第10話:真空の継承
第10話:真空の継承
午前二時。家の中は、耳の奥が痛くなるほどの沈黙に支配されていた。 野上澄子は、寝室のパーテーションを抜け、音を立てずにキッチンへ向かった。隣のブースでは、誠二の不規則で浅い呼吸音が聞こえていた。それは生きている証というよりは、古びた機械が完全に停止するのを拒んでいるような、粘り気のある音だった。
澄子は、暗いキッチンでケトルのスイッチを入れた。 「カチッ」 その小さな金属音が、静寂の海に鋭い波紋を広げる。 すぐに、水が沸騰する「シュー」という微かな音が鳴り始めた。澄子はその音を聴きながら、闇の中に浮かび上がるキッチンの輪郭をぼんやりと見つめていた。
彼女は、自分たちの結婚生活を、時間をかけて空気を抜いていった真空パックのようなものだと思っていた。 憎しみも、怒りも、期待も、すべて吸い出された。あとに残ったのは、保存性だけが保たれた、無機質で乾燥した「生活」の形骸だけだ。
「……ふう」
マグカップに注いだ白湯を啜る。 湯気が鼻先を掠め、温かい液体が喉を通り過ぎる。その確かな感覚だけが、彼女をこの家の幽霊にさせない唯一の繋ぎ目だった。
ふと、澄子の脳裏を一つの空想が掠めた。 もし明日、あのパーテーションの向こう側で、誠二が冷たくなっていたら。 あるいは、このキッチンで白湯を飲む自分が、そのまま崩れ落ちていたら。
(……きっと、何も変わらない)
悲しみや動揺が襲ってくる様子は、露ほども想像できなかった。 そこにあるのは、完成された絶望。それは暗い穴ではなく、真っ白な、何もない平原のような絶望だ。 澄子は白湯を一口飲み、頭の中で事務的な手順を並べ始めた。
「まずは、かかりつけの医者に連絡ね。それから……真理に電話。葬儀屋は、お義母さんの時のところでいいかしら。あそこなら、段取りは分かっているから。あ、役所への死亡届は、七日以内に出さなきゃいけないのよね。火葬の許可証も……」
口の中で、手続きの名称が滑る。 その作業は、まるで明日の献立を考えるのと同じくらい、平熱で、冷静なものだった。 愛した男が死ぬことへの恐怖よりも、彼が残した大量の遺品をどう処分するか、その手続きにかかる手数料をどう按分するか、そんな実務的な懸念が、彼女の思考を占拠していた。
「……澄子か」
背後から、掠れた声がした。 澄子は肩を揺らすこともなく、ゆっくりと振り返った。 キッチンの入り口に、誠二が立っていた。よれたパジャマ姿で、壁に手をついている。その姿は、暗闇の中で今にも消えてしまいそうに希薄だった。
「……喉が渇いたのかしら。そこに、お湯があるわよ」 「ああ。……お前も、眠れないのか」 「私は、白湯を飲みに来ただけ。あなたは、また咳?」
誠二は、力なく首を振った。 「いや……。ふと、怖くなったんだ。このまま、誰にも気づかれずに、この家の静寂に呑み込まれてしまうんじゃないかと思ってな」 誠二はカウンター越しに澄子を見た。その瞳は、何か確かな温もりを探して彷徨っているようだった。
「何を今さら。私たちはもう、何十年も前に呑み込まれているじゃない」 澄子は、マグカップを置いた。 「あなたが仕事だけを見て、私をこの家の家具の一部だと思い始めた頃から、この家は真空だったのよ。今さら、何が怖いの?」
「……澄子。俺は、いつから、間違えたんだろうな」 誠二が、一歩、彼女の方へ近づこうとした。 澄子は、反射的に一歩、後ろに下がった。 二人の間には、見えない青いマスキングテープが、今も鮮明に横たわっている。
「間違いなんて、一つじゃないわよ。積み重なった結果が、この静かな完成形なの」 「完成形か……。これが、俺たちの辿り着いた答えなのか?」 「そうよ。お互いを空気だと思い、干渉せず、ただ存在を許容し合う。これほど平和で、これほど死に近い形が、他にある?」
誠二は、カウンターの上に置かれた自分の鍵束を、力なく手に取った。 明日、バイトへ行く時に忘れないようにと、いつもそこに置いてあるものだ。
「……これ、覚えているか」
誠二が指し示したのは、鍵束につけられた、小さな、平べったい革の塊だった。 それは、形も色も判別できないほどに摩耗し、黒ずんでいる。 かつては、鮮やかな赤と青の、一対のペアキーホルダーだったはずのものだ。
四十年前の引越しの日、新しい家の鍵につけるために、二人で買ったもの。 誠二のものは何度もポケットで擦れ、澄子のものはバッグの底で揉まれ、今やどちらがどちらのものだったのかさえ、判別がつかない。
「……不潔ね。もう、捨てればいいのに」 澄子は、目を細めてそれを一瞥した。 「捨てられなかったんだ。これだけが、俺とお前を、物理的に繋いでいる最後の糸のような気がしてな」 誠二が、その黒ずんだ革を親指でなぞる。 「四十年前……この家の鍵を初めて開けた時、お前は『これからが楽しみね』と言ったんだぞ、澄子」
澄子の胸の奥が、ほんの一瞬だけ、鋭い針で突かれたように痛んだ。 だが、彼女はすぐに、その痛みさえも真空へと吸い込ませた。 「楽しみ、なんて言葉。あの頃の私は、若くて愚かだっただけよ」
彼女は、誠二の手から鍵束をひったくると、それをカウンターの隅へ押しやった。 「そのキーホルダーがどんなに磨り減っても、失われた時間は戻らないわ。形がなくなっても、あなたはそれを持ち続けるの? 死ぬまで、その『かつての記憶』に首を絞められながら?」
「……ああ。そうかもしれないな」 誠二は、自嘲気味に笑った。 「俺は、お前のように、手続きの段取りを考えるほど強くはなれなかった」
誠二は、澄子の目をまっすぐに見つめた。 「澄子。もし俺が先に逝ったら、そのキーホルダーは、ゴミと一緒に捨ててくれ。……何も残さなくていい。お前のカレンダーを、真っ白にしてやりたいんだ」
澄子は、何も答えなかった。 彼女の視線は、再び冷めた白湯の表面に落ちた。 「……お湯、冷めているわよ。温め直す?」 「いや。いいんだ。冷たい方が、目が覚める」
誠二は、カップに水を注ぎ、一気に飲み干した。 「おやすみ」 「ええ、おやすみなさい」
誠二の足音が、廊下の向こうへ消えていく。 再び、パーテーションの向こう側で、衣擦れの音がして、家の中は完璧な「無」に戻った。
澄子は、一人キッチンに残された。 カウンターの上に転がった、二つの、無惨に磨り減ったキーホルダー。 それは、二人の人生がかつて交差し、摩擦し合い、そして削り取られていった、痛々しい骸(むくろ)だった。
澄子は、そっとその一つに触れた。 指先に伝わるのは、革の温もりではなく、ただの冷たい無機質の感触。 色を失い、形を失い、それでもなお、二人の「鍵」を守り続けている沈黙の遺物。
(……私も、同じね)
形も色も失い、ただ「妻」という名前だけを摩耗させながら、この家を守り続けている。 明日の朝、どちらかが冷たくなっていても、太陽は昇り、冷蔵庫は唸り、真空は続いていく。 それが、自分たちが選び、築き上げた、四十年の果てにある景色なのだ。
澄子は、キッチンの電気を消した。 暗闇の中で、一対のキーホルダーは、もう二度と出会うことのない双子のように、静かに横たわっていた。
彼女は、静まり返った家の中を、足音を殺して寝室へと戻る。 窓の外では、夜明け前の最も深い闇が、世界を包み込もうとしていた。
絶望は、もう、悲しくもなかった。 それはただ、冷たい白湯のように、彼女の体の一部として、完成されていた。
明日も、明後日も、この真空を継承していく。 さよならさえも、この家ではもう、贅沢すぎる言葉だった。
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