第14話 『城北の青空、土の温もり ―真空を抜けた独りの呼吸―』

第14話 『城北の青空、土の温もり ―真空を抜けた独りの呼吸―』


二月の凍てつく空気の中、誠二は中古の自転車を漕ぎ出した。タイヤが砂利を踏む規則正しい音が、まだ眠る住宅街に小さく反響する。向かう先は、板橋区と練馬区にまたがる城北中央公園。


「……寒い。けど、悪くないな」


白い吐息がマフラーをかすめ、頬を刺す冷気が、かえって誠二の意識を鮮明にさせる。十五分ほど走ると、うっそうとしたケヤキの木立が見えてきた。


この公園には、ボランティアによるガーデニンググループがある。誠二は先日、募集の貼り紙を見て、思い切って事務局を訪ねたのだ。会員は皆、七十代、八十代。退職して数年の誠二など、ここではまだ「若手」の部類だった。


朝六時三十分。ラジオ体操の第一部が終わる頃、誠二は自分の担当区域である「下のトイレのそばの花壇」に到着した。 昨日もらった軍手をはめ、土の前に屈み込む。土からは、湿った命の匂いが立ち上がっていた。


「さて、まずは雑草抜きか。……しかし、どれが抜くべきものなんだ?」


誠二は手をこまねいた。彼にとって、植物は「花」か「それ以外」でしかなかった。青々と茂っている芽を掴みかけては、これが春に咲く大切な苗だったらどうしようと、指先を止める。


「困った顔をしてるわね、誠二さん」


不意に声をかけられた。隣の花壇を担当している、グループ最年長の佐藤さんだった。八十を超えているという彼女は、使い古された剪定鋏を器用に動かしながら、誠二に静かに微笑みかけた。


「佐藤さん。すみません、どれが雑草なのか区別がつかなくて。抜いてはいけないものを抜いてしまいそうで、怖くて」 「ふふ。そんなに難しく考えなくていいのよ。雑草だって、よく見れば綺麗なものもあるでしょう? 基本的に、自分が『邪魔だな』と思うものを適当に抜けばいいのよ。完璧にやろうとすると、花も息が詰まっちゃうから」


「適当で、いいんですか」 「ええ。土を触っているだけで、あの子たちは喜ぶんだから」


誠二は、ふっと肩の力が抜けるのを感じた。 (完璧に、か……。俺は家でも、そうだったのかもしれない) 澄子との生活で、正論を武器にし、ルールを押し付け、互いの息を詰まらせていたのは、自分だったのではないか。


誠二は、明らかに勢いよく伸びすぎた茎を鋏で切り、根元に溜まった枯れ葉を素手で掻き出した。指先に伝わる土の冷たさと、微かな弾力。 「……よし。お前、少し窮屈そうだったな。これでどうだ」 植物に話しかける自分に驚きながらも、その行為が不思議と心を整えていく。


やがて、スピーカーから軽快なピアノの旋律が流れ出した。二回目のラジオ体操の始まりだ。 誠二は立ち上がり、軍手を脱いで、木立の中に広がった人々の輪に加わった。


「腕を前から上にあげて、大きく背伸びの運動――」


号令に合わせて、誠二は両腕を天高く突き上げた。 「……ッ、うう、硬いな」 関節がミシリと鳴る。しかし、指先を空へ向かって伸ばし、胸を大きく開くと、冷たい酸素が肺の最深部まで流れ込んできた。


縮こまっていたのは、体だけではなかったのだ。 あの「硝子の真空地帯」で、澄子の顔色を伺い、自分の殻に閉じこもり、一ミリの隙間もないほどに心を固く閉ざしていた自分。


(腕を横に振って、大きく回します)


遠くで見つめる澄子の冷たい瞳ではなく、今はただ、自分の指先の軌道だけを見つめる。 体操が進むにつれ、体の芯からじわりと熱が生まれてきた。 ふと見上げると、冬枯れのケヤキの枝の間から、抜けるような青空が広がっていた。吸い込まれそうなほどに深く、澄み切った青。


「……はあ、……ふう」


深呼吸の号令。誠二はこれまでの人生で最も深い息を吐き、そして吸った。 身体中の細胞が、冬の光を浴びて目覚めていくような感覚。


「……生きてるーーーって感じだな」


独り言が、笑みと一緒にこぼれ落ちた。 鏡の前で練習した、あの引きつった笑顔ではない。 身体の底から突き上げてくる、生命の充足感に伴う自然な笑みだった。


「お疲れ様。いい汗をかいたわね」 佐藤さんが、水筒の温かいお茶を差し出してくれた。 「ありがとうございます。佐藤さん、ここに来て、なんだかやっと呼吸の仕方を思い出したような気がします」 「あら、大げさね。でも、土を触って空を見れば、人間なんてそれで十分なのよ」


誠二は、自分の担当した花壇を見つめた。 雑草はまだ残っている。切り方も、きっと素人臭い。 でも、朝日に照らされたその場所は、昨日よりずっと明るく見えた。


自転車に乗って帰路につく誠二の背中は、もう丸まってはいなかった。 家に戻れば、また澄子の沈黙が待っているだろう。 だが、誠二のポケットには、土の匂いとハッカの香りが同居していた。 そして心には、あの青く澄み切った城北の空が、いつまでも広がっていた。


「さあ、帰って……自分の課題をこなすとしようか」


ペダルを漕ぐ足取りは、羽が生えたように軽やかだった。 誠二は、朝の光の中を、自分の足で、自分の呼吸で、力強く進んでいった。


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