第12話 『冷蔵庫のプリズム ―独り笑う練習―』
第12話 『冷蔵庫のプリズム ―独り笑う練習―』
翌朝、野上誠二の心には、昨夜までの重苦しい湿り気がなかった。 窓から差し込む冬の光を浴びながら、彼は洗面台に向かう。鏡の中の自分と目が合う。まだ口角は不器用に歪んでいるが、昨日よりは幾分、ましな気がした。
(あいつがどう反応するかは、あいつの勝手だ。俺は、俺がやりたいことをやる)
アドラーの「課題の分離」を呪文のように唱えながら、誠二は家を出た。向かったのは、駅前の大型スーパーのリカーショップだ。
棚の前に立つと、色とりどりのラベルが誠二を圧倒した。今まで自分一人の時は、一番安い発泡酒を適当に掴んでいただけだった。しかし、昨夜澄子が「早く眠りたいから」と言って奪うように飲んだビールの、あの喉を鳴らす音を思い出す。
「……これだけあれば、どれか一つくらいは口に合うだろう」
誠二は迷わなかった。 王道の『一番搾り』、キレのある『のどごし生』、家計に優しい『金麦』。さらに、特別な時のための『エビス』、最近話題の『晴風』、そして深い夜に似合う『黒ビール』。 これらをすべて二本ずつ、買い物カゴに入れた。ズシリとした重みが腕に伝わる。この重みは、執着ではない。ただの「提案」だ。
帰宅すると、キッチンには澄子がいた。彼女は相変わらず、誠二が入ってきたことなど気づかないふりをして、手際よく野菜を刻んでいる。包丁がまな板を叩く「トントントン」という乾燥した音だけが響く。
誠二は無言で、冷蔵庫の扉を開けた。 かつて澄子が引いた、あの青いマスキングテープの境界線。 誠二は自分のエリアにある古い納豆や、得体の知れない調味料を迷いなくゴミ箱へ放り投げ、空いたスペースに買ってきたビールを並べ始めた。
金、銀、青、黒。 冷え切った庫内を照らすLEDの下で、缶が軍隊のように整列していく。
「……何をしているの」
背後から、刺すような澄子の声がした。包丁の音が止まっている。 誠二は振り返らずに、最後の一本、エビスを並べ終えてから答えた。
「ああ、ビールを買ってきたんだ。種類があったほうが楽しいかと思ってな」 「……あんなにたくさん。無駄遣いじゃないの」 「俺の小遣いで買ったんだ。問題ないだろう」
誠二は扉を閉め、ゆっくりと澄子に向き直った。 澄子は、汚物でも見るような目で冷蔵庫を睨みつけていた。 「嫌だわ、場所を取って。私のエリアにはみ出さないでちょうだいね。それに、私があのビールを飲むとでも思っているの? 昨日はただ、寝付けなかったから……」
「飲むか飲まないかは、澄子、お前が決めることだ」 誠二は、穏やかに、しかしはっきりと言った。 「俺は、お前がいつか『喉が渇いたな』と思ったときに、そこに選択肢があるようにしておきたかっただけだ。楽しんでくれるといいなと思って入れたが、飲まないなら俺が全部飲むよ」
「……楽しむ?」 澄子が鼻で笑った。 「四十年も経って、こんな冷え切った家で、何を今さら。あなたのそういう『押し付けがましい善意』が、一番鼻につくのよ」
かつての誠二なら、ここで激昂しただろう。「せっかく買ってきたのに何だその言い草は」と。あるいは、卑屈に謝っていただろう。 だが今の誠二は、ただ「そうか」と微笑んだ。 それは鏡の前で練習した、まだ少し引きつった笑顔だった。
「そう思うのも、お前の自由だ。俺はただ、俺がしたくてやったんだ」 誠二はキッチンのカウンターに置かれた自分の鍵束を手に取った。 「散歩に行ってくる。……あ、そうだ。のどごし生は一番手前に置いておいた。一番搾りはその奥だ。冷えるのが楽しみだな」
「……勝手な人ね。本当に」
澄子は再びまな板に向き直ったが、その包丁の音は、先ほどよりも少しだけリズムが乱れていたように誠二には聞こえた。
外に出ると、空気は凛として冷たかったが、誠二の足取りは驚くほど軽かった。 彼は公園のベンチに座り、冬の枯れ木を見上げながら、自分に言い聞かせた。 「俺の課題は、ビールを買って並べることまで。それを彼女がどう受け取るかは、彼女の課題だ。……ああ、なんて楽なんだ」
期待しない。見返りを求めない。 ただ、自分が「良い」と思ったことを、自分の責任で行う。 それは、四十年の結婚生活で誠二が一度も経験したことのない、本当の意味での「自立」だった。
夕食時。 やはり食卓には、テレビのバラエティ番組の笑い声だけが流れていた。 澄子は自分のスマートフォンを見つめ、誠二はタブレットでニュースを読んでいる。 いつも通りの「真空」だ。
だが、誠二はふと、冷蔵庫の扉が開く音を聞いた。 澄子が立ち上がり、無言で何かを取り出した。 誠二は視線をタブレットに向けたまま、耳だけを研ぎ澄ませた。
「プシュッ」
アルミの缶が開く、あの乾いた音がした。 続いて、グラスに液体が注がれるコポコポという音。 澄子が席に戻ってくる。彼女が手に持っていたのは、水色の缶——『晴風』だった。
誠二は、心臓の鼓動がわずかに速くなるのを感じた。 だが、彼は決して澄子の顔を見なかった。 「おいしいか?」とも、「それを飲むのか?」とも聞かなかった。 彼女がそのビールを選び、今から飲む。それは彼女の聖域であり、彼女の課題だからだ。
澄子は一口、長くビールを飲んだ。 そして、小さく「……ふう」と溜息をついた。 それは昨夜の絶望的な溜息ではなく、少しだけ熱を逃がすような、そんな響きに聞こえた。
「……これ、少し変わった味ね。苦くないわ」 澄子が、画面を見つめたまま、誰に言うでもなく呟いた。
誠二は、画面をスクロールする手を止めた。 「……そうか。それはホップにこだわっているらしい。気に入ったなら良かった」 「気に入ったなんて言っていないわ。ただ、感想を言っただけ」 「ああ、分かっている。感想を聴けて嬉しいよ」
誠二は、そこで会話を止めた。深追いもしない、感謝を強要もしない。 彼は自分の一番搾りをグラスに注ぎ、ゆっくりと喉に流し込んだ。 ビールの冷たさが、胃の腑に染み渡る。
二人の間にある「真空」は、まだそこにある。 だが、冷蔵庫の中で冷やされた数本のビールが、その真空の中に、ほんのわずかな「ゆとり」を作り出しているようだった。
澄子は二口目、三口目とビールを飲み進めた。 誠二は鏡の前で練習した、あの不器用な笑顔を、今度は誰に見せるでもなく、自分自身のために浮かべた。
(幸せになるために、生まれてきたんだよな)
明日、冷蔵庫のビールが一本減っているかもしれないし、全部残っているかもしれない。 それはどちらでもいいことだ。 誠二は、自分の人生のハンドルを、しっかりと握り直していた。 四十回目の結婚記念日の翌日。 野上家の冷蔵庫には、かつての境界線を越えて、色彩豊かな缶たちが、静かに、そして確かに並んでいた。
窓の外では、冬の星が瞬いている。 冷たい風の向こう側に、誠二は確かな自由の匂いを感じていた。
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