第15話 『真空に薄荷(ハッカ)は香る ―独り笑うための感謝業―』
第15話 『真空に薄荷(ハッカ)は香る ―独り笑うための感謝業―』
城北中央公園の澄み切った青空を背中に背負い、誠二は軽やかに自転車を漕いで帰宅した。 玄関のドアを開け、かつては重圧でしかなかった沈黙の中へ足を踏み入れる。
「ただいま」
返事がないことは分かっている。それでも、自分の声が家の空気をわずかに震わせることが、今は心地よかった。誠二は脱いだ靴を揃えると、迷うことなくトイレへ向かった。
かつて、トイレ掃除は澄子の「義務」であり、自分にとっては「汚物と対面する場所」でしかなかった。しかし、昨夜スマホで見たメンターの動画が、誠二の背中を押していた。 『身の回りの汚れは、心の曇り。感謝の言葉とともに磨けば、運命は自ずと拓ける』
誠二は袖をまくり、便器の前に膝をついた。ブラシを手に取り、陶器の白い肌を丁寧に擦り始める。
「お父さん、ありがとうございます。不器用な俺を育ててくれて」
独り言が、狭い空間に反響する。 続いて、縁の裏側を磨きながら、心の中に一人の顔を浮かべた。
「お母さん、ありがとうございます。いつも俺の味方でいてくれて」
最初は、どこか気恥ずかしく、上っ面だけの言葉だった。自分に言い聞かせているような、空虚な響き。それでもいい、とメンターは言っていた。言葉が先で、心は後からついてくるのだと。
便器の内側がピカピカと光り始める。誠二は次に、雑巾を手に取って床に這いつくばった。四隅の埃を掻き出し、木目の床を一枚ずつ磨き上げていく。
「澄子さん、ありがとうございます。四十年間、この家を守ってくれて」
その名前を口にした瞬間、胸の奥がチクリと痛んだ。感謝というには、あまりに重い愛憎が混じっている。だが、彼は手を止めなかった。 「ありがとう。ありがとう」 そう繰り返しながら、澄子が一人でこの床を拭いていた年月を思う。彼女がこの家で感じてきた孤独を、自分は「空気」として無視し続けてきた。その事実に蓋をするのではなく、ただ「今、磨くこと」で受け入れていく。
「真理、一真。生まれてきてくれて、ありがとう」
家族全員の顔を思い浮かべながら、誠二は最後の一拭きを終えた。立ち上がり、磨き上げられたトイレを見渡すと、そこにはかつての「不潔な場所」の面影はなかった。
「……うれしい、楽しい、幸せ、ついてる」
おまじないのように、誠二は呟いた。 不思議なものだ。その四つの言葉を口にするだけで、強張っていた頬の筋肉が緩み、口角が自然と上がっていく。誰に見せるわけでもない笑顔が、トイレの鏡に映った。
「よし。次は俺の番だな」
誠二はそのまま脱衣所へ向かい、シャワーを浴びた。 公園の土汚れと、自分の中に澱んでいた古い感情を、熱い湯で一気に洗い流す。湯気の中で、皮膚が新しく生まれ変わっていくような感覚。
風呂上がり、誠二は昨日買ったばかりのハッカの小瓶を手にした。 蓋を開けると、キリリと冷たいミントの香りが、湿った浴室の空気を一変させる。
「うほっ、これだ。めっちゃいい香り……!」
指先に一滴垂らし、耳の後ろと手首に馴染ませる。 スーッとした清涼感が肌に染み込み、脳の奥まで爽快な風が吹き抜けた。加齢臭を隠すための「対策」ではなく、自分がこの香りを纏いたいから、纏う。その自由が、誠二を震わせた。
鏡の中の自分は、髪が濡れ、肌はハッカの刺激で少し赤らんでいる。 だが、その目は真っ直ぐに自分自身を見つめていた。
「誠二さん、何してるの? トイレから変な声が聞こえたけど……」
廊下を通りかかった澄子が、怪訝な顔で足を止めた。 誠二は脱衣所のドアを開け、爽やかなハッカの香りを引き連れて彼女の前に立った。
「ああ、澄子さん。トイレを掃除していたんだ。綺麗になると気持ちがいいなと思ってね。……あ、ハッカの匂い、強すぎたかな?」
誠二の「澄子さん」という呼びかけに、彼女は一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。これまでは「おい」か、あるいは無言。名前を呼ばれたのは、いつ以来だろうか。
「……別に。トイレが綺麗なら、それでいいわ。でも、変な宗教にハマったんじゃないでしょうね?」 「ははは、そう見えるか? 感謝業っていうらしいよ。おまじないみたいなものだ」
誠二は、彼女の冷ややかな反応を「彼女の課題」として軽やかに受け流した。 「お昼、俺が何か作ろうか? 公園の帰りにスーパーで少し野菜を買ってきたんだ」 「結構よ。私はもう自分の分を用意してあるから」 「そうか。分かった。それじゃ、俺は自分の分を作るよ。……あ、澄子さん、そこに落ちていた髪の毛、拾っておいたよ。ありがとう」
澄子は、毒気を抜かれたように立ち尽くしていた。 誠二は彼女の横をすり抜け、軽快な足取りでキッチンへ向かった。 背中からは、ハッカの清涼な香りが漂っている。
(幸せになるために、生まれてきたんだ)
誠二は、鼻歌を歌いながら包丁を握った。 昨日までは、澄子の沈黙に怯え、その一言一言に傷ついていた。 だが今は、磨き上げたトイレのように、自分の心が清々しく晴れ渡っているのを感じる。
「うれしい、楽しい、幸せ、ついてる」
もう一度、小さな声で繰り返す。 真空だったこの家の中に、新しい風が吹き始めていた。 それは誠二が自らの手で生み出した、感謝と自立の風だった。
窓の外では、冬の太陽が高い位置まで昇っていた。 誠二の人生は、ハッカの香りと共に、鮮やかに幕を開けたのだ。
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