごちそうさま」 誠二は立ち上がり、自分の皿をシンクへ持っていった。 「あ、澄子さん。その皿も置いておいて。俺が自分のと一緒に洗うから」
「……勝手にしなさい」
澄子は席を立ち、リビングの方へ消えていった。 誠二は、彼女の使い終えた皿を手に取った。そこには、自分の「親切」を受け取った確かな証拠が残っていた。
(幸せだなあ……)
誠二は、蛇口から流れる水の音を聞きながら、心の中でそう繰り返した。 相手が喜んだかどうかは、重要ではない。 自分が「澄子さんに目玉焼きを焼いた」という事実。その行動を選択した自分を、誠二は誇らしく思っていた。
洗ったばかりの皿をカゴに並べると、誠二はハッカの香る自分の腕を見つめた。 不機嫌な妻。冷え切った家。 それでも、誠二の心は、城北の空のようにどこまでも高く、澄み渡っていた。
「うれしい、楽しい、幸せ、ついてる」
もう一度、小さな声でおまじないを唱える。 誠二は、今日という新しい一日を、自分の足で一歩ずつ、大切に踏みしめていた。
何だかうれしい。
あははははw。
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