第11話 『境界線の向こう側 ―アドラーと四十年の沈黙―』
第11話 『境界線の向こう側 ―アドラーと四十年の沈黙―』
午前二時十五分。澄子が寝室へ戻った後、誠二は暗いキッチンに一人、立ち尽くしていた。
カウンターに置かれた、あの無惨に磨り減ったペアキーホルダー。それは、彼にとって「執着」の象徴だった。これを澄子が見て、何かを感じてくれるはずだ。自分たちの四十年に免じて、少しは態度を軟化させてくれるはずだ。そんな甘い期待を、彼は心のどこかで捨てきれずにいた。
だが、今の澄子の言葉が、氷の塊となって誠二の胸に突き刺さっている。 『不潔ね。もう、捨てればいいのに』
誠二は、震える手で自分の顔を覆った。 「……そうか。そうだったな」 暗闇の中で、独り言がこぼれた。
彼は、最近読み耽っていた一冊の本の記述を、必死に脳裏で反芻した。アドラーという心理学者の言葉だ。 『課題の分離』。
「澄子が俺をどう思うか、俺を愛するか、俺を許すか……それは、俺の課題じゃない。澄子の課題だ。馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない。俺は……俺は今まで、彼女に水を飲ませようと必死になって、彼女の人生に土足で踏み込んでいただけなんじゃないか」
誠二は、ふらつく足取りで洗面所へ向かった。 パチン、とスイッチを入れると、蛍光灯がチカチカと点滅し、やがて無機質な白い光で彼の老いた顔を照らし出した。
鏡の中に、一人の老人がいた。 深い皺が刻まれ、口角は下がり、目は淀んでいる。これが、かつて愛する妻と娘を守り抜くと誓った男の成れの果てか。 「……幸せになるために、生まれてきたんだよな。俺も。あいつも」
誠二は、鏡の中の自分を見つめ直した。 「あいつを変えることは、できない。澄子が俺を冷たく扱うのも、俺を無視するのも、それは彼女の選択だ。彼女の課題だ。だが……」 誠二は、喉の奥で熱いものが込み上げるのを感じた。 「俺がどう生きるかは、俺が決めていいはずだ。俺の課題なんだ」
彼は、洗面台の縁を強く掴んだ。 「笑ってみろ、誠二」 自分に命令する。 ぎこちなく、唇の両端を吊り上げようとした。だが、顔の筋肉は長年の沈黙で凝り固まり、鏡に映ったのは、まるで苦虫を噛み潰したまま死後硬直を起こしたような、異様な形相だった。
「……ひどい顔だな」 誠二は小さく笑った。それは自嘲だったが、同時に、自分自身の「不器用さ」を初めて客観的に眺められた瞬間でもあった。
もう一度。 彼は深く息を吸い込み、肺に溜まった真空の澱を吐き出した。 今度は、澄子の顔を思い浮かべるのではなく、ただ「今日の自分」を受け入れるために。 ぐい、と口角を引き上げる。頬の筋肉が痛む。だが、三回、四回と繰り返すうちに、鏡の中の老人の目が、わずかに輝きを取り戻したように見えた。
「よし。これでいい」
誠二は、洗面所を出てキッチンに戻った。 カウンターの隅に置かれた、あの真っ黒に汚れたキーホルダー。 彼はそれを手に取ると、迷うことなくゴミ箱の蓋を開けた。
「……今まで、ありがとうな。お前のおかげで、俺は過去に縋って生きてこれたよ」
バサッ、と音がして、キーホルダーは生ゴミの袋の中に消えた。 それは「諦め」ではない。誠二にとっての「自立」だった。澄子との思い出を否定するのではなく、今の自分を縛り付けている「期待」という鎖を断ち切ったのだ。
誠二は、自分の分のマグカップを丁寧に洗い、棚の奥へと片付けた。 明日、澄子が目覚めた時、そこにはいつも通りの境界線が引かれた冷蔵庫があるだろう。彼女は相変わらず、彼を空気として扱うだろう。 だが、誠二の心境は、昨日までとは決定的に違っていた。
「澄子が水を飲まなくても、俺は俺の水を飲む。俺は、俺の人生を生きるんだ」
彼はリビングの窓を開けた。 冷たい深夜の風が、室内を支配していた乾燥した空気を一気に押し流す。 肺の奥まで入り込む、痛いほどの冷気。 誠二は、暗闇の空を見上げた。
「お父さん、また明日ね!」 不意に、今日帰っていった孫の一真の声が耳の奥で再生された。 そうだ。俺には、俺を「じいじ」と呼んでくれる存在がいる。俺を「お父さん」と呼ぶ娘がいる。そして何より、今日まで生き延びてきた「自分」がいる。
「……幸せになろう。誰に許可を求める必要もない」
誠二は、寝室へ戻る前に、リビングの壁のカレンダーの前に立った。 自分のカレンダーの空白。 そこを、澄子への当て付けではなく、自分が本当にやりたかったことで埋めていこうと決めた。 「二十八日。真理の誕生日。……プレゼントは、俺の小遣いで送ろう。澄子の同意なんて、いらないんだ」
彼は、マジックを取り出し、力強い筆跡で予定を書き込んだ。 それは、彼が自分の人生のハンドルを、再び握り直した瞬間だった。
寝室に戻り、パーテーションの向こう側に横たわる。 澄子の寝息は聞こえない。だが、壁一枚を隔てて彼女がそこにいることを、誠二は以前のような重圧としては感じなかった。 彼女は彼女の宇宙にいて、俺は俺の宇宙にいる。 二人の間に流れる真空は、もはや「絶望」ではなく、お互いの自由を担保するための「距離」へと形を変え始めていた。
「……おやすみ、澄子」
誠二は、暗闇に向かって囁いた。 返事はない。それでいい。 明日、太陽が昇ったら、彼は鏡の前でまた笑う練習をするだろう。 苦虫を潰したような顔が、いつか自然な微笑みに変わるまで。 彼が彼自身の人生を、自分の足で歩き出すために。
誠二は、ゆっくりと目を閉じた。 不思議と、心臓の鼓動は静かで、力強かった。 真空の中に、新しい風が吹き込んでいた。
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