第13話 『薄荷(ハッカ)の香りと、独りの歩幅』

第13話 『薄荷(ハッカ)の香りと、独りの歩幅』


二月の風はまだ冷たいが、誠二の心には不思議な熱が宿っていた。 「課題の分離」——その言葉が、誠二の凝り固まった思考を、少しずつ、だが確実に溶かし始めていた。


(澄子が俺を『臭い』と嫌悪するのは、彼女の課題だ。俺が自分を清潔に保とうとするのは、俺の課題だ。彼女に好かれるためにやるんじゃない。俺が、俺として、心地よく生きるためにやるんだ)


そう自分に言い聞かせると、誠二は駅前のドラッグストアへ向かった。 目的は明確だった。加齢臭対策だ。


「ハッカ油、あるかな……」


アロマコーナーで見つけた小さな緑色の小瓶。蓋を回すと、ツンとした、しかし鼻の奥まで洗われるような爽やかなミントの香りが広がった。誠二はそれを、掌の中にそっと握りしめた。


「……いい香りだ。これだけで、少し呼吸が深くなる気がする」


続いて洗剤コーナーへ。澄子の「領土」である物干し竿で、自分のシャツが孤立している光景を思い出す。彼は、皮脂汚れを強力に分解するという「NANOX ニオイ専用」のボトルと、さらには酸性の臭いを中和する「重曹」の大袋をカゴに入れた。 棚を眺めながら、誠二はかつて仕事で培った「問題解決」の思考を、今の自分自身の身体に適用し始めていた。


(清潔にする。衣類をケアする。食事を見直す。……あとは、運動か)


帰宅すると、家の中には相変わらず澄子の選んだ「ラベンダーの香り」が漂っていた。誠二は、その香りの壁に怯むことなく、洗面所へ向かった。


「誠二さん、また何か買ってきたの? 無駄遣いはやめてって……」 廊下を通った澄子が、カゴの中の重曹や洗剤を見て眉をひそめる。


誠二は振り返り、鏡の前で練習した、あの少しぎこちない笑みを浮かべた。 「ああ、自分の課題を片付けようと思ってな。俺のシャツ、そんなに臭うか。……いや、答える必要はないよ。俺が気になったから、自分で洗うことにしたんだ」


「自分で? 洗濯機、汚さないでちょうだいね」 「分かっている。40度のお湯でつけ置きしてから洗うよ。除菌も徹底する」


誠二は、澄子の皮肉を真正面から受け流した。彼女がどう文句を言おうが、それは彼女の機嫌の問題だ。彼は、重曹と洗剤を混ぜたお湯に、自分のシャツを浸した。


(お湯の温かさが、指先に伝わる。……これが、俺にできることだ)


翌朝、誠二はいつもより早く起きた。 ハッカ油を数滴垂らしたタオルで、首筋や耳の後ろを丁寧に拭う。鏡を見ると、ハッカの刺激で少し肌が赤らんでいたが、気分は驚くほど冴え渡っていた。


「よし。次は、中からの改善だな」


キッチンに立つ澄子の隣で、誠二は自分のための朝食を用意し始めた。 これまでのトーストとコーヒーではない。抗酸化作用のあるビタミンを意識して、リンゴを剥き、ポリフェノール豊富な緑茶を淹れる。


「……何、その食事。急に健康志向?」 澄子が、怪訝そうに誠二の手元を覗き込む。 「ああ。ビタミンとポリフェノールを摂ろうと思ってね。ストレス軽減にもいいらしい」 「ふうん。……なんだか、今日は変な匂いがするわね。薬くさいというか」 「ハッカだよ。嫌なら、少し窓を開けてくれ。俺は、この香りが気に入っているんだ」


誠二は、自分のリンゴを一口噛み締めた。シャリッとした食感と、酸味のあとの甘み。 「……おいしいな」 独り言のように呟く。澄子が何を言おうが、このリンゴの甘さは変わらない。


「あとは、運動か……。澄子、散歩に行ってくる。一時間ほど、身体を動かしてくるよ」 「どうぞ、勝手に。……あ、誠二さん」 澄子が呼び止めた。 「……何だ?」 「あなたのシャツ。ベランダに出しておいたわ。……あんなにゴシゴシ洗ったせいか、変な匂いは消えていたわよ」


誠二は、玄関のドアを開けようとして、手を止めた。 「そうか。それは良かった。……教えてくれて、ありがとう」


誠二は、澄子の顔を見なかった。彼女が自分の努力を認めたのか、あるいは単なる事実報告なのか。それを分析するのは、誠二の課題ではない。


外に出ると、冬の朝の冷たい空気が、誠二の頬を叩いた。 彼は、大きく腕を振って歩き出した。 運動で代謝を促し、身体の中から自分を更新していく。 一歩、また一歩。 コンクリートを踏みしめる靴音が、心地よく耳に響く。


「幸せになるために、生まれてきたんだよな」


誠二は、歩きながら口角を上げた。 以前のような、苦虫を噛み潰した顔ではない。 ハッカの香りを纏い、自分の人生を自分の手でメンテナンスし始めた男の、静かな決意がそこにあった。


「あいつが変わらなくても、いい。……俺が、俺を好きになれれば、それでいいんだ」


冬の枯れ木の間から、黄金色の朝日が差し込んできた。 誠二は、その光に向かって、深く、深く、独りの呼吸を繰り返した。 身体の中に、新しい季節が芽吹き始めていた。


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